Jablogy

Sound, Language, and Human

講座動画 "The Origins of Jazz" メモ

Jazz at Lincoln Center's JAZZ ACADEMY による初期ジャズの解説動画を見た(といっても映像はキュレーターの人が喋ってるだけだけれど)。

内容的にはジャズ史の本を読んだことがあればだいたい書いてあるような感じだったが、いくつか興味を惹かれる点があったので記しておく(〔〕の中は私の意見・推測):

  • コンゴ・スクエアで行われていたアフリカ系音楽は何世紀にもわたって毎週日曜に公開されていた〔がために広範な影響を持ったようだ〕。(#3)
  • バディ・ボールデンは間違いなくコンゴ・スクエアの音楽を聴いてた(#4)
  • もともとジャズは集団的な即興として始まっていて、ソロはなかった。〔現代ジャズとかたちは違えどソロがない点では一致する〕(#6)
  • 〔ソロを取るスタイルが自然発生したのかキング・オリヴァーがやり始めたのかわからないけど、ルイ・アームストロングよりは先行してる。洗練させたのはアームストロングなのだろうけど〕(#7)

リスニング力が充分でないのできちんと理解できた自信がないがこんなところ。

Jazz at Lincoln Center's JAZZ ACADEMY の YouTube アカウントは他にも教則的な動画などを多数公開しているので、積極的に利用していけたらよいのだが(仮定法過去)。リスニング力の向上が望まれる。

公式サイトもあるようだ

2014気になったアニソンまとめ

タイトル通りのまとめ。
自分が視聴した中からの選出なので、他にもいい曲があるかもしれない。

紹介する音源・動画は、公式的に見られるものをチョイスした。 本編動画のやつは適当にシークしてみてほしい。

銀の匙 2期

ED「オトノナルホウへ→」

畜産高校が舞台の作品にふさわしく、アコースティック・ギターの 軽快な刻みが心地いい、ソカ?ビートの曲。

ストレートなメジャーの調性ものどかさを感じさせていい。

また、キメが三三七拍子だったり、クラップが入ったり、大勢での分厚いコーラスだったりと集団での一体感が前に出ている。 これが気持ちよく、とても青春な感じがする。
(動画のテイクはちょっとパーカッションがツッコミ気味なので、CDやアニメのバージョンの方がもっと気持ちいいと思われ。)

未確認で進行形

ボカロPとしての活動でも知られるJunky氏作曲の三曲。

OP「とまどい→レシピ」

ED「まっしろわーるど」

原作第4巻(限定版)に同梱DVDより「ぜんたい的にセンセーション」

どれも、アニメクリップ中での、楽曲のアクセントにシンクロしたキャラクターの動きがめちゃくちゃ気持いい。

サウンドは明るいダイアトニックスケールのメロディに、ギターのブルーノートなどをスパイスに加えた王道なロック/ポップス。

「恋心入っちゃった」「それでもずっと仲良くしてくれますか?」などキャラクター/物語の核心を突きつつも口ずさむのに気持ちいい言葉選びも秀逸である。

となりの関くん

ED「Set Them Free」

エレドラを駆使したワンマンオーケストラで知られる、世界で活躍するトップドラマー・神保彰が、缶ペンケースや黒板消しなんかを鉛筆で叩きまくるというすごい企画。楽曲はラテン・フュージョン系ビッグバンドで、おおいかにも、という雰囲気。

鉛筆みたいな短い棒は、スティックと違ってリバウンドをあまり利用できないのでコントロールが難しいけれど、神保さんはさすがのコントロールを魅せる。

たまこラブストーリー

OP「恋の歌」北白川豆大 (cv:藤原啓治)

映画ではOPだが、『たまこまーけっと』では劇中歌だった。たまこの父・豆大が後にたまこの母となる想い人のためにつくり、母が好んで口ずさんだことから娘に伝わり、親子の思い出をつなぐ架け橋になったという、実によく「たまこ~」を代表する曲だと思う。

一週間フレンズ。

ED「奏」

スキマスイッチの楽曲を気鋭の声優・雨宮天が作中人物としてカバー。

一週間ごとに記憶を失い、関係がリセットされてしまう本アニメヒロインの歌だと思うと(あるいは逆に主人公がヒロインを想う歌ととってもよい)、ぐっと胸に迫って聴こえてくる。

ご注文はうさぎですか?

OP「Daydream Café」

ニコニコのコメントがいつも楽しそうでよかった。

Aメロ伴奏のピアノの4分音符がやたら突っ込んでたり、サビのコーラスはすごくリバーブが深く掛かっているのに、合いの手のセリフはやたらオンマイクだったりと、なんだかいびつなところもある。けれど、それはそれで味があってまた不思議な魅力がある。(どこか本編と似ていなくもない。)

極黒のブリュンヒルデ

OP「BRYNHILDR IN THE DARKNESS -Ver. EJECTED-」

ストリングスのリフが印象的でかっこいいインスト曲。ダブステ風味も。アニメだってかならずしも歌じゃなくてもいいということですね。ニコニコのコメント達は無理やり歌詞があるかのように装って遊んでたけど。

ED「いちばん星」

ソウル、ゴスペルのテイストがある上質なポップといった感じ。イメージとしては山崎まさよし et al. の「星のかけらを探しに行こう」なんかが近いような気がする。

種田梨沙さんの歌声が素敵で気持ちいいので、終盤ストーリーがはしょりぎみになっても、いつも最後まで聴いていた。

ヤマノススメ

OP「夏色プレゼント」

この曲は以前、単独のレビューを書いたくらいお気にいり。

セカンドシーズンのOP「毎日コハルビヨリ」もポップで楽しいし、一期のED「スタッカート・デイズ」も楽しみなことを前にうきうきする気持ちを 思い出させてくれる。Tom-h@ckさんすげーです。(そういえば、けいおん!! OP「GO!GO! MANIAC!」もそうだったけど、シャッフルがお得意なのかな。)

