読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Jablogy

Sound, Language, and Human

細川周平 1990 『レコードの美学』 勁草書房

music study Book

はじめに

日本におけるポピュラー音楽研究の先駆者の一人、細川周平の大著。博士論文を改稿したものとあって、大きなボリュームにもかかわらずロジカルな構成になっていて読みやすいです。

レコードの美学

レコードの美学

とはいえ、ニーチェハイデガードゥルーズなどの思想を多数援用しているので、哲学の門外漢である私には、理論的な部分はかなり難しかったです。逆に具体的な資料を示して論じているところはとてもわかりやすく、勉強になりました。

目次は勁草書房のサイトに公開されています。

全体の構成は、録音物の美学を論じるに足ることを示す「0 序」、録音の歴史を複製性や書記性などの美学的な本質に沿いながら描いた「1 レコードの考古学」、ベンヤミンニーチェドゥルーズなどに依拠し、アドルノを批判的に位置づけつつ、レコードによって生じた聴取の形の変化を検討した「2 聴取と複製技術」、そうして変化した聴取における「サウンド」や「効果」の美学を論じた「3 美的経験としてのレコード聴取」、そして附論となっています。

以下、本論部分の概略をラフに描きつつ、所感を述べてみます。
なお、引用部分に傍点やルビなどが多くあったので青空文庫形式に似た形で示してあります。(ex. 青空|文庫《ぶんこ》→ 文庫にルビ)

1 レコードの考古学

書記性

第一章のはじめではエディソンが録音を発明する上で「音声を記録する」ことを目的としていたことが指摘されています。

いまではICレコーダーなどによって「声のメモ」も簡単に、そして実用的に行なわれるようになっていますが、発明された当時は現在のボーカロイドのように「新時代の技術」というイメージで捉えるものもいたようです。

たとえば、1877年11月17日の『サイエンティフィック・アメリカン』誌におけるエディソンの親友で広報係だったエドワード・H・ジョンソンが「すばらしい発明――自動的な記録から無限に反復することのできるスピーチ」という見出しで掲載した速報ではこんな調子です。

〈科学〉は決して感情的 sensational とは言われてこなかった。感情ではなく知性に関係するからだ。しかし死者の慣れ親しんだ声をもう一度聞くということほど、深い感慨をもたらし、人間の気持ちをいきいきと高揚させることがあるとは思えない。ところが〈科学〉が今やこれをやれるのだ、すでにやっていると報じたい。あとで述べるような素晴らしい器具の発明前に逝った人々の声が永遠に届かないことは当然すぎることだが、フォノグラフの吹き込み口で誰がしゃべったか、またこれから誰がしゃべろうと、また誰の言葉であったかにかかわらず、彼のスピーチは死後もずっと、同じ音質で聴覚的に再現されるという保証が今や生まれた。可能性はまさしく驚愕すべきものである。ギザギザのついた紙が小さな機械を通ると、音が磁化され私たちの何世紀も後の孫子の代に到っても、今私達が聞くのとまったく同じように聞くことができる。スピーチはいわば不滅になるのだ。*1

いまでは亡くなった人の音声だけでなく映像も簡単に目にすることができますが、考えてみるとそれは技術によって可能になった、あらたな「声をめぐる文化的ルール」だったのですね。こういう人たちが植木等ロイドや人力Vocaloidを聞いたらどういう反応するだろうと想像してしまいますw

こうして声を保存、記録するという目的は発明された機械の名称にも現れています。つまり、フォノグラフ、グラフォフォン、グラモフォンという名前は音(phone)+書くこと(graph)という語源から出来上がっている、ということです。

はじめは円筒にスクラッチするだけだった録音機もグラモフォンからは現在のCDやレコードと同様に複製が可能になり、音楽の「ポピュラー化」が準備されたとのこと。

第二次聴覚性

録音技術が進展し電気録音時代になると、音声の伝達における「第二次口承性」がうまれました*2。これは文字文化の中におけるオーラリティの復活で、集団性を志向し(地球規模での)共同体な感覚を強化するといいます。

