Jablogy

Sound, Language, and Human

フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』

プリミティヴアート

プリミティヴアート

 米国の文化人類学(さらにいえば言語学も)の方向性に大きな影響を与えたボアズ。彼の思考がぎゅっと詰まった一冊だった。なかなかの厚さの書物で、事例が羅列されているところはちょっと読みづらいが、フォントが大きめだったり、細かい索引がついたり、小見出しをつけたり、さらには原文の対照ページが表記されたりと、読みやすくする編集の工夫が多数なされていて好印象である。

 本書の厚みのうち90ページ分は、訳者による解説が占めている。ボアズのバイオグラフィーと学説の特徴、および本書の要点が丁寧にまとめられており、とても助けになった。

 内容的には、原書が1927年の出版にして、現在(でも)ホットなトピックが先取りされているようで興味深い。たとえば、部分的な要素の重なりあった万華鏡としての文化、プリミティブアートに共通する「分割表現」の原理、身体論的な視角、創造における個人と文化の弁証法などだ。文化人類学を専門にする人だけでなく、美学やマンガ論などの人が読んでも発見があるかもしれない。

 以下、ごく一部だけれど、興味深かったポイントのコメントを残そう

「分割表現」の原理

 私が本書を手にとったきっかけは、前近代的な絵画や彫像にはどこの文化にも共通する特徴があるように思われ、それはなんなのだろうと疑問をいだいたことだった。そういう共通の特徴についてひとつの答えを与えてくれるのがこの「分割表現」の原理だ*1

 プリミティブアート*2では、体は前を向いているのに脚だけ横向きだったり、クジラをあらわす絵で頭の真上にヒレがついていたりと、三次元的な配置と比率が無視されている事が多い。

 ボアズによれば、こうした様式において重要なのは、それぞれの対象(トーテムとか)を象徴する本質的な特徴をあまさず盛り込むことで、三次元的な写実性を求めることではない*3。したがって、それぞれのパーツの位置がずれたり、大きさがデフォルメされたりしてもかまわないわけだ。そうしたかたちの変化は、木工とか織物とかの技術的な習慣に制約された様式上のパターンにしたがってなされるらしい。

 こういうデフォルメが行われる一方で、写実的な表現もやろうと思えばできるものだそう。クワキウトル族による生首の模像(p. 226)など、夢に出てきそうなリアルさだ。したがって、象徴的な表現から写実的・遠近法的な芸術への進化を想定した当時の進化主義は否定されることとなった。

芸術の基底――身体と技術

 ボアズは芸術を制作することのベースにものづくりの高度な技術(わざ・妙技)があると見ている。

 美学的な考察を別にして考えるならば、ある完成された技法が発達している場合には、なみはずれて難しい技に熟達しようとするつくり手の意識が、言い換えれば、名人の本懐が[芸術の]真の悦びの源泉であることがわかる。/ここで、すべての美的な評価の究極の根源について議論をはじめるつもりはない。プリミティヴ・アートのかたちについて帰納的に研究するにあたっては、かたちの均斉と表面のむらのなさが装飾的な効果の本質的な要素であり、これらの要素は、難技の熟達にともなう感情、つまり、自分自身のカで難技に熟達したがゆえに名人が感じる悦びと密接に関連していることを認識すれば十分である。/つくり手が自分の作品の視覚的な効果に気を配っているわけではなく、むしろ、複雑なかたちをつくり出す悦びにつき動かされていることを示す事例が少なくともいくつかあげられる。(p. 33)

 英語の art、ラテン語の ars がもとは職人の技術を表す言葉であったことが思い出されるとともに、「やった、できた!」というつくり上げる喜びに共感をおぼえさえする。

 おそらく、自分の作品が受け手に与える効果よりも、この「できた!」感覚がうれしいとか、作業自体が楽しかったりすることがあるというのは、音楽、とくに演奏でも同様だろうと思われる。難しい技ができるようになると嬉しいのでさらに高度なものへ挑戦していき、しまいには人間離れした域へ到達したヴァーチュオーゾを誰もが知っているはずだ。

 してみると、それぞれ何をよい・美しい・かっこいいと感じるかの好みは違ったとしても、誰かがすぐれて技巧的に熟達した演奏家である・作品であるという事実は、どんな文化・社会の人にも伝わるものなのかもしれない*4