四月は君の嘘

OP「光るなら」

クラシック音楽家の青春と生き方をテーマにしているだけあって、演奏シーンの音楽なんかはそれはすごいのだけど、OPテーマもよい。

自分に手を差し伸べ背中を蹴飛ばしてくれたヒロインに対する主人公の想いを、ベタ過ぎるくらいにストレートに表現した言葉がみずみずしく、ヒロインにこれでもかと立ちまくった死亡フラグを思わせて涙をさそう。

大人数の男女で歌うサビの分厚いコーラスが合唱でも定番の「太陽がくれた季節」みたいで、すごく青春だなと。そう思って検索してみたら、銀の匙 2期 ED「オトノナルホウへ→」を歌い演奏しているのと同じアーティストだとわかった。

メンバーは固定しておらず、シェアハウスに集う人々で構成されているのだとか。インティメイトな、のびのびした空気はこういうところから出ていたのかと納得させられる。

暁のヨナ

OPテーマ「暁のヨナ

『極黒のブリュンヒルデ』と同じく、インスト曲の OP。笛のメロディーを中心にアジア的な楽器が多く用いられたオーケストラ曲で、雰囲気はまさに大河ドラマの OP と言った趣き。舞台である古代朝鮮的な異世界の雄大さを毎回のはじめに感じさせてくれる。

SHIROBAKO

ED「~Animetic Love Letter~」

軽快なギターの刻みとスラップベースに乗ったおしゃれなR&Bテイストのポップス。最近のアニソンだと『ゴールデンタイム』のOPなんかと近い印象がある。

形式がユニークで、Aメロ・Bメロ・サビ・大サビ、の四部構成になっている。普通にサビまでかと思っていると、さらにぐっと盛り上がって「ラブレタ~♪」と全員でハモるパートがきて、大変エモーショナルに盛り上がる。

アニメ制作現場を描いたアニメということで、歌詞もTVアニメがテーマ。アニメキャラクターが視聴者に週に一度会えるのを楽しみにしているというのが字義通りのストーリーだけど、それだけでなく、 視聴者もアニメに、またアニメ制作者も視聴者たちに、恋焦がれるような気持ちをもっているんだ、というトリプルミーニングであるようにも読める。

このアニメへの愛を謳う素晴らしい詞を書いた上、作曲をしたのは声優でもある桃井はるこ氏。多才ですごい。

プリパラ

『プリパラ』は女の子向けアイドルカードゲームとそれをアニメ化したもの。『プリティーリズム』シリーズの後継になるそう。

女の子が憧れるかっこよさの要素として、キラキラしたかわいさにプラスして親や学校からは理解されにくい*1、ちょっとした逸脱・カウンターなところも加味されている模様。

楽曲もブラック・ミュージックだったり、パンクだったりのフレーバーが「ちょっとワルい子」の演出につかわれていると思われるが、そのさり気なさが洗練されてるように感じた。

特に良いと思った曲はこのへん:

  • 1クール目OP、および劇中歌「Make it!」
  • 劇中ライブソング「ま~ぶるMake up a ha ha!」
  • 劇中ライブソング「Pretty Prism Paradise!!! 」
  • 劇中ライブソング、3クール目OP「Realize!」

セクションの変わり目に同主調の借用でブルース・ペンタトニックなユニゾンが入ったりして、上で言った悪い子なテイストが出てると思う。

振り付けも、他のアイドルアニメと比べて激しめのフットワークが多いのも、ちょっと黒っぽいのかなという気がしないでもない。一クール目クライマックスの25話での、「Realize!」のステップはカメラワークとあわせて大変気持ちよかった。MMDの人とか真似するといいのでは。

MMDといえば、3Dモデルのアニメも、ストーリー中での手描きパートとほとんど違和感なくなってて、トゥーンレンダリングもここまできたか、すごいなーと思わされる。

*1:プリティーリズムでは父親が、プリパラでは学校の校長が当初は反対していた

アンソニー・ピム『翻訳理論の探求』

翻訳理論の探求

翻訳理論の探求

 1960年代以降の翻訳研究における理論の諸パラダイムを概観し、見通しをつける翻訳学の理論書。専門書ではあるが、自分が実践していても感じられる翻訳における様々な問題が、きちんと学問で理論化されていることを知れて勉強になった。

 記述は概ね時系列順だが、パラダイムごとに論じるスタイルになっているので、ときどき何年も遡ったりする(一番面食らったのはベンヤミンの後にアウグスティヌスが出てきた所w)。その点、前もって意識しておくと読みやすくなるかも。

 内容については、目次および簡潔にして要を得た紹介がみすず書房のHPで公開されている。

 紹介にある通り、本書が焦点を当てるパラダイムは、(1) 等価、(2) 目的〔中心のアプローチ〕、(3) 記述的翻訳研究、(4) 翻訳の不確定性、(5) ローカリゼーション、(6) 文化翻訳、の六つだ。

 前三者は言語学の理論より、後三者は哲学・経済・社会学よりの話になっている。実際に翻訳を行うときの理論的な参考になるのは前者の方だろう(後者についても翻訳の実践とつなげて論じられてはいる)。

 以下、興味深かったポイントをノートしておく。

等価

 等価というのは、簡単にいってしまえば、原文と翻訳で同等の意味を達成できるという考え方に近い。

 等価パラダイムに先行していたのが、構造主義言語学である。その中でも特に強い言語相対主義を取る立場では、異なる言語は異なる世界観を表すものなので*1、完全な翻訳は不可能だということになる。

 例えば、英語の sheep(羊)と mutton(羊肉)、フランス語の mouton(羊と羊肉の両方を指す)が概念として完全には重ならないので、一対一対応させられない。ひいてはこれらの概念を通して見ている世界が違う、というように。

 ソシュール的な発想では、sheep と mouton では「価値」――パロールではなくラングに関するもの――が大きく違うということになるが、等価パラダイムの論者たちは、パロールのレベルで(Sin ではなく Bedeutung の方)において同等な意味を達成できると考えたらしい。

 例えば、暦上の不吉な日として英語では「13日の金曜日」があるが、スペインでは13日の火曜日が不吉ということになっている。ので、訳す際に "martes y 13" としておけば、形式は違っても価値は同じ、ということになる。