そうした「第二次口承性」は次のような身体的な現前性と分かちがたい関係にあります。

音は電子メディア化された場合であってもつねに|現在=現前《プレゼンス》と抜き差しならない関係にある。「たとえ録音から流れる死者の声であっても、どんな絵画や写真にもできないような彼の現前性で我々を包み込む」(Ong 1967:101)。エジソンが声の家族アルバムをフォノグラフの効用の一つと考えたとき、この声の現前性を仄めかしていた。声が生きた身体の表象となる。(p. 63)

細川はこのオングの用語法を聴覚性一般に拡張して、「第一次聴覚性」を生音、「第二次聴覚性」を伝記・電子的な回路を経た音、というように措定しました(p. 64)。

録音音楽において、音楽の学習に関してもオーラリティの文化に近い口頭伝承、というか聴覚伝承があることから第二次聴覚性・口承性があることがわかります。

ポピュラー音楽は文字文化のど真ん中に生まれ、テクノロジーの最先端とつねに密着してきたが、こうした面を取れば、「部族的な」音楽を継承していることがわかる」。(p. 69)

つまり私達にも馴染み深い、なんども聴いて覚える、「コピーする」といったことによる学習です。「第一次〜」と違うのは録音を介することで対面によらず行うことができるようになったことでしょう(ex. アメリカ南部のブルースをイギリスの若者がコピーしてロックができた、など)。

クルーナー唱法

朗々とホールに響かせるベルカントではなく、マイクを利用することでささやく(croon)ように歌うクルーナー唱法をビング・クロスビーが始めたそうです。

マイク・レコード・ラジオは特定の層をなす「リスナー」を形成することを可能にしました。

マイクロフォンは一人一人に歌いかけながらしかも集団性を形成することを可能にした。ラジオやレコードはマイクがカバーする空間を飛躍的に拡張した。分散的な集団、集団的な主体が、マイクロフォンの|中に《傍点》姿を現す。(p. 84)

ビング・クロスビー以降、歌手の声はPAか録音を通して届けられることになり、聴衆が歌手の生の声を耳にすることはなくなりました。その意味で彼以降のポピュラー音楽の歌手は「マイクロフォン内存在」in-dem-Mikrofon-sein (p. 85)と呼ぶことができると細川はしています。

このようにマイクがあらわれた頃の歌手たちは当時最新のテクノロジーを使いこなしました。往々にして、最新の技術の利用には「人間味がないといった反発があるものですが*3、オング*4の主張を細川が要約するところによると、すべての楽器はテクノロジーの産物であり、それに習熟、「内面化」して使いこなすことは、一般の機械を使いこなすこととかわりなく「非人間的とはほとんどいえない」とのことです(p. 85)。

「打ち込み」での音楽が自然になっていることからもわかるように、ごく当然のことですが、オングのようにクリアーにいってくれる人がいると、新技術をつかう人(ボカロPなどもそうでしょう)には心強いですね。

ストコフスキーによるPA・ステレオの発達

ストコフスキーは録音に対して高い意識を持っていて、各楽器を個別にマイクで狙うマルチマイキングやステレオ、PAの発達に貢献しました。

1940年、ストコフスキーはディズニー映画『ファンタジア』でステレオに近い音を取りました。

つまり九本のマイクをパートごとに立て、映像の中の主人公の動きを描写する楽器(群)にスポットをあてるような録音操作を行い、客席を取り囲むスピーカーから鳴らした。(p. 90)

スイングジャズ後期、ビバップのムーブメントが始まる頃にはもうマルチマイキングがあったのですね。古い録音でもかなりバランスよく録れているのが不思議だったのですが、これほど早くマルチがあったとは知りませんでした。

テープ録音:編集、インディペンデントなレコード

1949年には実用的なダイナミックレンジのテープが、1957年にはレコードとテープがセットになった「セレクトフォン」が発売され家庭ダビングの時代が始まりました(p. 94)。

