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Jablogy

Sound, Language, and Human

『Vocalo Critique』 vol. 05感想

vocaloid Book

最終刊がすでに発表されているVocalo Critique。vol.05の感想を下書きまでしていたのですが、気になるところをメモしまくっていたらずいぶん長くなってしまい、結果、完成させるのがすっかり遅くなってしまいました。若干今更な感じもありますが、ちょっとでも盛り上がるのに貢献できたらということで、あえてエントリをあげることにします

Vocalo Critiqueの頒布情報はこちら

さて、刊行始まって一年ほどの時間が経つこともあってか、このvol.05あたりから論考としても雑誌としてもグッとクオリティが上がってきている感じがします。

トーク、音ゲー、MMD、UTAU、自他論文のレビュー、統計的分析と切り口もあいかわらずボカロ界隈らしく多面的。

閑話として挿入されている中村屋さんの小噺と与太話も好調で、女子会から締め出された話は悪いと思いつつクスリときてしまいました。軽いペーソスのある語り口はさすが落語好きというところでしょうか。

全体についてはこのくらいにして、つづいて各記事の感想に参りましょう。

ボカロ女子座談会

女性の絵師、生主、歌い手、そしてボカロPを集めて行われた座談会では興味深いトピックが幾つか見られました。

まずボカロ(界隈)とヴィジュアル系との比較。
厨二系歌詞、ファンタジー的な世界観、女装などが共通点としてあげられていますが、私もV系には少女漫画的センスがある*1ように思われていたのでピンときました。
宮台真司なら「現実の虚構化、虚構の現実化」と呼ぶようなことがらかもしれません。

次に「会いにいけるアイドルとしてのボカロP」というトピック。
これはAKBや同人即売会での直接会う体験を重視する最近の文化と通じることがらですね。
表現する人に対面し直接触れ合えることで親近感がわき、CD売れる。
Pであるもぐさんによると「『本人いるー!』って思うと買っちゃう(笑)」(p. 18) とのことです。

メジャーな商業音楽との違いも言及されていました。
ひとつは、ボカロ界隈は音楽のプロが職業とは関係なく・肩の力を抜いて純粋に音楽を楽しめる遊び場としても機能できるということ。
自身プロジャズボーカリストであるとなりちゃんから語られてるので説得力があります。

もう一つは「自分たちの」音楽、文化としてのボカロ。
異文化発の音楽を取り上げるときに残る借り物感が全面化することない、手作り感と適切なファンタジー感のあるボカロは私にとってもhomeを感じるものです。
GoogleのCMに象徴されるようにメジャー化しつつあるボカロですが、座談会のみなさんと同様「この空気は残って欲しい」(まみむさん。p.22)と思います。

ボカロ曲の奏で方 / なぞべーむ

この論考はボカロと音ゲーの関係を解明しようと試みています。
「音楽の享受において演奏が果たす役割とは」とか「楽器・電子的デバイスを演奏するとはいかなることか」といった音楽の楽しみ方の本質的な問題の一端に触れていると思うのですが、実際の論の運びはボカロが登場する音ゲーの紹介に終始していて、私としては少々食い足りないところがありました。

音楽を楽しむやり方の一つとして自分でも歌ったり演奏してみたりというのは、――作曲・演奏と聴衆が分化した西洋音楽では自明ではなかったりしますが――ごく自然なことです。

私は音ゲーをプレイしないので実感としては計りかねるところだありますが、その「参加する楽しみ」が音ゲーを通じて得られるのだというなべぞーむ氏の言葉*2は興味深いです。

音ゲーというのは画面上に流れてくるシグナル(譜面と呼ばれる)に対して適切なタイミングでボタンを押すと曲(ボーカルやメロディ)が流れる、というものだと思いますが、一般化して言えば「プリセットされた音源を鳴らすことをどこまで演奏と呼べるのか」という事になるのかも知れません。

「テクノ(EDM)のライブはみんな再生ボタンを押してるだけ」と発言して物議をかもしたという海外のニュースが入ってきたりしているように、普通レコードをかけるだけでは(レコードの再生もプレイとはいいますけれど・・・)演奏とはみなされません。

録音物を再生するにしても、DJの場合はフロアの空気を読むことやエフェクトをかけることによりある程度のリアルタイム性がありつつ、身体的なコントロールと根本的にずれをはらまざるを得ないことをも楽しむようになっていると増田聡は指摘しています*3

また神保彰のワンマンオーケストラではパッドを叩くタイミングは生の身体とシンクロしているけれど、音色が出現する順番はプリセットであり自由度はないわけで、もしメトロノームによる同期までいれたらほとんど音ゲーと変わりないかも知れません。

