Jablogy

Sound, Language, and Human

ニューオーリンズ・ジャズにおけるトランペッターの役割り

www.youtube.com

またまた Jazz at Lincoln Center's JAZZ ACADEMY の動画が興味深かったのでポイントをいくつかメモ。

  • ニューオーリンズスタイルにおいて、トランペット奏者の役割りは交通整理の警官、あるいはクォーター・バックのようなもの。演奏時間の大部分、前もって書かれたアレンジの譜面はなく、リードシートを使って、演奏しながらアレンジがなされていく。そのためのシグナルを出すのがトランペット奏者。
  • 単にメロディーをやってソロを回して、というだけでは退屈になるので、ストップタイム(リズム隊が頭だけユニゾンしてブレイクするあれ。チャールストンや "4-1" なんかの場合も)の部分を作ったりして、飽きが来ないように指揮を執る。
  • こうした指示は、全く会話しないで出されるときもあるし、ただ「ストップタイム!」と叫ぶことでみんなの注意を引くこともある。
  • 隙間を埋めるため、ないしソロイストがハーモニーがわからなくなったときそれを教えてあげるように、リズミックだったりロングトーンだったりの伴奏フレーズを出すこともある。
  • こうした指揮をとる上では、他のプレイヤーの「足を踏んづけない〔邪魔をしない、機嫌を損ねない〕」ようにするのが大事。特にバンドリーダーじゃない場合は。リーダーがどんな風にして欲しいのか理解しておくべし。バンドリーダーが次と思ってる人じゃない人にソロを回したりとかしないように。

 今のジャズのセッションでもこういった流れを作る指揮のようなものは行われているけれど、ニューオーリンズのスタイルでも(1920年代当時とかからそうだったのかはよくわからないけど)同様のことをするのだな、というのがわかる。

 モダンジャズなスタイルだとトランペットに限らず、ソリストが引っ張っていくことが多いかな。ベースとドラムだけでアイコンタクトして仕掛けたりとかいうこともあったりするし、わりと流れを作る権利は平等にあるとは思うけど、まず誰がリードするかというと、ソリストかなというくらいの。

 ジャズで即興というと、どんなコードにどんな音を載せるか、どんなスケールが使えるかなどに(特に理論を考える上では)注目が集まりがちだけれど、こういう、その場のミュージシャン同士の相互作用やお客さんの反応を含めて、どういう流れに演奏・楽曲をもっていくかという部分も、即興の楽しみとして相当大きなウェイトを占めるものだよなー、と改めて思う。

沈黙は金

Modern Drummer のウェブ記事を読んでいて、よい言葉があったので訳して紹介したい。

2.全く知らない音楽スタイルをこき下ろすべからず
 
なにか特定の音楽スタイルをダメだという人は、実際にはそう口にすることで、そのスタイルについて何も知らないということを白状している。端的に言って彼らはものを知らないんだ。あらゆるスタイルの音楽はなにか言うべきものを持っているし、技術的な独自性と、学ぶべき特有の語彙と文法とを備えている。もちろん正直に認めると、私達はだれでもそれぞれ音楽の好みがある。それぞれ食べ物の好みがあるのと同じようにね。でも、その好みを理由にしてスノッブになるべきじゃない。ただ次のことを考えてみて。君が他のよりずっと好きな音楽があるとして、それは全くの無から生まれたのではないんだ、ということを。君の好きな音楽は様々な要素を他のスタイルに負っているのがわかるよね。そうしたら、高飛車に出るのはやめて、心をオープンに保とう。わからないときは、口を閉じよう。
 
10 Tips from Bobby Sanabria

 音楽に限った話ではなく、人はなじみのないものはつい軽んじてしまいがち――素朴な自集団への愛着からくる排斥もあろうし、また価値の無いものであってくれたほうが、学ぶ時間的コストがかからなくて楽だというのもあるだろう――だけど、それじゃダメよねと。

 他者が持つそれぞれの文脈・事情を知り自己の鏡とせよ、というのは文化人類学の教えるところでもあるし、なにかを批判するならきちんと論拠をそろえないといけないのは学問・言論一般のマナーでもある。創作一般においても、他のよさを認められなければ自分の表現の幅が狭まりそうだし、おなじようにほかから軽んじられたとき反論できなくもなってしまうだろう。

他にもよいドラマーとしての心構えが書いてあって面白いので、気になる人は元記事をご覧あれ。

Let Freedom Ring

 アメリカでは二月はBlack History Month 黒人歴史月間になっている。それにちなんで有名なマーティン・ルーサー・キング JR. のスピーチ "I Have a Dream" (1963) を精読してみた。感想をいくつかメモしておきたい。

