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佐々木敦 2008 『「批評」とは何か? ―― 批評家養成ギブス』 メディア総合研究所

はじめに

音楽を中心に多ジャンルで活躍する批評家、佐々木敦が自身で主催するカルチャースクール〈BRAINZ〉において開講した「批評家養成ギブス」という連続講座をまとめたもの。

(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

(ブレインズ叢書1) 「批評」とは何か? 批評家養成ギブス

佐々木によるレクチャーと、それを受けた受講者による批評の作成、そしてそれを佐々木が読んでのワークショップ、といったセットを繰り返す構成になっています。

講義録らしくわかりやすい口語で批評に関する様々なことがらが語られていて、日本における「批評」というジャンルに関する恰好の入門書といえると思います。

何度も行きつ戻りつしながら思考の軌跡をたどるかのように語る、という方法を佐々木は本書においてとっていて、実に多様なトピックやテーマについて語られていますが、ここでは表題にある通り「批評とは何か?」「批評とはどういう行いか」ということに関わる論点について、トピックごとにまとめてみたいと思います。

批評の種類

「紹介」「感想」「分析」「敷衍」

まず、基本的に作品について語る文章にはどんな種類・語り口があるか、というものの整理です。

佐々木によるとそれは大きく「紹介」「感想」「分析」「敷衍」(p. 16) に分けられるといいます。

「紹介」はまだ作品に触れていない人にどんな作品であるか伝えるもの、「感想」は作品についてどう感じたかを記すもの。「分析」は感想からさらに進んでより客観的な描写をするものです。「敷衍」はパラフレーズや展開ともいえるようなもので、その作品の分析を超えてより一般的な事象・理論へつなげていくような文章、ということです。

これらの種類のうちどこからが批評であるというような立場は取らないと佐々木はいっており、私も基本的に賛成です。語り手と聞き手の文脈によってそれが客観性・一般性を持つ批評足りえるか主観的な印象論にとどまるかが決まってくるのではないかと。批評の醍醐味は「敷衍」パラフレーズまで行ってからだともいわれていますが(p. 32)

実践的な形態の区分として、「レヴュー」(p. 18) や「ライナーノート」(p. 55) についても触れられています。

レヴュー

「レヴュー」は作品を聞く前に読むか後に読むか、どちらを想定するかによって「紹介」と「感想」の割合が変わってくるといいます。が、理想的には前に読んでも後に読んでも作品の受容が豊かになるようなものが良いということです。

またレヴューの批評的な効果はバカにできないし、批評をやろうという人はどんどんレヴューを行なっていくべきだ、とも。がんばろう、Vocaloidクラスタ!w

ライナーノート

「ライナーノート」については、必然的にすでに作品を購入した人が読むことになるため、唯一「販促」のための「紹介」という役割から解放されているジャンルであることが指摘されています。

また販促しなくていいということは、その作品の良いところ悪いところをあますところなく論じることができるという、批評本来の機能を果たすことができるはずなのに、販促的な発想を脱却できていない文章が多いのは残念だとも。

音楽批評の文章の形

特に音楽批評における文章の形態には ①「音の形容・修飾」 ②「感動の表現」 ③「資料的なバックアップ」(p. 56-60)、の三種類があるといいます。

「音の形容・修飾」はメロディーがどうであるとか、ギターの音色がどうであるといった、具体的にどんな音楽表現が行なわれているかを描写するもの。音楽学や楽典の用語を使わないとかなりレトリカルな感じになりますよね。

「感動の表現」は「感想」に近いもので、どのような印象や情動が生じたかをしるすもの。

「資料的なバックアップ」はどのような事情でレコーディングがおこなわれたか、などの情報を提供するものです*1

以上のような性質を意識しつつ、TPOや読者の設定によって記述や内容を使い分けていくのが大事かな、と考えました。

批評の自律性

批評がただ対象について述べただけの文章ではなく、それ自体「作品」として自律的なものである、とよく言われていますが、このことについて佐々木は次のようにいっています。

批評っていうのも文章である以上は、僕は基本的には「作品」的な機能を持っているべきだとは思う。つまりそれが批評の自律っていうことです。自律であり自立であるという両方だっていうことで。たとえレビューであったとしても対象との距離というものがある以上は対象そのものじゃないわけだから個別に一つの文章として完結性があり独立性があるべきでもあると思うんです。(p. 21)

