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ジェイムズ・クリフォード、ジョージ・E・マーカス編『文化を書く』

文化を書く (文化人類学叢書)

文化を書く (文化人類学叢書)

【書誌情報】

  • Clifford, James. and Marcus, George E. (eds.) 1986 Writing Culture : The Poetics and Politics of Ethnography. Berkeley, Calif. : University of California Press.(ジェイムズ・クリフォード、ジョージ・E・マーカス編 1996 『文化を書く』 紀伊國屋書店

文化人類学の古典をひとつ読了。

デリダ哲学、文学理論、歴史学などを交錯させながら、それまで自明とされてきた民族誌の方法論、そして人類学のあり方を根底から問い直す。人類学に新たな展開をもたらすとともに、社会科学、文学、文化研究などのさまざまな分野において評判を呼び、多大な影響をあたえてきた重要な著作である。

『文化を書く』 - 紀伊國屋書店ウェブストア

という感じで、ポストモダニズム・ポスト構造主義な文学理論を文化人類学に応用して、「民族誌を書く」という過程にはたらく制度的慣性・イデオロギー・権力関係・レトリックなどを執拗なまでに批判的に検討した本であり、マリノフスキー、C・ギアツ、E・プリチャード、E・ゲルナー、P・ウィリスなど大御所たちがフルボッコにされてる様は壮絶でした。

さりとて、いまではこうした再帰的な視点にたった文化人類学自身への批判は文化人類学を学ぶ上では常識的なものになっていますし、私もある程度はどういう問題があるかは認識していました。

ですので、本書以前にどういった問題が人類学にあったのかということよりも、本書に収録された論文の著者らがどういう民族誌のあり方を求めていたのか、また異文化を解釈して描くことにおける解釈の妥当性はいかに保たれるのか(この点は人類学だけでなく批評にもかかわってくる)、という点に私の関心は向いていました。

J・クリフォードの解釈についての見解

本書編集者の一人にしてポストモダン人類学の最重要人物、ジェイムズ・クリフォードは、全体性・客観性・単一性などを達成しようとする近代科学的なそれまでの人類学の野心から離れ、部分的な真実を明らかにしていくことはできるというように(ある種オプティミスティックに?)第一章で述べていました。

「部分的な」という表現でいいあらわしているものを完全には掴みかねますが、クリフォードの指摘する「練り上げられた・作られた」という語源的意味を含む「フィクション」としての民族誌は、私達に身近なものでいえば編集されたインタビュー原稿やドキュメンタリー番組があきらかにする他者のリアリティと比較できるのかもしれません。

また、クリフォードは文化やその把握を基本的にダイナミックなものとして捉えようとしていて、ディルタイポール・リクールハイデガーを引きつつ「様々なスタイルの解釈哲学者たちは、最も単純な文化の説明でさえ意図的な創造であり、解釈者は自分が研究する他者を通じて絶え間なく自分自身を形成して行くのである、ということを私たちに強く忠告する」と述べています(p. 18)。

自伝と民族誌

解釈の妥当性や民族誌のあるべき姿などの観点からは後半の論文の方に面白いものが多くありました。

マイケル・M・J・フィッシャーによる「第9章 民族性とポストモダンの記憶術」では、当時次々と刊行されていたエスニックマイノリティの自伝をとりあげてそのレトリックを分析し、そこから「文化批評の様式としての民族誌の実践を再形成できるかどうかを」問おうとしてます(p. 362)。ということで、インタビュー記事や自伝を情報源とせざるを得ないジャズ、ポピュラー音楽研究には示唆に富んでいる論文なのではないかと思います。

とくにエスニックマイノリティによる自伝はアイデンティティ形成が問題としてがあたるために、人類学と同じく「他者を見るのに自己を背景とし、自己を見るのに他者を背景とする」「焦点の二重性」*1を持つと述べられていて(p. 368-9)、この点は黒人、アフリカといった(あるいは日本や東洋でも)エスニックな要素と向き合わざるをえないジャズ、ポピュラーのミュージシャンの伝記を読むのに参考になる姿勢なのではないかと。

事実、本論文中でもチャールズ・ミンガスの自伝『負け犬の下で』におけるレトリック的な仕掛けとアイデンティティ表現の関係が検討されています。『敗け犬の下で』では「語り手として三分裂した自己を用いて精神分析医に語るという語りの構造」が取られていて(p. 393)、この三つの自己がジャズのセッションにおけるチェイスのごとく交替で語ることによって次の「四つの下位装置」と戯れることができるようになっているとフィッシャーはいいます。

  1. 主語を転換する、泣き叫ぶなどの心理学的虚構の装置
  2. 音楽だけでは食えず他人や女を犠牲にしなければならない黒人ミュージシャンを象徴する女衒(ぽんびき)というメタファー
  3. 第二の自我という役割を担うファッツ・ナヴァロの夢の反復
  4. 父親のイメージの使用(子供時代のトラウマと関連、真の父親を求める気持ち)

