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三森ゆりか『外国語で発想するための日本語レッスン』

外国語で発想するための日本語レッスン

外国語で発想するための日本語レッスン

本書のタイトルである「外国語で発想するための日本語レッスン」とは、「テクストの分析と解釈・批判」(critical reading)を母語である日本語でも身につけておくことによって、外国語で中級の以上のレッスンを受けたり議論したりするときに必要になる基礎力を養おうというもの*1

次の記事は日本と欧米のライティング教育の違いからくる差を教えているが、リーディングにおいてもやはり状況は同じようだ。

本書の第1章で示されているのは、欧米の国語教育において「テクストの分析と解釈・批判」(critical reading)が完全に基本となっており、初等教育の段階から批判的思考とその表現が可能になるよう訓練が行われることである。次いで第2章では絵を、3章では文章を分析的に読むことを実際に行ってみせている。

初等教育の段階から、というのは次のような具合である。

欧米の読書技術教育は、システマティックに技術を積み上げる方式になっています。ドイツを例にとると、おおむね次のようになっています。
 

  1. 幼稚園     読み聞かせと分析的問いかけ
  2. 一年生~四年生 再話 (物語を読み聞かせ、自分の言葉で再構成する作業)
  3. 五年生~八年生 要約 (物語の構造の指導)
  4. 九年生~    テクストの分析と解釈・批判

 
右のように、最終目標である「テクストの分析と解釈・批判」に向けて、幼児の頃から読書に必要な知識と技能を積み上げられるように、読書技術を習得するためのシステムがしっかりと構成されています(p. 15)

これだけ早くから要約や分析を行っていれば、大学以降でもごく自然にクリティカルな文章の読み書きが行えるだろうことは容易に想像できる。こうした作業に非常に苦労してきた(正直に言って今もしている)ものとしては羨ましくも思える。

この批判的読解は、ロラン・バルトなどで知られるテクスト主義に基づき、作者の意図や環境的なコンテクストはいったん切り離して、テクストそのものに書いてあることに徹底的に基づきながら、自分の解釈を組み立てるというものであるとのこと。

例えば絵画では次のような感じ。

誰でも一枚の絵を目の前にすれば、「いったい何が描かれているのだろうか」と考えることでしょう。「絵の分析」は、この考えを掘り下げることが目的です。ただし、絵画に関する専門的な知識は必要ありません。専門知識があれば、むろんさらに深く絵を分析することができるでしょう。しかし、そうなると今度は、一枚の絵を分析する前に必ず専門知識が必要ということになってしまい、絵を分析するのが億劫になってしまうのではないでしょうか。ここで必要なのは、自分自身で絵を読む方法を身につけることです。専門知識は、絵を読む際の助けにはなりますが、それがなくとも自分なりに絵を読むことはできます。目の前にある絵を、画家の経歴や人生、所属する時代、分類される主義などから切り離し、その絵そのものだけを分析し、その意味するところを読んでみましょう。「絵の分析」が幼児や小学生にもできるのは、絵から画家という背景を切り離し、絵そのものを読むからです。ところが、そのようにして絵を分析しているうちに、逆に次第に画家の背景に興味が湧き、背景までも含めて絵を分析できるようになります。(p. 58)

絵の分析であれば、子どもであっても、そこに描かれているものにもとづいて、なんらかの意味を引き出し、言葉にして述べることができる。そして時には専門の批評家と同じような見解にまで達することがあるという例も示されている(pp. 66-7、102-3)。

もちろん背景知識があるに越したことはない。しかし人生の時間は有限である以上、言葉を発するのは常に準備不足な状況下においてである(だからといって勉強不足が免罪されるわけではないが)。それでもなお何かを言うためには、対象となるテキストと手持ちの知識から確実に言えることを言う、ということが必要なのだろう。

さて、バルトというとその影響は60年代以降のもののように思えるが、ググって発見した文献*2をみるかぎりでは、ほとんど近代になったはじめから論理的な表現力を重視した教育は行われていたようだ。

翻って、本書でも繰り返し批判され、最近ネット上でもよく揶揄されるところの作文と「作者の気持ち」重視の日本の国語教育だが、さきに言及した渡辺雅子のインタビューによれば大正期に導入された「綴り方」教育が淵源であるらしい。

日本でも公立学校が設立された明治期には、むしろアメリカ以上に「型」から学ぶ形式模倣主義の作文教育が主流でした。ところが、大正期に子ども中心主義の新教育運動が世界的に広がると、明治の形式模倣主義への反省から、型を壊して子どもらしい文章表現を重視する「綴り方」が在野の文学者から提唱されました。綴り方は単に「書く技術」ではありません。子どもが体験や考えをありのままに書くことを通じて「人格修養」することを主な目的としていました。このアプローチが現場の教師に圧倒的な支持を得て、「生活綴り方」から戦時中の「国民学校の綴り方」へ、そして戦後も「学校作文」としてその精神は脈々と受け継がれ、現在に至っています。 http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_04.html

この「体験や考えをありのままに書く」のがおそらくロマン主義の影響で、その音楽観とともに現代の音楽を語る言葉にまで影を落としている(「音楽を音楽として楽しめよ」であったり、音楽でも美術でも「ありのままをみて感じたものを素直に言葉にすればよい」といったりする)のではないかと思われてならない。

ちなみにドイツの学校では、音楽の分析はこんな感じで行うらしい。

分析し、解釈し、批判的に考察する授業は芸術にも応用されます。西ドイツの学校に入って驚いたのは、音楽の授業でした。音楽では、楽譜を渡され、楽譜を見ながら、テーマが繰り返される意味、フォルテやピアノの意味、音階の意味、作曲者が分類される音楽史上の時期とそれが作曲者に与えた影響などを分析していくのです。音楽といえば、楽しく歌をうたって、楽譜の読み方を暗記し、楽器を上手に演奏すれば「5」をもらえた日本の音楽とは全く異なり、驚くほど専門的な内容でした。楽譜に記載された記号の意味や楽器の名前、音楽家の名前や音楽史上の彼らの位置づけを暗記していても、そのような知識はほとんど役に立ちませんでした。重要なのはここでも、音楽を自分なりに分析し、解釈し、自分の意見を言えることだったのでした。(p. 50)))。

気になる論文メモ ロマン主義と子どもの関係 - フランスと児童文学とによればこのあたりまだそこまで深められていないそうである。専門的な調査をする力はないが、機会があれば「綴り方」教育の論文など読んでみたい。 あとは次のようなものだろうか。

子ども観の近代―『赤い鳥』と「童心」の理想 (中公新書)

子ども観の近代―『赤い鳥』と「童心」の理想 (中公新書)

それにしても、現代日本ではマンガやアニメは隆盛しているわけなので、享受するという面では主観的・情緒的・道徳的な読み方もそれほど悪くないのかもしれない。ウェブが一般化するまではそれほど他人に感想や批評を書いて見せる機会も普通の人にはあまりなかっただろうし。

逆にいえば、ウェブによって作品について他人に意見を表明する機会が増えている分、クリティカル・リーディングへの潜在的な需要も増えているのかもしれない(グローバル標準な論理を学んで国際的なビジネスに使うだけでなく)。

*1:これができていないとただでさえ不自由な外国語で一から読み方や議論の仕方を学ばなければならず非常に効率が悪いとのこと(p. 42)

*2:中西一弘 1968 「フランス国語教育の成立(第一報)」 『大阪大学紀要』第17巻、第V部門、pp. 15-37、http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/10865/1/KJ5_1700_015.pdf