よくある「あれこれいうなら自分で作品作ってみろ」という非難に対しては、この前提を理解すべきであるといえるでしょう。しかし、「自律性」が行き過ぎて対象が置き去りになることにも問題はあります。

だけれども、かといって対象のことはどうでもいい、それがなくてもいいとまでは僕は思わないので、「対象―受け手」がつながってくれないと本当は困るんですけど、往々にしてそういう事って起きていっちゃう可能性がある。(p. 21)

私も批評は「何かの対象をよりよく理解できるようになるための文章」であるものだと考えますので、対象がなくてもいい、あるいは対象がなにであってもいいような文章が批評として望ましいとは思えません。

この対象が置き去りになるという問題は次の「私批評」的な問題の議論へつながります。

私批評

「私批評」とはもちろん「私小説」に由来する用語法です。

ロッキング・オン

たとえば、タナソー (田中宗一郎)などの「『ロッキン・オン』系の音楽批評」は「これに感動している俺を見ろ」というタイプの批評であり、書き手のキャラ立ちや存在感によって読者をひきつける一種の「私小説」であるといいます (p. 23)。

それはそれとして文芸としてはありなのでしょうし、ロック文化の言説のあり方として重要なものが潜在しているかもしれません。が、対象の理解はそれだけではあまり進まないのも事実ですよね。

小林秀雄

これと似た問題が小林秀雄の「モオツァルト」論にもあるといいます (p. 71-76)。小林はモーツァルトを聴いて自分がどう変わったかという「遭遇体験」を絶対的で不可逆なものとして描くことで、読者もそのような体験をしたかのように感じさせるという手法を用いました。

これに対して批評も得意とするピアニストの高橋悠治が批判しています。佐々木が要約するところによると、遭遇体験を特権化して描くことは結局「モーツァルトの音楽を書いているのとはやはり違うのではないか」、また読者は「モーツァルトと出会った小林秀雄と出会っているのか、モーツァルトと出会っているのか、判然としなくなる」と言った問題があるといいます (p. 73)。

間章

フリージャズや前衛音楽の批評を行い70年代に夭逝した間章も、「私」に関する極度に文学的・思弁的な文章を批評として書いたそうです (p. 76-81)。それを評して佐々木は次のようにいっています。

間の文章を読んでいると、小林秀雄のような遭遇体験の特権化ということでさえない、徹頭徹尾、彼の内部で完結した独我的な思考でしかない、と思えてしまう。つまり彼にとっては対象が何であるのかはほとんど問題ではなかったのではないか。(p. 79)

繰り返しになりますが、これでは対象のよりよい理解に資するところはないですよね。「この音楽(や表現)がすばらしい!なんとか言葉にしたい!」という普通の動機においては撮るべき手法ではないといえるでしょう。むしろなにか哲学や思想の雑誌に載せる文章で、音楽を引きあいに語るなどの場合には有効かもしれません。

ジャンル専門性

佐々木は自身の映画評論における経験から、あるジャンルに特化して行う批評に関する問題について論じています。

ジャンル内の相対評価

ひとつは相対評価の問題です (p. 26) 。あるジャンルに特化して評論を行う場合、そのジャンルの作品は網羅的に見聞きしていて、そのジャンル全体のなかでの順位を位置付けられることが前提になる場合があるといいます。佐々木の体験では映画がその典型であり、一年に600本見るのが普通になっていた (p. 140) といいます。

このような物量に訴える目利きの品評的なことばというのもよくあるものですが*2、(1) これだけ発表量が膨大なものになっている現状では全てを押さえるのは不可能である、(2) 結局量をこなしたものが経験の少ない読者に教え諭す形になり、権威主義的になる可能性がある、(3) 作品を客観的・一般的に論じることとはやはりあまり関係がない、などの問題があるのではないかと私は思います。佐々木自身は相対評価による順位付けがポリティカルなゲームの様相を帯びることなどを指摘しています(p. 28、p. 234など)

ジャンルの衰退と批評家のポジション

また特定のジャンルにこだわっているとそのジャンルが衰退してしまうとそれについて書きたいものが困るということがおこります (p. 234-5)。その場合、なんとかジャンルを盛り立てようとして、ひとつも良作と思えるものがなくても「あえて選ぶとすればこれ」といった、アーティスト側とのある種の共犯関係が生じることがあるといいます (p. 235)。