 レトリック的な特徴としては次の4点が上げられると思う。

 引喩 (allusion) というのは、「有名な人、場所、出来事、文学作品、芸術作品などを直に述べるか、それらについて言及する修辞技法のこと」*1「自分の言いたいことを、有名な詩歌・文章・語句などの引用で代弁させること」*2。独立宣言や差別の看板の文言、有名な問題がある地名などをあげているので、主張の内容が聞くがわの腑にストンと落ちてくる。

 また、はっきり引用箇所がわかるフレーズ*3から、これはもしかするとと思わせる単語選び*4まで、そこかしこに聖書の引用が散りばめられている。そうすることで、紀元前のレバントで圧政と戦った人々と、公民権運動で戦う人々が、イメージ的に重なり合うような効果が出ていると思われる。

 想像しやすいという点で、引喩と重なる(というかはっきりわけられないのだろうと思うけど)のが、視覚的なメタファー。抽象的な概念を言い表すのに具体的な名詞を出して、「AというB」*5「AのようなB」とすることで、かなり理解しやすくしている。独立宣言で示された平等がまだ達成されていないのを、未払いの小切手に譬えるところはユーモアも感じられる。メタファーではないが、Let freedom ring のパートであちこちの地名を出すのも、国土全体がひとつの未来に向かっていくさまをありありと想像させる。

 そして反復法。タイトルにもなっている "I have a dream" や オバマ大統領がオマージュした "Now is the time" など、フレーズを繰り返すことでグイグイ盛り上げ、螺旋状にテンションがあがっていく。

 静かなトーンで始まったスピーチも、そのような反復法を通じてしだいに高揚していき、途中では感極まったように声を震わせたりしながら、最後にはかなり大きな声で熱っぽく聴衆に語りかけている。この盛り上げ方の推移は、ジャズのアドリブソロ*6の典型的なダイナミクスの付け方とそっくりである。

 アフリカ系の人が多くゴスペルをやる教会では説教と会衆のコールアンドレスポンスが歌とことばの中間のようになるとも聞くが、キング牧師もそうした伝統に生きたのかもしれない。キング牧師バプテスト派にはゴスペルで盛り上がるところもあるそうだし*7、最後に引かれている Free at Last は黒人霊歌だし。

 また、"I have a dream," "One hundred years later," "We can never be satisfied,” などの、文の上では先頭に来ているフレーズを、前の文章からひとつづきに読んでしまうことによって、文の切れ目をずらしているのは、ビバップ的なフレージングというか、"over the bar line" なフレージングにとてもよく似ていると思う。(ラップはあまり詳しくないけど、エミネムパブリック・エネミーもこういうことしてた記憶がある。)

 *

 ……という具合に、トランスクリプトが掲載されているサイトが集めたトップ100の中でも、堂々の1位を得るにふさわしい、音楽的・詩的なスピーチだと思う。英語力向上のためにも、繰り返し聴きこんで、できれば覚えてしまいたいところだ。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E5%96%A9

*2:新村出編『広辞苑』第五版、岩波書店、1998

*3:アモス書、イザヤ書から引かれている

*4:captibity, tribulation. バビロン捕囚や患難を指してるっぽい

*5:この型をとっているので同格の of がすごく多い

*6:「アフリカ系アメリカ人ゴスペル歌手マヘリア・ジャクソンが演説終盤に『あなたの夢を語って』と叫んだことから、キングはあらかじめ用意していた演説を中断し、“I Have a Dream” という語句を強調して説き始めた」(http://ja.wikipedia.org/wiki/I_Have_a_Dream)とあるのだけど、これが本当ならキング牧師はアドリブ力もすごいということになる

*7:八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』 朝日新聞出版、2012

伝統的なドラムスティックの型番の意味

 ドラムスティック売り場に行くと、いろんな数字やアルファベットの型番がついた、多種多様な製品が売られている。初心者だとすぐには把握しきれないほどだ。

 だが慣れてくると、その多様な中にも、わりと共通して使われている数字と文字の組みあわせがあることに気がつく(7A とか 5A とか)。これらは、どうも太さなんかに応じてつけられているようだ。