反対に音ゲーからみても、複雑な「譜面」をこなすのはクラシックで難曲をこなすのとそう変わらないかもしれない。つまり、楽器演奏においてヴァーチュオシティを競うのと、ビデオゲームの神業をマスターするのと、ジャグリングすること、そして音ゲーの難曲とは困難な技巧によるパフォーマンスの達成という点では共通しそうです。

以上のように生演奏とプリセットの演奏の関係はかならずしも明確に分けられるものでもない、というのを示唆する点で音ゲーは興味深いものを持っていると感じました。

追記:
半ば参加しつつ音楽を消費する楽しみとして日本のポピュラー音楽において最も多くの人に親しまれているのはカラオケでしょう。孫引きで恐縮ですが、次のツイートによれば、そのカラオケについて批評家の宇野常寛は一種の音ゲーとして捉えているそうです。参考情報までに。

すばらしき世界エミュレータ / DJパターサン

本論は「MMD世界」の成立の契機を探っています。
この世界――ゲキド街であるとか――の存在は皆感じているだろうところで、これをどう理論化するかは大切だろうと思われます。

MMDにおいては「動かせる身体」と「住める場所」を得たキャラクター達に「日常」が付与されると著者はいいます。著者も参照している『ゴーストの条件』に引きつけていえば、蓄積された日常という「履歴」がMMD世界という「場」の固有性を作り上げていると言えるでしょうか。MMD世界自体はキャラクターではないですけれど。

この世界について抱かれた欲望・想像力の問題として筆者は「MMD世界に入る」こと、「AR」、「スパロボ的世界観」を挙げています。設定を共有するいわゆる「シェアド・ワールド」とは少し違いそうですね。

他にオリジナル・キャラクターが受け入れられやすくなっているのはなぜか (あるいは通常の二次創作においてオリキャラが嫌われやすいのはなぜか) という問題もあげられています。

私の観察では、UTAUが「オリキャラ製造器」と揶揄される様子が見られることも時折あります。そのUTAUキャラ達もゲキド街においては普通に存在し得る。スパロボ的な、どのキャラでも並存し得る世界がしっかりと構築されていることが、オリキャラをも居やすくしているのかもしれません。

また私見ですが、MMDというツールを使う事が「お題」となる、素材とツールの共有・共通からある程度の「作画の統一感」が産まれることも全体としてのMMD世界というフィーリングを出すのに一役買っているように思います。

素材共有による動画作成の簡易化・分業化の促進は紙芝居クリエーターやUTAUなどでもみられますが、同一のツールを使うことは人間関係的な場を形成するにとどまらず、ある程度テイストを統一することによって世界観の形成を助けるという面もあるように思えてきます。

人ならざる者の歌声 / まげ=えりくさ

本論では、ツールとしてのUTAUの特性やそこから帰結するキャラクターと歌声の関係が簡潔かつ適切にまとめられています。

主に扱われているのは「無生物音源」と呼ばれる音源群です。普通に発声したもの以外の音源(+キャラクター)をこう総称しているわけですが、猫の声や人の咳き込み音などもそれに含まれていたりして、言葉の意味とあらわしたい感覚・概念とのズレが興味深いです。

ボカロは基本的にアンドロイドか人である設定が多いようですが(MEIKOやKAITOはアンドロイドだったろうか?)、そもそもUTAU向け音源のキャラクターには人外設定のものが多いですよね。もっとも有名な重音テトからしてキメラです。その要因としては、本文にもあるように、アマチュアの作品であり商業的に安全策をとる必要がないために、大胆な設定を取りやすいという面はあるでしょう。

それにしても、こうした「クリーチャー」を作ってしまいたくなる欲望というのはどこから来るのでしょうね。考えてみればミクも早くから「はちゅね」化していたし、アイマスのほうでもやよクリやののワさん、ホメ春香が人気です。ボカロのほうでもたこルカ、シテヤンヨやミクダヨーなどクリーチャーは創られつづけています。

UTAUに特徴的な事情は、音源の性質とキャラクター設定、および中の人の為人とのギャップが作品にあらわれることで突飛でピーキーな表現ができたり、聞き手の予想を裏切ったりする効果がかなりあるという点でしょうかね。

言語をもった人の(歌)声と単なる物音との境界の問題もおもしろいです。
極端に人から離れた無生物音源の音(笛、物差し、踏切の音)によるHANASUは、ボカロを使ったトークロイドの不自然さよりも「逆にこれだけ通常の言語から離れていると、キャラクターボイスとしてむしろ自然に受け入れることができる気がする」(p. 52)。
いわばピカチュウが「ピカ!」しか言えないのにコミュニケーションが十分成り立つのと同じようなことと言えるかもしれません。

「歌声を崩していったときその音はどこまで歌声として保たれるのか、単なる物音をどの程度加工すれば歌声として聞こえ出すのか。無生物音源はまさにこのような問いの狭間にいる」(p. 53)という指摘も面白いです。

