Jablogy

Sound, Language, and Human

araihisaoさん評

Twitterで相互フォローしている@さんより「個人的にとても気になる投稿者の方がいて〔……〕恐らく全部自作だろうPV含めてどのように感じられるのか評されるのか、知りたくて」ということで依頼をうけまして、araihisaoさんというVocaloid/UTAU・Pの批評をやってみることにしました。

概観

ニコニコ大百科にまだ紹介ページがないので、どういう活動をされてる方かなどをざっと紹介し、作風を描写していきましょう。

araihisaoさんは2009年の10月から投稿を始め、ずっとコンスタントに作品を投稿し、現在167動画を数えるに至っています。

上のニコニコ動画のユーザーページには「はじめてつくったきょくです」とコメントが書かれており、デビュー曲あたりではあまり洗練された技法は使われておらず、メロディーにも8分音符以下の解像度がない感じなので音楽は初心者でらしたのかも。

巡音ルカ、AquesTone、有名なものからマイナーなものまで種々のUTAU音源と、様々な合成音声音源を使用しているのが特徴的。あまり音源のキャラクター性を生かした曲が見当たらないことから、楽曲に適した声色を選んでいるのではないかと思われます。

歌詞に関しては、聞き取りやすい調声ではなく字幕もないことが多いため、しっかり意味を把握するのは難しいですが、割りとダークな感情がテーマになっていることが多いようです。文体は歌謡曲的だったり、2ちゃんねるやはてなアノニマスダイアリー(通称「増田」)で赤裸々に体験談を綴るときの文体ににていたり。

映像の色使いに独特のセンスをもっていて、どぎつさを感じさせる色の対比や毒々しさがあり病的な印象をあたえるマゼンタや deep pink を必ずといっていいほど使う、などの特徴があります(奇しくもフミカ編集長のやおきさんもこの色をサイトや紙面に多用していますね)。例としてスクリーンショットを貼っておきましょう。


「青空」より


「泣きたい」より


「メモリーズ」より


「パーティクル」より

病的なものを感じさせる色使いに加え、歌詞の世界観や映像のサイケさからアウトサイダー・アートのような雰囲気が漂っています。アルバート・アイラーアウトサイダー・アート性を指摘した菊地成孔大谷能生の次の言葉を見てください。

アイラーの音楽って本当に〔ヘンリー・〕ダーガーと相性が良いように思います。統合不全感たっぷりで……
〔…中略…〕
あ、ちょっとまともに演奏し始めた。と、思ったらまた唄い始めた。みたいな、時折はまともに見えるっていうのも統合不全の症状です(笑)

菊地成孔・大谷能生 2005 『東京大学のアルバート・アイラー ―― 東大ジャズ講義録・歴史編』 メディア総合研究所、p. 172

こういう普通さと狂気や不思議さの共存がaraihisaoさん作の楽曲・動画の中にしばしば見られるように思いました。といっても厳密に精神医学上どうだというのではなく、そういう表現の特徴がある、ということです。見ている方も不安になってくるようなちょっと怖いあの感じ、ですね。

ひととおり特徴を紹介したところで、具体的に楽曲の中でその特徴がどう現れているかを見て行きましょう。

ピックアップ・レヴュー

なにせ160曲以上もあるので全部は聴けておりません。なので以下に取り上げた楽曲は、再生数や投稿日でソートして端に来たものなどを中心に、私が適当に目立ったのを勘でピックアップしたものです。ピンとくるのがあったら他のも探してみるといいかも?

ニコニコ動画】【オリジナル曲】能天気な神さま【NOLBA CODY】

ブルージーなシャッフル曲。味のある、ブルースのフィーリングをおさえつつもどこか奇妙なフレージングの訛りがあります。トラックは玄人っぽいのに、歌のタイミングはズレていたりフレージングがおかしかったりとどこか素人っぽさをみせ、両者の乖離がおもしろいです。

ニコニコ動画】【オリジナル曲】青空【碧音カガミ 舞音タツ】

シンプルなコードとごく普通の四拍子にのせてヘタウマなメロディーが載せられている。サビのブルーノートがどこか普通でなさを感じさせます。

歌詞が聞き取れないのですが、鳥のようなキャラクターが自由に空を飛ぶのを楽しみ、それを真似ようとした犬が墜落・溺死するも魂が空を飛ぶ、というストーリーのよう。人の世を離れて涅槃での自由を得る隠喩なのかな、と想像します。

