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アンソニー・ピム『翻訳理論の探求』

翻訳理論の探求

翻訳理論の探求

 1960年代以降の翻訳研究における理論の諸パラダイムを概観し、見通しをつける翻訳学の理論書。専門書ではあるが、自分が実践していても感じられる翻訳における様々な問題が、きちんと学問で理論化されていることを知れて勉強になった。

 記述は概ね時系列順だが、パラダイムごとに論じるスタイルになっているので、ときどき何年も遡ったりする(一番面食らったのはベンヤミンの後にアウグスティヌスが出てきた所w)。その点、前もって意識しておくと読みやすくなるかも。

 内容については、目次および簡潔にして要を得た紹介がみすず書房のHPで公開されている。

 紹介にある通り、本書が焦点を当てるパラダイムは、(1) 等価、(2) 目的〔中心のアプローチ〕、(3) 記述的翻訳研究、(4) 翻訳の不確定性、(5) ローカリゼーション、(6) 文化翻訳、の六つだ。

 前三者は言語学の理論より、後三者は哲学・経済・社会学よりの話になっている。実際に翻訳を行うときの理論的な参考になるのは前者の方だろう(後者についても翻訳の実践とつなげて論じられてはいる)。

 以下、興味深かったポイントをノートしておく。

等価

 等価というのは、簡単にいってしまえば、原文と翻訳で同等の意味を達成できるという考え方に近い。

 等価パラダイムに先行していたのが、構造主義言語学である。その中でも特に強い言語相対主義を取る立場では、異なる言語は異なる世界観を表すものなので*1、完全な翻訳は不可能だということになる。

 例えば、英語の sheep(羊)と mutton(羊肉)、フランス語の mouton(羊と羊肉の両方を指す)が概念として完全には重ならないので、一対一対応させられない。ひいてはこれらの概念を通して見ている世界が違う、というように。

 ソシュール的な発想では、sheep と mouton では「価値」――パロールではなくラングに関するもの――が大きく違うということになるが、等価パラダイムの論者たちは、パロールのレベルで(Sin ではなく Bedeutung の方)において同等な意味を達成できると考えたらしい。

 例えば、暦上の不吉な日として英語では「13日の金曜日」があるが、スペインでは13日の火曜日が不吉ということになっている。ので、訳す際に "martes y 13" としておけば、形式は違っても価値は同じ、ということになる。

 このように、形式を同じにする(直訳みたいなもの)ことを「形式的等価」、実質的な意味を同じにすることを「動的等価」とユージン・ナイダは名づけた。

同化/異化

 この直訳的/意訳的の二項対立は、古くはキケロまで遡る。キケロは 'ut interpres'(直訳主義の解釈者のごとく)ともう一つは 'ut orator'(演説者のごとく)という区別を立てた(p. 51)。19世紀のシュライアーマハーは外国語の響きを残す「異化作用」と目標言語として不自然さを少なくする「同化作用」を対立させた。このように伝統ある区別であり、そしていまも取り沙汰される根本的な問題でもある:

反・受容化の主張の一つとして,米国の翻訳者・批評家であるヴェヌティ(Lawrence Venuti・特に1998)*2によるものがある.ヴェヌティは下位文化が欺かれることにはあまり気を留めていないが,翻訳の自然さ(流暢さ)が上位文化の世界観に与える影響について懸念している.全ての文化が流暢な現代英語によって表現されるようになったら,全世界の文化は自分たちの文化に似ているという思い込みがアングロアメリカ文化で生まれるだろう。従って,ヴェヌティは,非自然的(「抵抗的な」)翻訳は目標言語には頻繁に見られない形式を使うべきで,それらの形式が起点テクスト中のものと等価であるか否かは関係ないとしている.(p. 36)

 このヴェヌティの見方は、学問の専門家向けの直訳から、自然な日本語として読める訳文へ、という方向へ動いている今の日本の流れとは正反対だ。目標言語が置かれている文化的な立場、ヘゲモニーが大きく関わるのだろう。立場の強い言語、価値があると自ら考える言語をもつ社会では、より弱い方の言語にあわせて異化的な訳をするよりも自分たちの言語への同化的な訳を選ぶことがままある。つまり、ピムの言葉を借りると「人が模倣したがるのは自分が尊敬する人々のみ」なのだ(p. 140)。

