Jablogy

Sound, Language, and Human

ジャン=ジャック・ナティエ 『音楽記号学』

音楽記号学

音楽記号学

  • Nattiez, Jean-Jacques. 1987 Musicologie Générale et Sémiologie. Paris : C. Bourgois. (ジャン=ジャック・ナティエ 『音楽記号学』 足立美比古訳、春秋社、1996年) 

本書は、ジャン・モリノの「記号学的三分法」を導入して、音楽学のさまざまな局面にある問題をあぶり出しつつ、この三分法の利点を提示していく、という「一般音楽学と記号学」(原題の直訳)を論じたもの。

記号学的三分法」を導入するというのは、簡単に言ってしまえば、作り手が創作する過程と、作られたものが持っている構造と、それを読んだり聴いたりするときの有り様とをそれぞれわけて認識し論じるべきだという、言われてみれば当然そうすべきと思ってしまうようなことです。けれども、コンベンショナルな音楽の言説ではこれが意外に混同されてきていることが本書では繰り返し示されています。

こうした基本ラインは支持できるもののようですが、前著を含めた批判の経緯を論じ、中立レベルに関する理論的瑕疵を指摘している論文はみつかりました。

内容が抽象的で難しいので途中までになっています(それでも一万字超えw)がノートをとってみましたので、該当する章を読むときのレジュメ代わりにでもしていただけたらと思います。

以下ノート


序論・第1章でまず三分法の記号学的な位置づけを論じて定式化を図り、続く第1~3部で三分法の適用例が仔細に・繰り返して論じられている。

「第1部 音楽学的事実の記号学」では音楽の定義の問題、作品概念、電子音響音楽、音楽が表現する意味、が主題になっている。

「第2部 音楽的言説の記号学」で論じられているのは、音楽を三分法で分析すること、分析の言説をメタ的に三分法で分析すること、音楽家の言説と三分法の関係である。

「第3部 音楽的パラメータの記号学」では和声、旋律、リズム、調性といった音楽の基本的な要素が検討されている。

第1章 記号学の理論

ソシュールの記号概念。 シニフィアンシニフィエの区別によって意味するもの・されるものという二項を明確にしたこと、関係値(valuer、すなわち相互に異なることによって体系をなす、その差異)の概念によって音韻論・構造主義の先駆をなしたことはよい。がシニフィアンシニフィエが固定した静的な関係になければならない点は(特に音楽において)不都合。なのでパースの記号論をつかう。

パースの記号概念 「記号=代理項」「対象」「解釈項(記号を読むものによる解釈のイメージのようなもの。それ自体が記号)」の三者関係。解釈は無限にありうる。

「記号の指示対象とは記号使用者が見出そうとする無数の解釈項のうちにしか存在しない《潜在的的 virtual》な対象であり、また無数の解釈項によってしか存在しない《潜在的的》な対象である」(p. 7)

創出、中立、感受の3分法+対象レヴェルと分析レヴェルの区別。p.18

狭義のコミュニケーションが成立する場合もあるが、規範的にそうでなければならないとはいえない(p. 20) 発信者と受信者でコードがかならず一致しなければならないのでもない ヤコブソンにとっては必然。エーコにとっては不一致でも構わないがコードすなわち構造であるためソシュール的な構造主義の意味のアポリアに陥り、多様な解釈項が無限のコードを要請してしまう。

本書の目的は象徴形式の一つとしての音楽のあり方を明らかにしようとすること。だが音楽は多義的であり、それが喚起するものとの関係も曖昧であるため、「象徴形式」という言葉は最広義で、すなわち「解釈項の複雑なネットワークを生み出す音楽の可能的な力を意味するために」用いられる(p. 46)以下、本書ではこの解釈項のネットワークがいかに創造・中立・感受の3つに枝分かれするかを見ていく。

第2章 音楽の概念

何が音楽でそうでないかは文化によって、ひとつの文化の中(ここでは西洋)でも様々。音が共通変数でない場合さえある(運動感覚、視覚)。

雑音の定義に見られる三レヴェル  - 中立:音響的=安定した波形/不安定・不規則な振動  - 創出:音楽的な音/そうでない音  - 感受:感覚的に快い音/不快な音