 しかし、はっきりそうだといっている情報にいままで出会ったことがなく、ほんとのところどうなのかがずっと気になっていた。

 先日、Modern Drummer のウェブ記事を見ていたら、ちょうどこの件を解説している文章に行き当たったので紹介してみたい。

 この記事によれば、数字+アルファベットでスティックの特徴を表す方式が始まったのは1900年代はじめであるという。

 もともと、アルファベットは音楽のスタイルを、数字は直径・太さを表していた。そして、太くなるほど数字は小さくなる、とのこと。

 当時の各社が採用していた形式は次のような感じだそう。

  • A はオーケストラを表す
  • B はマーチングバンドやコンサートバンドを
  • S はストリートバンドを
  • D はダンスバンドを表す(グレッチ社)
  • 2B が太いスティックで一番広まっていたタイプ
  • 7A が細いスティックで一番広まっていたタイプ

 この基準からすると 7A はオーケストラ用なイメージということになる。ジャズやロックで使うにはちょっと細いし短すぎる*1と思ってたけれど、オーケストラならちょうどいいのだろう、と納得がいく。

 上記事中にもあるように、現在では各社ごとに独自のシステムで自由につけた型番も多くなっている。が、Zildjian 社や Vic Firth 社などのトラディショナルでスタンダードなものは、この数字+アルファベット式だ。

 定番のスティックがもともと使われていた用途のイメージを理解し、自分に適した製品を選ぶ上で、この紹介が役に立てば嬉しい。

*1:Vic Firth 社ので 13.7×394

講座動画 "The Origins of Jazz" メモ

Jazz at Lincoln Center's JAZZ ACADEMY による初期ジャズの解説動画を見た(といっても映像はキュレーターの人が喋ってるだけだけれど)。

内容的にはジャズ史の本を読んだことがあればだいたい書いてあるような感じだったが、いくつか興味を惹かれる点があったので記しておく(〔〕の中は私の意見・推測):

  • コンゴ・スクエアで行われていたアフリカ系音楽は何世紀にもわたって毎週日曜に公開されていた〔がために広範な影響を持ったようだ〕。(#3)
  • バディ・ボールデンは間違いなくコンゴ・スクエアの音楽を聴いてた(#4)
  • もともとジャズは集団的な即興として始まっていて、ソロはなかった。〔現代ジャズとかたちは違えどソロがない点では一致する〕(#6)
  • 〔ソロを取るスタイルが自然発生したのかキング・オリヴァーがやり始めたのかわからないけど、ルイ・アームストロングよりは先行してる。洗練させたのはアームストロングなのだろうけど〕(#7)

リスニング力が充分でないのできちんと理解できた自信がないがこんなところ。

Jazz at Lincoln Center's JAZZ ACADEMY の YouTube アカウントは他にも教則的な動画などを多数公開しているので、積極的に利用していけたらよいのだが(仮定法過去)。リスニング力の向上が望まれる。

公式サイトもあるようだ

2014気になったアニソンまとめ

タイトル通りのまとめ。
自分が視聴した中からの選出なので、他にもいい曲があるかもしれない。

紹介する音源・動画は、公式的に見られるものをチョイスした。 本編動画のやつは適当にシークしてみてほしい。

銀の匙 2期

ED「オトノナルホウへ→」

畜産高校が舞台の作品にふさわしく、アコースティック・ギターの 軽快な刻みが心地いい、ソカ?ビートの曲。

ストレートなメジャーの調性ものどかさを感じさせていい。

また、キメが三三七拍子だったり、クラップが入ったり、大勢での分厚いコーラスだったりと集団での一体感が前に出ている。 これが気持ちよく、とても青春な感じがする。
(動画のテイクはちょっとパーカッションがツッコミ気味なので、CDやアニメのバージョンの方がもっと気持ちいいと思われ。)

未確認で進行形

ボカロPとしての活動でも知られるJunky氏作曲の三曲。

OP「とまどい→レシピ」

ED「まっしろわーるど」

原作第4巻(限定版)に同梱DVDより「ぜんたい的にセンセーション」

どれも、アニメクリップ中での、楽曲のアクセントにシンクロしたキャラクターの動きがめちゃくちゃ気持いい。

サウンドは明るいダイアトニックスケールのメロディに、ギターのブルーノートなどをスパイスに加えた王道なロック/ポップス。

「恋心入っちゃった」「それでもずっと仲良くしてくれますか?」などキャラクター/物語の核心を突きつつも口ずさむのに気持ちいい言葉選びも秀逸である。

となりの関くん

ED「Set Them Free」

エレドラを駆使したワンマンオーケストラで知られる、世界で活躍するトップドラマー・神保彰が、缶ペンケースや黒板消しなんかを鉛筆で叩きまくるというすごい企画。楽曲はラテン・フュージョン系ビッグバンドで、おおいかにも、という雰囲気。