この技術はインディペンデントな音楽家がデビューする回路を開くのに貢献しました。

エルヴィス・プレスリーに始まるロックンロールは、オープン・テープの力なしにはありえなかったろう。原則的に誰もがデモ・テープを録音することが出来て初めて、レコードはそれまでのプロフェッショナリズムとは別の回路に所属する音楽を拾いあげることができるようになった。(p. 94)

重ねどりによる多重録音は1951年のレスポールによる「ハウ・ハイ・ザ・ムーン」の録音で行なわれていましたが、テープ接合やエフェクトといった編集による音楽構造の変化はビートルズの「サージェント・ペパーズ」から、ということでした。

この“コンセプト”アルバムによって、生演奏の再現ではない録音による音楽という概念が生まれました。

これまでよりよい録音を目指してきたレコードの歴史は、これ以降よりよい|概念《傍点》へ向けて舵を変える

CD

その後CDというデジタルオーディオの時代が来ます。
CDにおいて音はデジタル情報=数値となり、劣化することもありません。

レコードからここに至る変遷を細川はエクリチュールとしての録音が「音響が主体を離れ自律性を獲得していく過程」と捉えています(p. 110)。*5

2 聴取と複製技術」

前述の通り、2章ではレコードによって生じた聴取の形の変化を検討しています。

基本的にはベンヤミンの「アウラの崩壊」とニーチェの「永遠回帰」をレコード時代における肯定的な聴取のあり方を捉える概念としてとらえ、アドルノは自身の自律美学を「美的経験の外側」に適用しようとした結果、新しい聴衆の形を捉えるのに失敗していると位置づけています。

コンサートと自律音楽

細川は、渡辺裕の『聴衆の誕生』(春秋社、1989年)でも論じられているような、近代/ロマン主義における「自律的な音楽」とそれを聞くコンサートにおける「集中的聴取」のあり方をまず論じています*6

18から19世紀にかけて、芸術としての音楽「作品」が音楽外の要因によって左右されない、すなわち実用性などない純粋な芸術であり自立したものであるとみなされるようになりました。しかし実際には、「作品」がコンサートホールにおける演奏を集中的に聴取する聴衆を必要とするという他律性をもっている、という事実がこの美学には隠れています。

そして聴衆の没入した聞き方は「宗教的な没我状態」(p. 129)と似たものになり、また「作品は宗教的な崇拝の対象となり、魂の内面的な体験が音楽の本質とな」りました(p.131)。といっても「近代生活の合理性をふまえたうえでの信仰であり、協議の宗教がもたらす情緒の動きとは類似が認められるが同じではない」そうですが(ibid.)。

作品はいろいろな時と場所で何度も演奏されますが、「個々の演奏は現実的にはその場限りであると同時に、創造的にはそれぞれが作品の同一性によって投錨され永遠のものとなる」と細川は述べてます(p. 144)。これは後にレコード再生の反復と対比されます。

ベンヤミンの「アウラ」とアドルノの大衆・資本主義的芸術批判

近代西欧的な聴き方を示したところで、いよいよレコード的な聴取のあり方の議論に行くわけですが、ここで細川はベンヤミンアウラの概念を検討し、大衆/複製芸術のあり方を肯定する、あるいは正しく捉えられるものとして位置づけています。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」については以前このブログでも取り上げましたが、そこではアウラ概念が写真や映画を念頭に作られているため、音楽にどのように/どこまで適用できるかわからないということを記しました。

細川の議論にこれに直接答えるものは見当たらないというか、一応音楽においても複製によってアウラは崩壊ないし変容すると捉えているようです。

ただ、アウラには美しい風景などがもつ「ある遠さ――たとえそれがどれほど近くにあるとしても――が一回限り現れる現象」*7と芸術作品が持つアウラの2種類があり、複製技術によって後者が減退する時代にあって、前者がどう変化するかといったことがベンヤミンの関心であったと細川は読んでいます。