これもまた作品の理解をゆがめることであるといえるかもしれません。実際には表現の手段によって対象の特性があり、受け手の嗜好なども変わりうるわけなので、ある程度ジャンルがかたよるのは避けがたいことだとは思いますが。

佐々木のスタンスとしては諸ジャンルを「貫通する」*3ようなスタイルをとっているため特定ジャンルの存亡に責任を取る必要に迫られることはないとのこと。 (p. 236-)

オーディエンスの設定

「対象」「批評」「受け手」のトライアングル

批評の性質を規定するものとして「対象」「批評」「受け手」のトライアングルというものが提示されています (p. 16)。

批評とはまず「何かについて書かれたり語られたりしているもの」であり、そのことによって対象と受け手との間にある種の「距離」が生じると佐々木はしています。ここで言っていることは、とにかく好きだという「愛着のディスクール」からある距離をおいて対象をより知ろうとする「愛のディスクール」をとるべきとする増田聡の言*4に近いといえるかもしれません。

そして批評には絶対に「受け手」が存在するといい、受け手が作品をすでに受容しているかどうかを原理的に選べないことなどが指摘されています。

実践的なところでは、読み手のリテラシーをどのあたりに設定すべきか、というのが基本にありますよね。

出版の音楽評論の場合だと基本的に音楽理論の知識はないものとされていることが多いように思いますが、Vocaloidシーンの盛り上がりやけいおん!をはじめとした音楽マンガ・ドラマのヒットを考えると、基本的な音楽知識を身につけている人というのはかなり多いといっていいのではないかと思います。

そうした人へ向けた評論のあり方というのも考えられて良いように思いますし、ジャズ批評においては菊地成孔大谷能生のコンビがその先鞭をつけたのだと私は解釈しています。

他者表象の問題

リテラシーの問題に限らず、読者と対象と書き手の関係は、ジェイムス・クリフォードによる「文化を書く」ことの問題として知られているような、文化人類学における他者表象の問題とも深い関連があります。

桑山敬己のいう「民族誌の三者構造」(書く者・描かれる者・読む者)の議論では、「学者」と「インフォーマント」、およびそれによって書かれたものを読む「オーディエンス」の関係の項に現場によってそれぞれなにが代入されるかが違い、結果的に異なった権力関係が生じることが示されています*5

たとえば、日本人の文化人類学者が日本の地方文化を研究する場合、土地の人からは外部のアカデミックな知識人であり、ある種の権力を持つものとされ、その研究成果は日本の研究者間で読まれることが想定されます。一方、同じ日本人研究者がアメリカで研究内容を発表しようとすると、今度は「ネイティヴ」による内部からの説明であると受け取られます。こうした事象が例としてあげられるでしょう。

ある種のコミュニティが形成され、そこにおける実践を言語化・理論化するものがいて、またそれを読むものがいる。そうした民族誌における構造はサブカルチャー批評の場合も同様のものを抱えているといえるのではないでしょうか。

たとえば普段から日常的にネットの二次創作に触れていて、自分もオタクだという帰属心を持った人がいるとして、そうした二次創作を批評したり、あるいは批評的な作品を作るなりした場合、オーディエンスをだれに設定するかによって、よい批評と受け取られるか、反対に「俺たちの文化を勝手に代表しやがって」と受け取られるかは変わってき得るはずです。

東浩紀のデータベース理論や村上隆の活動への反発、最近ではカオス☆ラウンジへの風当たりの強さなどはこうした観点からも理解できるのではないかと考えます。

研究・論文と批評の違い

正しいだけではダメ

本書において、佐々木は研究と批評とが違うものである、ということを何度か繰り返し述べています。たとえば次のような部分。

ただし、これも前回言ったことと関係あるんですけど、僕は「批評」と「研究」は違うと思っているんですね。研究発表というか研究論文というか、そういうものと批評とは、僕は別次元にあると思っているわけです。たとえばアカデミックな、大学の紀要に載るような文章にも批評的なものは当然あるわけだけれども、きちんと資料を網羅的にあたったり、具体的に調査をしたりして、未だ明らかになっていないような事実を突き止めたりとか、事実と事実の関係の中で言いうることを提示するとかいったことは、それだけでは研究で会ってまだ批評ではない。言ってみれば研究論文と小林秀雄のモオツァルト的な文章は両極なわけですよ。僕は批評はその両方の要素を持っているものだと思うけれど、それだけではない。だからとても定義しにくいんだけど、むしろ「こういうものだけではない」っていう連鎖の中に逆説的に立ち上がってくるものが批評なのだと僕は思ってるんです(p.83)