鉛筆みたいな短い棒は、スティックと違ってリバウンドをあまり利用できないのでコントロールが難しいけれど、神保さんはさすがのコントロールを魅せる。

たまこラブストーリー

OP「恋の歌」北白川豆大 (cv:藤原啓治)

映画ではOPだが、『たまこまーけっと』では劇中歌だった。たまこの父・豆大が後にたまこの母となる想い人のためにつくり、母が好んで口ずさんだことから娘に伝わり、親子の思い出をつなぐ架け橋になったという、実によく「たまこ~」を代表する曲だと思う。

一週間フレンズ。

ED「奏」

スキマスイッチの楽曲を気鋭の声優・雨宮天が作中人物としてカバー。

一週間ごとに記憶を失い、関係がリセットされてしまう本アニメヒロインの歌だと思うと(あるいは逆に主人公がヒロインを想う歌ととってもよい)、ぐっと胸に迫って聴こえてくる。

ご注文はうさぎですか?

OP「Daydream Café」

ニコニコのコメントがいつも楽しそうでよかった。

Aメロ伴奏のピアノの4分音符がやたら突っ込んでたり、サビのコーラスはすごくリバーブが深く掛かっているのに、合いの手のセリフはやたらオンマイクだったりと、なんだかいびつなところもある。けれど、それはそれで味があってまた不思議な魅力がある。(どこか本編と似ていなくもない。)

極黒のブリュンヒルデ

OP「BRYNHILDR IN THE DARKNESS -Ver. EJECTED-」

ストリングスのリフが印象的でかっこいいインスト曲。ダブステ風味も。アニメだってかならずしも歌じゃなくてもいいということですね。ニコニコのコメント達は無理やり歌詞があるかのように装って遊んでたけど。

ED「いちばん星」

ソウル、ゴスペルのテイストがある上質なポップといった感じ。イメージとしては山崎まさよし et al. の「星のかけらを探しに行こう」なんかが近いような気がする。

種田梨沙さんの歌声が素敵で気持ちいいので、終盤ストーリーがはしょりぎみになっても、いつも最後まで聴いていた。

ヤマノススメ

OP「夏色プレゼント」

この曲は以前、単独のレビューを書いたくらいお気にいり。

セカンドシーズンのOP「毎日コハルビヨリ」もポップで楽しいし、一期のED「スタッカート・デイズ」も楽しみなことを前にうきうきする気持ちを 思い出させてくれる。Tom-h@ckさんすげーです。(そういえば、けいおん!! OP「GO!GO! MANIAC!」もそうだったけど、シャッフルがお得意なのかな。)

四月は君の嘘

OP「光るなら」

クラシック音楽家の青春と生き方をテーマにしているだけあって、演奏シーンの音楽なんかはそれはすごいのだけど、OPテーマもよい。

自分に手を差し伸べ背中を蹴飛ばしてくれたヒロインに対する主人公の想いを、ベタ過ぎるくらいにストレートに表現した言葉がみずみずしく、ヒロインにこれでもかと立ちまくった死亡フラグを思わせて涙をさそう。

大人数の男女で歌うサビの分厚いコーラスが合唱でも定番の「太陽がくれた季節」みたいで、すごく青春だなと。そう思って検索してみたら、銀の匙 2期 ED「オトノナルホウへ→」を歌い演奏しているのと同じアーティストだとわかった。

メンバーは固定しておらず、シェアハウスに集う人々で構成されているのだとか。インティメイトな、のびのびした空気はこういうところから出ていたのかと納得させられる。

暁のヨナ

OPテーマ「暁のヨナ

『極黒のブリュンヒルデ』と同じく、インスト曲の OP。笛のメロディーを中心にアジア的な楽器が多く用いられたオーケストラ曲で、雰囲気はまさに大河ドラマの OP と言った趣き。舞台である古代朝鮮的な異世界の雄大さを毎回のはじめに感じさせてくれる。

SHIROBAKO

ED「~Animetic Love Letter~」

軽快なギターの刻みとスラップベースに乗ったおしゃれなR&Bテイストのポップス。最近のアニソンだと『ゴールデンタイム』のOPなんかと近い印象がある。

形式がユニークで、Aメロ・Bメロ・サビ・大サビ、の四部構成になっている。普通にサビまでかと思っていると、さらにぐっと盛り上がって「ラブレタ~♪」と全員でハモるパートがきて、大変エモーショナルに盛り上がる。

アニメ制作現場を描いたアニメということで、歌詞もTVアニメがテーマ。アニメキャラクターが視聴者に週に一度会えるのを楽しみにしているというのが字義通りのストーリーだけど、それだけでなく、 視聴者もアニメに、またアニメ制作者も視聴者たちに、恋焦がれるような気持ちをもっているんだ、というトリプルミーニングであるようにも読める。

