Jablogy

Sound, Language, and Human

マルコ・イアコボーニ 『ミラーニューロンの発見』

他者の行為をみているとき、その行為をトレースし鏡写にするかのように発火する脳内の神経部位:ミラーニューロン。その発見は生命科学におけるDNAの発見にも比肩するといいます。

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

本書の書評は優れたものがウェブ上にもすでにあり*1、ミラーニューロンの概説についてもwikipediaの記述が充実しているのでここでは繰り返しません。

私が本書およびミラーニューロンに注目するのは、やはり音楽やマンガ・アニメなどのサブカルチャーの理解に資するところがあると考えるためです。

視覚表象コンテンツ

アニメについてはいずみのさんがアニメOP・EDにおけるミラーニューロンシステムの働きについて言及しています。簡単にいってしまうと、手足の動きを細分化してまずみせることによって、スムーズに全身の動きへとミラーニューロン・システムを作動させる、という説でした*2

他者の運動を見てそれに釣られて動いてしまう感覚というのはよくあるものだし、よいMMDのダンスモーションなどみていると本当によく感じます*3

こうした神経の働きが、フィクションと実写によってどのように神経の働きが違うか、または違わないかなどに興味がいきます。もし同じなのだとしたらますます二次元と三次元を区別する意味が薄くなるというものです。

さらにいってしまうと、AV見て興奮するというのもミラーニューロン的な作用によるところが大きかったりしてw 実証的な研究成果に注目したいところですね。

音楽

音楽についてももちろんミラーニューロンの作用は重要と考えられます。

そもそもミラーニューロンに注目するようになったのは内田樹のブログ*4において合気道の師匠と弟子の一体化するかのような模倣・共感関係が論じられているのを読んだのがきっかけでした。

「師の動きの中に将来の成熟した自己を先取りして見出す」といった内田の見方は楽器の学習についてもいえるような気がします。だいたいのプレイヤーはあこがれのヒーローに自分を重ねて、その動きを真似たりフレーズをコピーしたりするものですから(同じ楽器を買ったりとかもするw)。

特に楽器のフォームやリズムに対する体の乗り方などは真似してみるとニュアンスがよくつかめたりします。たとえば、同じ8ビートでもビートルズは四分音符でしか体が動いておらず、いわゆるファンク的なウラを感じてはいないようです。これもミラーニューロンにつられるように動いてみるとフィーリングがよくわかります。

海外で長くプレイしていて、海外のプレイの雰囲気を身につけたミュージシャンが、日本に帰ってきて日本人とプレイするようになると、だんだん日本ぽいプレイになっていくという話も聞きます。伝染的な模倣というのも起こるものなのでしょうか。

音楽と身体のミメーシス関係

こうした演奏する姿と音楽との関係を増田聡が上村博の議論*5を整理して「演奏という契機を通じて、身体と音楽はミメーシス関係にある」と呼んでいます*6

リズムや旋律といった音楽の形式を、演奏者の身体は模倣し、その演奏者の身体の所作に応じて楽器は音楽を奏でる。その音楽は、再び聴衆の身体に働きかけ、演奏者の身体性と聴衆の身体性は同期する。*7

こうした身体と音楽のミメーシス関係はクラシックからポップス・民俗音楽まで共通だといいます*8。身近な例で言うと、エア・ギターやメタルのヘッド・バンキングなど、もっといえば、メロディーにつられて歌う鼻歌などもこれにあたるでしょう。

ジャズやブルースにおけるアドリブソロの楽しみというのが、こうした模倣的な聴き方に大きく依存すると私は感じています。ただ音楽(理論)的に美しいフレーズとして聞くというだけでなく、あたかもそのアドリブ・フレーズを自分が演奏しているかのように聴き、ときには釣られて体が動いてしまう。

ジャズのライブの観客を写した映像など見ると、たまに変な見のよじり方をしている人がいますが、そのように演奏と一体化し没入しているのだといえないでしょうか(すくなくとも私はそうやって聞いています)。

そうした聴き方をしてしまうのも、人間にはミラーニューロンがあるのだから、とおもうと大変しっくりくるように思います。

音のみによって発火する行動に関する神経

音楽とそれが模倣的に発生させる身体の運動について興味深いのですが、音を聞くだけでその音を発生させる行動に関わる神経が発火することがマカクザルの実験によってわかっているそうです(p. 52)。

その実験ではピーナッツの殻を割るという行為を、音だけ・映像だけ・その両方、にわけてサルに見せたのですが、いずれについてもミラーニューロンは発火したとのこと。

これをうけて著者は「私たちが音を認識するというのは、その音を発生させる行動をそっくり自分の脳内でシミュレートすることにほかならないのではないだろうか」と推論しています(p. 52)。

