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Jablogy

Sound, Language, and Human

村井康司 『ジャズの明日へ ―― コンテンポラリー・ジャズの歴史』

スイングジャーナル』や『ジャズ批評』で活躍されている(た)ジャズ批評家村井康司による60年代〜現代までのフュージョンやコンテンポラリー・ジャズをジャズ史として位置づけようという挑戦的な一冊。

ジャズの明日へ―コンテンポラリー・ジャズの歴史

ジャズの明日へ―コンテンポラリー・ジャズの歴史

ジャズは60年代末に死んだ?

なぜ挑戦的かといえば、保守的なジャズ言説ではジャズはジョン・コルトレーンと共に死んだことになっていたり、そうでなくてもブリティシュ・インヴェイジョンによるロックの主流化によって終わったものになっていたりするためです。

そのあとの、70年代以降の電化してファンクビートやロックを取り入れたジャズはクロスオーヴァー、後にフュージョンとよばれジャズ史からは正統派とはみなされない状態が続いていたといっていいと思います。

70年代でもチック・コリアジャコ・パストリアスなど、電化した楽器による新しいスタイルでストレートアヘッドなジャズを演奏した人たちもいましたが、彼らへの評価も固まっているとは言いがたいでしょう。

私の演奏者としての実感からするとフュージョンもジャズのマインド・コンセプトを持った音楽であり、ジャズ史、すくなくともそれと深く関わる歴史的なファクターとして捉えるべきだと考えていたので、本書にもっと早く出会えていたらと少し歯がゆいくらいでした*1

こちら大谷能生による簡潔で適切な書評もありますので参考に。

演奏する批評家

村井は自身でも演奏をするそうで、そのため理論の説明もうまいです。モード・コンセプトの説明は楽譜を使わないものとしては最もわかりやすいものの一つだと思います。

次のサイトが演奏者兼批評家としての村井についてよく説明しているので引用してみます。

村井康司は批評家である前に演奏者である。アマチュア・ビッグバンドの主宰者として伝統的なフォーマットの枠内できちんと音楽を組織する一方で、ギタリストとしてもビバップからアヴァンギャルドまで幅広くこなす豊かな音楽性を持っている。そして、これは特筆すべきことであるが、村井康司は演奏者である以前に鑑賞者である。演奏者にして批評家である場合、音楽用語を必要以上に羅列したり、何よりも演奏者にしか分からないような些末なことで却って審美眼が曇ってしまうことが往々にしてあるが、この著者はそうではない。鑑賞者として「美しい」と感じたことを徹底的に分析し、それから他の表現者との関係の中で位置づける。多くの読者は村井康司の文章を読んで、「よくぞ言ってくれた」と思うはずだ。今まで聴き手としてずっと感じていたけれども何だかよく分からなかった「あの感じ」に言葉が与えられる喜び。驚き。それが、村井康司の方法である。

http://www.koshinfu.com/jazznoashitahe.html

自分で実践しないものには対象を語れないという考え方には私は与しませんが、調査・取材の一貫として自分でもやってみたほうが理解が進む部分があることもまた事実ですね。

特にジャズライフ以外では演奏者視点によるまとまった批評というのはあまり多くなかったように思いますので*2菊地成孔大谷能生コンビと共に貴重な語り手だと思います。

内容

本書は3つの章に分かれていて、それぞれにおいて60年代、70年代、80年代を俯瞰しています*3

60年代のもので興味深かったのは、ファンキー・ジャズがJBなどのファンクに比べてあまりファンキーに聞こえないことの説明(ハードバップが一般のイメージよりもインテレクチャルな音楽である)、オーネット・コールマンの特徴がメロディセンスにあるという指摘、新主流派のどこが「主流的」だったのか(後のジャズが参照すべき伝統の範囲と重なり、また自身もコードワークなどの面で後の基準になっている)、などでした。

 *

70年代についてはあまり印象に残っていないのですが、フュージョン現象とウィントン・マルサリスの音楽のどちらもが過去をデータベースとして参照し「分析と統合」を行うことによって作られていて、いかにウィントンがジャズの正当な後継者を自認しても、その音楽は「フュージョン的」である、との指摘は面白いです。