このほかにもミンガスの混血性への戸惑いやメキシコ人でもあることによる周囲との関わりの機微など、真に迫る解釈が興味深いところでした。

このように、アイデンティティ形成にかかわることを文字化する、文字化することによってアイデンティティを考え形成していく、という点においてと人類学と文学はかなり問題が近くなるのだなということが見て取れます。(自伝)文学では自己や登場人物の語りとして文字化し、人類学では土地の人の語り・ナラティブをストーリー的に把握する場合もある。こうなってくると文学理論の方が一日以上の長があるのだろうし、文化人類学のプレゼンスの低下というのもこの意味では自然なことではあるのかもしれないなと思わされました。

社会的文脈における真理と解釈

解釈と真理の問題をもっとも中心的に扱っていたのは、ポール・ラビノーによる第10章「社会的事実としての表現 ―― 人類学におけるモダニティーとポスト・モダニティー」でした。

ごく手短に要約すると、R・ローティの哲学・科学史における認識論の歴史的役割の概略とフーコーの真理/権力論を紹介して、真理が社会的な構成物であることを示し、ジェイムズ・クリフォードのテクストやポストモダニズム言説の問題点とモダニズムがもつ批判的効能を論じた後、社会過程・権力関係を上手く扱った学問的言説のあり方を求めて、ブルデューや特にフェミニズム人類学を論じる、というような構成になっています。

で、ローティ、イアン・ハッキングフーコー、スタンレー・フィッシュなど*2が引かれているわけですが、それぞれの論の違いはもちろんあるけれど、いずれの論者も何が正しいかを決める基準が社会的な力学によって左右されるということを示唆していて、このあたりが当時のポストモダン論者の真理観の落とし所だったのかなという印象を受けます(いまもそう変わらなかったり? それとももっとシャープな議論があるかな)。

こうした見方に関して、スタンレー・フィッシュを引用したものがわかりやすかったので、「引用を翻訳したものを引用」という多重な孫引きになってしまいますが(学生さんはレポートや卒論ではやらないようにw)、引用して紹介しようと思います。

スタンレー・フィッシュは論文「解釈を受け入れ可能にさせるのは何か」(Fish 1980)の中で、これと同様なことを指摘している(ただしまったく違う論題を展開させるのだが)。彼が論じるのは、あらゆる言表は解釈であり、テクストを求めるすべてのもの、または諸事実はそれ自体解釈に基礎を置いているという点である。こうした解釈は主観的(個人的)な関心事ではなく、共同体の関心事となる。つまり意味は文化や社会をつうじ獲得可能になるのであって、ただひとりの解釈者が無から創造するのではない。最後にあらゆる解釈、特に解釈の地位をみずから拒否する解釈とは、ただ別な解釈を基礎にしてはじめて可能となる。つまりその別な解釈をきっぱり否定しながら、その解釈の規則を肯定するのである

フィッシュによれば、解釈の不一致は決して事実やテクストに訴えることでは解決されない。なぜなら「事実とは、何らかの視点を背景にしてはじめてあらわれるからである。したがって別な視点をとる者の間には、不一致があらわれなければいけない。不一致で問題となるのは、事実がいかなるものだと言えるかを明らかにする権利である。不一致は事実によって解かれるのでなく、事実をさだめる手段によって解かれるのだから」(p. 338)。 (p. 477)

[Fish, Stanley. 1980. “What Makes an Interpretation Acceptable?” In Is There a Text in This Class? Cambridge, Mass.: Harvard University Press. pp. 338-55(1992 『このクラスにテクストはありますか』 小林昌夫訳、みすず書房)]

なおジェイムズ・クリフォードも第五章でポール・ド・マンを引いて同様の指摘をしています。

ド・マン(1979)の批評によれば、テクストを書くにあたって修辞、象徴、語りの主要なモードを選択することは、常に一つの読み方またはある範囲での複数の読み方を、無制限の解釈、すなわち限度なく拡大される「意味」の置き換えに対して課そうとする試みであるが、それは常に不完全なものにならざるを得ないということになる。自由な読み取りは理論的には無制限ではあるが、歴史上のいかなる時点でも、十分知識を持った読者(特定な社会では読者の解釈のほうが本文よりも真実だと認められることもあるだろう)であるなら、不意に思いついた解釈でも、実は一定の決められた規範的アレゴリーの領域内でしかなかったということがある。これらの意味の構造は歴史的に決定され、一貫性を持っており、事実上「自由なよみ(フリープレイ)」は存在しないのである(pp. 204-5)

[De Man, Paul. 1979. Allegories of Reading. New Haven, Conn. : Yale University Press.]

*1:文化人類学の基本的な姿勢で、異文化に身をおくことで自己の文化との差を認識し、異文化をかなり内面化した後帰郷すると今度は自文化にカルチャー・ギャップを感じ、自分かを相対化できるといいます

*2:直接引用はされてないけどローティがよって立つハイデガーウィトゲンシュタイン、デューイも含まれるのかも