→立場によって同じ音が音楽的だったり雑音だったりする  (ex. 出てきた当時のトリスタン和音

「音楽が人間の文化によって音楽になるように、雑音もまた人間の文化によって快不快またはその両者の性質を備えたものとなる」。また音楽と雑音の境界線はつねに文化によって引かれたものである。そして、そのことはまた同じ社会においてもその境界がいつも同じであるとは限らないこと、つまりそこにいつも同じコンセンサスがあるとは限らないことを意味しているのである。(p. 61)

二十世紀の西洋芸術音楽でもなにがノイズであるかの基準はアーティストによって様々だった

[現象学的還元にヒントを得た、音色そのものを聴く《還元的な聴取》を可能にするために] ルッソロもまた騒音《芸術》から「聴けばなんの音かすぐに判るような音」を追放しようとする規範的な態度を貫いている。「騒音を芸術にするためには騒音の音色を《抽象的なもの》にしなければならない。事実《日常生活において出合う》騒音はその音源を連想させるためにすぐさま日常生活そのものを思い出させてしまう」。「騒音がもつあらゆる《因果関係》的な性格(Russolo, 1975: 106)を払拭しなければならない。(p. 106)

Russolo, L. 1975 L'art des bruits(1913). préface de Giovanni Lista, Lausanne, L'âge d'homme.

民族音楽においてもなにが音楽であるかはさまざまであり、西洋で音楽とするようなものでも遊びに分類されることもある

三分法の三つの面いずれかにどれだけのウエイトをかけるかを決定するのは文化そのものである。「こういった実態の詳細を明らかにするものこそ記号学の一部を成す人類学的なアプローチにほかならないのである」(p. 74)

アラン・P・メリアム『音楽人類学』における三分法「概念」「行動」「音」、と記号学的三分法の関係

今まで我々が述べてきたような《指示理論》は、(音楽的な事実から多種多様な解釈項を引き出し、音楽のうちに見られる内在面を想像上の戦略や感受上の戦略から区別するという意味において)メリアムのこういった三分法を明確にした理論的なモデルとなっているのである。(p. 77)

エミックなアプローチだけでは「全世界の音楽は実際上《西洋的》な概念装置なしで分析しなければならなくなる」(p. 79)のでエティックな中立分析レベルとイーミックな創出・感受レベルの分析が必要であり、「《中立レヴェル分析》(音の内在的な布置関係の分析)というものは民族誌的な研究によってしか明らかにすることができない《文化的な文節区分》を《参照するようなものでなければならない》」(p. 78)。

音楽の普遍項を見る際にも三分法が問題になる。 ブラッキングは「鏡像形式・主題変奏・反復・二部形式」などが音楽の普遍項であるようだと述べたが、「音が鏡像構造をもつか否かに関する『決定や判断』の方は音の単なる聴取からメタ言語的な規定に移行する際に用いられる判断の基準に強く依存している」(p. 81)

エティックから見て同一な音でもエミックから見ると違う、あるいは逆にエティックから見てことなる音現象もエミックから見ると同一であったりする。 よって、音楽の普遍項は内在的な構造のうちにではなく「《音現象にまつわる〈行動〉》」や《戦略上の普遍項》=「創造上の戦略」と「感受上の戦略」すなわち《プロセス》のうちのうちに求められなければならない(pp.84-6)。

第3章 音楽作品の概念

第1節 音楽作品の物質形態と存在形態

インガルデンによる作品概念の分析 - 音楽作品は個々の演奏そのものではない - 音楽作品は「今ここにおける」聴き手の知覚そのものではない - 音楽作品とは現実の音そのものではない - 音楽作品というものは楽譜そのものであるわけではない  → つまり、音楽作品とは「純粋に志向的な対象」であり   「音楽家の創造と楽譜によって現実化されるもの」である

これを三分法からとらえると

作品の「存在」とは《楽譜》に書き込まれた「枠組み」がもつ《創出的》な志向性であるのに対して、作品の「現実」とは多様な《演奏》とそれらに対する様々な《感受》上の戦略である(p. 89)

第2節 記号学・楽譜・採譜

J.S.バッハのような複雑なことをやるには楽譜が不可欠だとして、「音楽が解釈(演奏)を必要とする芸術だとするなら、いったいどこまでが創出活動であり、どこからが感受活動であると言うことができるのか」(p. 91)

演奏者の感受活動が始まるのは、「楽譜を読み始めた時」と「演奏しはじめたとき」。 作品を「演奏されない限り完全な形では実現されないもの」とするなら演奏が終わるまで創出活動は終わらない。そして、演奏は創出活動の終点であると同時に感受(聴取)活動の始点ということになる。 楽譜がない音楽の場合解釈者と創出者は同一でありえる。