 このように、形式を同じにする(直訳みたいなもの)ことを「形式的等価」、実質的な意味を同じにすることを「動的等価」とユージン・ナイダは名づけた。

同化/異化

 この直訳的/意訳的の二項対立は、古くはキケロまで遡る。キケロは 'ut interpres'(直訳主義の解釈者のごとく)ともう一つは 'ut orator'(演説者のごとく)という区別を立てた(p. 51)。19世紀のシュライアーマハーは外国語の響きを残す「異化作用」と目標言語として不自然さを少なくする「同化作用」を対立させた。このように伝統ある区別であり、そしていまも取り沙汰される根本的な問題でもある:

反・受容化の主張の一つとして,米国の翻訳者・批評家であるヴェヌティ(Lawrence Venuti・特に1998)*2によるものがある.ヴェヌティは下位文化が欺かれることにはあまり気を留めていないが,翻訳の自然さ(流暢さ)が上位文化の世界観に与える影響について懸念している.全ての文化が流暢な現代英語によって表現されるようになったら,全世界の文化は自分たちの文化に似ているという思い込みがアングロアメリカ文化で生まれるだろう。従って,ヴェヌティは,非自然的(「抵抗的な」)翻訳は目標言語には頻繁に見られない形式を使うべきで,それらの形式が起点テクスト中のものと等価であるか否かは関係ないとしている.(p. 36)

 このヴェヌティの見方は、学問の専門家向けの直訳から、自然な日本語として読める訳文へ、という方向へ動いている今の日本の流れとは正反対だ。目標言語が置かれている文化的な立場、ヘゲモニーが大きく関わるのだろう。立場の強い言語、価値があると自ら考える言語をもつ社会では、より弱い方の言語にあわせて異化的な訳をするよりも自分たちの言語への同化的な訳を選ぶことがままある。つまり、ピムの言葉を借りると「人が模倣したがるのは自分が尊敬する人々のみ」なのだ(p. 140)。

 そもそも、中世のヨーロッパでは神の霊感を受けた言語(ヘブライ語・ギリシア語・アラビア語など)やその翻訳に用いられた言葉(ラテン語など)といった上位の言語を翻訳することで、各地の方言などの下位の言語を豊かにするものだった(p. 37)。ヴェヌティの提言も日本の流れも、そういう本来の傾向に逆らっている点では同じなのかも知れない。

等価パラダイムで生まれた概念

 1958年、ヴィネイとダルベルネは翻訳で使える七通りの一般手順をあげた。「借用〔外来語〕」、「語義借用」、「直訳」、「転位」、「調整」、「対応」、「適合〔語が指している事象・対象は違うが文化的な地位が似ている〕」、である。左から順に、元の言語そのままから訳者による創造的な変形へとなっている(p. 23)。

 彼らは訳文が持つ文体の傾向も一般化した:「拡大化」「縮小化」「明示化」「暗示化」「一般化」「特定化」である(p. 26)。拡大化・縮小化は、訳文が原文に対して長くなる/短くなること。明示化と暗示化は、原文が暗示しているものを明示してやること、またその反対を意味する。一般化・特定化は、原文の単語と概念が指し示しているカバー範囲に差がある(より一般的/具体的な)訳語を用いることである。

 こうした概念を知るだけでも、辞書でひろった訳語を一対一でもとの文に当てはめるものだという、受験英語の和訳ですりこまれてしまった思い込みは溶けるのではないだろうか。

目的

 私が本書で最も実践的に役立ちそうな可能性を感じたのが本章である。

 このパラダイムは、1984年にハンス・フェアメーアが提唱した「スコポス」理論に代表される。スコポスとは、ギリシア語で目的、目標、ゴール、意図された目標、といった意味を持つ(p. 75)。

基本的な考え方としては,翻訳者はスコポス,つまり翻訳のコミュニーケーション目的が達成されるよう翻訳すべきであり,単に起点テクストに従うべきではないというものだ(id.)

翻訳者を中心に置き、起点テクストに従わなくてもよいとする点が、起点テクストがどのように訳すべきかを一意的に決めるとしていた等価パラダイムへの批判となっている*3

 同一のテクストであっても、必要とされる状況に応じて、訳し方は変わりうる。本書に上げられていた例で印象的だったのは、ヒトラー『わが闘争』を現代でどう訳すかだった(p. 82)。当時の雰囲気を知るためにアジテーションの味を残して訳すか、それとも今では直視しがたいような差別的な言葉は穏当な表現に変えるか。表現は異なってくるが、どちらもありといえばありで、どちらを選ぶかはその本の出版目的次第だろう。

 テキストが自動的に訳し方を決めるのでないとすれば、翻訳者がどうするか判断しなければならないが、本書を読む限り、フェアメーアのスコポス理論ではなにが従うべき原理かは述べられていない。一切変更を加えるべきでない聖典的なテクストから、実務的な文書というある程度の付加や省略がゆるされるものへと翻訳対象が移ったことで、翻訳者の自由は増してもいる。

 これに対し、ホェーニッヒとクスマエルは「必要精度の原理」を提出した。想定される読者の知識レベルで十分理解できるようかどうかが基準になるというものだ。例えば小説で、登場人物の娘が通っている英国の "public school" を「授業料の高い私立学校」と訳すか、単にその学校名を示して済ませるかは、読者が英国の教育システムの知識をどれくらい持っているかに依存する。そして、ここで訳文が完璧であるかどうかは問題でなく、「該当状況下で『事足りる』」のである(p. 91)。

 なにが目的であるかを誰が決めるのかも多岐にわたる:

 それは,支払いをするクライアント,実際に仕事を提供する人(おそらく翻訳会社や仲介業者),翻訳者,翻訳者に助言を与えるかもしれない各分野の専門家翻訳者を管理する編集者,そして望むらくは最終的な読み手,つまり翻訳のユーザーである(p. 92)

 これらの変数に加え、原文を精確に理解するためには、著者、原文、その読者、それらを取り巻く文化/社会環境をも考慮に入れる必要があろう。目的パラダイムでは、こうした複雑な状況において最終的な決定は翻訳者が下すことになっている。この理論では大変な自由と責任とが翻訳者に与えられているといえる。