 そもそも、中世のヨーロッパでは神の霊感を受けた言語(ヘブライ語・ギリシア語・アラビア語など)やその翻訳に用いられた言葉(ラテン語など)といった上位の言語を翻訳することで、各地の方言などの下位の言語を豊かにするものだった(p. 37)。ヴェヌティの提言も日本の流れも、そういう本来の傾向に逆らっている点では同じなのかも知れない。

等価パラダイムで生まれた概念

 1958年、ヴィネイとダルベルネは翻訳で使える七通りの一般手順をあげた。「借用〔外来語〕」、「語義借用」、「直訳」、「転位」、「調整」、「対応」、「適合〔語が指している事象・対象は違うが文化的な地位が似ている〕」、である。左から順に、元の言語そのままから訳者による創造的な変形へとなっている(p. 23)。

 彼らは訳文が持つ文体の傾向も一般化した:「拡大化」「縮小化」「明示化」「暗示化」「一般化」「特定化」である(p. 26)。拡大化・縮小化は、訳文が原文に対して長くなる/短くなること。明示化と暗示化は、原文が暗示しているものを明示してやること、またその反対を意味する。一般化・特定化は、原文の単語と概念が指し示しているカバー範囲に差がある(より一般的/具体的な)訳語を用いることである。

 こうした概念を知るだけでも、辞書でひろった訳語を一対一でもとの文に当てはめるものだという、受験英語の和訳ですりこまれてしまった思い込みは溶けるのではないだろうか。

目的

 私が本書で最も実践的に役立ちそうな可能性を感じたのが本章である。

 このパラダイムは、1984年にハンス・フェアメーアが提唱した「スコポス」理論に代表される。スコポスとは、ギリシア語で目的、目標、ゴール、意図された目標、といった意味を持つ(p. 75)。

基本的な考え方としては,翻訳者はスコポス,つまり翻訳のコミュニーケーション目的が達成されるよう翻訳すべきであり,単に起点テクストに従うべきではないというものだ(id.)

翻訳者を中心に置き、起点テクストに従わなくてもよいとする点が、起点テクストがどのように訳すべきかを一意的に決めるとしていた等価パラダイムへの批判となっている*3

 同一のテクストであっても、必要とされる状況に応じて、訳し方は変わりうる。本書に上げられていた例で印象的だったのは、ヒトラー『わが闘争』を現代でどう訳すかだった(p. 82)。当時の雰囲気を知るためにアジテーションの味を残して訳すか、それとも今では直視しがたいような差別的な言葉は穏当な表現に変えるか。表現は異なってくるが、どちらもありといえばありで、どちらを選ぶかはその本の出版目的次第だろう。

 テキストが自動的に訳し方を決めるのでないとすれば、翻訳者がどうするか判断しなければならないが、本書を読む限り、フェアメーアのスコポス理論ではなにが従うべき原理かは述べられていない。一切変更を加えるべきでない聖典的なテクストから、実務的な文書というある程度の付加や省略がゆるされるものへと翻訳対象が移ったことで、翻訳者の自由は増してもいる。

 これに対し、ホェーニッヒとクスマエルは「必要精度の原理」を提出した。想定される読者の知識レベルで十分理解できるようかどうかが基準になるというものだ。例えば小説で、登場人物の娘が通っている英国の "public school" を「授業料の高い私立学校」と訳すか、単にその学校名を示して済ませるかは、読者が英国の教育システムの知識をどれくらい持っているかに依存する。そして、ここで訳文が完璧であるかどうかは問題でなく、「該当状況下で『事足りる』」のである(p. 91)。

 なにが目的であるかを誰が決めるのかも多岐にわたる:

 それは,支払いをするクライアント,実際に仕事を提供する人(おそらく翻訳会社や仲介業者),翻訳者,翻訳者に助言を与えるかもしれない各分野の専門家翻訳者を管理する編集者,そして望むらくは最終的な読み手,つまり翻訳のユーザーである(p. 92)