ニコニコ動画】【UTAUオリジナル曲】泣きたい【香味せん♂ 香味ラッパ】

氏の諸作の中ではもっとも再生数が多く8000を超えている本曲は、働く社会人の孤独とストレスをぶちまけた歌詞が痛切です。

こういうテーマが共感を集めての高再生数だとしたら悲しいことですが……「俺らの歌」というタグに見られるようなブルースにも似た個人的なボヤキを歌わせる/歌ってもらうことができるのもボカロやUTAUの魅力ではありますね。

音色はデジタルだがローファイ。Aメロのレゲエ的なゆったりした4ドロップからサビではオールディーズっぽいズンタタズンタ♪というリズムに移行していて、重苦しい感情からやけを起こした激情へのダイナミズムを表現しているように感じられます。

ニコニコ動画】AquesTone - VOCAL SYNTHESIZER オリジナル曲 デジタルハート vocaloid - 無使用

シンセのサウンドにボンゴやクイーカ、特徴的なベースラインというラテンフレーバーがまぶされています。どことなくキューバのフォーク音楽ソンっぽい感じ――いやむしろソンが日本やアメリカで輸入されてルンバと呼ばれたものに近いでしょうか。人によってはそのスタイルを取った歌謡曲っぽいと思うかも。

氏にしては明るくあたたかい曲調。AquesToneの表情のない歌がかえってそう感じさせるのが不思議といえば不思議です。

【UTAUオリジナル曲】かたつむり【ただのレラさん さてまろ】

ウォール・オブ・サウンド(そのものではないかもしれないですが)的な分厚いサウンド。メロディーも伴奏も和声的には普通にシンプルな長調ですが、フリージャズ的にめちゃくちゃを弾いたようなクラスターフレーズやギターに強くかけられたフランジャーの波が怒りや狂気を表現しているようです。

歌詞はいじめ体験を一人称的に語るもの(作者の実体験かどうかはわかりませんが)。大変シリアスでディープな言葉が明るいメロディーで歌われるアンビバレンスはビリー・ホリデイの「奇妙な果実」を思い出させます。

ニコニコ動画】【オリジナル曲】一天地六【AquesTone2】ルカ

執筆時点での最新作。サイケデリックな映像が激ヤバで狂気を感じさせます。

私の好みとしては今回聴いた中で一番グッときました。70年代サイケデリック・ロックポスト・ロックにもあるような深く歪んだギターでのコードプレイがエモーショナルな狂気感を駆り立てる。「つかさ好きは病気」タグが好きだった人なんかにいいかも。

【オリジナル曲】パーティクル【骨津ノラ 海原ダイキ 何音シキ】ルカ」や「【オリジナル曲】ブレ岐点【サザ音ランド】巡音ルカ」でも感じましたが、平沢進の影響を受けているのかもしれないと推察したくなるようなサウンドです。

 ***
 
以上聴いてきましたように、技術的にはランキング上位曲のような完成度はないのかもしれませんが、聴く人にインパクトをあたえる表現ではあると感じました。

商業音楽で時折聴かれるような、商品としてうまくまとまってはいるけれど当たり障りの無い無難なだけの作品よりはずっといいなと私には思えるのですが、いかがでしょうか。よかったらみなさんも聴いてみてくださいませ。

それではまた。

『フミカ』1.5、超文学フリマ@ニコニコ超会議で頒布

すでにツイッターでもお知らせしましたが、『フミカ』の新刊がニコニコ超会議2内の文系同人誌即売会、超文学フリマで出ます。

ニコニコ超会議2、チケットの前売りは1日1500円、2日通しで2500円となっており、2日間行くなら金曜までに通しのチケット買うとお得。当日券は1日2000円だそうです。購入はこちらからできるとのこと。会場までは東京都新宿駅から1時間くらい:Google Map