 必要性度の原理と合わせて考えてみるに、翻訳に関与する変数は多く、場合によって千変万化するだろう――そして、そうした柔軟な判断が機械翻訳には難しい領域なのだろうし、仲介者としての翻訳者の腕のふるいどころなのだろう――けれど、それらを見定めて目的をフィックスすれば、妥当な訳というのはある程度定まってくるといえよう。畢竟、テクストでも、ソーシャルにも、文脈をしっかり読むのがやはり王道ということではないだろうか。

記述的翻訳研究

 以上のパラダイムがどちらかというと翻訳はこのようにされるべきという雰囲気があるが、記述パラダイムでは、実際に行われている翻訳の実践がどのようであるかを記述することを第一とする(言語学の規範主義と記述主義に似ているといえよう)。

 そのアプローチから、「翻訳シフト」、文化システムにおける翻訳の位置、「規範」、「翻訳の普遍的特性」や「法則」などの概念が生まれ、議論が続いてきた。

 翻訳シフトとは、翻訳において生じる、原文と訳文の間における違いのこと。ある概念を訳したら、もとの概念の一部のニュアンスが抜けるとか。形式だけ一致させても意味がシフトしてしまうことはよくある(和製英語に親しむ私達にはわかりやすい)。

 どんなシフトを生じさせるかにおいて作用する翻訳の「規範」がある。目標言語・文化の側で、翻訳とはこういうものだという考え・習慣が出来上がっていて、訳者はそのとおりに訳し、受けてもそのような訳文を期待したりする、と。

 規範には、次のような形式がある*4

  • 韻文は散文になおして訳すものと決まっている(19cフランス)
  • 模倣形式 (mimetic form):古典文化の形式に出来るだけ近い形式にする異化を目指すべきとされる(19c独のシュライアーマハー)
  • 類似形式 (analogic form):原文が起点文化でもっている位置と同じになるよう、自分かで同じ位置を占める形式にすべきとされる(原文が叙事詩なら、自文化の叙事詩がもっている形式で訳す)
  • 有機的形式 (organic form):形式はともかく内容を重視する
  • 外的形式 (externeous form):形式にも内容にもとらわれない

 規範が守られないと「醜い」「買う価値がない」などけなされ、制裁を受けることもある。逆に、規範を知ることで、よいとされる翻訳者を養成することもできる。(以上、pp. 116-27)

普遍的特性

 記述パラダイムでは翻訳がもつ普遍的特性が提唱された。「語彙的簡素化」「明示化」「適合」「平準化」「特有項目」である。(pp. 132-7)

  • 語彙的簡素化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、「語彙の範囲が狭く,頻度の高い語彙の使用割合が高い」
  • 明示化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、冗長性が高い、明示的で統語的標識を多く使う(文が長くなる)*5
  • 適合:翻訳は目標言語と文化の規範に適合される(ex. 英→ヘブライ語の翻訳がヘブライ語の書き言葉に合わせて口語的になる)
  • 平準化:同時通訳では、両極とされる話し言葉と書き言葉の性質が薄れ、混じる=平準化される。
  • 特有項目:起点言語にはないが目標言語において見られる言語的要素が、翻訳においては表出しない傾向にある(ex. 英和翻訳で主語の省略が起こりにくい、とかだろう)

 これらが本当に普遍的かどうかはまだ検証・議論中のようだ。そして、こうした特徴がなぜ起こるのかをさぐり、翻訳の「法則」が求められてもいる(イーヴン・ゾウハー、およびトゥーリー)。上で論じた模倣など、文化的なコンテクストの影響が大きいようではあるが、心理学的な原因も視野に入っているようだ(p. 137-40)。

後半

 以下はそこまで興味をそそられなかったので、手短に。

ローカリゼーション

 ローカリゼーションにおける翻訳のポイントは、通常の翻訳が「原テクスト→訳文」の一対一の関係なのに対し、起点から一度「国際化」という手順を踏むことによって、多数の言語バージョンが生まれるという一対多になっているという点である。

 そもそもの製品づくりの段階から、いくつもの言語と文化=ロケールで発売することが想定され開発が進められるし、通信やマーケティングや法の専門家もプロジェクトに参加する*6。こうしたプロジェクトの全体がローカリゼーションであり、翻訳作業はその一部分となる。

 プロジェクトの一部分であり、翻訳支援のソフトウェアにおいても定訳表現パターンの変更までは権限が与えられていなかったりするため、翻訳者のプロジェクトについての知識と作業範囲はかなり断片的になっているという。

翻訳の不確定性

 脱構築や解釈学などでいわれる意味の不確定性を扱った章。

 このパラダイムでは「真の」「完全な」翻訳というのはありえないのかもしれないが、およそ通常の人間ならまず同意するだろう同一性ならきっと可能だろう。翻訳の目的に照らせば、それで十分といえる水準もあるはず。

 意味産出の能動性を指摘することで、西欧中心主義・本質主義を相対化した功績はもちろん大きいのだけれど。

文化翻訳

 翻訳をアナロジー的にもちいたポストコロニアルカルチュラル・スタディーズの理論の紹介。おもにホミ・バーバ。エスニックな/ナショナルな境界を越えることを翻訳(者)であるとする。

 異文化/他者理解一般と、あえて翻訳と捉えることでどう違ってくるのか、もうひとつぴんとこなかった。

その他

  • 翻訳のふりをして提示されている非翻訳は「擬似翻訳」という(p. 129)
  • 翻訳学は、翻訳の研究だけあって、非常にいろいろな国・地域の人が業績を上げ、理論を出しているようだ。ドイツ、フィンランドイスラエルの人だったり、テルアビブ学派とかあったり。
  • 翻訳をすることでかえって自集団の境界を確定することがある

*リスク:上記議論の実践としての本書訳

 また,訳者が翻訳作業で悩み苦しんでいると,ピムは「リスク管理」の話(「あとがき」にもある)をしてくれることがあった.意思決定の対象が,ニュアンスも含めて伝えなければならない重要なもので,絶対に漏れがあってはならず,細心の注意を持って訳すべき「高リスク」情報なのか,それとも,ポイントさえ伝わればよく,一語一句に拘泥する必要のない「低リスク」情報なのか,それを見極めて,時間と労力の配分をせよという考え方だ.締め切りが迫っていた時期には,この助言がたいへん参考になった.さらに,ピムは,訳者の質問に答えるたびに,「翻訳しにくいところ,日本の読者に関係ないような箇所は省略するというのも正当な翻訳方略だ」と付け足すのが常だった.しかし,こればかりは師の教えに逆らい,苦しみながらも何とか訳出できるよう最後まで粘った.(「訳者あとがき」p. 281)

*1:サピア=ウォーフの仮説で有名なあれだ

*2:The Scandals of Translation: Towards an Ethics of Difference. London, New York: Routledge.

