Jablogy

Sound, Language, and Human

『ユリイカ 2008年12月臨時増刊号 : 総特集♪初音ミク――ネットに舞い降りた天使』青土社

以前Twitlongerに公開したノート。抜き書きとコメントをつけています。
本書全体への感想や考察などはid:sakstyleさんによるまとめ(http://togetter.com/li/139590)をご参照ください。

佐々木渉「生みの親が語る初音ミクとアングラカルチャー」pp.9-17
Vocaloidのヴィンテージ・シンセ的な側面=単一の音色しか出ない
「今はネットから無料でシンセサイザーを落とせて、しかもその中にシンセシスだっていくらでも入っているじゃないですか。しかもテンプレートでガンガン曲も作れてしまう。そうなるとサウンド的にありがたみが無くなってきてしまって」「シンセサイザーとして初音ミクを考えると、今時、あり得ないことに、一音しか出ないんですよ。立った一音を初音ミクとして認識して、愛してもらっていることって、音としてはとても幸せなことですよね」(p.11)

・欠落ゆえに美しい
SF的ロボット、ダッチワイフ、といった人の似姿は「ヘタをすればフランケンシュタインのような存在」であり「そこから生々しい人間の声が出てきてしまうのは、ボクにとっては可哀想な現象でした」(p.12)。一流シンガーは「歌詞を発するときの視線/眼力、肉体的なモーションや、フェロモン、喉の奥から発せられる震える声がイメージできるからこそ、よく聴こえるという側面が無意識的にあると思うんですね。そういう肉体性とVOCALOIDは全然違うのではないかと。ペラッとした液晶モニターと、PCのデフォルトのスピーカーから鳴るようなものであって、そこに身体性を入れても嘘臭くてマッチングしないのではないか」たとえば綾波レイのような「か弱さや哀愁を持たせた方が、僕は良いと思ったんですね」(p.12)。
初音ミクの記号性というのは、生身の人間だから持っている良さ、逆にいえば、生身の人間が持たざるを得ない良さを全部排除した存在なんです」(p.13)

田中雄二初音ミクという福音」pp.18-23
DTMおよび音声合成ソフトの歴史概説

■冨田明宏「同人音楽の中に見る『初音ミク』」pp.24-29
同人音楽とは「“同人”という概念に則った個人、またはサークルによる音楽活動であり、本来は営利目的ではない自作品の頒布を行うために生まれたコミュニティ、あるいは活動そのものの総称」(p.24)。ゲーム音楽というルーツ、DTMとインターネットの普及による活動の活発化、葉鍵アレンジの流行、“歌姫”、東方アレンジにおける商業化と反動的原理主義化、即売会イベントという販路

細馬宏通「歌を育てたカナリアのために」pp.30-36
調声とその限界

増田聡初音ミクから遠く離れて」pp.37-41
「声と人格は密接な関係をとりもっている。特定の声は、それが発せられる具体的な身体を換喩的に指し示し、またその声は体の中に住まう特定の人格の隠喩としても機能するだろう」(p.37)「一方で、人が異なるアイデンティティを獲得するために顔を整形することはしばしばあるが、喉にメスを入れて『別の声』を手に入れようとすることはさほど一般的ではないように思われる」(p.37)「声のアイデンティティはおそらく、ある人格主体が意思的に選び取ることが目指される人為の領域であるというよりも、人格がそこから立ち上がる『自然』の領域により近接している」(pp.37-8)

※ミクの虚構の人格を現実化させようとする欲望があるというのは間違いではないと思うが、それを達成するためにリアリスティックな・本物の人間とそっくりおなじ歌唱が目指されている、というのは(原文の注4にあるように、登場したばかりの「ぼかりす」を受けての着想のようであるので無理からぬことだが)増田の誤解である。「ぼかりす」や「キネクト」への戸惑い・反発、UTAUクラスタの議論などを考えると、むしろ「フィクション内の現実として自然」な声、動作が目指されていると理解すべきである。むしろ増田のいう「シミュレーション」としての本物とのズレ、人間と違うキャラクターらしい歌を目指そうという姿勢はよく見られるものである。

