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Sound, Language, and Human

輪島裕介 2010 『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 光文社新書

表題の本のノート。操作ミスでデータが飛んでしまったので再掲です。
やはり手元のエディタに保存しながら編集すべきですね。

【第一部】
近代日本大衆音楽史を三つに区分 
 第一期 レコード会社専属制度の時代(昭和初期[20年代後半]〜30年代[50年代後半])
 第二期 フリーランス職業作家の時代(昭和40年代[60年代末]〜昭和末期[90年代])
 第三期 J-POP以降の時代

演歌=自由民権運動の壮士の演説歌
 → 第一期末の演歌士≒流しの芸人たる添田唖蝉坊・知道親子による「創建神話」
第一期あたりでの「演歌」の支配的な説明。
「艶唄」は「演歌」の頽落形態ととらえられる。

【第二部】
第三部において解説される「新左翼知識人」が日本の土俗的原型をみた「艶歌・演歌」に
実際には「民謡調」「浪曲調」「流し歌」「やくざ歌」「ムード歌謡」「ナツメロ」といった多様な(かならずしも日本土着とはいえない)スタイルの音楽が流れ込んでいることの解説。
第一期までの歌手や「流し」は流行したスタイルならなんでもレパートリーにした。

【第三部】
本書の主張が述べられた部分。
進歩派左翼知識人の俗歌・猥歌に対する非難に対抗する形で「新左翼」の左翼ナショナリスト知識人が「艶歌」を「日本のブルース」として再創造していく。その後、健全化・体制化を通じて現在のようなイメージが確立する。

五木寛之の小説「艶歌」(1966年)における「艶歌」観
 1、「艶歌」はレコード歌謡黎明期の昭和初期から連続するもので、しかも現在(昭和40年前後)それは衰退しつつある
 2、「艶歌」は「タイハイ的」な歌であって勇壮な軍国歌謡の≪愛国行進曲≫や明朗快活な≪リンゴの唄≫などとは別のカテゴリーに属する
 3、「艶唄」は「やくざっぽい」人物によって、長年のカンに従って制作されており、それは西洋音楽の価値体系とは相容れない
 4、「艶唄」は姑息な販売戦略や派手な宣伝によらず売れるべきものである(:232)
また「演歌」が「艶唄」に頽落したことに「庶民の唄」として積極的に評価している。

新左翼論壇の「艶歌」論
相倉久人平岡正明フランツ・ファノンやリロイ・ジョーンズなどのポストコロニアル理論の先駆を参考にして「日本のブルース」として「艶歌」に目を向けた(:246-50)

・藤圭子
五木が小説などで提示した「不幸な生い立ち」「暗さ」「怨念」といった少女歌手像を体現する存在として藤圭子が売り出される。藤圭子は演じられたフィクショナルなキャラクターを売る(しかもオーディエンス側もそれを織り込み済み)という点で最初のアイドルでもある。

・著者の主張がもっともよくまとまった文
“やくざやチンピラやホステスや流しの芸人こそが「真正なプロレタリアート」であり、それ故に見せかけの西洋化=近代化である経済成長に毒されない「真正な日本人なのだ」、という、明確に反体制的・反市民社会的な思想を背景にして初めて、「演歌は日本人の心」といった物言いが可能となった”(:290)
“昭和30年代までの「進歩的な思想」の枠組みでは否定され克服されるべきものであった「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ、日本の庶民的・民衆的な新正性があるという1960年安保以降の反体制思潮を背景に、寺山修司五木寛之のような文化人が、過去に商品として生産されたレコード歌謡に「流し」や「夜の蝶」といったアウトローとの連続性を見いだし、そこに「下層」や「怨念」、あるいは「漂泊」や「疎外」といった意味を付与することで、現在「演歌」と呼ばれている音楽ジャンルが誕生し、「抑圧された日本の庶民の怨念」の反映という意味において「日本の心」となりえたのです。”(:290)
“さらにそれは専属制度の解体というレコード産業の一大転換期と結びつくことで、専属制度時代の音楽スタイルを引き継ぐ「演歌」と、新しく主流となりつつあった米英風の若者音楽をモデルとした非専属作家によるレコード歌謡との差違が強く意識され、昭和三〇年代までのレコード歌謡の音楽的特徴はおしなべて「古い」ものと感じられるようになり、それがあたかも過去から連綿と続くような「土着」の「伝統」であるかのように読み替えられることを可能にしました”(:290-1)