*3:等価が成り立つのは一特殊ケースということになるとのこと。したがって二つのパラダイムは必ずしも両立不能というわけではないが、翻訳者養成のポスト争いなどもあって対立していたらしい(p. 84)

*4:本書 p. 116-7。ピムのまとめは J. S.Holmes. 1970 "Forms of Verse Translation and The Translation of Verse Form" in J, S Holmes, F. de Haan, and A. Popovič (eds) The Nature of Translation, Essays in the Theory and Practice of Literary Translation, The Hague, Paris: Mouton de Gruyter, pp. 91-105. に基づく。

*5:Blum-Kulka, S, (1986/2004) "Shifts of Cohesion and Coherence in Translation," in L. Venuti (ed.) The Translation Studies Reader, London and New York: Routledge, pp. 290-305.

*6:PCやソフトウェア、ハリウッド映画などを想像すればよい。そういえばアナ雪の各国語訳はけっこう話題になっていた

フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』

プリミティヴアート

プリミティヴアート

 米国の文化人類学(さらにいえば言語学も)の方向性に大きな影響を与えたボアズ。彼の思考がぎゅっと詰まった一冊だった。なかなかの厚さの書物で、事例が羅列されているところはちょっと読みづらいが、フォントが大きめだったり、細かい索引がついたり、小見出しをつけたり、さらには原文の対照ページが表記されたりと、読みやすくする編集の工夫が多数なされていて好印象である。

 本書の厚みのうち90ページ分は、訳者による解説が占めている。ボアズのバイオグラフィーと学説の特徴、および本書の要点が丁寧にまとめられており、とても助けになった。

 内容的には、原書が1927年の出版にして、現在(でも)ホットなトピックが先取りされているようで興味深い。たとえば、部分的な要素の重なりあった万華鏡としての文化、プリミティブアートに共通する「分割表現」の原理、身体論的な視角、創造における個人と文化の弁証法などだ。文化人類学を専門にする人だけでなく、美学やマンガ論などの人が読んでも発見があるかもしれない。

 以下、ごく一部だけれど、興味深かったポイントのコメントを残そう

「分割表現」の原理

 私が本書を手にとったきっかけは、前近代的な絵画や彫像にはどこの文化にも共通する特徴があるように思われ、それはなんなのだろうと疑問をいだいたことだった。そういう共通の特徴についてひとつの答えを与えてくれるのがこの「分割表現」の原理だ*1

 プリミティブアート*2では、体は前を向いているのに脚だけ横向きだったり、クジラをあらわす絵で頭の真上にヒレがついていたりと、三次元的な配置と比率が無視されている事が多い。

 ボアズによれば、こうした様式において重要なのは、それぞれの対象(トーテムとか)を象徴する本質的な特徴をあまさず盛り込むことで、三次元的な写実性を求めることではない*3。したがって、それぞれのパーツの位置がずれたり、大きさがデフォルメされたりしてもかまわないわけだ。そうしたかたちの変化は、木工とか織物とかの技術的な習慣に制約された様式上のパターンにしたがってなされるらしい。

 こういうデフォルメが行われる一方で、写実的な表現もやろうと思えばできるものだそう。クワキウトル族による生首の模像(p. 226)など、夢に出てきそうなリアルさだ。したがって、象徴的な表現から写実的・遠近法的な芸術への進化を想定した当時の進化主義は否定されることとなった。

芸術の基底――身体と技術

 ボアズは芸術を制作することのベースにものづくりの高度な技術(わざ・妙技)があると見ている。

 美学的な考察を別にして考えるならば、ある完成された技法が発達している場合には、なみはずれて難しい技に熟達しようとするつくり手の意識が、言い換えれば、名人の本懐が[芸術の]真の悦びの源泉であることがわかる。/ここで、すべての美的な評価の究極の根源について議論をはじめるつもりはない。プリミティヴ・アートのかたちについて帰納的に研究するにあたっては、かたちの均斉と表面のむらのなさが装飾的な効果の本質的な要素であり、これらの要素は、難技の熟達にともなう感情、つまり、自分自身のカで難技に熟達したがゆえに名人が感じる悦びと密接に関連していることを認識すれば十分である。/つくり手が自分の作品の視覚的な効果に気を配っているわけではなく、むしろ、複雑なかたちをつくり出す悦びにつき動かされていることを示す事例が少なくともいくつかあげられる。(p. 33)

 英語の art、ラテン語の ars がもとは職人の技術を表す言葉であったことが思い出されるとともに、「やった、できた!」というつくり上げる喜びに共感をおぼえさえする。

 おそらく、自分の作品が受け手に与える効果よりも、この「できた!」感覚がうれしいとか、作業自体が楽しかったりすることがあるというのは、音楽、とくに演奏でも同様だろうと思われる。難しい技ができるようになると嬉しいのでさらに高度なものへ挑戦していき、しまいには人間離れした域へ到達したヴァーチュオーゾを誰もが知っているはずだ。

 してみると、それぞれ何をよい・美しい・かっこいいと感じるかの好みは違ったとしても、誰かがすぐれて技巧的に熟達した演奏家である・作品であるという事実は、どんな文化・社会の人にも伝わるものなのかもしれない*4

 そして、かご細工・彫刻・織物・金属細工・土器作りなど洗練された職人的技巧によって作られた精巧な工芸品は美的に楽しまれ、評価される。

技術的に完成されたものの美的な価値に鋭い眼識を示すのは文明人だけではない。〔……〕間に合わせの仕事が急いでされねばならない場合以外、先住民の住まいにぞんざいな仕事が見られることはない。根気と入念な仕上げが、彼らのつくる大部分のものの特徴である。先住民に直接に質問したり、彼らが自分たちの仕事に対して下す批評を聞いたりすることによっても、技術的に完成されたものに彼らが鋭い眼識を示していることがわかる。(p. 27)