筑波批評社と合同というだけでなく、今回のフミカレコーズのブースではいろいろ委託の頒布物もありますのでまとめておきますね。

やおきさんがこれらをまとめたフライヤーを作ってくれました。

Vocaloidの批評やレビューをする同人誌総集結という状態になってますね。筑波批評も超会議シフトということでオタクカルチャーを大きくとりあげてます。文フリ代表によるとこのアの島は壁サークルという位置づけだそうで*1なんだか緊張しちゃいますが、私たちのブースの頒布物もなかなかの充実度になったと思いますので、ごひいきのほどよろしくお願いします。

『フミカ 1.5』の内容

ひととおり情報を紹介したところで、『フミカ』新刊の内容に触れておきますね。まず、目次は次のようになってます。

  • レヴュー・オブ・レヴュワーズ
    • イントロダクション
    • 枠組み編
      • 「音楽」とは何か
      • 「音楽」について書きたい
      • レヴューの3類型 from Genさん
      • 楽曲の分析は……aでもcでもないからb?
      • 「事実」と「意見」の区別をせよっていうけど
      • 評論の楽しさと「説得力」
      • 直観と推論
      • 音楽に関する学問の区分、「音楽自体」と「社会背景」 from Xnagaさん
    • ブリッジ
    • 実践編
      • レヴュー・オブ・不始末さんのレヴュー
        • だけどタイトルは「音楽」に含まれるかってこと
        • 平易かつ一挙に述べるには
      • レヴュー・オブ・コバチカさんのレヴュー
        • Vocaloidシーンの個人史
        • 声のキャラクターをつかまえる
        • 表現の「芯」をつかまえる
      • レヴュー・オブ・柴那典さんのレヴュー
  • レヴューをアナライズする
    • まげ=えりくさのレヴューを類型分析(by やおき)
    • シノハラユウキのレヴューを類型分析(by やおき)
    • かじもとさんのレヴューを類型分析(by ja_bra_af_cu)
    • やおきのレヴューを類型分析 (by ja_bra_af_cu)
    • ja_bra_af_cu のレヴューを類型分析(by かじもとさん)

フミカ編集長のやおきさんによるレヴュー・オブ・レヴュワーズの紹介はこちら

今回「レヴュー・オブ・レヴュワーズ」の実践編と「レヴューをアナライズする」でやろうとしたことを簡単にいうと、音楽を聴いてコードを分析するみたいにレヴューの文章自体をアナライズしてみよう、という試みです。

私の知る限り、そういう「レヴューの分析」をやるために使える出来合いの理論というのはまだないので*2、GenさんやXnagaさんがブログで行った音楽について書く文章*3の分類を当てはめてみる、という方法を取りました。

もちろんそれですっきり分析できてハッピー、というわけには行かないのですが、その作業を通じていろんな問題や枠組みが浮かび上がってきたのは確かかと。その成果はレヴュー・オブ・レヴュワーズの枠組み編にまとめました*4。音楽について書くということに答えを与えることはいまのところあまりできていないですが、どうやって書こうか、どんな文章がいいだろうか、どうやったら伝わるだろうかなど、一緒に考えてみたいという人には好適な一冊になったと思います。

本書内で言及した他にも、このブログで取り上げてきた書物が日に影に影響を与えていますので、ここに記してスペシャルサンクスとさせていただきます。

それから、文章を実際書いていく作業のやり方として、今回フミカちゃんというキャラクターの回想というかモノローグというかという形のもと、複数人がひとつの文体で書くということをやりました。

事前に議論したなかで互いに考えを述べたことが別の人の筆から出てきたり、読み返して誰が書いたものか勘違いしたりなど、この手法には主体を離れた表現をすることの面白みがありました。ひょっとしてこれはボカロのプロデュースにも通じることだったりして、などとも。

***

というわけで、以上『フミカ 1.5』の紹介と宣伝でした。文フリ@ニコニコ超会議に行かれる方がおられましたら、ぜひ手にとって見てやってくださいませ。よろしくお願いします!