中立レベルは楽譜・採譜に限られ、音楽記号学にとっては楽譜が不可欠とナティエいっている。

// その理由はよくわからない。演奏会や録音物を聴いて言葉で表現したのではダメなのか? このあたりが冒頭にあげた椎名亮輔の論点と関わるのだろう

我々は何も分析対象とする音楽を表記可能な音楽作品のみに限るといって言っているわけではない。厳密な音楽分析の立場に立った上で、ただ離散化のみが分析対象を明示することができ、絶えざる議論や知の累積的な発展を促すことになると言っているだけなのである」(p. 102)

第3節 解釈の記号学

クラシックの場合、聴衆が作品の演奏や演出に対して行なっている解釈と、聴衆が作曲者の真理として作品の本質としている解釈を突き合わせること、が解釈の正当性の判断となっている。 その場合、はたして正当な解釈にもとづいた演奏などというものはいったいありえるのか、演奏が解釈であるならどの程度そうなのか。→分析をあつかうところで再度とりあげる

第4節 楽譜・作曲・分析

 楽譜は一定の音楽的な習慣を前提として書かれ、、その中で特に重要とされているパラメータに集中して記号化する。そのため時代がすぎればその読み方(解読のコード)は失われ、「正しい読み方」はできなくなる。新しいことを試したい作曲家は既存の記譜法では従来のパラメータにしばられるため、新しい記譜法を創りだそうとする(20世紀の図形楽譜のように)が、習慣を前提にしないため読み方を統一させることができず一般性を犠牲にすることになる。

第5節 開かれた作品の問題

芸術作品が曖昧さをもつことに価値を見出そうとする「開かれた作品」の概念は記号学的三分法の三つのレヴェルを混同している。メッセージが曖昧だとしてもそれは感受レヴェルの話であるに過ぎないのに、曖昧さを規範的な創出の原理にしようとしている。(pp. 104-5)

創出レヴェルで「開放性(演奏する音楽家の選択による変化)」を与えておいたとしても感受レヴェルでそれがわかるとは限らない。現にナティエが学生に実験してみたら教えるまで気づいていなかったし、ピュートルは作品の中で説明してしまっている。

以上述べてきたような誤解はすべて、モダニストの間になおも残り続けているロマン主義的な作品概念からきている。『ピアノ作品XI』のX個のヴァージョンの彼方にある《同一》の作品なぞシュトックハウゼンの意図や目論見のうちにしかあり得ない。〔……〕たとえジルソンが言うように美的な芸術が創造的なものであるとしても、作品は「創出レヴェル」「物質(中立)レヴェル」「感受レヴェル」のどれか一つに還元できるようなものではないのである。〔……〕グローバルな記号学的な分析は、つねにこれら三つの面をすべて考えあわせなければならない。つまり、開かれた作品の場合なら、「作曲家の創出面」「そこから生まれた多種多様な物的な産物」「これら両者に対する聴き手の反応」といったものを詳細に検討しなければならないのである。(p. 109)

第6節 プロセスと即興

歌うたびに節回しや歌詞の細部が異なる即興性の強い民謡がある この場合ある歌は作品と呼ぶべきか、作品に基づかない即興と呼ぶべきか。

「たいていの研究者によれば、即興にはつねに何らかの《モデル》と呼べるようなものがある」(p. 110)。(例としてあげられているルーマニアの挽歌ボチェトの場合、モデルとなっているのは記憶にあるかつて聴いた即興演奏。これはかつて聴いたものを再現しようとする意図を持つため楽譜に近い。)そして、即興演奏には文化的・習慣的な諸規則からくる定形面とともに《プロセス》――創出・感受の過程――がある。

即興的なものの録音や採譜(中立分析)から得られるのはプロセスではなくその《産物》にすぎないが、「中立分析は、即興的な音楽の採集資料に対してさらに深い感受分析を行なっていく上では必要なものであり、だからまた正当なものでもある」し、「音楽の活動プロセスを分析するためには、かなり静的な中立レヴェル分析とまさに動的な創造分析の間を往き来する必要がある」(p. 113) 中立レベルから創出レヴェルへどうやって至るかの話は第6章で行われる。

