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Sound, Language, and Human

大友良英『MUSICS』

MUSICS

MUSICS

聴取やフリージャズ、即興などをテーマに大友良英の音楽観をかたった講演や記事をまとめた本。人として、ミュージシャンとして良心的な大友の人となりを伺わせ、リベラルな雰囲気がよい読後感を与えてくれた。

先日、↓の記事中で本書中に収録されてる「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか」という章が気になったので読んでみたいという話をしたので実際読んでみた。

「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか」

意外に、自分の音については(ピッチやリズムが他の人と合っているかとかちゃんと音が出ているかとかはもちろん確認するが)そこまで頓着せず、その場の雰囲気や響き、音楽全体を捉えるようにしているという人が多い印象だった。

よく楽器の指導でベースはキックを聴きましょうとか、ソロを取る人はハイハットを聴きましょうとか、特定のパートにアテンションを向けさせようとする言葉を目にするけれど、上達のための一手段・方便としてはよいかもしれないが、演奏者の聴取を精確にとらえたものとはいえないのかもしれない。

さらに、場合によっては意識的に自分の音は聴かないようにするという人も。

また、現代音楽のドラマー植村昌弘が「昔、邦楽の勉強をしていた頃、間口の広い舞台の両端に演奏者が置かれて演奏することが多く、タイムラグがちょっとあるので、『音を聞いて演奏していたらタイミングが遅い!』とよく怒られていました」(p. 90)といい、大友も次のように言っているとおり、音をあてにせず演奏する場合もある。

実は、音楽家間の距離というのが音楽をすごく規定していると思うんです。音のスピードって意外に遅いから、距離があるほどテンポがとれなくなる。ステージの対岸にいたら、音だけ聴いて反応してもテンポが合わないんです。そのくらい音は視覚より遅い。遠い距離にいるミュージシャンがテンポを合わせるには動きを見るしかないってことがあるんですよ。だからオーケストラには指揮者が必要になってくる。指揮者は中心にいて、視覚的にテンポの情報を送る役目ですから。弦楽四重奏に指揮者がいらないのは演奏者どうしの距離が近いからですよね。ドラマーとベーシストが近いのも、同じ理由。離れていたら、ちょっと早いテンポでやっただけで合わなくなってしまいますからね。(p. 170)

義太夫三味線の田中悠美子は古典曲は暗譜したものを思い出すのに、現代曲では譜面をしっかり再生するので余裕がない状態になり、陶酔したり観客の声が聴こえたりはしないらしい。一方で作品世界の声や神の声を聴くこともあるとのこと(p. 92)。

大友自身の聴き方は次のようだと語っている:

正直なところ、ケースバイケースで、やってる音楽によって全然違う。やっぱり作曲されている音楽と、即興演奏とはすごく違ってて、作曲されてて自分がやるパートが決まってるものでは、そのパートへのキーになる音を聴きますね。リズムを外しちゃいけない場合は、ベースなりリズムの要になるような音をどうしても聴く感じになる。と同時に、自分の音を聴いて、その差異を修正してるんだろうなと思う。でも、これが即興になるとずいぶん違ってきて、起こってる状況全体をなるべく聴こう、と思ってはいる。ただし注意がいく場所があって、さっきの話の中心的聴取みたいなものとか、あるいは握手のゴールみたいなものが、そのときそのときでできて何を聴くかがどんどん変化していく。特に即興のときは、その焦点が常時ものすごく動きまくる感じですね。っていうのがオレの聴き方なのかなと思う。(pp. 213-4)

大友の言う「焦点が常時ものすごく動きまくる感じ」はなんとなくわかる。私もジャズのセッションでドラムを演奏する時などはソリストを中心にしつつ全体を聴き(タイミングはベースを一番気にしてる)、他のパートにもアテンションを随時払うよう心がけているので。(他の人がやってることを聴き逃がすこともしばしばだが・・・w)

その他面白かった点

以下、抜き書きを。

日本のポップミュージックのオリジナリティ

日本のジャズが米のジャズの単なるコピーから脱し、その独自性を主張しだしたのは、一九六〇年代末にはじまるフリージャズからではなかったか(p. 8)

たとえば坂本九の「明日があるさ」といったジャズ風のアレンジがほどこされた作品や、クレージーキャッツのヒットした諸作品を思い起こしてほしい。それらの多くはビッグバンドジャズのアレンジを流用したものにすぎないが、しかし、日本語しか乗りようのないおよそジャズとはかけ離れた東洋風メロディと、そのメロディにつじつまを合わせるようにジャズから流用したやや無理のあるコード進行、日本語のメロディをスイング風のビートに強引に乗せる手法……。これらの折衷案のようなアレンジがあいまって、実に不思議な音楽ができあがってしまっている……ということに、ずいぶん後になって気づきだしたのだ。なにしろ子供のころ、あまりにも当たり前に聴いてきたこの音楽が、不可思議なものだなんて気づきもしなかった。血肉になってしまっただけに、ごく普通の音楽だとすら思っていた。でも、よくよく冷静に、少し距離を置いて聴いてみると、日本のあの時代以外にはどこにも存在しない、非常に個性的な、たぶんあの時代の日本人以外にとってはとても風変わりに聞こえる音楽なのだ。(pp. 9-10)

