Jablogy

Sound, Language, and Human

木本玲一 2009 『グローバリゼーションと音楽文化』 勁草書房

民族音楽学・音楽人類学的アプローチによって日本にヒップホップ・ラップが「根づいて」いったことを描いた本。すでに死に舞さん*1やinainabaさん*2も紹介を書かれています。内容のあらましをamazonから引用します。

内容紹介
日本におけるラップ・ミュージックの生産過程の分析を通じ、文化のグローバル化/ローカル化の過程と、定着した外来文化が独自の発展を遂げる、その動態を描写する。

アフリカ系アメリカ人というエスニック・マイノリティから誕生し、そのローカル性に強く規定された「ラップ」。この外来音楽文化は、どのようにして日本に流入・定着し、独自の市場と自律的価値をもつにいたったのか。「ラップ」の生産過程に着目し、グローバル化/ローカル化の過程で外来文化が独自文化に昇華されていく過程を克明に描く。

著者はラップの日本におけるローカル化を描くにあたり、議論の方向を「認識論的側面」「実体論的側面」の2つに分けています。方法論的にはおそらくアランメリアムの「概念」と「行動」の区分に従ったのではないかと推測されます。

「認識論的」というのは主にラップの実践者やリスナーがラップをどういうものと考えるか、死に舞さんの表現では「ラップを日本に根付かせるための表象空間におけるイデオロギー的闘争のようなもの」という側面であり、「実体論的側面」とは「物理空間上で営われる人とモノ、情報の交流におけるローカル化であり、具体的にはラップ・ミュージックを受容して日本に根付かせるためのアーティスト、レコード産業、クラブといった実際の働き」を指しています(前掲URL)。

「実体論的側面」の描写はレコード産業やクラブ文化の内情がいきいきと描かれ、そういったところに簡単にアクセスできない私のようなものにとっては面白く読めると思います。「認識論的側面」についても大まかな歴史の流れはよいのですが、どうにも「ラップの自明化」という結論がしっくりきません。

「古臭い問題だ、もうそんな時代ではない」と思う方も多いかもしれませんが、日本でポピュラー音楽をやるというのはどういうことかという問題系はナショナルな枠組みを離れられない20世紀を通して、そしていまでも躓きの石として私たちの前にあるように思います。

例えば日本のレコード歌謡が英米をはじめとする外国音楽の模倣→土着化のサイクルを繰り返していることは輪島祐介『創られた「日本の心」神話』*3でも指摘されているし、日本語ロック論争*4も有名です。烏賀陽弘道『Jポップの心象風景』*5では桑田佳祐がこの問題と苦闘していた姿が描かれています。

ラップについては、放言の多い匿名掲示板ですが次のような議論もあります。

日本のHIPHOPが「ヘイヨー!チェケラッチョ!セイホーオww」みたいなイメージになったのは誰のせい? 路地裏音楽戦争 http://music2chnews.blog123.fc2.com/blog-entry-548.html
ニコラップとかいうのが最高に気持ち悪い 路地裏音楽戦争 http://music2chnews.blog123.fc2.com/blog-entry-607.html

こうした議論があることを前提としてみると、木本のいう「自明化」というのはすこしナイーブに思えてしまいます。たしかに日本におけるラップミュージシャンはもう外国の模倣や参照はしていないとインタビューでは述べたのかもしれませんが、その発言の「発話行為」的な側面を考えず、リテラルに聞いてしまったのではないかという疑念が拭えないところです。

もし続きがあるなら、実践者たちの美学をもっと突っ込んで、かつ詳細に論じていただけたらなと期待します。

グローバリゼーションと音楽文化―日本のラップ・ミュージック (双書 音楽文化の現在)

グローバリゼーションと音楽文化―日本のラップ・ミュージック (双書 音楽文化の現在)

*1:http://d.hatena.ne.jp/shinimai/20100605

*2:http://d.hatena.ne.jp/inainaba/20090227/1235633825

*3:輪島裕介 2010 『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』 光文社新書

*4:かならずしも日本語をロックにのせるという技術的な問題ではなく、ロックの普遍性やローカル性をどう捉え実践していくかという美学的な問題であったことは増田聡『聴衆をつくる』(2006、青土社)で論じられています

*5:烏賀陽弘道 2005 『Jポップの心象風景』 文春新書