批評とはどういうものであるかの細かい定義は一旦おくとしても、正確なだけでは批評とはいえないといっているのは了解できますね。「正確さ」「正しさ」という点については、レトリックや文章の構成による表現力を論じた部分なので多少割り引いて聞くべきかとは思いますが、次のようにいっています。

僕は、正しいとか正しくないとかはあまり関係ないと思っていて、要は「読めるか読めないか」「読んで面白いか面白くないか」にすぎない。全編嘘っぱちで思ってもいないことでも優れた批評は書けるはずなんです。逆に言うと、「あんまりうまくはかけてないけど、正しいことは言ってるよね」っていう批評ほ面白くない批評はないと思う。正しいんだったらわざわざ書かなくてもみんなわかるでしょって思っちゃうんです(笑)。批評的な戦略っていうものは、それとは別にある気がします。それはやっぱり、書き方の問題が大きいと思いますね。(p. 272)

先日の文学フリマで頒布された『筑波批評』2011年秋号においても、山本勉が批評は間違っていても良いのだという議論を出していましたが、このあたりどうなのでしょうね? 次の引用のように、文章に説得力を持たせるためにある種のレトリックの一つとして誤りを含んでも構わない*6、というのならわかるのですが。

批評っていうものは、やっぱり読者に対してある働きかけをするものだから、自分が正しい主張をしているという自信があればこそ、別の次元での戦略、僕は『ケレン味』って言ってるんだけど、やっぱりケレン味があって欲しいと思います。(p. 304)

「間違っていても良い」と「正しさを目指さない」

私の考えでは、「誤りを含んでいてもよい」であっても「最初から正しさを目指さなくて良い」とはいえないんじゃないかと思います。正しさを目指さなくてよいのであれば、他者の批判を「いやいや、批評だから。本気じゃないですし」みたいに初めから回避するような姿勢になってしまうこともあるのではないでしょうか。

だとしたらなんのためにやってるのかわからないというか、「対象をより理解する」という目的にそぐわない気がします。また対象の理解をなおざりにするということは、前述した私批評的なものに適切でない場面で囚われてしまうことに繋がるかもしれません。

出典の表記

佐々木のいう批評と研究との違いをよく表しているなと思ったのは引用の表記の扱いについてです。

出典を書く書かないってことも実は結構考えています。ちゃんと引用元を書くことによって効果がある場合もあるし、明らかに元ネタがあるんだけどわかる人だけわかるようにするっていうのも、いやらしい手なんだけど僕は割と好きです。 (p.292)

学術論文においては剽窃は厳しく戒められていて、基本的に出典はすべて明記することが求められます*7。論文を書く訓練を受けるとオブセッシブに典拠を書いてしまう癖がつくくらいで、出典を書かないのは考えられないです。

発表媒体の違い

結局こうした違いをもたらすかというのも発表媒体、オーディエンスの設定が異なるというところによる部分が大きいのではないでしょうか。学術論文には基本的にピアレビューが存在し、学術の習慣・規範にそぐわないものはリジェクトされます。

批評が発表される媒体――単行本、新書、新聞、雑誌、WEBなど――ではそうしたチェックはなく、編集者が了解すればOKなのだと思います。それゆえ、ある程度の誤りを含んでいたり、議論の厳密性を欠くなどしても、発表するのは許されるのでしょう。

批評の語源は「ギリシャ語の kritiki(何らかのモノの価値についての「洞察ある判断」)」だそうですし、カントの用法でも「人間の認識能力に関する限界や妥当性についての反省的な考察」*8であるといいます。佐々木自身も「物事の本質的な部分っていうのを一旦解体して再吟味するみたいな意味でもある」(p. 8)といっています。あたり前になっている事柄を一度立ち止まっていろいろな角度から検討するという意味では「クリティカル・シンキング」とも大元の意味において共通するのではないでしょうか。