*1:[https://twitter.com/sakstyle/status/320513047200403457:twitter:detail][https://twitter.com/harvestmoon15/status/320513728107925504:twitter:detail]

*2:石原先生(@shigekzishihara)が「批評のフォルマリズムだね」と類例を示唆してはくださったんですがリファーするまでは至らず。あと社会学の質的な研究法として「レトリック分析」というのがあったりなど、気になる事柄をピックアップできたのも収穫だったかもです。

*3:[http://plaisir.genxx.com/?p=121:title=Genさん「音楽を能動的に愛でる10通りの方法」]、[http://blog.livedoor.jp/yz_xnaga/archives/22185681.html:title=Xnagaさん「音楽について『書く』ために」]

*4:なので、実を言うと時系列的には本書うしろに配置されている文章のほうが先に試みられたものになってます

Voca brasileira 『Re-fuga』 ライナーノーツ公開

同人音楽即売会M3-2012秋にて頒布された、サークルVoca brasileiraのアルバム『Re-fuga』に私 ja_bra_af_cu がライナーノーツを寄せていました。

近く、2013年4月29日(月・祝)に行われるM3でもこの『Re-fuga』の再頒布と小品の新作が発表になるということで、この機会にライナーノーツを公開しようという運びになりました。

Voca brasileiraの詳しい頒布情報は http://dejaneiroo.net/vocabra/ を御覧ください(今週末には新情報に更新されるはずです)。

私のライナーノーツ、少々文体が堅いかもしれませんが、VocaloidやUTAUを使ってブラジル音楽やラテン系音楽を創り表現するということについて、力を入れて書きました。お読みいただいてVoca brasileiraの作品にすこしでも関心を持っていただけたら幸いです。

人と機械のマリアージュ――音声合成音楽とラテン系音楽

 本CDを手に取られた方には言うまでもないことかもしれないが、Voca brasilairaとはVocaloidに代表される音声合成音楽とブラジリアンを中心としたラテン系音楽のフュージョン・コラボレーションを追求した企画・サークルである。彼らは代表の被災という逆境にも屈せず「M3-2011春」「THE VOC@LOiD M@STER 16」「M3-2011秋」という三つの同人音楽即売会でそれぞれ一枚ずつ新作CDを発表し、意欲的に活動している。

 彼らが行っているような二つの異なる物事の融合は、時として結婚になぞらえられる。フランス語などでは結婚をマリアージュといい、慣用的に料理とワインの相性を示すことなどに転用されている。この概念は近年ジャズミュージシャンにして批評家の菊地成孔大谷能生らにより、映像と音楽との相性を指し示すものとして用いられた(『アフロ・ディズニー』文藝春秋、2009年)。Vocaloidに代表される音声合成音楽とブラジリアン系のラテン音楽という、ともすれば既存の音楽知識からみて相性がよくないと判断されそうな二つの音楽領域は、果たして幸福な結婚生活を送れるのだろうか?

 私見では可能である。というより、実はこの二つはその基本的な性質において相性がいいのだ。

 第一にこれらの音楽は演奏面における正確性が高い。サンバのリズムは独特の訛りをもっていて本能的にリズムを習得した現地人にしか本当のニュアンスを出せないなどと言われたりすることもあるが、ボサノバやサルサなどはむしろ正確で端正なビートに適切な音型のフレーズと強弱を与えることでそのニュアンスをかなり再現できる。例えばiPhoneアプリ「iReal b」などのコンピューターによる自動伴奏が生み出す高いクオリティがまさにそれを示しているといえるだろう。また私の友人のひとりは、パンデイロ奏者マルコス・スザーノのライヴでのプレイを一瞬打ち込みと勘違いした、と話していた。それほどにラテン系音楽家の生演奏は正確性が高いのである。

 音色という面からみても問題は少ない。キューバのトップグループ、Los Van Vanは早くからシンセを取り入れているし、現代のキューバ音楽のグループでもキーボードは電子ピアノが用いられることが多い。

 歌に関してもDTM・音声合成とブラジリアンの相性は悪くない。特にボサノバにおけるウィスパーやあまり張り上げない感じの声は音声合成の得意とするところである。早口があまり得意でないという合成器の特徴や声フェチのファンが多いこととも相まって、UTAU界隈ではクールだったり穏やかだったりする曲調が好まれる傾向にあり、その点もボサノバと相性がよいと言えよう。

 興味深いのは、合成音声が聞こえた時点で、その歌世界が現実世界の生身の人間による音楽とは「次元が異なる」ものである、すなわちアニメやマンガのように「この世とは異なる物語世界における事実・真実」であることが強く示唆される点である。言い換えると、マンガやアニメをみて、それがフィクションの中の事柄であると了承しつつ人物の行為や物事のありさまに真実味を感じるときの感覚と、Voca brasilaira(を含む音声合成音楽)を聴いたときの感覚が似ているのだ。