鈴木慶一初音ミクがあぶりだすプロフェッショナル」pp.64-71

小谷真理「ハルとミク」pp.72-81
・幼児性に萌える
2001年宇宙の旅」のHAL9000。声のみをコミュニケーション手段とし、ディスカバリー号のメンテナンスを行う(「メイド」的役割)。暴走し人間を殺害しようとしたため船長が人工知能を停止。停止していく際にすこしずつAIが学習して進化する以前の状態=子供的な状態へ戻っていき、≪デイジー・ベル≫という最初に覚えた曲を歌いながら停止する。。
「皮肉な事ながら、HALが淡々とこなすべき日々のルーチンを逸脱し、意図しない忘却や惑乱、崩壊といった、壊れた様子をみせるときの方が、なんだか人間性にちかいなにかが表れているような気がしてしまう。/そして、奇妙なことだが、わたしたちがHALをセクシュアルだ、と感じるのは、むしろ機械として壊れたところを隠蔽している含みを感じ取ったときなのではないか。……[略]……取り乱したり、惑乱したり、何か自発的に行動しようとしている様子がうかがえるとき。つまり、逸脱の中にこそ、性的な含みがあるのだ」(p.75)

石田美紀「『中の人』になる:<声もどき [ボーカロイド] >が可能にしたもの」pp.88-94
歌は上手いがつたない話し方=「その脱臼ぶりからボーカロイドが<声>を保証するロゴス中心主義とは断絶していることがわかる」(p.90)

ボーカロイドが可能にしたこと=「他人の声を使って自分で歌える」(p.91)
→ポップでキュートな <初音ミク> の「中の人」として歌うことを楽しむ(p.92)
 キャラクターとの二人羽織
ボーカロイド作品を聴いているとき、それを操作する人間、つまり「中の人」の存在を感じることがある」→声の肌理は維持され、中の人の数だけのミクがいる→そこからはキャラクターと主格未分化の状態に入るということが伺える(p.93)この理由で、ボーカロイドは「キャラクターへの難しい愛にとって福音たりえる」(p.93)

平沢進「バーチャルな『女性』への欲望とは何か」pp.95-105
・自身の声を加工して女声をつくる。ボーカロイド同様、どうしてもリアルになれない部分あがる。「最終的にどこかインチキ臭い、という部分はあえて残すんです」(p.97)

・ミクを「所有」する感覚
調声していくうちにイメージが擬人化しはじめる。が「愛でる対象ではなく、むしろ解剖する対象のような……DNAまで踏み入って、いけない部分をいじってしまっているような妙な感覚が生じることがあります」(p.97)

・「両声類」ほとんどがアニメキャラ風→編集部「理想の女性と同一化したいという側面もありそう」(p.98)
「現実の女性に自分の中にある女性性みたいなものを投影した時には必ず食い違いがあり、そこにコミュニケーションが生じます。そこに人間関係の責任が生じます。マシーンやソフトならば責任を伴うコミュニケーションは不要で如何様にも投影が可能です。なおかつそのパラメータが準備されていれば、自分の思うように近づけていくことも出来るのではないか。……[略]……メディアを通して女声を消費する場合は常にコントロールされていて、自分がパラメータをいじることはできません。しかしボーカルエンジンは、100パーセント所有できてしまう。しかも生身の人間関係に必要なコミュニケーションも責任も不要です」(pp.98-9)

・編集部「理想の女性と同一化したい、同一化したいという欲望があるのでは?」
「それは自分の中にある、理想の女性を投影する対象がないからですよね。生身の女性が、自分の女性性の投影を成就させてくれないのなら、自分自身が投影対象になり、それを成就させる。だから女装に向かうというのは、あり得ると思います。」(p.99)

・SP-2 は本物の女性よりも本物「たとえば、同じような容姿で――私は本物の女性のことを『偽物』と言っているのですが(笑)――偽物と本物が並んでいたら、見分けがつきますか?『なんだこいつ、偽物じゃないか、詐欺だ』となるのは……?」(p.101)