 これらの変数に加え、原文を精確に理解するためには、著者、原文、その読者、それらを取り巻く文化/社会環境をも考慮に入れる必要があろう。目的パラダイムでは、こうした複雑な状況において最終的な決定は翻訳者が下すことになっている。この理論では大変な自由と責任とが翻訳者に与えられているといえる。

 必要性度の原理と合わせて考えてみるに、翻訳に関与する変数は多く、場合によって千変万化するだろう――そして、そうした柔軟な判断が機械翻訳には難しい領域なのだろうし、仲介者としての翻訳者の腕のふるいどころなのだろう――けれど、それらを見定めて目的をフィックスすれば、妥当な訳というのはある程度定まってくるといえよう。畢竟、テクストでも、ソーシャルにも、文脈をしっかり読むのがやはり王道ということではないだろうか。

記述的翻訳研究

 以上のパラダイムがどちらかというと翻訳はこのようにされるべきという雰囲気があるが、記述パラダイムでは、実際に行われている翻訳の実践がどのようであるかを記述することを第一とする(言語学の規範主義と記述主義に似ているといえよう)。

 そのアプローチから、「翻訳シフト」、文化システムにおける翻訳の位置、「規範」、「翻訳の普遍的特性」や「法則」などの概念が生まれ、議論が続いてきた。

 翻訳シフトとは、翻訳において生じる、原文と訳文の間における違いのこと。ある概念を訳したら、もとの概念の一部のニュアンスが抜けるとか。形式だけ一致させても意味がシフトしてしまうことはよくある(和製英語に親しむ私達にはわかりやすい)。

 どんなシフトを生じさせるかにおいて作用する翻訳の「規範」がある。目標言語・文化の側で、翻訳とはこういうものだという考え・習慣が出来上がっていて、訳者はそのとおりに訳し、受けてもそのような訳文を期待したりする、と。

 規範には、次のような形式がある*4

  • 韻文は散文になおして訳すものと決まっている(19cフランス)
  • 模倣形式 (mimetic form):古典文化の形式に出来るだけ近い形式にする異化を目指すべきとされる(19c独のシュライアーマハー)
  • 類似形式 (analogic form):原文が起点文化でもっている位置と同じになるよう、自分かで同じ位置を占める形式にすべきとされる(原文が叙事詩なら、自文化の叙事詩がもっている形式で訳す)
  • 有機的形式 (organic form):形式はともかく内容を重視する
  • 外的形式 (externeous form):形式にも内容にもとらわれない

 規範が守られないと「醜い」「買う価値がない」などけなされ、制裁を受けることもある。逆に、規範を知ることで、よいとされる翻訳者を養成することもできる。(以上、pp. 116-27)

普遍的特性

 記述パラダイムでは翻訳がもつ普遍的特性が提唱された。「語彙的簡素化」「明示化」「適合」「平準化」「特有項目」である。(pp. 132-7)

  • 語彙的簡素化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、「語彙の範囲が狭く,頻度の高い語彙の使用割合が高い」
  • 明示化:翻訳は、そうでない通常のテクストとくらべて、冗長性が高い、明示的で統語的標識を多く使う(文が長くなる)*5
  • 適合:翻訳は目標言語と文化の規範に適合される(ex. 英→ヘブライ語の翻訳がヘブライ語の書き言葉に合わせて口語的になる)
  • 平準化:同時通訳では、両極とされる話し言葉と書き言葉の性質が薄れ、混じる=平準化される。
  • 特有項目:起点言語にはないが目標言語において見られる言語的要素が、翻訳においては表出しない傾向にある(ex. 英和翻訳で主語の省略が起こりにくい、とかだろう)

 これらが本当に普遍的かどうかはまだ検証・議論中のようだ。そして、こうした特徴がなぜ起こるのかをさぐり、翻訳の「法則」が求められてもいる(イーヴン・ゾウハー、およびトゥーリー)。上で論じた模倣など、文化的なコンテクストの影響が大きいようではあるが、心理学的な原因も視野に入っているようだ(p. 137-40)。