 その理由のひとつには声の形式化がある。アニメやゲームにおける、いわゆる「アニメ声」とよばれる声優の演技は、音程の上下幅が広かったり「キャラを作」ったりすることによってかなりの程度形式化されている。こうした日常言語との差異を明確にする形式化によって、日常世界と異なる虚構世界が成立させられるのであろう。同様に音声合成の歌も、それとはっきり知覚される、日常言語との差異のある歌声が聞こえることによって――特定のキャラクターの歌声であることが示唆されるとともに――フィクショナルな歌世界であることが認識されるのである。

 Voca brasilairaでは音色の調整もこの虚構世界の成立を助けている。いまいゆ氏によるマスタリングはブラジル的な透明感がありつつ、幅広いスタイルを統合していて、アニメ・ゲームにおけるBGMの統一感と似たものを感じさせる。同時に、DTMによる制作であることもあり、音色やフレージングの生々しさが抑えられているのも虚構的である。同様の現象がプリキュアのエンディング曲に見られる。つまり、よく聴くとかなり本格的なディスコやファンクの要素を用いているにもかかわらず、音色が過剰に生々しくならないようコントロールされていることによりアニソンらしくなっているのである。これはいわば、京都アニメーションスタジオジブリが描くような、極めてフォトリアリスティックでありながらしっかりとアニメ調に描き直された背景美術のようなもの、とでもいえるだろう。アフリカ由来のポリリズムという共通の要素をもった各地のラテンアメリカ音楽のフィーリングやイディオムをしっかりと把握し再構成する彼らの“筆使い”やそこから聴こえる歴史的文脈の厚みも、京アニ的な緻密な描き込みを思わせる。逆に、生楽器系の音色がチープ過ぎたりフレーズの揺れが人間的すぎたりすると、虚構の歌世界が揺らぐような感覚に襲われることも(Voca brasilairaではごくわずかだが)ある。この感覚はアニメにおいて作画がおかしくなったり突然実写が出てきたりするときの戸惑いに近い。

 このようにフィクション的であることによって「楽曲も縛りは緩やか、生粋ブラジル音楽には執着せず、salsa、afro cuban風club jazz、フレンチ・ボッサ、日本のラテン歌謡、etcを許容しつつ楽しんでいきたい」(http://dejaneiroo.net/vocabra/) という彼らのコンセプトが実際的なものになっている、ともいえそうである。現実の音楽家によるパフォーマンスと違い、自己イメージと音楽性を結び付けなくて済むし、身体的にマスターした技術やセンスが絶対というものでもなくなる。すなわち、キャラクターを中心とした歌世界を「プロデュース」するセンスと技術が価値の中心となるのである。いってしまえば、虚構であることが前提であるが故に、「本物でなくちゃいけない」というような狭量な文化観から自由なのだ。

 こうしたあり方は必ずしも彼らがオリジナルではないかもしれない。アイドルやビジュアル系などのように、フィクショナルな感覚を持った音楽はJ-POPにもそれ以前からもずっとあったし、近年ではPerfumeが特にそうした雰囲気を持っている。しかしVoca brasilairaは、宮沢和史やクラブ・ジャズといった様々なラテン音楽のジャンルを併存・融合するスタイルの先達が成し得なかった、自己イメージから自由な音楽性というものを、歌う主体を明確に虚構化することによって――いわばマンガ・アニメ的文脈をラテン音楽に取り込むことで――かなりの程度獲得できている、といえるのではないだろうか。

 このように、音声合成音楽とラテン系音楽という相性のよい二人は、Voca brasilairaという優れた仲人を得て幸福な結婚を果たした。時には夫婦げんかをすることもあるだろうが、Voca brasilairaのプロデュースのもと豊かな未来を切り開くに違いない。あたたかく今後を見守りたいものである。


ja_bra_af_cu /dʒəbræˈfkjuː/

『Vocalo Critique』 vol. 05感想

最終刊がすでに発表されているVocalo Critique。vol.05の感想を下書きまでしていたのですが、気になるところをメモしまくっていたらずいぶん長くなってしまい、結果、完成させるのがすっかり遅くなってしまいました。若干今更な感じもありますが、ちょっとでも盛り上がるのに貢献できたらということで、あえてエントリをあげることにします