こう考えると、本来は研究も批評も「正しく理解すること」が主な狙いだったのでは、と思えてきます。そして、発表媒体・読者の設定によって、厳密さの程度や速報性、検証/反証可能性の有無などに差が出てくるのではないでしょうか*9。これもきちんというには歴史的なことをもう少ししっかり調べなければなりませんし、これからの音楽を語ることばのあり方を考える場合、「正しさ」についてもまた考慮する余地はあるかもしれませんが。

連想

以上の「厳密さをもとめなくてもいい」ということと関係してくるのですが、佐々木が文章を発想・構成する手法に「連想」というものがあるといいます。

場合によっては異ジャンルにまたがるさまざまな作品や参考文献からの引用を、「これってあれと繋がるんじゃないの」(p. 107)というひらめきで連結していく。時には引用しようと思うフレーズを先にまとめて入力しておき、その順番などを考えるといったこともするそうです(p. 108)。

また『美しき諍い女』をノイズとインプロヴィゼーションと結びつけて論じるなど*10(p. 266-73)、作品や事象の構造がもつある種の共通点をピボットに、別な領域にあるものを結びつけるということもされるようです。

別個な領域・作品からえた情報を批評的な文脈に置き直すことによって、インタビューなどからだけでは得ることのできない知見を得ることができ、正しいだけの文章では得られない面白みが得られるといいます*11 (p. 272)。

このブログで『ゴーストの条件』を紹介したとき、論理的に別な領域にあるもので事象を説明しようとしていると批判してしまいましたが、こうした批評の文章の習慣を知るとなるほどそういう手法であったのか、と納得は出来ます。とはいえ、上で記したように「はじめから正しさを求めなくてよいか」はまた一考の余地があると思いますが。

実践と批評

作者が一番わかっている?

批評家不要論というか、批評家は口ばかりで実践しないからダメだというような意見はよく耳にします。作家やアーティスト自身からも「作り手のことは作り手が一番わかっている」といった反論を受けることもあるそうで、佐々木敦自身はヤン富田からそうした言葉を受けたとのことです (p. 15)。

こうした問題についても佐々木は関心を寄せていて、いくつか見解を述べています。そのうち最もクリティカルな命題は「『可能性の中心』を必ずしも対象自信が知悉しているとは限らない」(p. 32) というものでしょう。次の引用がその説明になっています。

作家自身が自覚的に用いているコンセプトなり理論なりがあって、それを言い当てて「わかってるねえ」と作家にいわれることもあるだろうけれどそれだけではなくて、「むしろね、作り手が思ってもいない、だが言われてみると自分自身そうとしか思えないようなことを指摘出来るのが批評なんだと思うわけ。(p. 32-3)

社会学や人類学、あるいは心理学なども、人がかならずしも意識していない行為がもつ秩序や法則を解明しようとするわけで、それと相同であると考えれば無理はないことですよね。あまり無意識ばかり重視するとまったく妥当でないことでも理論的にはいえると強弁してしまうようなことにもなりかねませんので、どういった根拠のもとに一般化していえるのかには注意を払っていなければならないと思いますけれど。

批判・アドバイスと批評の役割

twitterでも佐々木は批評家と作り手の関係に言及していて、つぎのtogetterにまとめられています(「批評家と他者の作品」(http://togetter.com/li/141561)。「自分ならこうする」「自分的にはこのほうがいい」といったアドバイスは批評の役割ではなく、対象との距離を適切に取るべき、といった論旨です。

ニコのコメやツイッターなどでも批判的な内容が言われることもありますが、あくまで「自分はこう感じた」ということを伝えるにとどめ、あとは制作者の判断に任せるべきなのでしょう。かといって、遠慮して批判しないとか、賞賛の声ばかりで批判や改善点が制作者にとどかないといったのも、あまり健全な状態ではないかもしれません。このような、ウェブを介した創作における「適切な距離」というのもまだいろいろと模索の段階かもしれませんね。

作り手による批評

批評家の独自な役割はあることがわかりましたが、もちろん作り手による批評も大いに意義のあることです。「自分でやってみろ」的な批判を受けなくて済むのはもちろん、作り手本人が書いたものを読むことでその人の作品がより面白く受け取れるようになることもあります(p. 189)。民族音楽学的にそこに表明されている「美学」を読み取っていく、なんてこともできるかもしれませんね。

