Jablogy

Sound, Language, and Human

川田順造 1988 『聲』 筑摩書房 (3)

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Ⅲ 声と人称

第Ⅲ部では語ることと、そのかたりが帰属する人称・人格の問題が論じられる。前述したとおり私の多重化や非人称化される歌、非・近代社会における個性といったことが取り上げられ、西洋近代的な「我」や「ペルソナ」の概念をアフリカの文化が相対化していくのが興味深い。

14 語りの人称

ここでは私的な声が公共性や他者に対して強制力を持つことと人称の変化との関係が論じられている。

埒外者であるグリオたちは、精霊とかかわる力を持ち、憑霊儀礼を行うこともある。その時の語りは言葉の上では「わたしは〜」というが、それは精霊自身が語っていると捉えられる。いわば人称が変化しているというわけである*1

王の系譜語りをするモシ族の楽師は、太鼓を荘重に打つことで日常の自分とは違った人称で儀礼に望む。こうした人称の変化を川田は次のように捉える(p.176)。

語りの人称を変える、または「私」の声を共同のものにするとき、音具が使われ。あるいは非日常的な高さや抑揚によって声が「よそおわれる」。それは憑依という行為と連続する、だが弱められた「私の他者化」の行為なのであろう。日常の「私」や社会の常軌からは逸脱した振る舞いや声によって、「私」を社会の埒外に置き、「私」の人称を変えることは、声で名づけなおす行為の前提として、黒人アフリカの多くの社会に共通して見られる。

9章で論じた「あてこすり歌」(私的に歌っているが対象に聞こえることが期待されてもいる)の例で、聞こえたものに仕返しをするのが禁じられているのも「うたう人称の異化、『私』の他者化」が起こっているからである(p.178)。

モシ族において「耕作名」をよび賞賛するのも楽師などによって「よそおわれた」声であり、「それらの音・声は、歌い手や楽師自身の人称において発せられたのではない、村人にとって公共性を帯びた、いわば非人称の音であり声であるのだ」。ゆえに村の中の個人に攻撃性を向けた「争い名」であっても、呼ぶものがなじられたりすることはない。

15 ことばの職人、ものの職人

本章ではグリオなどの埒外集団とその(歌以外の)生業との関係が論じられている。

社会によって形態は様々だが、グリオは鍛冶師、皮革業、木工などを行う場合もある。それらの業を行うものは「ニャマ(生気)」、すなわちある種の呪力を持っているとされる。

彼らは自然と社会を物質の加工によって媒介する存在であるといえる。メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』*2、「リミナリティ」*3「トリックスター」*4などの文化人類学における「境界理論」を考慮に入れると、彼らがある種の力を持った存在とされるのもうなずける。

16 人称の多重性

本章では多重化される「私」の人称の問題が検討される。

例えば、沖縄のユタが神がかる際、神自身が一人称で語ることばと、それに対して受け答えすることばとが、同じユタの口から発せられる。

これを受けて川田はデカルト的なコギトによる単一の「私」こそが近代合理主義の発想であり、「むしろ非単一的であるのが、少なくとも発話行為を通して私以外のものとかかわる「私」の人称の常態であり、それを単一として自覚する方が、人為的な努力によって明らかになる限定された様態ではなかろうか」と述懐する(p.199)。

また「語る」は「かたどる」に由来し、他者によって経験されたり様式化されたたものを再述するという行為であると川田はいう。モシ語にも「トグセ」という言葉があり、昔話・歴史伝承、あるいは体験などを言葉で再現するときに用いられる。しかも、ことばで語る以外に身振りで「まねる」、こどもが親に「似る」ことも指す。この意味で「トグセ」はまさしく「かたどる」ことである(p.200)。

ほかに、「一般にうたう行為には対自性・メッセージの自己回帰性をともなって「私」の二重星が含まれている」と川田はいう(p.201)。

人形浄瑠璃においては人称の多重化が顕著に見られる。登場人物のセリフも、地の進行も一人の太夫によって語り分けられる。そしてオーディエンスは登場人物がそれぞれの「人格」にわかれていることを見て取るのである。脚本の合作が常態となった近松半二以降の作品には人称の多重性が極端に示されている、と川田は解釈している。

サイレント映画の「活弁」にも浄瑠璃と似た人格の多重性があり、ストーリーやセリフ自体としては退屈なものであっても弁士の「語り」によって面白くなることがあるという。

浄瑠璃活弁・紙芝居などはライブであることによって、パフォーマンスの一回性とともに、語り手の人称を基本的には保ちながら多重性を帯びて発話することに魅力があるという。