 様式もまた技術の制約を受ける。作品に表現され、ある安定したの様式を産み出す「かたち」のイメージ*5は、世界のプリミティブな諸民族を観察する限り、「技術的な過程を通してはじめて〔……〕人間の心に刻み込まれるように思われる」(p. 16)。均斉のとれたかたちを産み出すのは訓練され習慣化・身体化された機械的でリズミカルな運動なのである(pp. 27-30)。

 個人の想像力があらたな様式を産み出すきっかけになるのは、様式が定着してへんかしなくなったときでるという:

かたちが定着して変わらなくなる時、不完全な技術のもとで想像力を通してかたちが発達しはじめるが、この場合にはじめて、美的効果を生み出そうとする意志が、芸術家を志す者の能力を超える。同様の考察は歌やダンスで使われる筋肉の動きの美的な価値にもあてはまる。(p. 16)

その他

  • ボアズは普遍的な心性をもった人類がそれぞれの歴史環境において違った発達を遂げたという歴史的相対主義。いま通俗化しているような文化相対主義はボアズの教え子であるミード『サモアの思春期』やベネディクト『文化の型』がベストセラーになったことに端を発する(訳者解説、p. 517)
  • 狩猟民は、獲物が現れるのを待ったり、罠にかかるのを待ったりするので、音楽や詩を産み出すために費やす暇な時間が意外に多くある(p. 388)
  • 「言語芸術の二つの根本的な形式である歌と物語は普遍的に見られ、言語芸術活動の主要な形式と考えられるべきである。音楽なしの詩、すなわち、一定のリズミカルな形式での言語芸術表現の形式は、ことによると、呪文に見られるかもしれないが、それを除けば文明化した社会集団にしか見られない。より単純な文化形態では言語のみによる音楽は芸術的な表現と感じられていないように思われるが、歌われる固定的なリズムはいたるところにあらわれている」(p. 360)。言葉そのものが芸術の素材になるには文字が必要なのか
  • 非西欧の音楽は「必ずしも倍音の原理によって行われるのではなく、むしろ等音調で刻まれる」。オクターブの音程は普遍的に見られる(p. 426-7)

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 訳書のなかったボアズが日本語で読めるのはありがたい*6。19年越しの仕事を完成させてくれた訳者の尽力に感謝がつきないところである。

*1:訳者解説における大村の用語法(pp. 501-2)。ボアズ自身は本書のなかで「分割表現の原理」という言葉は用いていないようだ。第六章のもとになったというボアズの論文 "The Decorative Art of Indians of The North Pasific Coast" で使われているのかもしれない

*2:「プリミティブ」という言葉は現在では offensive なものとして避けられているが、時代的には普通な用語であったということと、ボアズに差別的な意図はないということから、訳者は本書でもそのままプリミティブとしている。私も本記事ではそれに倣って使うことにする

*3:本質的な特徴というのは、例えばビーバーだったら目と大きな前歯と巣を作る枝、そして前足、などである。ネイティヴアメリカンの場合、それらの動物がある人物の地位を象徴する紋章のように扱われたりするので、それぞれの描き分けが重要なのだそうだ(p. 333)。246ページにはパターンの微妙な違いで各動物を描き分ける図が載っていて、マンガのキャラの書き分けのようで興味深い。また、トーテムが差をあらわすものだという見方はレヴィ=ストロースの『今日のトーテミスム』へ通じるものだろう

*4:端的に、エラ・フィッツジェラルドバディ・リッチを下手くそだ、未熟者だ、と思う人はいないんじゃないか、という

*5:美学の人なら形相とかディセーニョとかいうかもしれない

*6:2005年出版の『メイキング文化人類学』(太田好信浜本満編、世界思想社、p. 39)でも皆無だといってたから、おそらく本書が初の訳書だろう

野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室――哲学者と学ぶ認知言語学』

 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の訳者である野矢茂樹と、野矢の熱心な読者でもある認知言語学者・西村義樹との対談本。

 西村から野矢へのレクチャーという形式をとっているが、単なる一方通行の教授ではない討論的な対話になっている。この対話を通じて、認知言語学がなにを問題とし、どのような説明を与えているかが浮き彫りにされていく。

 認知言語学がアンチ・テーゼをむける先である生成文法についても随所で言及され、その守備範囲をうかがい知ることができる。

生成文法認知言語学

 基本的に、認知言語学は、

  • 客観的な事実への指示だけでなく、話者がその事実をどう捉えているかという心理的な過程に注目して、意味や文法を考えていく。
  • 文法と意味の間にはっきりとした境界は建てられない/不可分である*1
  • 文法自体にも意味的なスキーマがある(例えば能動/受動文で「AがBを殺した」と「BがAに殺された」では事態は同一だが意味は異なる)

 生成文法の方は、

  • 心的なプロセスはブラックボックスとして刺激に対する反応だけを扱う行動主義に対して、メンタルな過程を扱うべきとしたチョムスキー生成文法認知科学のひとつではある。
  • 生成文法では文法は意味から独立したものとし、規則に基づいた統語的な変換を主に扱う。
  • 意味論は客観主義・解釈主義

 生成文法認知言語学ヴィトゲンシュタインの前期/後期、的な図式が見えるような気がした、というといい過ぎだろうか

西村 そうですね。じゃあ、まず生成文法が「意味」をどう捉えているかから、押さえていきましょうか。しぼしば使われる言い方に従って、「客観主義の意味論」と呼ぶことにします。それはひとことで言ってしまえば、「言語表現の意味はその言語表現が指し示す対象である」というものです。ここで言語表現というのは語でも文でもいいんですが、文の場合だと、文が指し示している対象とは事態ということになります(p. 44)