こういうポストモダン性については大和田俊之『アメリカ音楽史』でもいわれていましたね。あちらはマイルス・デイビスのモード・ジャズからすでにポストモダン性を見ていましたが。

 *

80年代においてはウィントン・マルサリスキース・ジャレットキップ・ハンラハンジョン・ゾーンパット・メセニー、復帰後のマイルス・デイビス、が取り上げられています。

ウィントン・マルサリス評は村上春樹の『意味がなければスイングはない』(文藝春秋、2005年)におけるものと軌を一にするものといえるでしょう。いわゆる優等生的な音楽のありかたのつまらなさを批判する感じです。

ジョン・ゾーン評は彼の音楽の面白さについて、ライブの重要性、ゲーム・コンポジション、ユダヤ性などポイントをおさえた紹介がされていて、私自身あまりゾーンの音楽に詳しくなかったので大変参考になりました

パット・メセニー評は彼(を始めとしたコンテンポラリージャズギタリスト達)のカントリー音楽のルーツについてなど、大変頷くところが多かったです。

伝統と発展と批評と

最後に村井の考えるジャズの伝統をふまえた発展と批評との関係について面白いところがあったので引用して締めとさせていただきましょう。

 あまりにそのままの「なぞり」はつまらないし、かと言って観念的すぎるアプローチは疲れてしまうが、僕は「伝統の継承」の形態は、なるべく多様であってほしい、と思っている。ここで重要なのは、さまざまなミュージシャンたちが多様な方法で行っている「伝統の発展的継承」を、なるべく幅広く紹介し、聴き手のアクセスが容易にできるようにするための、ジャーナリズムや音楽の送り手側の努力なのだと思う。もちろん、幅広く紹介することは、すべての音楽をただ肯定することではない。アプローチの多様性を基本的には肯定しつつ、個々の作品についてはきちんとした評価を下し、そのことを通じて多様なものがざわめく世界の上に、自分なりのパースペクティヴを描いていくこと。もし批評家という存在になにがしかの意味があるのだとすれば、それはそのことを措いて他にないはずだ。(p. 244)

「個々の作品についてのきちんとした評価」を下すのは(特に客観的な基準を立てることは)容易なことではないと思われますが、逆にそれ故、聴き手それぞれの基準・パースペクティブをしっかり提示していくのが大切という点は同意できるものです。

続いて村井はそれぞれの基準を持つ上で必要になるであろう姿勢について言及します。

 そして、もしかしたらミュージシャンの努力以上に「明日のジャズ」のために大切なものは、聴き手の「耳の姿勢」なのだと思う。もちろん聴き手は自分の好きなものだけを好きなように聴く権利を持っているのだし、一種類の「指導的ジャズ雑誌」と数人の「指導的批評家」の意見によって聴き手の嗜好が決定されていく、などという状態(そんな時代がこれからやってくるとも思えないが)は決して歓迎すべきではないだろう。僕がここで言いたいのは、多様な試み、多様なジャンル、多様なタイプの音楽を先入観なく聴いて、そこから自分なりの新たな音楽聴取の喜びを見いだし、そうすることによって以前聴いた音楽にも新しい意味を聴きとる……という「耳の更新」を常に行う聴き手が増えることによって、「明日のジャズ」は生き生きとした豊かなものになるはずだ、ということだ。(pp. 244-5)

テクノロジーや状況の変化によって次々に新しいサウンドが生まれてくる中、「こんなのはジャズじゃない」と簡単に拒否するのではなく(ジャズに限ったことではありませんが)、その音楽自身の面白さを探り、また自分なりの楽しみ方を見つけるオープンな姿勢でいることが、「明日のジャズ」のために必要であろうことは全く同意です。

*1:本書が必読書として語られていない時点で私のような捉え方の劣勢を感じてしまいますw

*2:私の不勉強だったらすみません

*3:章をディケイドで区切る一方、歴史区分として村井は59年と67年を大きなターニングポイントとしています。これによると、ジャス草創期からニューオーリンズ、スイングジャズ(40年代まで)、モダンジャズ期(40〜60年代)、そして現代(67年〜)ということになります。