近代的な集中的聴取に対して、ベンヤミンは「自己のなかに作品を沈潜させる複製技術の散漫な接し方を弁護」しています(p. 154)。散漫になった聴衆は「批判性と享受性を両立させるのに成功し、個人個人の自発的な反応が集団に即座にはねかえる理想的な姿勢をとっているとベンヤミンは考える」と細川はまとめています(p. 155)。

アウラの消失」というとなにか嘆かわしいことのように語るのが通例となっているように感じますが、ベンヤミンの議論においてはこうして肯定的なものとして捉えられているというのは覚えて置かなければなりませんね。

アドルノアウラ批判

以上のようにベンヤミンが大衆的感覚を肯定する一方、アドルノは音楽や芸術の大衆化を嫌い批判したことで有名ですが、細川はアドルノの限界を的確に指摘しています。

アドルノが理想とするエキスパートの聴き方=構造的聴取とは、音楽の流れを追いつつ時間的な展開・全体の構成と和声や対位法を一度に把握するようなものです*8

この構造的聴取は、〔中略〕ブルジョア的知覚の特徴である〈時間における展開〉が始まってからのことである。ということは|適合的な聴取に適合した構造《傍点》があり、彼の議論はその範囲内でのみ通用するということでもある。(p. 165)

ベートーヴェンヴェーベルンまでのクラシック音楽はそうした構造を持っているのでアドルノの聴き方がマッチするけれど、そうでない音楽に同じ聴き方は適用できないわけです。

問題はその枠の外にある音楽に関する彼の感性的な拒否を理性的な優越と取り違え、社会の衰退と結びつけたことにある。(p. 165)

こうした細川の指摘はまったく妥当なものであると私も考えます。

永遠回帰と複製技術

それから、ベンヤミンについては、彼がボードレール論において流行とニーチェ永遠回帰を結びつけ、新奇なものを重要視する商品経済をあらたな時間意識の誕生とみていることが示されています。

永遠回帰は決して俗世間から隔離された哲学者の思弁的活動の所産ではなく、迫り来る近代のまっただ中で得られた直観であり、我々はその具体的な表れを大量生産や複製技術の中に見出すことができる。〔中略〕永遠回帰の思想にはニーチェの宇宙論が強く刻印されているが、それは日常的な次元を切り捨てたわけではなく、どこにでもあてはまる極めて世俗的な時間性なのである。(pp. 179-180)

永遠回帰というニーチェの思想をこのようにとらえるというのは聞いたことがなく新鮮です。流行というのをこのように肯定的に捉えるというのも知識人にしては珍しいような気もします。

ただ、このような「あたらしさ」を肯定的に捉えることと、「進歩」主義とをどう関係づけて考えたらよいかというのが難しいです。というか細川も書いてくれているのだけれどよくわからなかったw

たとえばジャズの歴史はアドリブ技法の進化・発展の歴史であるように捉えられることが多いわけですが、ミュージシャンたちが進歩主義的な美学を持っているだけでなく、各々のスタイルが流行遅れになる/飽きられるといったこともまた大事だったりするかもしれません。

また永遠回帰はレコードの聴取の本質にも関わってきます。

レコードを何度でも聞けるということと〔クラシック的な意味での〕同じ作品を何度でも聞けるということとは区別されなくてはならない。レコードの反復性は回帰する時間の中での差異に基づき、作品の再演可能性は前へと進む時間の中での同一性に基づく。レコードは回帰そのものによって肯定され、回帰のたびに差異を生むものであることによってその存在が構成されている。それは一つの「物」、動かぬ物であるが、何分、何時間かの|時間が書きこまれていることによって《傍点》、プレイされるたびに回帰するのである(p.192)