・SP-2とVocaloidイデアルな「女性」を体現し、齟齬無く投影できる [さやわかの「きれいな偶像性」と重なる] SP-2に投影するのは人工的なコントロールの結果だという勘違いだが、それに基づいて「ボーカロイドのようなものと同じ質感を感じてしまうという現象があるのかもしれない」(p.101)

濱野智史初音ミク、あるいは市場・組織・歴史に関するノート」」pp.125-131
ニコニコ動画は、実際の市場で言う「価格」のような、単純なパラメータの多寡で価値を決定する「疑似市場」となった。再生数、コメント数、マイリス数によるランキングなど。

東浩紀伊藤剛・谷口文和・DJ TECHNORCH濱野智史 「初音ミクと未来の音:同人音楽・ニコ動・ボーカロイドの交点にあるもの」pp.143-161

・濱野によるニコ動音楽につながる同人音楽史概観(p.144〜)

・伊藤:[「喋らせてみた」をうけて] 「要するに僕はこれまでキャラというものを考える際に、図像ということを非常に重視していたわけだけど、ここでは声とこ有名だけがある状態でキャラが成立している」「声というものがキャラの生成要因としてあり得ると言うことが、改めてよくわかる」 (:149)

・谷口:「あえて素朴な問いをぶつけると、『そんなに初音ミクが問題なのか?』と思うんです」(p.150)。「図像がない場合もある」程度ということは、絵がないとキャラとして認められないということでは?「しょせんは人の似姿が重要なのねと言いたくなる」(p.150)。
 ただ音声へのアプローチが面白くなってきてはいる。たとえば人力Vocaloid。既存のキャラをVocaloid的な扱いに巻き込んでいく可能性が出てきたのが面白い。人力Vocaloidにおいては「可能性としてはあらゆる人間の声がキャラ化され得る」[※宇多田ろいどを予見したかのようw]。
 人間歌声と人工の歌声との境界に興味がある。ex.歌ってみたにおける歌い手のキャラ化や「なぜ歌ったシリーズ」。

・東:「初音ミクの消費のされかたはデータベース消費そのもの」だがそれ以上はわからない。むしろニコ動との親和性が大きかったのでは。
 谷口がいったことは「むしろ本当の声優の声がキャラ化しているという裏返しの現象で考えたほうがいいのかもしれない。いまだったら象徴的なのはツンデレの『釘宮理恵』ですが、もはや釘宮理恵という女性が現実にいるかどうかも関係なく、ただツンデレの『釘宮』という声だけがあって、それを任意のキャラが発しているというイメージで消費されている」(p.152)

・東:同人音楽Vocaloid現象、ニコ動のアーキテクチャなど「それが音をこう変えたとかダンスをこう変えたとかいう現象があるのか」(p.153)
 テクノウチ:ニコ動におけるアニメMAD的なサンプリングをメロディーにのせるやり方は独特である。それをつかってJ-COREの新しい展開を作れないか。
 東:それは流行が過ぎれば終わってしまうようなものではないか?「アニソンの新しさやおもしろさを音そのものに即して語れないものなんでしょうか」(p.155)
 テクノウチによるJ-COREの独特なセンスについて(pp.158-9)海外のものとは微妙だが決定的な差はあるが、かなり聞き込んでいないと理解しづらいらしい。

・谷口:[Vocaloidの可能性の中心「萌え」について] 「なんで萌えるのが『声』でなきゃいけないのかということがわからない。僕は音楽の方から入っているので、『声』でなくていいんです。『音』であればいくらでも萌え得る」「本当に音楽の変化ということを考えるのであれば、歌というフォームが変わる契機こそを探さなければいけない」いまでは「本当に変なものにも萌えられるようになっているのに、音の話になったときに、なんでいまだに人の似姿に準じるものしか話題にならないのか」マリオのコインの音は現実のものとは全く似ていないのに「架空の世界におけるコインの存在感がある」。「音の表現にもそういう世界がすでに出来上がっているというのが僕の認識」。例えばR2-D2は「萌え声」。「そういうものがいままで『声』の文脈から捉えられてこなかったのは非常に大きな欠落」(p.156) [※UTAUはまだ一般的じゃなかった頃だが、人外音源などどうお考えだろうか]