最後に、私達が何気なく使っている一人称、二人称、三人称といった文法カテゴリーも、実際には文化的な差があり、自明なものではないことが示唆されている*5

17 声とペルソナ

この章では、非西欧社会における多重的・非単子的な人格・人称のあり方、それらにおける個性のあり方、そうした人称と声の関係、時制という語り方のモードと人称の関係、といったトピックが検討されている。


†非西欧社会の人格・人称

人格やペルソナの概念が文化によって異なることは、早くはマルセル・モースによって指摘されていた。西アフリカでは人格と関係深い「魂」が、「活力素」と「生命素」(アラディアン・エブリエ社会)「アブスア」「ントロ」「クラ」(アシャンティ)など、複合的な要素から出来ているとされている。モシ族やガーナのルオ社会の類例も示されている。ケニアのカンバ族では「ある男性は彼の息子の長男および娘の二男と、ある女性は彼女の息子の長女および娘の二女と、それぞれ同一人物であると考えられている」(p.208)。このように人間が分割不能(individual)な存在ではかならずしもないことが理解できる。

中世のヨーロッパにおいても個人は社会=神の「召命」に参与するものであり独自性は消去されていた。そこでの自叙伝は定型化されていて、世界を自我に引きつける近代的なものとは逆に、「『私』を周囲の世界に投影し、そこに人格を吸収させようとする『遠心的』傾向を持っていた」のである(p.211)。

†非西欧社会の個性

このように近代的な自我とは違っているのだが、黒人アフリカ社会では「人口」のような集合的な人間の捉え方はしないし*6、「『未開』社会では個性の探求や洗煉がないというのも事実に反する」(p.212)。

例えばザイールの旧クバ王国では、儀礼衣装の製作において個人の技量は大きな役割を果たし、個人の成就も追求される。象牙海岸のバウレ族の儀礼用仮面では技量によって力のある仮面とそうでないものができる。

力のある仮面であるためには「社会的に合意された様式上の特徴をそなえていることがもとめられる」(p.214)。こうしたあり方をまとめると次の引用のようになる(p.214)。

様式としての伝統に適合することによって生まれる力と、その様式から逸脱しない範囲内で、個人の創意や力量によって作り出される力の、相反する方向に働く力が拮抗して、一つの仮面を成り立たせているのだといえる。

この例は創作というものの本来のあり方を考える上で示唆に富んでいると筆者は考える。私達が社会システムに個性やクリエイティビティが根ざしていることを肯定的に自覚しつつ、「システムを組み替える意欲」を持つことが重要となろう。というのも「システムと個人の創造性の拮抗関係」は近代社会と伝統社会で断絶的ではないのだから(pp.215-6)。

†語りと文法的な人称

こうした人格や個性の検討を経て、声とペルソナ(文法的な人称)の関係についての議論へと移る。

12章の終わりでも人称の概念には文化的な差があり、自明なものではないと述べられたように、一人称、二人称、三人称のペルソナを単子とみるのは近代的なバイアスであるかもしれない。

ユタなどの例で見たように声を発する側の主体は多重化することがあるが、声を受け取る側の人称も変化する。以下はその例である。

  • いままで見てきた西アフリカの名をたたえる芸では相手への呼びかけが二人称と三人称がないまぜになる(叙事詩へとつながる)。
  • ペルーのケチュア族が歌うリャマ・アルパカの繁殖儀礼の歌では、三人称が消え、人間・神々・動物の三者の関係が全て「わたし」と「おまえ」で表現される。
  • アフリカの歌によくみられる「コール・アンド・レスポンス」でも人称の融合やクロスオーバーが起こる。

他者のことばも一人称で語ることで様々の効果(現前的な迫力など)を出す事例もある。

  • 憑依霊が霊媒の口を借りて語るとされる託宣の場合、霊が一人称で語るモードでないと(霊が「〜のように語った」などの伝聞形式で言ってしまうと)反発が起こることすらあるという。
  • アイヌユーカラは神々の物語も人間の物語もすべて語り手の口を借りた一人称で語られる。
  • 能においては、地がシテの人称で歌ったり、ワキとシテが融合したり、死者や動植物・自然霊と人間の主体が変換したりする*7



†語りと時制

ここでは過去の出来事を語る際、即時的現在として・一人称で語ることが検討される。

説明のために川田は福田晃の論考を引いている。「ムカシ」ということばで始められるカタリゴトは「現実からの断絶性・虚構性」がある。対照的に神語は「語り手から見た三人称も混融させながら、神みずから一人称で」語る。「それは祭祀の場において語られるとき、時間的空間的隔たりを超えて、神々を現在の共同体に再生せしめるのである」(p.224)。

モシ王国の「王の系譜語り」でも同様のことが見られる。モシ語には時制はないものの、王の祖先の名を呼び賞賛するにあたっては、「未完了相」や「点括相」といったあえて欧語でいえば現在時制にあたる相が用いられる(人称は二人称か三人称)。