Vocalo Critiqueの頒布情報はこちら

さて、刊行始まって一年ほどの時間が経つこともあってか、このvol.05あたりから論考としても雑誌としてもグッとクオリティが上がってきている感じがします。

トーク、音ゲー、MMD、UTAU、自他論文のレビュー、統計的分析と切り口もあいかわらずボカロ界隈らしく多面的。

閑話として挿入されている中村屋さんの小噺と与太話も好調で、女子会から締め出された話は悪いと思いつつクスリときてしまいました。軽いペーソスのある語り口はさすが落語好きというところでしょうか。

全体についてはこのくらいにして、つづいて各記事の感想に参りましょう。

ボカロ女子座談会

女性の絵師、生主、歌い手、そしてボカロPを集めて行われた座談会では興味深いトピックが幾つか見られました。

まずボカロ(界隈)とヴィジュアル系との比較。
厨二系歌詞、ファンタジー的な世界観、女装などが共通点としてあげられていますが、私もV系には少女漫画的センスがある*1ように思われていたのでピンときました。
宮台真司なら「現実の虚構化、虚構の現実化」と呼ぶようなことがらかもしれません。

次に「会いにいけるアイドルとしてのボカロP」というトピック。
これはAKBや同人即売会での直接会う体験を重視する最近の文化と通じることがらですね。
表現する人に対面し直接触れ合えることで親近感がわき、CD売れる。
Pであるもぐさんによると「『本人いるー!』って思うと買っちゃう(笑)」(p. 18) とのことです。

メジャーな商業音楽との違いも言及されていました。
ひとつは、ボカロ界隈は音楽のプロが職業とは関係なく・肩の力を抜いて純粋に音楽を楽しめる遊び場としても機能できるということ。
自身プロジャズボーカリストであるとなりちゃんから語られてるので説得力があります。

もう一つは「自分たちの」音楽、文化としてのボカロ。
異文化発の音楽を取り上げるときに残る借り物感が全面化することない、手作り感と適切なファンタジー感のあるボカロは私にとってもhomeを感じるものです。
GoogleのCMに象徴されるようにメジャー化しつつあるボカロですが、座談会のみなさんと同様「この空気は残って欲しい」(まみむさん。p.22)と思います。

ボカロ曲の奏で方 / なぞべーむ

この論考はボカロと音ゲーの関係を解明しようと試みています。
「音楽の享受において演奏が果たす役割とは」とか「楽器・電子的デバイスを演奏するとはいかなることか」といった音楽の楽しみ方の本質的な問題の一端に触れていると思うのですが、実際の論の運びはボカロが登場する音ゲーの紹介に終始していて、私としては少々食い足りないところがありました。

音楽を楽しむやり方の一つとして自分でも歌ったり演奏してみたりというのは、――作曲・演奏と聴衆が分化した西洋音楽では自明ではなかったりしますが――ごく自然なことです。

私は音ゲーをプレイしないので実感としては計りかねるところだありますが、その「参加する楽しみ」が音ゲーを通じて得られるのだというなべぞーむ氏の言葉*2は興味深いです。

音ゲーというのは画面上に流れてくるシグナル(譜面と呼ばれる)に対して適切なタイミングでボタンを押すと曲(ボーカルやメロディ)が流れる、というものだと思いますが、一般化して言えば「プリセットされた音源を鳴らすことをどこまで演奏と呼べるのか」という事になるのかも知れません。

「テクノ(EDM)のライブはみんな再生ボタンを押してるだけ」と発言して物議をかもしたという海外のニュースが入ってきたりしているように、普通レコードをかけるだけでは(レコードの再生もプレイとはいいますけれど・・・)演奏とはみなされません。

録音物を再生するにしても、DJの場合はフロアの空気を読むことやエフェクトをかけることによりある程度のリアルタイム性がありつつ、身体的なコントロールと根本的にずれをはらまざるを得ないことをも楽しむようになっていると増田聡は指摘しています*3