そして不可逆な時間の中で繰り返される再生はどの回も「最初で最後」のものであり、「永遠回帰の中の特異性(個別性)」であるとのことです(ibid.)。

そうすると時間の中における一回性――アウラを成り立たせるものの一つ――は録音物においても失われないことになる……?*9

3 美的経験としてのレコード聴取

前章でレコードの聴き方の形式の変化が論じられましたが、この商では内面的な感じ方の変化へと議論が移ります。

プラトン的なイデアでなく、感性において立ち現れるもの=仮象そのものを直接的な現実として捉えるハイデガーの議論を引いて、複製芸術において感性的な「効果」が美的な経験にとって重要であることを細川は示しています。

効果の一例としてロラン・バルトがレコードから聴こえる声に身体性を聞き取ったことを「声のきめ」と呼んだことが上げられています。他には「フィーリング」や「ショック」が挙げられています。

感性的な聴取体験として「サウンド」の重要性は強調してもし過ぎることはありません。

サウンドを聞くものは、全体的な和声の構造や構成の意味の把握ではなく、そこで鳴っているリズムや音色に注目がいきます。「ハーモニーやメロディーは音色やリズムに引きずられてようやく意識に現れ」るのです(p. 230)。

当然、この聴き方は反アドルノ的なものといえます。自律的な作品の意味を全体を把握しながら読みとるのではなく、直接感性において直接に意味が把握されるのですから。

サウンドと歌詞の(無)意味

分析的に把握しながら意味をつかむ聴き方でなくなるということは、分節的な言語メッセージとしての歌詞の「意味」がレコード的な/サウンドを重んじる聴取においてはあまり重要でなくなる可能性があることを示しています。

歌詞の意味内容もまたサウンドにとっては二次的で、それを理解できないことは必ずしも負の要因ではない。それがどんな内容であろうと、またどんなに名歌手がそれにふさわしい解釈をしていようと、何語なのかさえわからない聴き手がそれに構わず純粋な人声としてしか聞き取らないことは珍しくない。外国語で歌われた場合我々が聴くのはこうした純粋な素材としての声であり、その歌詞や自国語訳を知ることが歌い手の技巧や表現力、作品としての評価の基準となることはあっても、サウンドとして聴くのに必ずしも必要不可欠とはいえない。サウンド聴取は意味内容の理解を排除しないが、それを前提ともしない。むしろ声自体、音素自体が持っている肌触りが重要で、声がどのような効果をもつかに関心が絞られる。(p. 230-1)

私達が外国語の歌を聞くときはこのように聴いていることも多いでしょう。日本語の歌であっても、英語的な発音を大きく導入するようになった近年のポップでは、一聴して歌詞が聞き取れないものも多いです。こうした変化は古くはエルヴィス・プレスリーチャック・ベリーが登場したロックンロール期にまず進みました。この頃、叫んでも意味のわかる短いフレーズが使われ、ブルース風の性的なダブルミーニングが公然化し、「声を張り上げ、あるいは押し殺し、マイクに文字通り依存した(それに寄りかかるような姿勢の)歌唱性に」歌い方が変化したのだと細川はいってます(p. 234)。

かといってまったく言葉の意味が重要性を失ったわけではありません。まったくナンセンスな人工言語の曲などもありますが、主流ではないですよね。このブログを読んでくださっている方は目にしているかと思いますが、やおき(@yaoki_dokidoki)さんによるJ-POPやアニソン、ボカロ曲の作詞における押韻による意味の伝達という視点もあります。

こうしたことについて、細川は注で次のように触れています。

これ〔ロックの聴取におけるサウンドの優位を主張する立場〕に対して最近のロックの歌詞分析の中で最も重要な出版物の『凡庸性の勝利』の中でパティスンは、たとえサウンドが重要だとしても、ロック(彼はチャートを賑わすだけのポップスと区別している)は歌詞によるメッセージなしでは成り立たないと考える (Pattison 1987*10)。言語が音であると同時に意味であるというヤコブソンのテーゼは、ロック研究を分極化している。ブーレーズが音素としての詩に注目したとしても、ルネ・シャールの特定の詩を採用し新聞記事や電話帳から抜き出さなかったように、ポピュラー音楽の場合でも、作曲家はどんな場合でも言語的な意味に関する選択を行っている。歌詞は意味を伝えるというよりも歌手を動機づけ感情的に高揚させることで、言語の内容を越えた音声的なイントネーションを伝える目的をもつだけなのかもしれない。サウンドが重要であるといっても、歌詞の内容が全く無駄ではないという事実はポピュラー音楽研究の難しさを物語る。聴き手が音と意味の両方を同時に知覚する時に何が起きているのか、これは声楽一般に対してソシュール=ヤコブソン的な観点を取り入れる必要性を示唆する。(第3章注(3)、p. 423-4)