 そして、かご細工・彫刻・織物・金属細工・土器作りなど洗練された職人的技巧によって作られた精巧な工芸品は美的に楽しまれ、評価される。

技術的に完成されたものの美的な価値に鋭い眼識を示すのは文明人だけではない。〔……〕間に合わせの仕事が急いでされねばならない場合以外、先住民の住まいにぞんざいな仕事が見られることはない。根気と入念な仕上げが、彼らのつくる大部分のものの特徴である。先住民に直接に質問したり、彼らが自分たちの仕事に対して下す批評を聞いたりすることによっても、技術的に完成されたものに彼らが鋭い眼識を示していることがわかる。(p. 27)

 様式もまた技術の制約を受ける。作品に表現され、ある安定したの様式を産み出す「かたち」のイメージ*5は、世界のプリミティブな諸民族を観察する限り、「技術的な過程を通してはじめて〔……〕人間の心に刻み込まれるように思われる」(p. 16)。均斉のとれたかたちを産み出すのは訓練され習慣化・身体化された機械的でリズミカルな運動なのである(pp. 27-30)。

 個人の想像力があらたな様式を産み出すきっかけになるのは、様式が定着してへんかしなくなったときでるという:

かたちが定着して変わらなくなる時、不完全な技術のもとで想像力を通してかたちが発達しはじめるが、この場合にはじめて、美的効果を生み出そうとする意志が、芸術家を志す者の能力を超える。同様の考察は歌やダンスで使われる筋肉の動きの美的な価値にもあてはまる。(p. 16)

その他

  • ボアズは普遍的な心性をもった人類がそれぞれの歴史環境において違った発達を遂げたという歴史的相対主義。いま通俗化しているような文化相対主義はボアズの教え子であるミード『サモアの思春期』やベネディクト『文化の型』がベストセラーになったことに端を発する(訳者解説、p. 517)
  • 狩猟民は、獲物が現れるのを待ったり、罠にかかるのを待ったりするので、音楽や詩を産み出すために費やす暇な時間が意外に多くある(p. 388)
  • 「言語芸術の二つの根本的な形式である歌と物語は普遍的に見られ、言語芸術活動の主要な形式と考えられるべきである。音楽なしの詩、すなわち、一定のリズミカルな形式での言語芸術表現の形式は、ことによると、呪文に見られるかもしれないが、それを除けば文明化した社会集団にしか見られない。より単純な文化形態では言語のみによる音楽は芸術的な表現と感じられていないように思われるが、歌われる固定的なリズムはいたるところにあらわれている」(p. 360)。言葉そのものが芸術の素材になるには文字が必要なのか
  • 非西欧の音楽は「必ずしも倍音の原理によって行われるのではなく、むしろ等音調で刻まれる」。オクターブの音程は普遍的に見られる(p. 426-7)

 ***

 訳書のなかったボアズが日本語で読めるのはありがたい*6。19年越しの仕事を完成させてくれた訳者の尽力に感謝がつきないところである。

*1:訳者解説における大村の用語法(pp. 501-2)。ボアズ自身は本書のなかで「分割表現の原理」という言葉は用いていないようだ。第六章のもとになったというボアズの論文 "The Decorative Art of Indians of The North Pasific Coast" で使われているのかもしれない

*2:「プリミティブ」という言葉は現在では offensive なものとして避けられているが、時代的には普通な用語であったということと、ボアズに差別的な意図はないということから、訳者は本書でもそのままプリミティブとしている。私も本記事ではそれに倣って使うことにする

*3:本質的な特徴というのは、例えばビーバーだったら目と大きな前歯と巣を作る枝、そして前足、などである。ネイティヴアメリカンの場合、それらの動物がある人物の地位を象徴する紋章のように扱われたりするので、それぞれの描き分けが重要なのだそうだ(p. 333)。246ページにはパターンの微妙な違いで各動物を描き分ける図が載っていて、マンガのキャラの書き分けのようで興味深い。また、トーテムが差をあらわすものだという見方はレヴィ=ストロースの『今日のトーテミスム』へ通じるものだろう

*4:端的に、エラ・フィッツジェラルドバディ・リッチを下手くそだ、未熟者だ、と思う人はいないんじゃないか、という

*5:美学の人なら形相とかディセーニョとかいうかもしれない

*6:2005年出版の『メイキング文化人類学』(太田好信浜本満編、世界思想社、p. 39)でも皆無だといってたから、おそらく本書が初の訳書だろう