これについては言語の文節的特徴が入れば入るほど声として受け取られる度合いが高くなるように思います。
「Vocalizer」の例もでてきましたが、私の耳で聞いた限り、普通の楽音にフォルマントの情報が加わるとかなり人の声に近づいたように聞こえます。
技術的なことはわかりませんが、これに人から切り出したりあるいは合成したりした子音をくわえるとほぼ人に聞こえるのではないだろうか、という気がしますね。
人の声による子音+ネコの声による母音という音源もありますし。

物音に音階をつけて鳴らすだけならば通常のサンプラーと代わりはないのですが、UTAUはもともとが歌声を合成するためのソフトウェアであるためか、ただの楽音であってもUTAUを通すとなんとなく母音のフォルマントが付加されて聞こえます*4
そのため、UTAUを通すとどんな物音でもある程度「声」としての特徴をもってくるということができそうです。

いかなる物体であっても物音さえすればキャラ化することが出来る。いかなる物体であっても、録音した音の固有性があるので、各キャラを固有なものとする「声」になりうる。そんな風に言えるかも知れません。

うたわれる物語の主体 / tieckP

まげ=えりくささんのもそうですが、『Vocalo Critique Pilot』での拙論に反応を返してもらえたような感じがして、書いた甲斐があるように思いました。

論全体の流れとしては、歌詞の主体、作曲のモードがキャラクター×プロデューサー型から楽器×アーティスト型へと変化したことを描写しています。プロデューサーがファンと水平的な関係を築き、共に偶像を支える存在となっている、と捉えているのがポイントでしょう。
メディアはどうあれ「物語」なのはプロデューサー型もアーティスト型も同じでありつつ、ツールや素材の違いがもたらす差を考えるアプローチは適切だと思います。

カロムーブメントの初期において、人格を持った存在のために詩を書くことが引いては「アイドルが輝けるよう裏方として働く存在」すなわちプロデューサーへとつながっていったとtieckPは述べています。

そしてアイマスのPとミク初期のPたちとを比較しているのですが、両者にどのくらい共通点と差異があったかは気になりますね。
視聴者の一人としてはどちらもキャラクターを盛り上げようとしていると見えたし、ボカロにおける調教という少々過激な表現も、キャラクターとの密な関わりを想像すれば納得の行くものでした。90年代のプロデューサーブームを経験した小室世代が作り手にまわったことなども関係あるかもしれませんね。 例えばペンプロさんとか。

時を経て、プロデューサーとファンが同じ偶像のもと水平的な関係を築くあり方からPの作風ごとのファンへという動きが起きたのはある程度ボカロに関心を持っている人ならご存知でしょう。

そのボカロPのアーティスト化を可能にした条件として、「人格を持ちながらあくまで楽器として振る舞える」というボカロの性質にtieckPは言及しています。これにより歌詞の主体を作曲者にすることもでき、それがヒットにつながってるという指摘は、じん氏がIAをあたかも物語のナレーターのような位置づけにしている*5ことを思うと慧眼といえるでしょう(p. 61-2)。

さほど人気が集中していないキャラクターを用いた創作を行なっている界隈、すなわちUTAUやMMDにかつてのニコ動やボカロシーンの雰囲気を感じるのは、あくまで表現がキャラクターを中心としたものであるからかもしれない。

ところで「自己表現」系アーティストとしているような作曲者も、歌詞の主体をボカロやシーンのディスクール (厨二、あるあるネタ、などのコノテーションの強い言葉に訴える) へアウトソーシングしていて、作曲者自身の内面を表現しているような楽曲は少ないような気がしますがどうでしょうか。聴き手の側でも、かつてのロックやシンガーソングライターほど、直接歌い手のパーソナリティに物語の主体が結び付けられる傾向は薄いような。私の観測範囲の偏りのせいかな。

閑話休題。tieckPの議論はUTAUとキャラクターの関係に移りますが、その扱いも適切で、かつてのボカロ界隈と似た性質を維持するUTAU界隈の特色として、(1) 音源選択自体がインスピレーションになりその音源のための曲になること、(2) キャラクターの「持ち歌」枠に余裕がまだあること、(3) 中の人がキャラクターのプロデューサーとして作曲者と水平的な関係にあること、をあげています。

また、音源が「作曲者が対価を払った商品ではないことも、道具としてのみ用いることを躊躇させ、中の人が喜ぶ曲を作ることをうながす」「声の主と同一視を避けつつもその分身をお借りするという立場、これが初音ミクのような楽器化を緩やかに抑制している」とも述べています(p. 63)。

これはカントの定言命法「汝の人格においてであれ,あらゆる他人の人格においてであれ,その人間性をつねに同時に目的として扱い,けっして単に手段としてのみ取り扱うことのないように行為せよ」ですよね。中の人が精魂込めて作った音源は単なる道具ではなく、それ人格性の一部をになったものである。ゆえにそれは道具としてではなくそれ自体を大切にしなければならない、的な。

