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Jablogy

Sound, Language, and Human

島袋八起編 2011 『Vocalo Critique』 Pilot, Nov. 2011、白色手帖

vocaloid critique Book

本誌は、2011年6月の文学フリマで頒布された『Vocaloid Critique』*1 の再版ver. です。


文学フリマにくる、あまりネット文化・ボカロ文化に馴染みのない人を読者に想定して書かれているため、vol. 01 とはだいぶ毛色の違うものになっていますが、議論の濃さではなかなかのものになっているとおもいます。

できればボカロクラスタの皆さんにも読んでいただきたいので、紹介を兼ねて感想を書いてみますね。

ボカロ批評は可能か?可能だと思います。/ 石原茂和

広島国際大学・心理科学部・感性デザイン学科教授の石原茂和*2(@)による、批評に関するエッセイ。

石原がかつて愛読していたFool's Mateや中原昌也の先進性とエンターテイメント性、海外へのボカロ文化・曲の紹介をどうするか、歌・調教・詞などボカロ曲レビューのあり方、
などを論じ、最後にアキバヲタPの作風を紹介しています。

どのような先行する言論を手本にするか(あるいはしないか)、ボカロ音楽を言語化するうえでどういう方法が取れるかなど、Pilot号として重要な問題提起をしているといえるでしょう。

ここでの議論をたたき台にして、読者の皆さんも自分がどんな言葉を紡いでいけるか、考えていただけたらなと思います。私もこのブログでそのヒントになりそうなことは書いていくつもりですので。

フィーリング、エコー「ミク」を消すミクの声 / まつとも

フランス文学を学ぶまつとも(@)による具体的な楽曲の分析に基づいたミクの声論。

分析されている楽曲は「空のさかな」「夕闇メロディ」「さよならアストロノーツ」の三曲です。

まつともはこれらの曲のミクの声に、どこか遠くから響いてきてなんとなく懐かしい感じのする非人称的な声の響き、すなわち「エコー」を聞きとっています。

そしてその理由を機械音声が持つ独特のさわりや、歌詞の言語表現によって運動感覚を引き起こされること、感情の押し付けがなく聞き手の追想を引き起こすこと、などに求めています。

このように要約すると味気ない感じがするかもしれませんが、Vocaloidの声を丁寧に聴いて分析し、その特徴を掴んでいくやり方はたいへん見倣うべき所があると感じました。

メルト / Innocence / ハジメテノオトの 歌詞にかんするアイディア / 島袋八起

島袋八起ことやおき(@)は日本語歌詞の押韻とそれによる意味の形成について粘り強く議論をかさねています。前回の文フリでも、編集におわれて時間がない中、この三曲の分析を手短ながら寄せています。

メルトの分析においては、押韻のピボットによる象徴的な意味のスライドをとりだし、Innocence論では彼の理論における「圧縮」という概念に触れながら、歌詞中の「た」の音が「受動的な事態についてのうれしさを表現することばと結びついている」(p. 28)ことを示唆しています。ハジメテノオトについては、繰り返し出現する「わ」の音が「私」の「わ」と通じることで機械であるミクの主体が浮かび上がってくるのではないか、という解釈を示しています。

こうした押韻と意味の関係に着目する議論は独創的であり、いまのところ必ずしも実証的ではないため面食らう方もいるかもしれませんが、従来の歌詞論にない豊かな解釈の可能性を我々に示してくれているのは間違いありません。

くちばし P「私の時間」論 / 島袋八起

続いておなじ著者によるくちばし P「私の時間」論。再版にあたって文フリバージョンやWEBで公開し(はじめ)ているものにおまけ*3をつけようということで、新たに書き下ろされたものです。

前章と同じように、韻によって意味が媒介されるという仮定に立って、くわしく押韻を分析し、「あなたとわたし」すなわちマスターとミクの関係が押韻によって象徴的に表現されているという解釈を提示しています。

今回ボーマスでの頒布ということで、やおきさんは高校生に読んで欲しいと願って書かれたそうです。「こんな語り方もありなのか」とか「わたしもやってみたい」なんて思ってもらえたとしたら、彼だけでなく我々一同、本誌を出した甲斐があると思います。

声と人格 / ja_bra_af_cu

次は私 ja_bra_af_cu の論考で、キャラクター性・人格性と声や歌の関係をできるだけ直接・肯定的に論じてみようと(無謀にもw)トライしたものです。

まず一般論として、『ユリイカ』のミク特集*4における増田聡中田健太郎の議論を中心に紹介し、声や歌というものが通常のばあい必然的に人格と結びつくものであることを示しました。