後半

 以下はそこまで興味をそそられなかったので、手短に。

ローカリゼーション

 ローカリゼーションにおける翻訳のポイントは、通常の翻訳が「原テクスト→訳文」の一対一の関係なのに対し、起点から一度「国際化」という手順を踏むことによって、多数の言語バージョンが生まれるという一対多になっているという点である。

 そもそもの製品づくりの段階から、いくつもの言語と文化=ロケールで発売することが想定され開発が進められるし、通信やマーケティングや法の専門家もプロジェクトに参加する*6。こうしたプロジェクトの全体がローカリゼーションであり、翻訳作業はその一部分となる。

 プロジェクトの一部分であり、翻訳支援のソフトウェアにおいても定訳表現パターンの変更までは権限が与えられていなかったりするため、翻訳者のプロジェクトについての知識と作業範囲はかなり断片的になっているという。

翻訳の不確定性

 脱構築や解釈学などでいわれる意味の不確定性を扱った章。

 このパラダイムでは「真の」「完全な」翻訳というのはありえないのかもしれないが、およそ通常の人間ならまず同意するだろう同一性ならきっと可能だろう。翻訳の目的に照らせば、それで十分といえる水準もあるはず。

 意味産出の能動性を指摘することで、西欧中心主義・本質主義を相対化した功績はもちろん大きいのだけれど。

文化翻訳

 翻訳をアナロジー的にもちいたポストコロニアルカルチュラル・スタディーズの理論の紹介。おもにホミ・バーバ。エスニックな/ナショナルな境界を越えることを翻訳(者)であるとする。

 異文化/他者理解一般と、あえて翻訳と捉えることでどう違ってくるのか、もうひとつぴんとこなかった。

その他

  • 翻訳のふりをして提示されている非翻訳は「擬似翻訳」という(p. 129)
  • 翻訳学は、翻訳の研究だけあって、非常にいろいろな国・地域の人が業績を上げ、理論を出しているようだ。ドイツ、フィンランドイスラエルの人だったり、テルアビブ学派とかあったり。
  • 翻訳をすることでかえって自集団の境界を確定することがある

*リスク:上記議論の実践としての本書訳

 また,訳者が翻訳作業で悩み苦しんでいると,ピムは「リスク管理」の話(「あとがき」にもある)をしてくれることがあった.意思決定の対象が,ニュアンスも含めて伝えなければならない重要なもので,絶対に漏れがあってはならず,細心の注意を持って訳すべき「高リスク」情報なのか,それとも,ポイントさえ伝わればよく,一語一句に拘泥する必要のない「低リスク」情報なのか,それを見極めて,時間と労力の配分をせよという考え方だ.締め切りが迫っていた時期には,この助言がたいへん参考になった.さらに,ピムは,訳者の質問に答えるたびに,「翻訳しにくいところ,日本の読者に関係ないような箇所は省略するというのも正当な翻訳方略だ」と付け足すのが常だった.しかし,こればかりは師の教えに逆らい,苦しみながらも何とか訳出できるよう最後まで粘った.(「訳者あとがき」p. 281)

*1:サピア=ウォーフの仮説で有名なあれだ

*2:The Scandals of Translation: Towards an Ethics of Difference. London, New York: Routledge.

*3:等価が成り立つのは一特殊ケースということになるとのこと。したがって二つのパラダイムは必ずしも両立不能というわけではないが、翻訳者養成のポスト争いなどもあって対立していたらしい(p. 84)

*4:本書 p. 116-7。ピムのまとめは J. S.Holmes. 1970 "Forms of Verse Translation and The Translation of Verse Form" in J, S Holmes, F. de Haan, and A. Popovič (eds) The Nature of Translation, Essays in the Theory and Practice of Literary Translation, The Hague, Paris: Mouton de Gruyter, pp. 91-105. に基づく。

*5:Blum-Kulka, S, (1986/2004) "Shifts of Cohesion and Coherence in Translation," in L. Venuti (ed.) The Translation Studies Reader, London and New York: Routledge, pp. 290-305.

*6:PCやソフトウェア、ハリウッド映画などを想像すればよい。そういえばアナ雪の各国語訳はけっこう話題になっていた