・編集部:ミクの可能性として、石田美紀が今回書いているような「声のコスプレ」、自分じゃない声で歌うというのはどうか。
 伊藤:「ボカロの次に来るのは、自分が喋った声を声優声に変換してくれるソフトだろう」とだれかがブログで言っていた。
 谷口:ボカロがいわばお人形遊びだとすると、次に流行るのは自分がお人形になることだろう。「いままではコスプレによって自分の外見を変えていたのが、今度は自分の声をメディア上で操作対象にしていくという流れが来てもいいはずだと思います。プリクラや写メールの音版はどうやって出てくるだろうかとか、前々から考えているんですが」(p.160) [※お人形あそびといえばまさにUTAUやMMD。キネクトで「俺が美少女だ!」は可能になったが声による「俺がアイドルだ!」はいつ可能になるだろうw]

・谷口:[サンプリングした声で独特な音を作ったデデマウスのことをうけて]「初音ミクを歌わせるのに、言葉で歌わせなきゃいけないというのになんか抵抗があるんです。『なぜ歌った』シリーズがなんでいいかというと、完全に言葉を解体した音系MADをいかにして『歌って』しまうかということに挑戦しているからです。」(p.160)キャラや人格の大半を担っているのは言葉だが、「音としての言葉は意味とは本来関係がない」はずで、「言葉からはみ出た音の響きが個人的に面白いということです」(p.161)。「声というものに対する感覚の変化が進めば、ある時一気にシーンが変わるということもあるんじゃないかと思います。」(p.161) [※人はなぜかくも「歌」が好きなのか、というのは昔から議論されてたような。プログレなどでは逆に歌が入ると興ざめするという現象もあるが。]

伊藤剛「『ソワカちゃん』から『初音ミク』へ」pp.171-178
・ミクはテヅカ・イズ・デッドで規定するところの“「比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって、『人格のようなもの』としての存在感を感じさせる」という要件”を満たし、「キャラ」すなわち「前(プロト)キャラクター態」として存立した。(p.174)→はちゅねのネギやらで設定が付与される →キャラの存在感が増強される。
 「テクスト内で『キャラクター』に付与されるのは『存在感』でしかなく、それは『キャラ』の強度とは独立のものだと考えられる。つまり、キャラクターとして『存在感』が増すことと、テクストからの遊離可能性は別個の事象であると考えられる」≒キャラとして成立していることと、二次創作誘発性が高いかとは別(p.175)
 ミクがネギを持つという設定の成立は「キャラクターである以前に、つまりエピソードを物語るテクストをほぼ欠いたまま、それでもキャラの『存在感』『固有性』を増すような動きが可能であることを示している」(p.175)

・亜流キャラ達は過変性に乏しい。[※そんなことないと思うが?]
「『護法少女初音ミク』だったらここまで大胆な物語世界は展開されなかったのでは」(p.176)
「『ミク』というキャラは、コミュニティによってその存在感を担保されてしまっている。そのため『設定』や『属性』は、コミュニティの成因の共通認識になり得たものに限られる。そのためある固有の『物語』に縛られることがない。……[略]……これはむしろ逆にコミュニティの了解に縛られ、無数の『物語』の前に開かれていながら、固有の『物語』を持つことができないといった方がいいと思う」「『ソワカちゃん』は『ミク』とは少し違った図像と、明確に異なる固有名を持っていたがゆえに、『ミク』というキャラの引力を振り切ることができたのではないか」(p.176)
[※唯一の公式ストーリー、聖典を持ち得ないという意味ならある程度そうかもしれない。クリプトンが決してアニメ化しようとしないのもそのあたりに理由がありそうだし。しかし、公式ストーリーの有無がどういう意味を持つのかはもう少し考えてみる必要がありそうだ。たとえば「公式ストーリー・設定がない/少ないから二次創作が自由に・容易にできる」という意見が散見されるが、ストーリーと設定がしっかりしていて二次創作が盛んな作品などいくらでもある]