 ここでいうように、名辞が指し示すものが意味で、その組み合わせでできる文が事態を指す、というのはほぼ『論理哲学論考』と同じターミノロジーといえる。野矢本の熱心な読者だという西村が、『論考』の訳者である野矢に説明する上で、こういう言い方を選んだのかもしれないが、生成文法と『論考』的なものの捉え方との類似性が垣間見える。

 認知言語学のプロトタイプ意味論の源流の一つが、ほかでもないウィトゲンシュタインの「家族的類似」の概念である*2。あいまいさをあいまいさのまま理解し、あるカテゴリーにあるメンバーが入るのかはいらないのかや、そのメンバーの「らしさ」を判断できる了解に意味の基本的なあり方をみる認知言語学は、語の意味をその使用・実践にもとめる『哲学的探求』とこの点においても近いように思われる。野矢自身も次のように言っている:  

先ほど家族的類似性ということでウィトゲンシュタインの名前が出ましたが、彼は前期から後期への移行で言語観を大きく変えていて、それが実は古典的なカテゴリー観からプロトタイプ意味論に近い考え方への移行だったと言えるんですね。あるいは、トマス=クーン(Thomas Kuhn)が『科学革命の構造』(The structure of Scientific Revolution, 1962(邦訳、中山茂訳))で「パラダイム」という概念を出して、それがひじょうに大きな影響力をもったわけですが、これも、ウィトゲンシュタインの影響を受けていました。「科学とは何か、どうあるぺきか」という問いに対して、科学の必要十分条件や本質を示すことはできない。やれることは研究の見本を提示することだけだ。これがクーンのパラダイムという考えなんですね。よく世界観みたいな意味で「パラダイム」と言われますが、私は「見本」と考えるのが一番近いと考えています。(p. 78)

人類学/構造主義生成文法認知言語学

 ウィトゲンシュタインとの比較に続き、大きな知的潮流での位置づけについていうと、節題にあげた学問領域との関係が、本書を読んでいて少し見えてきたところがある。関係を図示してみたので、適宜、以下の記述と見比べてほしい。

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 ソシュール生成文法について野矢はこのようにいう:

生成文法において、通時的な分析が必要となるメタファーが無視されることに触れて〕チョムスキーはけっきょくのところ、ソシュールの精神にきわめて忠実だった、というか、完全にその枠内で生成文法を作ったといえるんじゃないですか? つまり、言語の通時態(言語が通時的に変化するあり方)より共時態(われわれが共時的に共有している一つの言語体系)を研究するという

 これについてウェブ検索して見た限りでは、原誠が、生成文法というとアメリカ構造主義言語学への批判として出発したことからそれとは全く違うものかのように理解されていることがあるが、言語の構造を重視する点において生成文法もまた構造主義的であることを論じている*3

 体系の中の項目同士が作る差異に注目し、それらの変換のパターンを作り出す深層の構造に注目するという点で、同様にソシュールプラハ学派構造主義言語学に影響を受けたレヴィ=ストロース構造主義人類学と生成文法はかなり似て見える。

 チョムスキーが批判の矛先を向けたアメリカ構造主義言語学は、アメリカ文化人類学の礎を築いたフランツ・ボアズが収集したネイティヴ・アメリカンの言語資料の分析から出発したという*4

 無意識の領域における、人類普遍の基底的な構造操作のコンピテンスを仮定する点でも両者はよく似ている。実は、この基底的な人類普遍の心的能力を仮定するパースペクティブもボアズにすでに見られるものである*5

 チョムスキーレヴィ=ストロースに直接交流があったという話は聞いたことがないが、学問の遺伝子が別々にくらす双子をよく似たものにしたのだろうか。あるいはボアズとソシュールという二つの巨大な波紋が交わる異なる二つの交点が彼らだったとでも言おうか。たとえがあまり良くないが、そんな印象である。

カテゴリー意味論

「カテゴリー意味論」は認知言語学の要点のひとつである。

西村 古典的カテゴリー観のもとでは、ペンギンよりスズメやツバメの方が鳥らしいとわれわれが感じることは「鳥」の意味理解とは無関係だと考えますが、認知言語学は、何が鳥らしくて何が鳥らしくないのかという了解こそが「鳥」の意味理解の中心を成すと考えます。カテゴリーの中心的な成員、つまりプロトタイプですが、人間が用いるカテゴリーというのは、これを中心として、類似性などによってプロトタイプと結びつけられた周辺的なメンバーによって構成されている。これが、認知言語学が提示する新たなカテゴリー観なんですね。(p. 73)

 古典的カテゴリー観とは「一つのカテゴリーの成員には、そのすべてが共通に持ち、その成員だけがもっている特性があるはずだ」とする、言い換えると「カテゴリーというのは必要十分条件――その成員を過不足なく特徴づける条件――によって規定できると考える」カテゴリー観である(p. 66)。

 これはアリストテレスから現代まで受け継がれたものといえそう。ときに「あれかこれか」の二者択一で、議論を進退窮まらせてしまうこともあるだろう。そうした場合、家族的類似にヒントを得た認知言語学のカテゴリー意味論が助けになる機会もあるのではないだろうか。

 特徴を箇条書きであげる:

  • カテゴリーの境界(何がそのカテのメンバーであるか)はあいまいでありうる
  • カテゴリーのメンバー間にもその「らしさ」について差がある(雀の方がペンギンよりも、より鳥らしい)
  • あるカテゴリーの実例をどれが「らしい」か判断した時の結果と、本人がこうだと考えるカテゴリーの規定とがずれることがある(「嘘をつく」の例:騙す意図や本人が信じていないことを行った時、嘘と判断されやすいが、嘘の規定を求めると「事実でないことを言うこと」となる)
  • ある語・カテゴリーの外延がおおよそ決まっていたとしても、時代・地域・所属する集団、さらには個人によって、プロトタイプは異なりうる(今昔の「典型的な女性像」など)

 「らしさ」の差ということでいえば、「ど・ジャズ」「コテコテのファンク」なんていう表現は、「らしさ」の認識を直接に言いあらわした言葉のように思える。プロトタイプの時代・地域などでの違いといえば、1920年代と50年代では「ジャズ」のプロトタイプは大きく異なるだろう。このジャズのように、呼ばれている対象の方がどんどん変化していくような場合、百科事典的知識を考慮する認知言語学は意味を捉えやすそうだ。