このアニメへの愛を謳う素晴らしい詞を書いた上、作曲をしたのは声優でもある桃井はるこ氏。多才ですごい。

プリパラ

『プリパラ』は女の子向けアイドルカードゲームとそれをアニメ化したもの。『プリティーリズム』シリーズの後継になるそう。

女の子が憧れるかっこよさの要素として、キラキラしたかわいさにプラスして親や学校からは理解されにくい*1、ちょっとした逸脱・カウンターなところも加味されている模様。

楽曲もブラック・ミュージックだったり、パンクだったりのフレーバーが「ちょっとワルい子」の演出につかわれていると思われるが、そのさり気なさが洗練されてるように感じた。

特に良いと思った曲はこのへん:

  • 1クール目OP、および劇中歌「Make it!」
  • 劇中ライブソング「ま~ぶるMake up a ha ha!」
  • 劇中ライブソング「Pretty Prism Paradise!!! 」
  • 劇中ライブソング、3クール目OP「Realize!」

セクションの変わり目に同主調の借用でブルース・ペンタトニックなユニゾンが入ったりして、上で言った悪い子なテイストが出てると思う。

振り付けも、他のアイドルアニメと比べて激しめのフットワークが多いのも、ちょっと黒っぽいのかなという気がしないでもない。一クール目クライマックスの25話での、「Realize!」のステップはカメラワークとあわせて大変気持ちよかった。MMDの人とか真似するといいのでは。

MMDといえば、3Dモデルのアニメも、ストーリー中での手描きパートとほとんど違和感なくなってて、トゥーンレンダリングもここまできたか、すごいなーと思わされる。

*1:プリティーリズムでは父親が、プリパラでは学校の校長が当初は反対していた

アンソニー・ピム『翻訳理論の探求』

翻訳理論の探求

翻訳理論の探求

 1960年代以降の翻訳研究における理論の諸パラダイムを概観し、見通しをつける翻訳学の理論書。専門書ではあるが、自分が実践していても感じられる翻訳における様々な問題が、きちんと学問で理論化されていることを知れて勉強になった。

 記述は概ね時系列順だが、パラダイムごとに論じるスタイルになっているので、ときどき何年も遡ったりする(一番面食らったのはベンヤミンの後にアウグスティヌスが出てきた所w)。その点、前もって意識しておくと読みやすくなるかも。

 内容については、目次および簡潔にして要を得た紹介がみすず書房のHPで公開されている。

 紹介にある通り、本書が焦点を当てるパラダイムは、(1) 等価、(2) 目的〔中心のアプローチ〕、(3) 記述的翻訳研究、(4) 翻訳の不確定性、(5) ローカリゼーション、(6) 文化翻訳、の六つだ。

 前三者は言語学の理論より、後三者は哲学・経済・社会学よりの話になっている。実際に翻訳を行うときの理論的な参考になるのは前者の方だろう(後者についても翻訳の実践とつなげて論じられてはいる)。

 以下、興味深かったポイントをノートしておく。

等価

 等価というのは、簡単にいってしまえば、原文と翻訳で同等の意味を達成できるという考え方に近い。

 等価パラダイムに先行していたのが、構造主義言語学である。その中でも特に強い言語相対主義を取る立場では、異なる言語は異なる世界観を表すものなので*1、完全な翻訳は不可能だということになる。

 例えば、英語の sheep(羊)と mutton(羊肉)、フランス語の mouton(羊と羊肉の両方を指す)が概念として完全には重ならないので、一対一対応させられない。ひいてはこれらの概念を通して見ている世界が違う、というように。

 ソシュール的な発想では、sheep と mouton では「価値」――パロールではなくラングに関するもの――が大きく違うということになるが、等価パラダイムの論者たちは、パロールのレベルで(Sin ではなく Bedeutung の方)において同等な意味を達成できると考えたらしい。

 例えば、暦上の不吉な日として英語では「13日の金曜日」があるが、スペインでは13日の火曜日が不吉ということになっている。ので、訳す際に "martes y 13" としておけば、形式は違っても価値は同じ、ということになる。

 このように、形式を同じにする(直訳みたいなもの)ことを「形式的等価」、実質的な意味を同じにすることを「動的等価」とユージン・ナイダは名づけた。

同化/異化

 この直訳的/意訳的の二項対立は、古くはキケロまで遡る。キケロは 'ut interpres'(直訳主義の解釈者のごとく)ともう一つは 'ut orator'(演説者のごとく)という区別を立てた(p. 51)。19世紀のシュライアーマハーは外国語の響きを残す「異化作用」と目標言語として不自然さを少なくする「同化作用」を対立させた。このように伝統ある区別であり、そしていまも取り沙汰される根本的な問題でもある:

