読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Jablogy

Sound, Language, and Human

ワルター・ベンヤミン 1939 「技術的複製可能性の時代の芸術作品 」 (2)

music study Book

(1)へ

■写真と映画

編集(モンタージュ)

技術的複製可能性の時代における芸術の問題としてベンヤミンが意識しているのは、印刷やレコードのプレスによる大量生産によるアウラの減退ということだけではない。

むしろ写真や映画のカメラが作品を撮影する事によって生じる、作品受容の文脈や視覚的認識の変化を重視しているといってよいだろう。

役者の演技は映画における「編集(モンタージュ)」によって変質した。

舞台において観客とインタープレイすることができた演技は、シーンごとに寸断され、動画編集の素材をカメラに提供するものとなった。

カメラと映画によって

人間ははじめて――これこそ映画の働きによるものだが――生きたその人全体によってではあるとはいえ、その人の持つアウラを断念して仕事をしなければならない状況に置かれることになったのである。というのも、アウラはその人の「いま、ここ」というものと結びついているからだ。アウラの模像というものは存在しない。舞台の上でマクベスをとりまくアウラは、生身の公衆にとってマクベスを演じている俳優をとりまくアウラと切り離すことができない。映画スタジオにおける撮影に特有なところは、観客の代わりに機械装置が据えられるということにある。それによって、俳優をとりまくアウラはなくなってしまう。そして、それとともに、演じられる役柄のアウラも消え去る。(p.317)

ベンヤミンはいう。

そしてカメラの向こうの視聴者は、クローズアップ・スローモーション・ティルトアップなどといった、目で捉える現実よりも対象を細密に記録するカメラの視線とともに、スクリーンに映るシーンを客観的に審判する立場を取るようになった。

「観客はつまり、テストするという態度をとるのだ。こういった態度に礼拝価値がさらされることはない。」(p.315)

俳優にとっては演技から人格が疎外されてしまったという悲劇であるかも知れないが、作者にコントロールされた全体としての作品というような、近代・ロマン主義的な芸術から脱却しているという点では評価されるべきものとベンヤミンは捉えているようだ(p.318)。ダダイスムと映画を同様の効果をもたらしていると評価しているのもそういう文脈で理解できる(pp.330−2)。

カメラによる社会状況の再帰的客観視

前述のとおり、カメラが捉える映像はディーテイル的な面では視覚よりも細部までとらえ、時間的にも一瞬のできごとを捉えることができる。カメラで対象を捉えることは「物質のまったく新しい構造を明らかにすること」であるといえる(p.329)。

その視線によりカメラは「絶望的なまでに我々を取り囲んでいるように見え」た「酒場〔クナイベ〕や大都市の街路、オフィスや家具付きの部屋、駅や工場」といった「我々の生活を支配するさまざまな不可避の事象をさらに良く見えるようにしてくれる」のである。(p.328)

クローズアップは空間を、スローモーションは運動を引き伸ばし、それらにより自然物は眼に見えるのとは全く違った姿をあらわす。

カメラは「足を運ぶ時の何分の一秒かの姿勢」、スプーンを持った時の「手と金属の間でどのようなことが起こっているか」といった通常は意識されない刹那の状態さえ見えるようにするのである。

いわば「精神分析*1によって衝動における無意識を知るように、われわれはカメラによって視覚における無意識を知るのだ」(pp.329-330)。

沈潜と気晴らし

絵画のキャンバスを見るとき、人は「瞑想」に入る。「見るものは連想が流れてゆくままに身をまかせることができる」のである(p.332)。

一方、「映画の映像を前にするときはそうはいかない。映像を目にしたかと思えば、次の瞬間にはもう別の映像へと変わっているのだ」(p.332)。

「実際、これらの画像を見るものの連想の流れは、画像が次々に変わることによってすぐさま中断されてしまう。映画のショック作用はこのことに依拠している」(p.332)。

このように対象に集中・沈潜するのではなく、すなわち注意の散漫になった=「気晴らし」の状態で映画は受容される。次々に画像が立ち現れ気晴らしの状態で受容される映画はいわば触覚的なものであり、従来的なものでは建築の受容と比較できる。

「触覚的受容は、注意深さによってではなく、習慣によっておこなわれる」(p.335)。

建築において形成されるこういった受容のあり方は、ある特定の状況のもとでは規範的な価値を持つものとなる。なぜなら、歴史の転換期において人間の知覚器官につきつけられる課題は、単なる視覚そのもの、つまり瞑想によって解決することは決してできないからだ。そういった課題は、触覚的内容、つまり慣れる*2ことによって次第に克服されるのである。(p.335)

西欧思想史において、視覚は理性的認識を司り、触覚は感性的把握をおこなうものであるという捉え方がされてきた。カントが聴覚・触覚の感性的把握に高い評価を与えなかったように、視覚と理性が重視されてきたのに対して、ベンヤミンはここで逆転した評価を与えようとしているのである。

(3)へ

*1:訳者は心理分析と訳しているがこれも一般的な用語法に従っておく

*2:ベンヤミンがここで「慣れ」や「習慣」といって意味していることは私には掴みかねる。もしかすると理論や理性 (theory, ratio) に対して慣習的な実践 (practice) を重視するという、後にモースやブルデューが論じた領域につながっているのかもしれない