パロディーでジェネレータがつくられるくらいJ-POPの歌詞に使われる用語は偏っていますし、ロックらしい言葉というのもある程度コーパス化できそうな部分もありそうです*11。そして川田順造の『聲』を取り上げた時も出てきましたが、音と意味の関係をさぐるのに参照すべきはやはりソシュール=ヤコブソンのラインのようです。

〔かならずしも文字に定着されたのではない〕意味を持った物質性としての声を問題にするときどんな方法がそれを理解可能にするのだろう。必ずしも分節言語としては理解されなくてもよい言語に対する方法論は別の所で引き続き磨かなくてはならないだろう。(p. 232)

このように述べる細川の問題意識はまったく私たちにも重なるものです。

おわりに

あらゆる音楽が録音されレコードで聞かれるようになることで、いかなる音楽もこうした「サウンド」の聴き方で聞かれるようになりました。いわば「複製技術こそがすべての音楽を無差別に『ポピュラー化した』」(p. iii)といえるのだと細川はまとめています。

20年前の本ということもあり多少議論が古いところもあるかもしれませんが、大変学ぶところの多い、知的な刺激のある本でした。本書のような複製技術と一回性の美学という問題系については、増田聡・谷口文和『音楽未来形 ―― デジタル時代の音楽文化のゆくえ』(洋泉社、 2005年)などを Further Reading として考えていきたいと思います。

*1:Wlie, Raymond R. 1977 “The Wonder of the Age (The Invention of the Phonograph)”, in Phonographs & Gramophones, Alistair G. Thomson (ed.) Royal Scottish Museum, Edinburgh, pp. 9-48 に再掲載された記事を細川が引用、さらにそれを孫引きw

*2:Ong, Walter J. 1982 Orality and Literacy: The Technologizing of the Word. London and New York: Methuen.(ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』 林正寛・糟谷啓介・桜井直文訳、藤原書店、1991年)

*3:ワープロをつかうと手書きに比べて文章に深みがなくなる、とか言われていたそうです。cf. 野口悠紀雄 1993 『「超」整理法 ―― 情報検索と発想の新システム』 中公新書

*4:前掲書 p.82

*5:が、どうなんでしょう。録音物とはいえ、そこに主体や人格があるように感じるのは「声のきめ」を引き合いだすまでもないことのように思うのですが

*6:前段階として「共同体的聴取」を先にやっていますがここでは割愛します

*7:ワルターベンヤミン 1939 「技術的複製可能の時代の芸術作品 〔第三稿〕」 山口裕之編訳 2011 『ベンヤミン・アンソロジー』 河出文庫、p.305

*8:あたかも論文を読むようなものといえるでしょう

*9:そもそも音自体が、哲学でいう数的に同一な音というものを持ち得ないような気もします。たとえ同じ音源、同じ楽器を使って、同じ奏法で音を出して、周波数は同一になったとしても、一回目と二回目とでは違う空気が振動しているはずだし、それを聞いた神経パルスも違うもののはず……。それとも「数的に同一」って物体じゃない現象には使えない概念なのかしら。素人にはこのへんが限界w

*10:Pattison, Robaert. 1987 The Triumph of Vulgarity : Rock Music in the Mirror of Romanticism. New York ; Oxford. Oxford University Press.

*11:体制を賛美するロックというのは想像しにくいですよね。ないことはないでしょうけど