反・受容化の主張の一つとして,米国の翻訳者・批評家であるヴェヌティ(Lawrence Venuti・特に1998)*2によるものがある.ヴェヌティは下位文化が欺かれることにはあまり気を留めていないが,翻訳の自然さ(流暢さ)が上位文化の世界観に与える影響について懸念している.全ての文化が流暢な現代英語によって表現されるようになったら,全世界の文化は自分たちの文化に似ているという思い込みがアングロアメリカ文化で生まれるだろう。従って,ヴェヌティは,非自然的(「抵抗的な」)翻訳は目標言語には頻繁に見られない形式を使うべきで,それらの形式が起点テクスト中のものと等価であるか否かは関係ないとしている.(p. 36)

 このヴェヌティの見方は、学問の専門家向けの直訳から、自然な日本語として読める訳文へ、という方向へ動いている今の日本の流れとは正反対だ。目標言語が置かれている文化的な立場、ヘゲモニーが大きく関わるのだろう。立場の強い言語、価値があると自ら考える言語をもつ社会では、より弱い方の言語にあわせて異化的な訳をするよりも自分たちの言語への同化的な訳を選ぶことがままある。つまり、ピムの言葉を借りると「人が模倣したがるのは自分が尊敬する人々のみ」なのだ(p. 140)。

 そもそも、中世のヨーロッパでは神の霊感を受けた言語(ヘブライ語・ギリシア語・アラビア語など)やその翻訳に用いられた言葉(ラテン語など)といった上位の言語を翻訳することで、各地の方言などの下位の言語を豊かにするものだった(p. 37)。ヴェヌティの提言も日本の流れも、そういう本来の傾向に逆らっている点では同じなのかも知れない。

等価パラダイムで生まれた概念

 1958年、ヴィネイとダルベルネは翻訳で使える七通りの一般手順をあげた。「借用〔外来語〕」、「語義借用」、「直訳」、「転位」、「調整」、「対応」、「適合〔語が指している事象・対象は違うが文化的な地位が似ている〕」、である。左から順に、元の言語そのままから訳者による創造的な変形へとなっている(p. 23)。

 彼らは訳文が持つ文体の傾向も一般化した:「拡大化」「縮小化」「明示化」「暗示化」「一般化」「特定化」である(p. 26)。拡大化・縮小化は、訳文が原文に対して長くなる/短くなること。明示化と暗示化は、原文が暗示しているものを明示してやること、またその反対を意味する。一般化・特定化は、原文の単語と概念が指し示しているカバー範囲に差がある(より一般的/具体的な)訳語を用いることである。

 こうした概念を知るだけでも、辞書でひろった訳語を一対一でもとの文に当てはめるものだという、受験英語の和訳ですりこまれてしまった思い込みは溶けるのではないだろうか。

目的

 私が本書で最も実践的に役立ちそうな可能性を感じたのが本章である。

 このパラダイムは、1984年にハンス・フェアメーアが提唱した「スコポス」理論に代表される。スコポスとは、ギリシア語で目的、目標、ゴール、意図された目標、といった意味を持つ(p. 75)。

基本的な考え方としては,翻訳者はスコポス,つまり翻訳のコミュニーケーション目的が達成されるよう翻訳すべきであり,単に起点テクストに従うべきではないというものだ(id.)

翻訳者を中心に置き、起点テクストに従わなくてもよいとする点が、起点テクストがどのように訳すべきかを一意的に決めるとしていた等価パラダイムへの批判となっている*3

 同一のテクストであっても、必要とされる状況に応じて、訳し方は変わりうる。本書に上げられていた例で印象的だったのは、ヒトラー『わが闘争』を現代でどう訳すかだった(p. 82)。当時の雰囲気を知るためにアジテーションの味を残して訳すか、それとも今では直視しがたいような差別的な言葉は穏当な表現に変えるか。表現は異なってくるが、どちらもありといえばありで、どちらを選ぶかはその本の出版目的次第だろう。

 テキストが自動的に訳し方を決めるのでないとすれば、翻訳者がどうするか判断しなければならないが、本書を読む限り、フェアメーアのスコポス理論ではなにが従うべき原理かは述べられていない。一切変更を加えるべきでない聖典的なテクストから、実務的な文書というある程度の付加や省略がゆるされるものへと翻訳対象が移ったことで、翻訳者の自由は増してもいる。