メトニミー/メタファー

長くなるので、これらについてもポイントだけ箇条書きで。

  • 認知言語学におけるメトニミー: フレーム(百科事典的知識)の中の一部に焦点をあてること。メトニミー的多義:共有するフレーム内のどこに焦点をあてるかの違い
  • 認知言語学における概念=カテゴリー化の原理。概念メタファー: ある概念をものごとになぞらえて捉える。(「議論は戦争だ」、「成績が上がる」→点数の多さを上昇として捉える」(pp. 191-5)
  • メタファーは二つの経験領域(フレームといっていい?)を偶然的・創造的に結びつける。したがって規則的には生成することができない
  • 多義語とメタファーを泰然と区別することは出来ない;ラネカー「イディオムの多くは凍ったメタファー(frozen metaphor)だ」

 このメタファーの議論の締めくくりに、認知言語学の科学性と絡めて言われた野矢の言葉が認知言語学の勘所を示しているように思われる:

野矢〔……〕認知言語学の理論は、言語現象に対する新たなカテゴリー化を提示して、それによって言語現象に対する新たな見方をわれわれに与えてくれる。そこに、哲学に通じる認知言語学の魅力を感じるんです(p. 198)

概念メタファー、メトニミーのフレームと焦点化の二つは「われわれの言語現象をカテゴリー化する理論装置」ではないかとも。

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 きっと言語事実を説明するために仮設されたこれらのモデルは、心理学などで裏付け・検証されていくのだろう。門外漢なりに関心を持ち続けたい。

その他

  • 言語学における狭義の文法=形態論+統語論(p. 37)
  • 使役文(英語で "causation"。因果を表す文)は、人を主語にして意図的に行うこと(「太郎が風船を割った」など)のほうが、物主構文(「塩酸が鉄を溶かす」)より早く学ばれるし、どの言語にも見られる普遍的なもの。つまり前者のほうが典型的。→ 野矢「われわれは人間の行為の場面で典型的に因果関係を認知しているということです。まず人間の行為の場面で因果というカテゴリーを取り出して、それからそのカテゴリーを人間の行為以外、とりわけ自然現象に適用している」(pp. 131-2)

*1:このことは「文法化」にはっきりあらわれる

*2:もうひとつはファジー集合論だそう

*3:原誠「言語の体系性と非体系性について (上)」『東京外国語大学論集』vol. 34, pp. 29-49、1984年、p. 30

*4:言語相対主義文化人類学でも有名なサピア=ウォーフもアメリカ構造主義言語学の人だ

*5:フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』大村敬一訳、言叢社、2011年、特に「緒言」

「コードは押えられるんだけど……」という人のための理論書

上の音楽理論書をまとめて紹介した記事が結構ブクマを集めていた。

とてもよいレコメンドだろうと思うけれど、鍵盤奏者向けな傾向はあるかもしれない。 クラシックピアノ経験者で、指は動くし譜面も読めるという人はあれでバッチリなはず。

しかし、自分の経験を振り返って見るに、多分、一番入門的な理論書が必要なのは、

  • ロックバンドをやってきて、楽譜は読めないものの、ひととおりコードを押さえたりタブ譜を見ながらコピーしたりは出来る

とか、

  • ブルースや一発モノでペンタトニックのソロならとれる

とか、そういうレベルのギタリスト・ベーシストがジャズのアドリブやポップスの作曲に挑戦するときなのじゃないかと。*1

 というわけで、そういうときによいと感じた本を2つ貼ってみる。

「ギターで覚える」の名の通り、理論の理屈だけでなく、それをどうやってギターで弾くか、指板上でどう覚えるかという視点に立って書かれた本。

 五線譜も使っているけど、コードのダイアグラムなどを使って説明してくれるので、ギタリスト・ベーシストもかなり読みやすいと思う。

 内容のレベル的には、ダイアトニックコード、代理コード、転調、オルタード・スケールなどを使ったコーダルなジャズの初歩まではこの本で理解できるはず。

 みなさまご存知、菊地・大谷の音楽理論講義。
 いつもの軽妙な語り口で、バップ、モード、ポリリズムなどを解説している。

 音楽にはそこまで詳しくない映画美学校の学生に実技的な理論をある程度習得させることを目標にしているので、わかりやすさは申し分ない。

 加えて、後続の『東京大学アルバート・アイラー 歴史編』とともに、それぞれの理論がもっている背景をメタ的な位置から俯瞰して、その要点と価値を一般に向けて説明してみせたという先駆的な試みは高く評価してよいと思われる*2

 何より、ただ細かい規則を覚えるよりも、背景を知ったほうが、音の組織され方も捉えやすく・覚えやすくなるしね。

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 私自身は未読だけれど、他にもギターで学ぼうという類書が結構出ているようで、譜面苦手なギタリストにとって "便利な世の中になったものじゃ" と思う。

 あと、本以外では、教則ビデオを見ると、全部は理解できなくてもいろいろアイディアを得られてよいかな。私が見たことあるのでいえばジョー・パスハーブ・エリス、エミリー・レムラー、スコット・ヘンダーソンあたり。

*1:端的にいうと○m7-5 の意味がわからない人、という感じ

*2:記述の正確さや見解の当否については意見がわかれるかもしれないけれど

Pitchforkのミク記事翻訳

 Pitchforkに許可を得て日本語翻訳記事を掲載しているサイト「Lomophy」さんに、私が訳した初音ミクに関する記事を載せていただきました。

 今年5月にアップされた記事で、いままでは物珍しい・日本の・オタク的なものとみなされて来たミクが、いろんなアーティストに使ってみられるようになっていること、およびその背景について簡単に触れたものになっています。

 タイトルを訳してみると、
「日本のデジタルポップスター・初音ミクは西洋で 境界を超える クロスオーヴァーする ことができるか」

とでもなるでしょう。

 海外においてボカロがどう見られてきたか、を海外の音楽サイトのライターはどう見たか、ということをわれわれはどう見るのか。そういったことを記すひとつのドキュメントとして興味深いものだと思います。よかったらご一読ください。