中森明夫初音ミクと『存在しないものの美学』」pp.179-192
リア・ディゾンの予測不能性、Perfumeのテクノとダンス。「どれほど未来形のテクノアイドルであったとしても、やはり<生身の女の子[原文傍点]>がやっている――ということ。そこに完璧なコントロールの効かないアイドル本来が持つ『弱点とも等しい魅力』があるように思う」[ミクは逆に完全にコントロールされていてつまらない](p.180)

・ロマン・ギャリィ『自由の大地』において収監されたフランス兵達が自己を律するために「目には見えない少女」が独房内にいると想定して生活し、みごとに心の自由を保ったエピソードを引いて「今、この『目に見えぬ少女』を、どうして『初音ミク』と呼んではいけない理由があるだろう?」
 「二一世紀の今日、『初音ミク』という名の存在しない少女を共有する人々は、実のところ『目に見えぬ女の子との遊技を通して、想像力が≪別の現実≫、物理的な現在とは異なった現実に達しようとする力』であることを発見し、それを獲得するためのレッスンを日々積んでいるのではあるまいか?堕落を極めたインターネット空間という『戦時下の捕虜収容所』で。それぞれの独房で『孤独な幽閉に耐え抜く』ために。」

中田健太郎「主体の消失と再生:セカイ系詩学のために」pp.193-204
・仮想の存在――初音ミク――に主体を見いだす
 「恋するVoc@loid」「えれくとりっく・えんじぇぅ」などの自己言及的な歌詞において、ミクが心をもった存在であることが強調される。「SFにおけるサイバーパンクの想像力をなぞっただけの、素朴なものとして批判したくなるかもしれない」(p.194)がしかし「機械の声の中に一つの主体性を認識しようという、初音ミクをめぐる集団的実践は、むしろ現実がサイバーパンク的想像力に追いついた事例として別様に評価されるべきだ」(pp.194-5)
 ユーザーの存在は「『マスター』『プロデューサー』と呼ばれることで、後景に退いている。そして、『マスター』に操作されるものとしての初音ミクの主体性が、逆説的に浮かび上がっているのだ」(p.194) [※『マスター』という呼称が使用されること自体が、フィクション内でキャラクターとしてのVocaloidが使用者によびかける時にほぼ限られる、ということに注意が必要だろう]

キットラー『グラモフォン フィルム タイプライター』
文字というメディアに一元化されていたはずの人間性が聴覚・視覚・書字に分断された。
蓄音機/映画/タイプライター=聴覚/視覚/書字=現実界想像界象徴界
録音=聴覚の外在化し人間の全体性から疎外した
キャラの主体性ゆえにミクはこの疎外の歴史から逸脱している。

・声と主体の形而上学
増田聡 2008「データベース、パクリ、初音ミク」『思想地図』vol.1 NHK出版
 →歌声を一つの身体に結びつけてしまう人々の慣習の強度
ジャック・デリダ 1967 [2005] 林好雄訳『声と現象』ちくま学芸文庫
 →ロゴス中心主義、「『形而上学の全歴史はフォネー [声] の必然的特権性を前提と
  している』」として「声を主体的意識の隠喩として利用してきた西欧形而上学
  歴史の全体を批判していた」
東浩紀 1998『存在論的、郵便的』新潮社 [pp.156-165]
 →デリダによる形而上学史批判の射程

・合成音声を主体と、声を図像と結びつけようとする欲望をラカンで分析
 声=乳房・糞便・なまざし・ファルスなどと同様、欲望の対象であり「対象a」のもっとも主要な形式。「対象a」は全体を所有できないものであり;言語で分節しようとしてできない余剰である;そして所有できないものの世界=現実界に属する。