第4章 音のオブジェの記号学的地位

パス

第5章 音楽の象徴的意味世界

音楽はいったい何を表現するのか。指示物、感情、形式そのもの、運動感覚
→音楽の意味論

エティエンヌ・ジルソンによる音楽美学の(歴史)区分

ハンスリックらも表現的なことがらを採用する場合があることを考えるのに次のマイヤーのものを参考にする

マイヤーの音楽美学分類

  • 絶対主義者:作品内的構造関係のみ
  • 指示主義者:概念・性格・行動・情動などを指示
  • 形式主義者:=絶対主義
  • 表現主義者:表現が音楽そのものなら絶対主義者、感情なら指示主義者

ストラヴィンスキー「内在的な立場から言うなら音楽は感情の表現ではない」
ハンスリック「音楽が喚起するのは音楽的な事実の副産物でしかない」(p.140)
音楽が感情を喚起することはない、とはいっていない

ハンスリックの美学を三分法で整理

(一)《経験的な立場》
 (イ)創出面:作曲家の感情は純音楽的な形式としてしか表れてこない。
 (ロ)中立面:音楽の内容は形式である。
 (ハ)感受面:感情は形式の産物である。
        感情の源は音楽そのもののうちに求められなければならない
(二)《規範的な立場》
 (イ)創出面:音楽を模倣的もしくは感情的な表題に基づいて書いてはならない。オペラにおいては音楽が優先されなければならない。
 (ロ)中立面:《美とは形式以外の何物でもない》。
 (ハ)感受面:聴取は感情を免れることはできない。とはいえ、それは形式の純粋な観照にまで高められた上での話でなければならない。(p. 141)

ヤコブソンの音楽意味論 「内的な意味」「外的な意味」「音楽は外的な対象を支持するよりはむしろ《自己自身を意味する言語》」(p. 143。感情作用は認めるが構造があった上でのこと。

ヤコブソンが音楽に与えている定義は《アプリオリ》な形で構造主義に依拠するものである。ヤコブソンによれば音楽と詩に《固有なもの》とはそれらの《構造》のうちにあるからである。(p. 145)

ヤコブソンと同様の立場をとるリュヴェ
  終止をやり遂げた運動、偽終止を途中で阻害された運動と捉える
 →結局音楽外に訴えてしまっている(p.146)

我々は音楽的な意味の本質に関する考えを各々の時代・文化・音楽観が「内在的な指示 renvoi intrinséque」と「外在的な指示 renvoi externe」のどちらを多少とも《重視》するかに応じて変わってくるような記号学的な現象の一つであると考えている。(p. 149)

内在的指示→内音楽的指示(楽曲構造)、間音楽的指示(楽曲とジャンル全体)

外的象徴作用の働く場所:「時空領域」「運動領域」「感情領域」

音楽が自然に喚起・指示している運動的・感情的な感覚の多くは実際は文化的な条件による(和声の安定/不安定、音の「高さ」、調の正確)

音楽がもつ意味内容は生物学的・心理学的・文化的な基盤に支えられている。しかし、我々はいかなる還元主義的また機械論的な説明からも身を守らなければならない。隠された意味を明文化するためには、解釈項の特定の布置関係から成る象徴化のプロセスが明らかにされなければならない。しかも、解釈項のこの特定の布置は自然の分節関係を最大限参照した上で明らかにされなければならない(p. 161)

第6章 音楽分析の対象

この章では音楽を分析する人が置かれる状況と、分析の対象が持ちうる性質、パラメータが論じられている。

第2節 分析状況

分析者が置かれる状況の第一として、分析資料の《物質面》がある。(個別作品か、作品群か、録音か、フィールド採集か、etc...)

次に分析の初期条件、目的をどう設定するかというのが大きい(個別作品、作曲家の時期ごとの様式、個人様式、時代様式、etc...)。ナティエは様式のことしか言っていないが「民族誌の三者構造」のような誰に向けて書くかの問題もここに入りうると思われる。

そして分析するにあたり、あるいは分析されたものを読むにあたり、記号学的三分法のどこに注目をむけているか、が状況として重要になる。コンベンショナルな音楽学(ここではブーレーズやジャック・シャイエが挙げられている)はたいてい三分法を混同するかそのうちひとつに還元した説明をしようとするかである。ナティエは、三レヴェルをすべて扱い、それらを総合しホリスティックに音楽を捉えるべきと考えている。