なお、この現象はマカクザルだけでなく人間についても同じことが言えるそうです。

リサ・アジズ=ザデが私の研究室の大学院生だったころ、TMSを使って人間の脳を調べたことがある。じっとしたままの被験者にいくつかの異なる音を聞かせ、そのときの運動細胞の興奮性を測定したのである。結果は予想どおり、紙を引き裂く音やキーボードを叩く音など、行動音を聞いているときの被験者の運動細胞は、行動に結びつかない雷などの音に対する反応に比べて高い興奮性を示した。さらに、そうした高い興奮性は、その音を発生させる行動に関わりのある筋肉だけに限られていた。被験者が紙の引き裂かれる音を聞いているとき、手の筋肉は足の筋肉よりも興奮する。(p. 130)

直接に音楽について調べられた実験は乗っていませんでしたが、恐らく音楽についても同様のことが起こっているのではないかと想像されます。注目していきたい事柄の一つですね。

思想

本書中でも指摘されているように、こうした他者の感情をそのままトレースするとか、身体的な事柄が精神と直接的な関係を持っているというのは、デカルト的な心身二元論と正反対にあるものだといえます*9

むしろこうした見方はベルクソンフッサールメルロ=ポンティハイデガーらの現象学に親和性のあるものです。なおミラーニューロンを発見したチームにも現象学に詳しい研究者(ヴィットリオ・ガレーゼ)がいたとのこと。

このあたりいままであまり触れて来なかったのですが、やはり演奏と身体性などの問題とかかわってくるので、避けては通れないようですね。すこしずつ読んでいけたらいいな〜。あとアルフレッド・シュッツも。

それから、やはりミラーといえばラカンの鏡像段階説が思い出されますが、物理的に鏡がなくても、ミラーニューロンによって他者を自己の鏡とできるなら、鏡を持たない社会に鏡像段階説はあてはまらないという反論が封じられることになるのかもしれませんね。

ほかに、言語との関わりで興味深い一節が。

非常に興味深い種類のミラーニューロンとして、実行される行動にあらかじめ論理的に関係している観察行動をコードするものがある。「論理的に関係する」ミラーニューロンとは、たとえばテーブルの上に置かれた食物を見たときにも、サルが食物のかけらをつかんで口を運んだときにも発火するニューロンだ。この種の細胞は、単に観察された行動だけでなく、それに付随する意図をコードするのにも欠かせない多数のミラーニューロンの連鎖の一部をなしているのかもしれない。その意図は、たとえばカップに手を伸ばし、カップをつかみ、口元に運び、そしてカップから飲む、という一連の単純な行動の連鎖を通じて達成されることになる。(p. 40)

このようなことを聞くと、私などは「ああ、換喩のことかな」などと連想してしまいます。ものごとの隣接性にもとづいてあるものを別の何かで現すレトリックであり論理である換喩(王様を「玉座」といってみたり、太っている人を「ピザ」と揶揄してみたり)は、行動の連続性をあらわす常軌の例とは違うのかもしれませんが、なにか連続したものを捉える神経的組織のようなものが、換喩や隠喩についてもきっとそのうち発見されるのだろうなと予感させられます。

 ***

というわけで、比較的新しい発見なので応用的なところは推測も多いですが、身体論の発展のうえで期待をかきたてられる一冊でした。

*1:たとえば「共感のファームウェア - 書評 - ミラーニューロンの発見」『404 Blog Not Found』http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51217877.html

*2:「今期アニメの主題歌映像、ミラーニューロンとダンスアニメ」『ピアノ・ファイア』 http://d.hatena.ne.jp/izumino/20111025/p1

*3:たとえば「【MMD】魔王エンジェルにまっさらブルージーンズを踊ってもらった」http://www.nicovideo.jp/watch/sm13915062

*4:「団体行動のすすめ」http://blog.tatsuru.com/2010/09/05_1105.php、「驚くことばかり」http://blog.tatsuru.com/2007/02/13_0843.php、「ついにロレンス・トーブさんに会う」http://blog.tatsuru.com/2007/02/20_1015.php

*5:上村博 1998 『身体と芸術』 昭和堂、pp. 125-7

*6:増田聡 2008 「電子楽器の身体性:テクノ・ミュージックと身体の布置」 山田陽一編『音楽する身体 ――〈わたし〉へと広がる響き』 昭和堂、pp. 113-136、p. 126

*7:前掲書、pp. 126-7

*8:クラシックにおいては、作品が優越するために、理想的には演奏者の姿は見えないほうがよいという考えを持ったものがいた、という事例が細川周平の『レコードの美学』にありましたけれど。

*9:とはいえ、ウィトゲンシュタインが「痛みの文法」の議論――私たちは他者の痛みを痛むことはできない――で示した「感覚の私秘性」などの独我論的な問題を覆すものではないように思いますが