Jablogy

Sound, Language, and Human

川喜田二郎『発想法』

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))

言わずと知れたKJ法を提唱した川喜田二郎の名著。梅棹忠夫の『知的生産の技術』(岩波新書、1969年)とともに、知的生産論の先駆的な一冊といえるだろう。両者とも文化人類学の研究者であり、専門的な必要性に迫られて研究の方法論として考案したものなので、かなりしっかりした議論の枠組みをもっている。

KJ法の内容自体は、周知のものだろうから(でなくてもググればあらましは知ることができる)ここでは繰り返さない。今回、改めて原典にあたってみて思うのは、よく知られている「断片的なカードの操作」や図表化だけが重要なのではないという点である。

大量のデータとセレンディピティ

まず、川喜田も梅棹もともにフィールドワークという莫大な情報を(彼らの場合、集団で)あつめる方法をとる文化人類学の領域で研究をしており、そこから考案されたKJ法は「大量のデータ」を前提にしているといえよう。フィールドワークの教科書においてもよく名人芸になりがちといわれる大量の(しかもチームで集めた)データを総合する方法をこそ彼らは欲したのである。

現在の科学的方法は、分類、要約、分析には力をもっているけれども、統合するという問題に対してははっきりした方法を何も用意してこなかった。この統合と切り離せない問題が、いかにして新しいアイディアを生み出すかという啓発の道である。相互に比べることのできない異質の一組のデータから、いかにして意味のある結合を発見することができるか。また新しい発想をうちあげることができるか。ここから発想法の問題があらわれてきたのであった。データはたんに足し算したり、割り算をするだけではいけない。それらが組み合わせられて、いままで気がつかなかった新しい意味を発想させなければならない。これが発想法問題のきっかけになったのである。(p. 54)

そして、ディープな経験から得た元となるデータやアイディアと、それをもとにして作ったカードを有意味化/文脈化しておくこともまた、あらたな発想を得るのに重要であろうと思われた。

『ネット・バカ』の記事でも紹介したように、読書ノートをつけて、読書から得た断片を記憶し、無意識のうちで熟成させることによって、新たな発想の源となるその人の個性・教養が形作られる、ということがある。次の一節はこれと同様の効果を川喜田が期待していたことを伺わせる。

問題というものは、理性的に自覚的にとらえられるまえに「なにか問題を感ずる」という段階が先行しているのがふつうであろう。この日常的現象に気づくことが大切なのだ。では、問題が明確に理性的にとらえられない場合に、どうすればよいか。自分もしくは自分たちがやろうとしている問題はなにかというときには、まず自分が問題だと「感じて」いることに、「関係のありそうな」ことがらを全部列挙してみるのがよい。そして、このように具体的に外に投影した諸要素を組み立てるのである。(p. 29)

自分がこれは問題だ、関係がありそうだと直感的に感じるのも、そうしてまとめた「基本的発想データ群(basic abductive data, BAD)*1」が「まとまったヒントを暗示」し「発想を刺激」するのも(p. 104-5)、おそらく上のような無意識の領域で涵養される何ものかによるのではないだろうか。

傍証として付け加えるなら、文化人類学者の沼崎一郎による次のツイートも同様の文脈で捉えられよう。

なお、有意味化という点では、フィールドでつけるメモも、その記憶が失われない内に、ある程度まとまりをもったノート(というかカード)にすることが手順化されてもいる(pp. 39-53)。

こうして読んだ本についてわざわざブログに記事をあげるのも、上と同様の有意味化・文脈化を期待してのことであったりする。気になったところに付箋を貼りながら読み進め、読み終わったらなるべく早く文章化するように、という手順である。

フィールドでのメモにせよ、本に付箋を貼るにせよ、はたまたカードに読書メモをするにせよ、時間が経過すると、それらの断片同士をつないでいた短期記憶が揮発してしまうため、断片間の文脈を思い出せなくなる。それゆえなるべく早いうちに、あとから見て思い出せるだけの文脈、まとまりを文字化することが必要なのだ。

グループ化≒アウトライン編集

KJ法ではデータの断片を類似性・関係性にもとづいてグループ化していくわけだが、そのときに基準の最小単位となるのが「一行見出し」である。

ある程度まとまった内容を記したカードや会議の発言のひとまとまりを、内容を代表する一行の見出しにまとめ、ついでそれらを類似性・関係性にもとづいてまとめ、さらに一行の見出しをつけていく*2

これはいわば文章のアウトラインを作成・編集するのとほぼ同等の行いであるといえよう*3

アウトラインの編集は、今ではテキストエディタでも、ワープロソフトでも、専門のアウトラインエディタでも可能である。そして電子テキストは再編集も容易だ。したがって、京大カードによってデータを物理的に編集可能にしておく必要は薄い、と言えそうである。

やはり『発想法』にしろ『知的生産の技術』にしろ、1960年代末に書かれた本なので、読んで参考にする場合は、テクノロジー的な背景を考慮にいれることをおすすめする。

実際、私も一度は京大カードを運用してみたことはあるが、断片のまま処理されずにおかれて意味・文脈が失われることの方が害が大きいと感じたため、テキストファイルにある程度まとまったサイズのノートをとる方針に変更している。

現代のメモ蓄積法

なお、カード的なメモ・データの蓄積といえば現代で一般的にはEvernoteということになろう。しかしこれも上と同様に、断片ではあまり役に立たない、PCでは一覧性が低く組み合わせるのも難しい、など理由で私は使用していない。

とはいえ、まとまったノートにいたるほどではない断片的な思いつき・アイディアというのはどうしても発生するものなので、それについてもいろいろメモ蓄積は試行錯誤してみたが、検索性・一覧性・再利用可能性のいずれかの点でうまくいかないサービスがほとんどだった。

結局、ローカル/Dropbox上にテキストファイルで保存するのが一番手っ取り早いという結論に達している。TwitterGoogle+についても思い出すときにはログを直接検索すればよいし、ログにタグ付けできるブックマーク*4をしておくという手もある。

ざっとブラウズしたければテキストファイルでバックアップを保存しておくことで可能である。思いついただけでまだ試していないが、ハッシュタグのようなものをファイル末尾にでも書き込んでおけばフォルダを超えてGREPで抽出し、キーワードを共有するメモを一覧できるかもしれない。

ソフトウェアを使う方法では、scrivenerという統合執筆ソフトが英語圏では定番らしいので、縦書が不要ならこれをつかうのもよいだろう。

他に、これも筆者は未使用だが、PiggydbというEvernoteと個人wikiを足したようなものがあるようだ。メモやノートをタグづけし、それら同士をつないで文脈化するものらしい。KJ法的・リゾーム的といってよいだろう。クラウド化すればもしかしたらEvernoteにかわる知的生産ツールになる可能性もあるのでは、と期待が膨らむ。

これらの手段を使って、なるべく断片を総合し、文脈化させ、まとまった意味をあたえるのが重要であると繰り返したところで本稿を終えることにしよう。

*1:abductiveはパースの提唱によるアブダクション (abduction)に由来するとのこと(p. 4-5)

*2:余談だが作家のナボコフもカード派だったらしい

*3:図表化すればツリー上でない複雑な相互関係も表現できるが、テキスト化すると結局はリニアになる

*4:はてなブックマークでもGoogleブックマークでも