Jablogy

Sound, Language, and Human

シノハラユウキ「轟音が誘う異世界への扉――Go-qualia試論」へのコメント

やおきさんのエントリ、【シノハラ初め】「音色の話」(Togetter)からピックアップ(」・ω・)」うー!(/・ω・)/にゃー!に釣られて、目は通したけどちゃんと読んでなかったシノハラユウキ氏のねとかるへの寄稿、轟音が誘う異世界への扉――Go-qualia試論を読みました。

中心的な論点を一言で表せば、Go-qualiaのライブの轟音・重低音が別世界への想像をかき立てることから、そのライブを、さらには音楽をフィクションとして捉える試みといえるでしょう。

シノハラと彼が参照するウォルトンがフィクションとそうでないものを区別するときのポイントに「ごっこ遊び的な想像をするのかを指定する命題」があること、つまり想像する対象を言語化出来るかどうかというのがあるようで、ここが音楽(器楽)において問題になりますよね。

シノハラのGo-qualiaライブ以前の立場では物語的な・言語化されうる作品世界をもたない点で音楽(器楽)はフィクションではないとしていたようですが、この論考では轟音・重低音が(「想像を促すもの(prompter)」として働いて?)別世界の音を想像させる点でフィクション的なものとして捉えられるのではないかと言っているようです。そして別世界や遥か無限のかなたを想像させることすなわち「崇高」の美学へとつなげている。

奇しくも、というか以前に目を通したときに無意識に影響されたかもしれませんが、私もVoca brasilairaのライナーノーツで合成音声の音色それ自体が、ある種の虚構世界であることを明確化するのではないかという指摘をしたことがあります。

シノハラは注でとかちトロニカなどの声の断片を積み上げるMAD作品をあげ、断片からキャラ性の全体に迫ろうとする「崇高」な行為と捉えていますが、私は声質*1やレコードの音質それ自体*2も、日常的な音との示差的な対比によって、ある種の虚構世界を立ち上げる*3ものなのではないかと思います。

「崇高」についても思いつきを記しておくと以下のような感じです。

シノハラがGo-qualiaを聴いて感じた「自らの把握を超え出てしまうような、つまり言語化することのできないような感覚」というのは、私はブランフォード・マルサリスやディープ・ルンバのライブで感じたことがあります。

ブランフォードが尊敬するジョン・コルトレーンはスピリチュアルな音楽を追求しましたし、ルンバのもとになったのはサンテリアという宗教の音楽でもあります。シャーマンも脱魂型のトランスにおいて「別の世界とコミュニケートするために」音楽を利用するのだといわれていますね*4。こういう霊性を、ひいてはある種の崇高さを感じさせる性質が音楽にあることはずっと言われてきているのはあります。……というか音楽が無限を想像させる崇高なものだというのはそもそもロマン派や絶対音楽の理念だった気もします。あまり詳しくないので調べないとちゃんとしたことは言えませんが。

以上のように、ある「音色」が「別な世界」を、ひいては「崇高」なものを「想像」させるという興味深いトピックが論じられていますので、言語の有無と虚構の関係など、もう少し発展して論じていただけたらよいなと思いました。今後の議論に期待。

*1:高めのピッチで、かつ大げさなまでに抑揚をつけたアニメ声優いわゆるアニメ声によるの演技がなぜそうなのか、そしてジブリのアニメ映画に登用された俳優や芸能人がなぜ高い評価を受けないのか、もおそらくアニメ声が虚構的な世界を暗示する記号となっていることによるのではないかと私は考えています

*2:よく「空気感」がうんぬんと評されたりする

*3:あるいは明確に〜な世界というのはわからなくてもなにか虚構的な物語世界の存在を暗示する、とか

*4:Needham, Rodney. 1967 “Percussion and Transition.” Man. newseries vol.2 Royal Anthropologycal Institute of Great Britain and Ireland, pp. 606-614