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Jablogy

Sound, Language, and Human

ワルター・ベンヤミン 1939 「技術的複製可能性の時代の芸術作品 」 (1)

■はじめに

テキストのベクトル ―― ファシズムに抗して

序言と後書きにおいて、ファシズムの芸術利用に対してオルタナティブとなる共産主義的な芸術のあり方についてベンヤミンは述べている。

ナチスやファシズムによる芸術を利用するポリティクス、すなわち政治や戦争の「美化」に対抗するものとして、ロマン主義的な価値を相対化・減少させる働きを複製技術による芸術に見出し、それが「芸術の政治化」につながるという。

訳者もいうように(p.405)こうした見解は現在から見ると少々オプティミスティックにみえるかもしれない。

×断絶・飛躍 ○段階的・併存的

よくいわれるように「複製技術によってアウラ*1の衰退が起こった」のは確かであるが、たとえば写真などの複製技術の登場によって、それ以前と以後にきっぱりとわかれてしまうというものではない。

本論の冒頭に「芸術作品は原理的にはつねに複製可能であった」とある。複製技術のない時代は写本や模造など、人の手で複製を行うことは可能であった。

それほど複雑で洗練されたものではないとはいえ、古代から複製技術も存在した。ギリシアにおいては鋳造と型押であり、ブロンズ像・テラコッタ・硬貨が大量複製可能であった。

中世には木版画、銅版画、19世紀にはエッチングなど段階的に複製技術は発展してきていたし、複製可能時代を迎えたからといってまったくアウラのないものばかりになったのでもない。

アウラと芸術作品の宗教的性質

アウラを持ったもののイメージ

ベンヤミンは「一回性」のある作品が物質的に存続し続け、歴史において所有者を変えながら伝えられることによって事物に真正性や権威やアウラが生じるとしている。

オリジナルの「真正性」が芸術作品にアウラを宿らせてきたのであるが、そうした伝統的で替えのきかない古くから残されている「本物らしさ」を宿した事物は、現代では「文化財」とよばれているものがそのイメージに近いのではないだろうか。

なおベンヤミンが複製の「オリジナル」というときには、どちらかといえば造形芸術や舞台芸術のことを強くイメージしているようであり、音楽についてはある程度別個に検討しなくてはいけないのかも知れない。

遠さ=近づきがたさ

ベンヤミンアウラをたとえば自然の対象物がもつ「ある遠さ――たとえそれがどれほど近くにあるとしても――が一回限り現れる現象」と定義付けている(p.305)。

比喩的ないいまわしゆえに確たる意味を決めがたいが、原注の7をみると「本質的な遠さとは近寄りがたいもののことである」とあり、憧れ・畏れがいりまじった感覚に近いものであると想像される。

手が届かぬゆえにあこがれてしまう感情といえば、アイドルやキャラクターにいだく渇望と似ているようにも思うがどうであろうか。

儀式・魔術と芸術

もともとは儀式でつかわれた呪物や聖なる像から芸術作品は出発している。アウラを持つ芸術作品はその儀式的機能から切り離されることはない。真正な芸術の価値は儀式の上に基礎づけられていて、その基礎づけは「いまでもなお、もっとも世俗的な美の礼拝の形式をとって世俗化された儀式という形で認められる」(p.307)。

「世俗的な美の礼拝はルネサンスと共に形成され、三百年のあいだ力を持ち続けてきた」が、写真の登場により芸術が危機を迎えると、「芸術のための芸術〔ラール・プール・ラール〕」という理念が唱えられる。すなわち、

いかなる社会的機能をも否定するだけでなく、対象に関わる素材によるどのような規定も拒絶する「純粋な」芸術の理念というかたちをとって、まさに反転〔ネガティブ〕された神学が生まれた(p.307)

のである。こうしたあり方は「芸術は『神なき時代の宗教』となった」という岡田暁生の表現と一致するといえよう*2

展示価値と礼拝価値

ベンヤミンは芸術作品の価値のかたちとして、アウラや一回性が重要である儀式的な美の礼拝における「礼拝価値」と、どれだけの人の目に触れさせるかにおいて上下する「展示価値」があるという。

呪術的な目的で書かれた壁画は精霊が見られればよく、覆いがかけられたままの聖母像などもある。日本でもご神体や儀礼の現場が隠されていて、一般の目に触れられなくなっていることは多い。

このように芸術が儀式と結びついているころは礼拝価値がずっと大きかったが、芸術が世俗化するにつれ展示価値が増大した。

アウラの残存と代替になった価値

「礼拝価値と展示価値の両極」のあいだにはいろいろな段階がありうるし、アウラが生き残った領域もある。

たとえば肖像写真。「遠く離れていたり、すでになくなってしまった愛する人たちの思い出を礼拝することのうちに、像〔イメージ〕の礼拝価値は最後の避難所を見出すのだ」(p.310)

アウラに代わる価値が創出されることもある。原注8には次のように述べられている。

芸術鑑賞の際に、ある芸術家の本物〔オーセンティック〕の作品という概念の機能はつねに明らかな意味をもちつづけている。すなわち、芸術の世俗化にともなって、ある芸術家の本物〔オーセンティック〕の作品だということが礼拝価値にとってかわることになるのだ

これはアウラではないのかもしれないが、ある種のありがたみや権威がそこにあるのはかわらないだろう。ウェブとPCの普及によって複製技術と流通経路が一般の人の手にわたり、複製可能性が極大化した現代においても作者性が作品の価値の一部であることは変わらないのは、礼拝価値の代替という機能がまだ必要とされているためであろうか。

また

映画は、オーラの縮小に対して、スタジオの外での「パーソナリティ」の人工的な創出を持って応える。映画資本によって促進されるスター崇拝は、パーソナリティという魔法を保存しているが、それははるか昔に商品的性格という腐敗した魔法でしかなくなっているものである

とも述べられている。根拠の薄い連想だが、人物に備わるアウラ的なものといえばむしろマックス・ウェーバーなどのいう「カリスマ」に近いかも知れない。

いずれにせよ人格的な領域にアウラやそれに代わる価値が見出されるというのは、キャラクターが表現の中心にあるオタク系カルチャーを考える上でもなかなか興味深いことではないだろうか。

<書誌情報>
ワルターベンヤミン 1939 「技術的複製可能の時代の芸術作品 〔第三稿〕」 山口裕之編訳 2011 『ベンヤミン・アンソロジー』 河出文庫 ヘ8-1 (Benjamin, Walter. 1939 “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit.”)

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*1:原語が日常語としてつかわれることを鑑みて、訳者はあえて「オーラ」と訳しているが、一般的な用語法をここでは優先する

*2:岡田暁生 2005 『西洋音楽史中公新書