王の「戦さ名」が政敵への・ないし即位を祝う臣下からのメッセージであることを考えると、「楽師は『現在』に身をおいたまま、時間的には遠い過去のそれらメッセージの発信者になり、同時に、それらのメッセージを声にして発することによって、元来の発信者である先祖王に呼びかける」のである(p.227)。

こうした歴史の語り方のモードは、レヴィ=ストロースが「純粋歴史」と、そしてベンヤミンが「Jetztzeit」と呼んだありかたと同じものではないだろうか、という印象を筆者は受ける*8

18 記号をこえて

本章では音調のイコン性、記号性*9とそれを超える言語の超分節的(韻律的)側面が検討されている。

音調のイコン性として例に挙げられているのは、ナイジェリアのビニ語である。ビニ語では、「高・長/低、短、薄/厚、明/暗」などの感覚にピッチの高低が対応するという。つまり音調が模倣的=イコン性がある、というわけである。色彩を表す語も、自然物の色とその空間的な位置が音調の高低と対応しているらしい。

ただ、模倣・似ているといった「感じ」も4章で検討されたように文化によってことなりうるため、パースの用語でいえば、イコンではなく無契的な繋がりによるシンボルである可能性も大きい。

記号、また音素の象徴的な意味をこえた韻律的な表現として、シェーンベルクのメロドラマ「月に憑かれたピエロ」があげられている。この劇ではシーンによってある子音が集中的に用いられ、その音象徴的な意味の感じに加えて、詩の読み方のニュアンスと音楽の効果によって、シーンの情緒を深めている*10

こうした「微妙な声の抑揚、メリハリによる心情表現、個人の声の音質」といった要素はなかなか客観的に分析しづらいが声のコミュニケーションにおいては重要な領域を担っている。

またそれらの要素――例えば歌舞伎や落語の声のパフォーマンスの「さわり」が私たちをゾクゾクさせる感じ――はなにかを表象するものではないので、記号を超えているともいえる。

こうした記号を離れ、記号的な表象性を超えた領域にある声の要素を川田は「声のイドラ」と名付けている(p.249)。よく知られるフランシス・ベーコンの用法でいうイドラ(idola) はラテン語の「偶像」に由来し、「先入的謬見」といった意味をもつが、川田の用法では「熱愛の対象」という意味で用いられる。実在しないアイドルを愛好する私達にとってラテン語で「幽霊」の意味もあるイドラ (idola) を「熱愛の対象」として用いるのは多重に的を射ているといえそうだ。

考察

長くなったが以上が内容のあらましである。大きく見て、ⅠとⅢは歌詞の問題に、Ⅱはキャラクターと固有名の問題に、関わってきそうである。

id:yaoki_dokidoki氏の歌詞分析の方法では日本語ポップスの作詞にライミング的なものを見出し、音素と意味の関係を探っているが、2〜4章で扱われた音象徴の問題や18章での音象徴と発音の関係などはほとんど直接に関係するだろう。

また人称の多重化は、増田聡が「誰が誰に語るのか――Jポップの言語行為論・試論」(『聴衆をつくる ―― 音楽批評の解体文法』 青土社、2006年)でも検討している。そのポイントを要約すると、Jポップの歌詞においては、発話・メッセージが、歌手本人・演者としての歌手・物語としての詩の登場人物・物語のナレーター・作詞家・作曲家・プロデューサーなどの主体に帰属されうる、いわば主体のn重化が起こっているという議論である。このことと本書で検討されている様々な言語行為における主体の多重化とはどう関係するだろうか。

一つの身体の上に複数の人格が想定されるも、その人格はそれぞれ一つの身体をもつとされる多重人格のように、主体は多重化されるがその要素は単子的であるのかもしれない。そうだとすると、その発話も辿っていけばひとつの主体のものと特定できるかもしれないが、実際には複合的に受け止められる……。とりとめなく考えるとそんなふうにも思えてくる。

キャラクターとの関係では、名というのがとにかくも呼びかけることによって対象を社会関係に位置づける機能をもつものである、というのが興味深い。キャラクターはよびかけても返事をしない(ラブプラスなどの例外もあるがw)けれど、それを名指すことで社会関係を引き起こしているのは『ゴーストの条件』でも論じられているとおりである。また呼ぶことによってしかこの我々と関係を作れないという点で、キャラクターは死者とどうれつであり、これもまた「ゴースト」という用語法のニュアンスと重なるところかもしれない*11

6章14章で論じられた、「言語を楽器に移し替えることによって特別な場・時間であるという『よそおい』を与える効果」とか、『私』の声を共同のものにするとき、音具が使われ。あるいは非日常的な高さや抑揚によって声が『よそおわれる』」といった声を歌や音楽で「よそおうこと」の問題は儀礼と音楽の関係の議論に繋がりそうである。