第3節 分析系統の三分類:第一次近似

モリノは三レヴェルは別のものであると考えていて、それらを総合しようとすることには難色を示している。音楽学者が中立レヴェル分析から創出特性と感受特性の分析へと進むことができることを示すために、p. 176からの六つの図(下に簡略化してメモしておく)によって、三つのレヴェル同士の関係が吟味される。

・三レヴェル同士の関係についての分析状況

1.         [内在的作品]
 中立レベルのみに注目する(構造主義的な)分析

2. [創出過程] ← [作品]
 「帰納された創出過程」。比較によって根拠付ける必要あり

3. [創出情報] → [作品(の分析)]
 「外的な創出過程」。作者の手紙やスケッチなどを参考に作品を分析

4.         [作品] → [感受過程]
  たいていの音楽学者がとる普通ならこう聞くという態度

5.         [作品] ← [感受情報] 
  実験心理学などが典型的。

6.   [  ] = [  ] = [  ]
 三つの全てに関わる、三つをバランスよく含むもの

 

第4節 変数の自立化

前節までの分析状況の話から変わって、この節では分析対象である音楽から分析によって選び出される音楽のいろいろな変数・パラメータについての話にうつる。

変数は音楽テクストに含まれるかどうかによってまず、「外的変数」「内的変数」に分けられる。

音色、和声、旋律、演奏者と作曲家の関係、演奏者と聴衆の関係、などいろいろ変数はあるが、分析者は任意にどれを取り出しても構わない。音楽の創出過程(特に様式の変化などにおいて)はそれらの変数のうち特定のものが特権的なものとして選択される(私には近代西洋に特有の事情のようにイメージされるが、民族音楽などでも変化するときは「特定のパラメータ」を取り出すものだろうか)。これをモリノ—ナティエは「変数の自立化」と呼んでいるようだ。

音楽分析は「特権化された変数を見出すことによって通時的な観点から特定変数群の変化について説明しなければならない」(p. 181)。これにより、(ヴェルフリン的な)様式の内的な発展のダイナミズムも捉えられることになる。もっとも、自然的な法則に則った目的論的な発展があるのだとナティエが考えているわけではなく、むしろ各時代における作者の創出・感受過程に影響をあたえた要因を考慮し、歴史を描くべきといっている(「聴取と創造の弁証法」p. 184)。例えばヴェーベルンがバッハやルネサンス音楽を誤解して聴き、創作のヒントにしたように。こうした感受と創出の連鎖はp. 185に図式化されている。

以上、音楽分析が何をやろうとしているかを知ろうとするとき念頭に置かなければならないことがらが本章で論じられた。まとめると:

(一)研究の資料面(対象となる個別作品と作品群の関係)
(二)分析者が対象としている様式特性のレヴェル
(三)選択されている分析状況
(四)作品や資料の中にあってとくに対象とされているパラメータ(群)
(五)選択されている分析様式

第7章 音楽分析の記号学

本章で論じられるのは音楽の分析につかわれる言葉・方法など。これも記号学的三分法の観点からさらにメタ的に分析されている。

第1節 メタ言語としての分析言説

第1節では分析言説の音楽(やコンテクスト)に対する位置付けが論じられる。「メタ言語としての」というのは音楽という対象に対してメタレベルである、というの意味のようだ。

体験される音楽そのものを直接言葉で描写するのは不可能であるが、音楽を言葉にするなど無意味だなどと「音楽的な言説が持つ不十分さを指摘しまたそれを非難」するのは、「記号的であると同時にメタ言語的でもある言語の特殊な位置を十分にわきまえていない」からだとナティエはいう。つまり「メタ音楽的な言説は音楽的な事実とは別な事実」すなわち作品がどのようなものであるか、作品がどのように機能しているか、に関わっているのである(p. 194)。

まさしくそのような意味において、分析とは実のところ作品の《シミュレーション》なのであり、また最も厳密に行われた場合には《モデル》なのであって、けして作品の《レプリカ(写し)》といったようなものではない。(p. 194)

音楽の領域においていろいろとやっかいな問題が生じてくるのは、音楽分析の言説が「音の痕跡の聴取を目的とした実際の作曲・演奏・聴取の行為」を分析し説明するためそれらを理論的にシミュレートしなければならないからである。物理学者が「自然現象を知覚すること(太陽系は知覚されるためにあるわけではない)」と「音楽の聴き手が音楽現象を知覚すること(音楽作品は近くされなければ意味を持たない)」の間には大きな違いがある。中立レヴェル分析がどうしても必要になるのは(他にも理由はあるのだが)このように音楽学者の聴取と聴き手の自然な聴取がけして同じものではあり得ないからである(pp. 195-6)