・演歌の健全化
アウトローの音楽というイメージから清純化・家庭化する→小柳ルミ子
小柳のデビュー曲≪私の城下町≫(1971年)、続く≪お祭りの夜≫≪雪明かりの町≫≪瀬戸の花嫁≫≪京のにわか雨≫と続く一連の楽曲はは当時の国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を連想させる。「古き良き日本」を表象する。
後に家父長制イデオロギーにも親和的になっていく(≪与作≫)。

・カラオケナショナリズムとそこで歌われるものとしての「演歌」
1977年カラオケブーム「国際化するジャパニーズ・ビジネスマン」がカラオケで歌うナショナルソングとしての演歌
ナツメロが歌われ、“「演歌」は専ら「過去」と結びつく「歴史的文化財」としての地位を完全に獲得したといえるかもしれません”(:305-6)

・「演歌」と「みなさまのNHK」の結合
1981年、演歌を中心とする『歌謡ホール』(現・『歌謡コンサート』)開始。
この番組で“「演歌」は「古くから日本人に親しまれてきた」「スタンダード」として捉えなおされて”いる。この番組の“選曲基準は「視聴者の関心が新しいヒットソングだけにあるのではない」として、「日曜日の『のど自慢』で歌われる曲や、暮れの『紅白歌合戦』のアンケート結果」を重視するという番組スタッフの発言が引かれています。同じく「十一月、十二月は『紅白歌合戦』に向けた特集にしたい」との談話が紹介されています。(1981年3月4日付朝日新聞)”
“現在の「演歌」シーンにおける最高の晴れ舞台(あるいは業界の生命線)と言える地上波全国放送の『のど自慢』『歌謡ホール』(現在は『歌謡コンサート』)『紅白歌合戦』の密接な関係は、ここで確立されたといえます”

・カラオケによる歌詞と曲調の均質化
1979年あたりからの「演歌」のヒット曲は旋律・伴奏・歌詞ともにどれも似通っていて、戦後初期くらいのものに逆戻りしたかのようである。「演歌」のイメージも、“男は羽織袴、女は振り袖姿で「古き良き日本の自然と風物と人情」を(カラオケ的な基準で)上手に歌う、というステレオタイプが突出”していく(:313)。その好例が石川さゆり。≪天城越え≫はカラオケで挑戦しがいのある難曲としてヒット。カラオケスナックで主婦を相手に開かれるようになった「お稽古ごと化したカラオケ」が背景にある。主婦層の支持なくして現在の「演歌」は存続し得ない。そのため川中美幸≪ふたり酒≫や三船和子≪だんな様≫といった曲は一夫一婦制と夫唱婦随のイデオロギーを称揚し、鳥羽一郎≪兄弟船≫は兄弟と両親の絆を描くものとなっており、当初のアウトローの音楽という「演歌」のイメージからは対照的になっている。

・カラオケの脱演歌化
カラオケの中心がJ-POPに移ることで演歌は駆逐されていった。

・「歌謡曲」「昭和歌謡
「歌謡曲」「昭和歌謡」といった言葉も、かつての「演歌」と同じく、それまでの多様なレコード歌謡を現在の視点から再カテゴリー化したものといってよい。(レコード歌謡-演歌とJ-POP=歌謡曲、昭和歌謡)「昭和歌謡」はなんとなく昭和的なサウンドのオリジナル曲をだすJ-POPアーティストを呼ぶ言葉(初めは椎名林檎を指す言葉だった)である。他にエゴ・ラッピンやクレイジーケンバンドなど。「サブカル的」な卓越競争において普通のJ-POPや「洋楽」ロックを聴くものよりもセンスある選択として「歌謡曲」「昭和歌謡」が選ばれるという背景もある。

・「国民音楽」
「国民音楽」を創出しようとする歴史的・イデオロギー的動態としてはキューバのソン、ブラジルのサンバ、アルゼンチンのタンゴなどと「演歌」とは構造的に似通っている。
“なるほど、「演歌」は「日本独自」の「国民的」な音楽ジャンルかもしれませんが、「下層」の逸脱的な表現を素材に、西洋近代由来の高級文化志向との対抗において、民衆的・大衆的な独自の「国民文化」を立ち上げる、というプロジェクト自体は、他国・他地域とりわけ西洋中心の「世界システム」の「周縁」に位置づけられた場所)における「国民文化」の創出過程とかなりの程度共通点を見いだせるものであり、そのような観点での比較・検討が今後の課題となるでしょう”(:350)


[おまけ]“「農耕民族」は二拍子、「騎馬民族」は三拍子といういい方は、民俗音楽学者の小泉文夫や小島美子に由来すると思われますが、それ自体きわめて根拠はクジャクで、疑似科学的な「日本文化論」の一種というべきです”(:302)


創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)

創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)