実際にそうした「批評も書く実践者」というのは結構いるそうです。小説家では高橋源一郎大江健三郎三島由紀夫保坂和志川端康成といった作家。音楽では高橋悠治武満徹高柳昌行菊地成孔大友良英など。また演劇などの身体表現は、実際にやっている人の言論が多いそうです (p. 242)。

この中では私は武満徹菊地成孔くらいしかきちんと作品に触れたことがありませんが、どちらも批評や自身の理論と、自分の作品とがリンクしていて、またそれによって高い独創性を達成していますよね。20世紀前半の文芸批評家、T. S. エリオットもそうしたあり方が理想といっていました*12

また、批評の読者の設定とも関わりますが、菊地成孔大谷能生のコンビによる論考は音楽理論的な部分も多く含まれていて、そうした音楽理論による分析は、通常はアカデミックな領域と思われているものだそうです (p. 102)。 

プレイヤー人口が十分に多くなってきているであろう現代において、批評を書くさいに「聴く側」に立つのか「やる側」に立つのか (p. 102)、また制作・実践における理論にかんする知識を読者がどのくらい持っていると想定するのか、というのは従来の割合から変わってきているのではないかと思われます。

さきにも触れましたが、基本的に日本の出版における音楽批評では読者は音楽理論は知らないものとされてきたと思いますし、書き手にもそうした知識がない人が結構いたように思います(実践者のための言論はプレイ誌として別に扱われていたといっていいでしょう)。

ところが、同じようにポピュラーな文化であるマンガやアニメの批評では、かなり専門的な用語が日常的に使われていますよね。コマ割がこうで、イマジナリーラインがどうで、作画のパースがこうで……etc.

ポピュラー音楽が同じようであって悪い理由があるでしょうか? 菊地・大谷のヒットにも見られるように、そうした専門的な用語や理論を使った批評が受け入れられる下地はすでにある程度出来上がっているといえるでしょう*13。もちろんそればかりになって入門者の導入となる文章がなくなってしまうのもこまりますけれど。高度な議論をカジュアルに行う、ということが音楽でも行なわれたらより楽しいのではないかなと思います。

おわりに

以上だいぶ長くなってしまいましたが、佐々木によるレクチャーとそれについての私のコメントでした。

他にも日本の文芸批評の歴史やその閉鎖性、具体的な文章法のTipsなどについて面白い情報がたくさん載っていましたが、すべてを紹介するのは不可能なので、このあたりでキーを叩く手を休めます。

なにか作品や表現について言葉にしたいと考えている人は一度本書を手にとってみられるといいでしょう。

*1:こればっかりのジャズ評論が多くてうんざりしますw

*2:これまたジャズ批評によくあるw

*3:個々の作品→ジャンル→社会→世界へと一般化・抽象化して論じられる領域を捉えて、一見全く別に見えるジャンル・作品をつないでいく、といったもの

*4:増田聡 2006 『聴衆をつくる ―― 音楽批評の解体文法』 青土社、まえがき

*5:桑山敬己 2006 「日本人が英語で日本を語るとき ――『民族誌の三者構造』における読者/聴衆について」『文化人類学』vol. 71-2, pp. 244-266. など

*6:それこそ菊地・大谷みたいに

*7:といっても一般的な常識やその発表媒体の読者なら知っていて当然な教養などはリファレンスなしでつかわれることもありますが

*8:http://ja.wikipedia.org/wiki/批評 論拠にwikipediaを使うべきじゃないですがここは学術じゃないので使ってしまい得るわけですねw

*9:必ずしも検証・反証可能ではないけれど重要で大胆な見立てや仮説を提出できる、というのは批評のいいところのように思います

*10:佐々木敦 1994 「Noise, Rivette, Improvisation ―― ジャック・リヴェットを聴く試み」『ゴダール・レッスン ―― あるいは最後から2番目の映画』 フィルムアート社

*11:こういう連想による面白みを狙った文章では「天声人語」が有名ですよね

*12:エリオット、トマス・スターンズ 1962 『文芸批評論』 矢本貞幹訳、岩波文庫

*13:知りたがりのオタ的マインドを持った人ならどんどん勉強してくれるはずw