こういうあり方が望ましいのはMMDのモデル(に限らず他者の作ったものを利用して作品にするならなんでもそうでしょうけど)とも同様ですね。MMDモデルの無断再配布問題などのように、声素材をぞんざいに扱ってトラブルになったという話はまだ聞かないのは幸いなことです。

60年後のボーカロイドを夢みて / 朝永ミルチ

前半はvol.03での自身の論考へのコメントになっていて、コミュニティとしてのボカロが論じられています。

近年のオタク系同人活動すべてに言えることですが、コンテンツへの感心に基づいて作品を発表することが量的に集中している現象をさして、便宜上とはいえ単にコミュニティと呼んでしまうのは問題含みでしょう。ミルチさんもコメントしているように、「場」への考察、祭りとしての性質などを、人的ネットワークのあり方と共に考えなければならないと思います。「シーン」という概念を提示している Straw, Will. 1991 “Systems of Articulation, Logics of Change : Communities and Scenes in Popular Music.” in Cultural Studies. 5(3), pp.368-88、や 井手口彰典 2012 『同人音楽とその周辺 ―― 新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』 青弓社 、を参考に今後考えたい課題です。

「聖典(軸となる原作)」の不在と作品量が多すぎることによって古参・新参の区別が起きにくいというのは確かに。古参・新参というよりは知識の多寡にかかわらず誰もが平等に「全部を知っていることはできない」というか。

ミルチさんもわずかながらプロデュースという動機を語っています。キャラやシーンを盛り上げたい。この感情はどこからくるのでしょうか。わたし気になります。

後半はボカロを特集した情報処理学会の機関誌『情報処理』vol. 53, No5のレビュー。
この号はアマゾンで買えたのですが、あまりの人気に品切れになったとか。すごい。完売御礼として4月中限定で別刷が無料公開されているみたいです。ニコニコ生で学会発表を放送したりと、本当にハジケた学会ですよね。

『情報処理』の内容は、剣持さんが楽器ととしての歴史的な流れにボカロを位置付けたり、伊藤さんがPCLについて紹介したり。戀塚さんと濱野さんによるニコ動のアーキテクチャについての論考の方が批評・考察的には参考になりそうな印象を受けました。

ボカロCD市場を推計する / 中村屋与太郎

ボカロの市場規模・経済的なインパクトについては気になっていたところでした(やはり売れるともてはやされるのがこの国の文化言説なので)。

読んでいて、予想していたよりも多くのデータが非公開になっているのは意外でしたし、調査の苦労が偲ばれました。その意味でもたいへんな労作です。

本論によれば、2011年に最も売れたEXIT TUNESのアルバムが8万枚でオリコン75位だそうです。ボカロ関係CDの総売り上げからみても、ボカロ全体でメジャーのアーティストとならぶ程度の存在感というところなのかな、と感じます。

同人CDの規模の推計はさらに困難な様子です(入場者数や頒布額が公表されないのは「大人の事情」があるのでしょうけれど)。

即売会での平均消費金額については、中村屋さんのTLからすると社会人が多いだろうから少し高めに出ている可能性があるように思われます(高校生の一般参加が多いという評判からしても)。アンケートの調査方法についてもう少し詳しい記述が必要ではあるが、個人でできる調査としてはこのあたりが限界かもしれません。

それにしても大まかな推計とはいえ、同人CDの規模も億の単位は下回らないであろうことは伺えます。なかなかの経済規模ですよね。

あとは中村屋さんもいうように、カラオケやフィギュアなどのグッズ、ゲームなどのマルチメディア展開などもボカロ経済の重要なファクターでしょうから、物販なども含めた他のJ-POPアーティストとの比較しつつボカロ経済の全体を描く、なんていうものもいつか見てみたいですね。……とはいえ統計がとりにくいので難しいかなー。井手口先生はやらないだろうか(チラッ

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ながくなりましたが、以上、感想でした。
vol.6〜8、およびVocalo Critique全体のまとめについても近いうちになにか書けたらいいな。

*1:特に女性リスナーかも。バンド雑誌の投稿イラストとボカロPVのイラストはそっくりだと思う

*2:例えば音ゲーの一つを「プレイしていて感じたのは、まさに音楽を奏でる楽しみだったのだ」(p. 25)

*3:増田聡 2008 「電子楽器の身体性:テクノ・ミュージックと身体の布置」 山田陽一編『音楽する身体 ――〈わたし〉へと広がる響き』 昭和堂

*4:設定によってはそうした効果をカットできるようですが

*5:[http://netokaru.com/?p=17151:title=じん(自然の敵P)1万4千字ロングインタビュー・音楽を使って物語を伝えたい]