 対象aは我有化しえないがゆえに不安を引き起こす。その不安は視覚によって覆い隠される。「どこからともなく、声がだけが聞こえてくると、我々は大概不安になって、「誰?」などと問いかける。声だけがむき出しで現れることは、非常に不安なことなのだ。そうして、声の主の顔が見えれば、きっと安心するのである」(p.196)
「声(現実界)だけがむき出しで現れることをおそれて、われわれは声を視覚的な像(想像界)に結びつけたいと感じる。初音ミクのキャラを構築するために行われているのも、このような操作に違いない。機械的・非人間的な声に、視覚的な像を与えることで、我々はある種の安心を得ているようなのだ」(p.196)

・ミクによって分断された認識の世界を縫い合わせる
「彼女の声(現実界)とイメージ(想像界)との結びつきを、あたらしい主体と呼ぶことができるなら、現代世界のなかで人間の全体性を失ってしまったわれわれも、いつかは新たな主体性を見いだすことができるのではないか」 (p.197)

※以下セカイ系とミクとをつなごうとする議論が続くが、論理がかなりアクロバティックというか、前提にしている事柄が実情に適合しないように思われ、説得力があるとは言い難い。オミットしようかと思ったが一応言及する。

現実界想像界の直結=セカイ系
現実界想像界=声/図像=キミと僕の関係/セカイの運命(社会や国家=象徴界をオミット) [※声と図像の関係、および「キミと僕」と「セカイの運命」との関係をそのまま現実界想像界の関係であると捉えることの妥当性は?]

現実界想像界=声/図像の先例――アニメの身体性――
 アニメキャラ=図像+声優の声
 二つはまったく恣意的な関係であり、だからこそ声優ともアニメーターとも切り離された「別様の身体がそこにあらたに生まれる」「ここに、現実界想像界が直結する、セカイ系的主体の確かな先例を見ることができる」(p.198)
 例として旧劇場版エヴァDeathにおけるアスカの精神崩壊。分裂した自我を示すかのように他のキャラクターを演じている声優達がアスカの一連の台詞に声を当てている。この演出は声優を変えてしまうだけで成り立たなくなるアニメの身体性の脆弱な構造への批評たり得ていると中田は述べる。

・ミクの身体性とアニメキャラの違い
ミクの声はデータベース化され、極めて柔軟中変性を有している。そのため様々なタイプの図像や曲と結びつきうる。
 [※これはミクの性質というよりも、ユーザーコミュニティによる創作の量の問題であろう。機械音声だからこそできること(正確なピッチ、声のコスプレ、ブレスレスなフレーズ、CGMによる莫大なユーザーと多岐にわたるジャンル)は確かにあるが、別に声優の場合でも、図像や曲との結びつきの質的にはほぼかわらないはずである。ゆえにミクによって「セカイ系的な主体性の再構築」が可能ならば、アニメキャラでも可能なはずである。その有りようが量的に変わったというならある程度正しいだろう。ニコマスやUTAUやMMDからもわかるように、ニコニコ動画という場・アーキテクチャもまたカンブリア紀的な量の爆発に不可欠の要素だと思うけれど。] 

セカイ系的なボカロ曲の詩
初音ミクの消失
  →人間が歌えない速さだからこそ叙情性が臨界的 [※主観だけでいわれても…]
「Packaged」
  →「この世界のメロディー♪」=セカイとわたしを直結させる [※そうか?]
   「象徴界の空洞化をその身に担いながら、空手でセカイと直面してしまうところに
   セカイ系詩学の抜き差しならない主体認識がある」
          [※そうかもしれないが別にVocaloidに限ったことでは・・・]

※結局、「ミクおよびアニメ的な声と図像」と「セカイ系の『キミと僕』と『世界』」とは現実界想像界という構造が(中田に従うかぎりでは)同じというだけでなんら必然的な、ないしは特別な関係を持っていないのではないか?すくなくとも本文ではそうした部分は描けていない。

■有村悠「Vocaloid Leads Us to the Future.」pp.210-228
ミクのキャラ類型(ツンデレ)、派生キャラ、カップリングについて
時系列を追いながら概説。