 これに対し、ホェーニッヒとクスマエルは「必要精度の原理」を提出した。想定される読者の知識レベルで十分理解できるようかどうかが基準になるというものだ。例えば小説で、登場人物の娘が通っている英国の "public school" を「授業料の高い私立学校」と訳すか、単にその学校名を示して済ませるかは、読者が英国の教育システムの知識をどれくらい持っているかに依存する。そして、ここで訳文が完璧であるかどうかは問題でなく、「該当状況下で『事足りる』」のである(p. 91)。

 なにが目的であるかを誰が決めるのかも多岐にわたる:

 それは,支払いをするクライアント,実際に仕事を提供する人(おそらく翻訳会社や仲介業者),翻訳者,翻訳者に助言を与えるかもしれない各分野の専門家翻訳者を管理する編集者,そして望むらくは最終的な読み手,つまり翻訳のユーザーである(p. 92)

 これらの変数に加え、原文を精確に理解するためには、著者、原文、その読者、それらを取り巻く文化/社会環境をも考慮に入れる必要があろう。目的パラダイムでは、こうした複雑な状況において最終的な決定は翻訳者が下すことになっている。この理論では大変な自由と責任とが翻訳者に与えられているといえる。

 必要性度の原理と合わせて考えてみるに、翻訳に関与する変数は多く、場合によって千変万化するだろう――そして、そうした柔軟な判断が機械翻訳には難しい領域なのだろうし、仲介者としての翻訳者の腕のふるいどころなのだろう――けれど、それらを見定めて目的をフィックスすれば、妥当な訳というのはある程度定まってくるといえよう。畢竟、テクストでも、ソーシャルにも、文脈をしっかり読むのがやはり王道ということではないだろうか。

記述的翻訳研究

 以上のパラダイムがどちらかというと翻訳はこのようにされるべきという雰囲気があるが、記述パラダイムでは、実際に行われている翻訳の実践がどのようであるかを記述することを第一とする(言語学の規範主義と記述主義に似ているといえよう)。

 そのアプローチから、「翻訳シフト」、文化システムにおける翻訳の位置、「規範」、「翻訳の普遍的特性」や「法則」などの概念が生まれ、議論が続いてきた。

 翻訳シフトとは、翻訳において生じる、原文と訳文の間における違いのこと。ある概念を訳したら、もとの概念の一部のニュアンスが抜けるとか。形式だけ一致させても意味がシフトしてしまうことはよくある(和製英語に親しむ私達にはわかりやすい)。

 どんなシフトを生じさせるかにおいて作用する翻訳の「規範」がある。目標言語・文化の側で、翻訳とはこういうものだという考え・習慣が出来上がっていて、訳者はそのとおりに訳し、受けてもそのような訳文を期待したりする、と。

 規範には、次のような形式がある*4

  • 韻文は散文になおして訳すものと決まっている(19cフランス)
  • 模倣形式 (mimetic form):古典文化の形式に出来るだけ近い形式にする異化を目指すべきとされる(19c独のシュライアーマハー)
  • 類似形式 (analogic form):原文が起点文化でもっている位置と同じになるよう、自分かで同じ位置を占める形式にすべきとされる(原文が叙事詩なら、自文化の叙事詩がもっている形式で訳す)
  • 有機的形式 (organic form):形式はともかく内容を重視する
  • 外的形式 (externeous form):形式にも内容にもとらわれない

 規範が守られないと「醜い」「買う価値がない」などけなされ、制裁を受けることもある。逆に、規範を知ることで、よいとされる翻訳者を養成することもできる。(以上、pp. 116-27)

普遍的特性

 記述パラダイムでは翻訳がもつ普遍的特性が提唱された。「語彙的簡素化」「明示化」「適合」「平準化」「特有項目」である。(pp. 132-7)

  • 語彙的簡素化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、「語彙の範囲が狭く,頻度の高い語彙の使用割合が高い」
  • 明示化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、冗長性が高い、明示的で統語的標識を多く使う(文が長くなる)*5
  • 適合:翻訳は目標言語と文化の規範に適合される(ex. 英→ヘブライ語の翻訳がヘブライ語の書き言葉に合わせて口語的になる)
  • 平準化:同時通訳では、両極とされる話し言葉と書き言葉の性質が薄れ、混じる=平準化される。
  • 特有項目:起点言語にはないが目標言語において見られる言語的要素が、翻訳においては表出しない傾向にある(ex. 英和翻訳で主語の省略が起こりにくい、とかだろう)