ロドニー・ニーダムが論文“Percussion and Transition”*12で儀礼、特に移行の段階と打楽器との関係があるのではないかと問題を提起して以来、しばしば儀礼(あるいは宗教性)と音楽との関係が取り沙汰されている。

これに対して声を「よそおう」という行為は構造主義的な理解の契機を与えてくれるように思う。構造主義的に、そのものごと自体の性質に注目するのでなく、ものごと同士が創る差異の体系が意味を創ると考えると、日常/非日常=聖/俗=ことば/歌や楽器、といった二項対立の組みが思い浮かぶ*13。こうした差異を創りだすのが「よそおう」という行為であるということはできないだろうか。

非近代社会における個性の問題は、ポピュラー音楽(に限らず様々な創作行為)における美学とも関わる。主体的な人格が個性的な(時に天才的な)創造性を発揮して「作品」を創るのだとするロマン主義的な芸術観は日に影にまだまだ私たちを縛っているし、ゆえにしばしば「パクリ」糾弾が起こったりもする。

一方で創作というのは常に模倣や先行作品の利用によって行なわれるものであり、そのようなロマン主義的芸術観における「個性」や「主体の表現」は幻想であるとする言説もよく見られる。それらは確かに一理はある(というかロマン主義的なものよりははるかに事実に即しているだろう)のだが、その場合、個人の創意工夫や技術といったものをどう考えるべきかというのはあまり考慮されていないように見受けられる。

その点について17章で考察された個性とシステムの関係が示唆に富む。アフリカの仮面づくりでは「様式としての伝統に適合することによって生まれる力と、その様式から逸脱しない範囲内で、個人の創意や力量によって作り出される力」の二つが「創造性の拮抗関係」にあるのだった。

それと同様のことが現代の音楽や物語の創作でも起こっているのではないか。たとえばジャズのイディオムを習得しつつ新たな作曲法やフレージングを考えてみる、などどいうのは伝統に適応しつつシステムを変える試みの一つだろう。その極端なものがマイルス・デイビスによるモード技法の採用だったといえるかもしれない。

他にも音楽家の地位の問題や歴史観と時制の問題など、示唆するところの多い本であったが、あまり長くなっても仕方ないのでこのあたりでエディタを閉じよう*14。読者諸賢にすこしでも参考になれば幸いである。

声 (ちくま学芸文庫)

声 (ちくま学芸文庫)

*1:川田はあえて文法的な意味での「人称」と責任主体としての「人格」をわけずに使っている。どちらもヨーロッパ語「ペルソナ」であるのがその理由である(pp.204-5)。 

*2:メアリ・ダグラス 1985 『汚穢と禁忌』 塚本利明訳、思潮社

*3:ヴィクター・W・ターナー 1996 『儀礼の過程』 冨倉光雄訳、思索社

*4:山口昌男 1975 [2000] 『文化と両義性』 岩波現代文庫

*5:例えば、日本語では話し手の立場で私/あなた/第三者がわかれるのではなく、心理的な距離によって「こ、そ、あ、ど」が使い分けられる、など。

*6:[http://d.hatena.ne.jp/ja_bra_af_cu/20110913/1315914397:title=小田亮レヴィ=ストロース入門』]でキーワードとなっている「真正な社会」といっていいだろう

*7:川田はこれを「自然界に包み込まれた未文化の人称的世界」に「名」によるアイデンティファイやペルソナである「面」によって「かりそめの切れ目が入れられて」物語が進行しているのではないかと解釈している(p.220) 

*8:当ブログのエントリ、[http://d.hatena.ne.jp/ja_bra_af_cu/20110913/1315914397:title=小田亮 2000 『レヴィ=ストロース入門』 ちくま新書]を参照

*9:パースの記号学による用語法

*10:例えば、緊張性の[t]が集中し「悪魔が細い足で跳梁するような」感じを出しているところでは、異様に引き伸ばしたり声を潜めたりして発音し、楽器も怪しい感じの無調で演奏される(p.239) 

*11:キャラクターとはすなわち死者であるとはつまる勝子([twitter:@Kakko_t])氏がかねてより指摘しているポイントである

*12:Needham, Rodney. 1967 “Percussion and Transition.” Man. newseries vol.2 Royal Anthropologycal Institute of Great Britain and Ireland, pp. 606-614

*13:この対立についてはエドマンド・リーチが『文化とコミュニケーション』 (青木保・宮坂敬三訳、紀伊國屋書店、1981 [2001] 年)で論じている。 

*14:キーボードを叩いているのに「筆を置く」とは言いがたいw