第2節 分析的言説の中立レヴェル

つづいて第2節では様々な旋律用語の混乱と音楽について語るための言語のタイプが論じられる。

具体例は本書に譲るが、「音細胞」「音型」「楽句」「楽節」「動機」「主題」などの用語は一つの立場からの説明の内側でも循環定義のようになっており、また別な分析学派では同じ言葉でも意味合いが違ったりする。

この理由は、分析のメタ言語というものが「《各分析学派ごとに》様々な仕方や度合いにおいて開発されてきたものであるから」である(p. 206)。ゆえに:

こういった分析用のメタ言語がどのくらい洗練されているかは、分析を支えている等の基準如何に係っている。〔……〕自己の方法に相応しいメタ言語を開発するだけでは不十分なのである。それだけではなく、自己の分析原理が何であるかを明確にしなければならない。「自己の方法に相応しいメタ言語を開発すること」と「自己の分析基準を明確化すること」とは、なるほどある程度まで重なり合う面をもつにせよあくまでも別個の問題なのである。(p. 207)

第3節でも言及されているように、このように「自らが用いている方法を明らかにすることは《知の累積的な進歩》を生み出していくためにもまた追試可能なものとなり納得のいく言説を生み出し続けていくためにも当然役立つことであろう」(p. 229)。

 *

つぎに、以上のような問題関心から、音楽について語るにはどのようなタイプの言語を用いるべきか、の議論へ移る。

ナティエは言説のあり方を大きく《語りの言説》と《モデル化された言説》のニタイプにわけ、前者にはさらに三つの下位区分を設けている。

《語りの言説》における下位区分とは《印象批評的な言説》《言い換え》《テクスト解釈》の三つである。

《印象批評的な言説》は詩的なレトリックで聴いた印象や音の様子を表すもの、《言い換え》は楽典・音楽理論のタームを多用し逐一音の様子を描写していくもの、《テクスト解釈》は(印象批評と区別する基準がよくわからないのだが)作品外のコンテクストも参照はしつつ、その作品がもつ本質的な意味を解釈しようとするもの、である。これら三つの言説タイプは描写をする上で言葉以外の手段を用いないので《語りの言説》と呼ばれる。

《モデル化された言説》は様々な変数を抽出し統計的・数理的に描き出すもののようだ。

《モデル化~》の方がより科学的でよさそうに思われるが、信頼性は高くとも妥当性がもうひとつ、といった自体も考えられる(し、実際あるようだ)ので、必ずしも《語りの~》が劣っているというわけではない。科学的・形式的な言語によって厳密に中立レヴェルを描写することができても、その他創出・感受のレヴェルを看過しては価値が大きく下がる(ので記号学的三分法が優位有用であるとナティエは言っているようだ)。

第3節 分析の創出面

ここでは分析がどのような学問的背景、個人の思想・思考的背景から生み出されるかが論じられている。

一例目はアラン・ローマックスによる歴史的かつ文化的な説明方式についてである。

ローマックスのカントメトリクスは比較文化論的な視点をとり、コンピュータや統計を用いて、世界中の諸文化における音楽様式特性を文化特性によって説明しようとするものだった(中立面)。

ついでローマックス理論の創出面が論じられる。学問的・ディシプリン的な背景としてドイツ系の比較音楽学の立場を受け継いており、文化特性に基づく比較論的視点はヘレン・ロバーツ、ジョージ・ハーツォグ、ブルーノ・ネトゥルらから受け継いでいる。また、直接の影響関係があるという証拠はないが、深層の構造が文化的な表出を決定づけるというパースペクティブはマルクス主義や構造主義のものと相似である。ローマックスの創出面の背景はこのようなコンテクストに置かれている。

二例目はレイボヴィッツによるドビュッシーペレアス』の分析について。詳細は本文にゆずるが、ナティエによるとレイボヴィッツは和製理論からするとかなり強引な解釈を『ペレアス』施しているという (pp. 221-2)。なぜか? 「彼にそのようなことをさせたのはまさに分析を行っている当のレイボヴィッツ自身の創出過程に他ならない」(p .222)。レイボヴィッツは『ペレアス』が「すべての面において現実と非現実の弁証法によっている」とみなしており、そうした「思想上の中核」が「分析上の《アプリオリ》」を生み出しているとナティエは述べる(pp. 222-3)。