クレージーキャッツ山下毅雄などのジャズマンたちによる歌謡曲やTVの仕事について:

自分はジャズマンだと思っている人たちが、ジャズではない、彼ら自身が「シャリコマ」と呼んで見下していた可能性すらある歌謡曲やテレビ、映画の劇伴といった音楽をやるときにこそ、結果的には本当にオリジナルなものを生むことになった……オレにはそう思えてならないのだ(p. 11)

このあたり、あまちゃんの音楽を担当されるにいたる必然性が伺える。

ぼんやりと音を聞くこと

高橋悠治のワークショップでの経験 「これはカラスだ」とか「車の音だ」とか区別しているのを停止させてぼーっと聴くようにする。

初めはうまく出来ないが徐々に「音と音の境目」があいまいであること聴こえ出し、「すべての音が印象派的な感じで溶け出す」のだという。こうすると集中して音を聴くよりも「逆にかえっていろいろな音が聞こえてくるようになる」と (p. 36)。そして:

むろんステージで聴こえてくる音も、それまでとはまったく変わってきて、たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら、照明のノイズが、良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり、バイブラフォンのペダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聞こえたりするようになった。(p. 37)

周辺視野のような聴取

あるバンドのある曲で、わたしはそのバンドの語法とはまったく無関係な高周波のサイン波を毎回流し続けたことがある。半年くらいしたころ、メンバーのひとり(かりにAとしよう)が「なんかピーッて鳴ってるけど、これなに?」といい出したのだ。彼にはその音がずっと聞こえていなかったのだ。なんて耳が悪い……なんていってはいけない。それでも彼は明らかに、この音の出ているときと出ていないときでは違う演奏をしているのだ。彼はただ音楽言語のレベルでその音を認識できなかった、つまり意識の上では聞こえなかったのだ。だから、逆に彼がこの音をはっきりと認識してしまって以降は、サイン波のあるなしで演奏が変わることが前ほどはなくなってしまい、むしろ意識的にその音を処理する方向に変化した。(pp. 38-9)

カクテルパーティー効果で知られる選択的注意。ノイズの中から関しのあるものをピックアップする能力が人間の知覚にはあるが、「例えば右を聞いているときにも左への注意はゼロにはならなくて、性別とかぼんやりしたことを聞いてる」「で、いざというとき、なにかとんでもない動きがあると、そちらにシフトする」(細馬宏通の言、p. 203)

視覚においても中心視のエリアと周辺視のエリアがあり、「周辺視は静止しているものに対しては鈍い」が、「逆に動いているものには敏感」であり「何かがすっと通り過ぎると、周辺視が働いて『ん? なに?』って視線が移動する」(id.)

大友「それって音とそっくりですねえ。ただでさえ、動いてる音の方が動きのない音よりはるかに聞こえる。ましてや背景の動いていない音となると認識されにくい」(id.)

ジャンルとナショナリズムの類似

フリーインプロヴィゼーションやノイズ・ミュージックにさえ「正統」かどうかをうんぬんする言説が出ていることに触れて (p. 74)

†いきなり「民族主義」を持ち出すのは、ものすごい飛躍に見えるかもしれないが、わたし自身は、民族主義というものの根っこにある発想と、音楽のジャンルの根っこにある発想は、非常によく似てる、ほとんど同じもののように直感的に感じている。それは音楽のジャンルがもともとは民族の棲み分けと共通していたことに根拠を求めるという以上に、民族の枠を超えた二〇世紀以降の、たとえばジャズとかロックのファンが持つメンタリティの中にも民族主義的な排他性を見出すことができることが根拠になっている。自分と似た人間とそうでない人間を嗅覚のようなもので峻別し、ときに排他的になり、ときに団結を組み……というあり方と、使う言語や出自、肌の色や顔つきの違いによって排他的になったり、団結を組んだりする心のありかたは、ほとんど同じような気がするのだけど、間違っているかな? どうなんだろう。いずれにしろ、次の節にでてくる、デレク・ベイリーとミルフォード・グレイブスの音楽の中で、この問題を考えていきたい。(pp. 74-5)

ジャズと歌

僕が感じるジャズの面白さというのは、この〔人の声によって極めて大きな存在感と支配力をもった〕「うた」との独特の距離のとり方なんです。二〇世紀の、特に西洋起源の新しい音楽の多くが「うた」的なるものから限りなく遠ざかることで、新しさを見出そうとしたのに対して、ジャズは、フリージャズであろうが何であろうが、「うた」的な部分と、メカニカルな器楽的な部分が常に拮抗し合いながら存在していたんですね。少なくとも七〇年代の頭くらいまでは。(p. 131)

音響派と空間

PAというのは実は空間デザインの装置なんです」(p. 168)cf. ナチス

副島輝人「『今、音響っていわれてるけど、大友くんたちがやろうとしていることっていうのは、要するに空間の獲得ですよね』」(p. 168)