 これらが本当に普遍的かどうかはまだ検証・議論中のようだ。そして、こうした特徴がなぜ起こるのかをさぐり、翻訳の「法則」が求められてもいる(イーヴン・ゾウハー、およびトゥーリー)。上で論じた模倣など、文化的なコンテクストの影響が大きいようではあるが、心理学的な原因も視野に入っているようだ(p. 137-40)。

後半

 以下はそこまで興味をそそられなかったので、手短に。

ローカリゼーション

 ローカリゼーションにおける翻訳のポイントは、通常の翻訳が「原テクスト→訳文」の一対一の関係なのに対し、起点から一度「国際化」という手順を踏むことによって、多数の言語バージョンが生まれるという一対多になっているという点である。

 そもそもの製品づくりの段階から、いくつもの言語と文化=ロケールで発売することが想定され開発が進められるし、通信やマーケティングや法の専門家もプロジェクトに参加する*6。こうしたプロジェクトの全体がローカリゼーションであり、翻訳作業はその一部分となる。

 プロジェクトの一部分であり、翻訳支援のソフトウェアにおいても定訳表現パターンの変更までは権限が与えられていなかったりするため、翻訳者のプロジェクトについての知識と作業範囲はかなり断片的になっているという。

翻訳の不確定性

 脱構築や解釈学などでいわれる意味の不確定性を扱った章。

 このパラダイムでは「真の」「完全な」翻訳というのはありえないのかもしれないが、およそ通常の人間ならまず同意するだろう同一性ならきっと可能だろう。翻訳の目的に照らせば、それで十分といえる水準もあるはず。

 意味産出の能動性を指摘することで、西欧中心主義・本質主義を相対化した功績はもちろん大きいのだけれど。

文化翻訳

 翻訳をアナロジー的にもちいたポストコロニアルカルチュラル・スタディーズの理論の紹介。おもにホミ・バーバ。エスニックな/ナショナルな境界を越えることを翻訳(者)であるとする。

 異文化/他者理解一般と、あえて翻訳と捉えることでどう違ってくるのか、もうひとつぴんとこなかった。

その他

  • 翻訳のふりをして提示されている非翻訳は「擬似翻訳」という(p. 129)
  • 翻訳学は、翻訳の研究だけあって、非常にいろいろな国・地域の人が業績を上げ、理論を出しているようだ。ドイツ、フィンランドイスラエルの人だったり、テルアビブ学派とかあったり。
  • 翻訳をすることでかえって自集団の境界を確定することがある

*リスク:上記議論の実践としての本書訳

 また,訳者が翻訳作業で悩み苦しんでいると,ピムは「リスク管理」の話(「あとがき」にもある)をしてくれることがあった.意思決定の対象が,ニュアンスも含めて伝えなければならない重要なもので,絶対に漏れがあってはならず,細心の注意を持って訳すべき「高リスク」情報なのか,それとも,ポイントさえ伝わればよく,一語一句に拘泥する必要のない「低リスク」情報なのか,それを見極めて,時間と労力の配分をせよという考え方だ.締め切りが迫っていた時期には,この助言がたいへん参考になった.さらに,ピムは,訳者の質問に答えるたびに,「翻訳しにくいところ,日本の読者に関係ないような箇所は省略するというのも正当な翻訳方略だ」と付け足すのが常だった.しかし,こればかりは師の教えに逆らい,苦しみながらも何とか訳出できるよう最後まで粘った.(「訳者あとがき」p. 281)

*1:サピア=ウォーフの仮説で有名なあれだ

*2:The Scandals of Translation: Towards an Ethics of Difference. London, New York: Routledge.

*3:等価が成り立つのは一特殊ケースということになるとのこと。したがって二つのパラダイムは必ずしも両立不能というわけではないが、翻訳者養成のポスト争いなどもあって対立していたらしい(p. 84)

*4:本書 p. 116-7。ピムのまとめは J. S.Holmes. 1970 "Forms of Verse Translation and The Translation of Verse Form" in J, S Holmes, F. de Haan, and A. Popovič (eds) The Nature of Translation, Essays in the Theory and Practice of Literary Translation, The Hague, Paris: Mouton de Gruyter, pp. 91-105. に基づく。

*5:Blum-Kulka, S, (1986/2004) "Shifts of Cohesion and Coherence in Translation," in L. Venuti (ed.) The Translation Studies Reader, London and New York: Routledge, pp. 290-305.

*6:PCやソフトウェア、ハリウッド映画などを想像すればよい。そういえばアナ雪の各国語訳はけっこう話題になっていた