// 分析者が持つものの見方・枠組みが分析自体に影響するというのはごく当然であるし、それを問題としてとりあげなければ、というナティエのいいようも理解できる。

ものの見方・枠組み(ナティエはポール・ヴェーヌから借りて「プロット」と呼んでいる)によって分析が変わるなら、「音楽学者の扱うことのできる特性は無限に存在」し、分析結果も同様になる。

このような事情があるので分析を行う/取り上げて論じる場合には:

《既存》の分析を論じる場合にもまた《これから分析を行う》場合にも中心的な役割を果たしている分析基準を一般原理と細部の方法の両面にわたって《主題化》することは重要であるように思える。また同じ作品をめぐる分析相互の違いを明らかにする場合でも、我々の目的は《唯一正しい》分析を打ち立てることではなくむしろ分析相互が《食い違っている当の理由を説明可能にする要素を整理分類することにあるのである。(p. 228)

この主題化・整理分類をするためにどういうことをしなければならないかというと、

  • 《既存の分析を批判的に比較検討すること》
  • 新しい分析を行う場合そこで用いられる《分析順を明らかにすること》

の二点である(p. 229)。

第4節 分析の感受面

本節では分析の感受面、すなわち分析が「読まれたり論じられたり人に影響を与えたり」する側面について検討が行われる。

分析が読まれ影響を与えるという科学史的なトピックにおいて欠かせないのはフーコーの系譜学的な視点であり、ここでも取り上げられている。

もし民族音楽学がたどってきた歴史的な経緯の全体をよく見れば、民族音楽学の目的そのものが歴史的にまったく変わってきた経緯がよくわかってくる。そして、これこそまさにフーコーが我々に対して教えてくれた歴史の見方というものであろう。採譜や音階の音響分析に取り憑かれまたとてつもない進化論的な理論構成に取り憑かれたベルリン学派の民族音楽学者たち。文化的なコンテクストによる説明を優先するあまり音響面をまったく無視しがちである音楽人類学者たち。両陣営にとっては《音楽》の意味するものがまったく同じであった試しなど一度もない。そしてこのような事実こそまさにフーコーが抗争や非連続性と呼ぶ歴史的な現象の一つだと言うことができるものにほかなるまい(p. 233)

ある名称で呼ばれる学問も歴史的には目的が大きく変わりうる。病院成立以前と以後でまったく性質の変わったおこないが同じ医学という名称で呼ばれ続けたのはなぜか、同様に「ホルンボステル、ザックス、ブラッキング、ザンプというまったく違う目的をもった研究者たちがなぜ同じように《民族音楽学者》と呼ばれてきたのか」が問題である。

こうした変化・推移は先行する分析・研究・文献を何らかの点で受け継いで、あるいはそれに影響を受けて起こるものである。それは音楽作品・作曲家の影響関係と同様、ある創出過程に基づく成果物=中立面が次の作者に感受されてその創出面に影響を与え次の成果物へつながるという過程を連鎖し続ける(図式 p. 234)。

また音楽分析は音楽の発展そのものにも影響を与える。

音楽理論家が平行五度の禁則を立てれば作曲家はわざとその禁則を破る。ソナタ形式の理論が確立されると、ブラームスがそれに従ってソナタを書く。そしてそういった過程によってさらにまた様々な音楽語法が生み出されていく(pp. 234-5)

そうした影響力があるので、分析や理論は時として規範的な言説として受容されることがある。

多くの理論家・分析家たちは、自らが《真》であることを標榜するだけではなく《美》とはなんであるかを決定しようとする誘惑にも勝てないために《記述的》な言説を誤解し《規範的》な言説として甘受してしまうことすら音楽理論史においてはよく見られるのである。(p. 235)

規範は絶対化しがちであり、いきおい自分の説が絶対・完全・永遠であるとしそれ以外の理論を退けることになりがちである(ナティエが出している例はリーマンとフェティス)が、実際には上のような記号学的な連鎖が起こっている。ナティエの言葉では:

ある者の著作が他のものによって読まれて批判される。そして音楽的な事実から新たなる特性・変数・事実が引き出される。そして、それを用いて新しい分析が行われ新しい理論が作られ新しいプロットが描かれるメタ言説がもつ記号学的な性質とはまさにこういったものにほかならないのである(p. 236)