そして従来人格を得られていなかったがゆえに歌と結びつくことがなかった合成音声が、ミクをきっかけに人格と結びつくことによって歌う主体として見出され、爆発的なヒットに繋がったという仮説を提示しました。

つづいて、そうした人格を得た合成音声によるエンターテイメント性ある歌唱の実例として、人力Vocaloid、UTAU、テキスト読み上げツールの歌唱*5を紹介しました。

文フリの人たちに向けた紹介という側面が強くなったのであまり深い分析まではできていないですが、それぞれのキャラクター性によって興味深い歌曲が生まれていることなど、「論じるに足る」ものをこれらがもっていることは示せたと自負しています。

ボカロ文献ガイド / ja_bra_af_cu

こちらも再版にあたってのappendix (おまけ) です。

Pilotらしく、私たちのあとに続いてボカロを論じてみたいという方が文献を探す助けになればと思い、直接ボカロを論じたり言及したりしているものを中心に、文献ガイドを書いてみました。

内容的には大きく「概説」「雑誌」「批評」「アカデミズム」「ウェブ」「放送」というカテゴリにわけて紹介しています。

細大漏らさずとはいきませんが、いままで語られてきたボカロ論の最大公約数的なところは押さえられたのではないかと思います。入門者からコアな方まで役に立つ……ことを願っていますw

cosMo a.k.a 暴走Pという天才の発掘 / 死に舞

死に舞こと今井晋(@)の暴走P論。『ユリイカ』ミク特集号に音楽的な部分に関する言及がなかったこと、特に暴走Pの作曲の力を紹介していないことに不満を覚えた著者によるロックで熱い紹介が魅力的です。

内容的には、ミクを「楽器として」ここまでの「暴力的」な使い方をしたのは暴走Pだけであるとし、楽曲における高速アルペジオやシャウトなどの鮮烈さを死に舞は強調しています。

死に舞はポピュラー音楽・美学の専門的な研究者でかなりの切れ者です。研究の文脈上なかなか都合がつかないかもしれませんが、またいつかボカロを論じてくださるのを個人的には期待しています。

声ならざる声のために / シノハラユウキ

筑波批評主催者のシノハラユウキ(@)による論考。

私の声と人格の関係を肯定的に捉えようとする議論の方向とは一見正反対に、声から人格や人称性が消えていく契機をボカロや合成音声に見出し評価していこうとしています。

大筋としては、音MADにおいてアニメや声優の声が素材としての「自律性」を持つことを指摘し、ひいてはボカロを始めとした合成音声による歌声も、人格を指し示すことを離れ、その声色自体が独立した楽器のように捉えられることを示そうとしています。たとえば「レスポール」「フェンダー・ローズ」といった楽器が特徴ある音色によって識別されるように、「ミク」「リン」といった音色として捉えられるのではないか、といったような感じです。

合成音声によって人格を離れた声の可能性が生まれたことと、通常の声とはちがった極端なキャラクター*6とも結びつくようになったことは、合成音声歌唱がもたらした声と人格の関係におけるパラダイムシフトの表裏であるように思え、その点において私の議論とシノハラの論とは、おなじく表裏一体のものであるように思います。

ジャンルとしてのボカロ批評

我らが編集長(Pilotはやおきが編集長となっていますが)中村屋与太郎のあとがき。Pilotとvol. 01成立の経緯やこれからのボカロ批評への熱い思いが記されています。これからもがんばって〜ヽ(゚∀゚)ノ

おわりに

以上、簡単ですがVocalo Critique Pilotの紹介と感想でした。

ひとつお詫びしなければならないのは、私の稿において、編集の時間が十分に取れなかったことから、誤字や編集のミスが多く見られることです。特に「声と人格」の最後でシュールレアリスムを正しく理解するPのお名前を間違えてしまったのは申し訳ないです。

後日、訂正などお知らせすることもあろうかと思います。二刷が出ることがあったら修正したいなあ〜 (/ ω・\)チラッ

というわけで、皆様、二刷が出るくらい買ってくださいw
どうぞよろしくお願いいたします。

*1:当時は私の発案でVocalo"id" Critiqueと書いてボカロ・クリティークと読むようにしていたのでした

*2:共同執筆者の紹介ということで以下敬称は省略させて頂きます

*3:最初は「ボカロらしく append ってことにしようぜ」などといっていました

*4:ユリイカ [2008年12月臨時増刊号 総特集♪初音ミク ネットに舞い降りた天使] 』 青土社、2008年

*5:ゆっくり、月読アイなど

*6:ゆっくりとか