また神保彰のワンマンオーケストラではパッドを叩くタイミングは生の身体とシンクロしているけれど、音色が出現する順番はプリセットであり自由度はないわけで、もしメトロノームによる同期までいれたらほとんど音ゲーと変わりないかも知れません。

反対に音ゲーからみても、複雑な「譜面」をこなすのはクラシックで難曲をこなすのとそう変わらないかもしれない。つまり、楽器演奏においてヴァーチュオシティを競うのと、ビデオゲームの神業をマスターするのと、ジャグリングすること、そして音ゲーの難曲とは困難な技巧によるパフォーマンスの達成という点では共通しそうです。

以上のように生演奏とプリセットの演奏の関係はかならずしも明確に分けられるものでもない、というのを示唆する点で音ゲーは興味深いものを持っていると感じました。

追記:
半ば参加しつつ音楽を消費する楽しみとして日本のポピュラー音楽において最も多くの人に親しまれているのはカラオケでしょう。孫引きで恐縮ですが、次のツイートによれば、そのカラオケについて批評家の宇野常寛は一種の音ゲーとして捉えているそうです。参考情報までに。

すばらしき世界エミュレータ / DJパターサン

本論は「MMD世界」の成立の契機を探っています。
この世界――ゲキド街であるとか――の存在は皆感じているだろうところで、これをどう理論化するかは大切だろうと思われます。

MMDにおいては「動かせる身体」と「住める場所」を得たキャラクター達に「日常」が付与されると著者はいいます。著者も参照している『ゴーストの条件』に引きつけていえば、蓄積された日常という「履歴」がMMD世界という「場」の固有性を作り上げていると言えるでしょうか。MMD世界自体はキャラクターではないですけれど。

この世界について抱かれた欲望・想像力の問題として筆者は「MMD世界に入る」こと、「AR」、「スパロボ的世界観」を挙げています。設定を共有するいわゆる「シェアド・ワールド」とは少し違いそうですね。

他にオリジナル・キャラクターが受け入れられやすくなっているのはなぜか (あるいは通常の二次創作においてオリキャラが嫌われやすいのはなぜか) という問題もあげられています。

私の観察では、UTAUが「オリキャラ製造器」と揶揄される様子が見られることも時折あります。そのUTAUキャラ達もゲキド街においては普通に存在し得る。スパロボ的な、どのキャラでも並存し得る世界がしっかりと構築されていることが、オリキャラをも居やすくしているのかもしれません。

また私見ですが、MMDというツールを使う事が「お題」となる、素材とツールの共有・共通からある程度の「作画の統一感」が産まれることも全体としてのMMD世界というフィーリングを出すのに一役買っているように思います。

素材共有による動画作成の簡易化・分業化の促進は紙芝居クリエーターやUTAUなどでもみられますが、同一のツールを使うことは人間関係的な場を形成するにとどまらず、ある程度テイストを統一することによって世界観の形成を助けるという面もあるように思えてきます。

人ならざる者の歌声 / まげ=えりくさ

本論では、ツールとしてのUTAUの特性やそこから帰結するキャラクターと歌声の関係が簡潔かつ適切にまとめられています。

主に扱われているのは「無生物音源」と呼ばれる音源群です。普通に発声したもの以外の音源(+キャラクター)をこう総称しているわけですが、猫の声や人の咳き込み音などもそれに含まれていたりして、言葉の意味とあらわしたい感覚・概念とのズレが興味深いです。

ボカロは基本的にアンドロイドか人である設定が多いようですが(MEIKOやKAITOはアンドロイドだったろうか?)、そもそもUTAU向け音源のキャラクターには人外設定のものが多いですよね。もっとも有名な重音テトからしてキメラです。その要因としては、本文にもあるように、アマチュアの作品であり商業的に安全策をとる必要がないために、大胆な設定を取りやすいという面はあるでしょう。

それにしても、こうした「クリーチャー」を作ってしまいたくなる欲望というのはどこから来るのでしょうね。考えてみればミクも早くから「はちゅね」化していたし、アイマスのほうでもやよクリやののワさん、ホメ春香が人気です。ボカロのほうでもたこルカ、シテヤンヨやミクダヨーなどクリーチャーは創られつづけています。

UTAUに特徴的な事情は、音源の性質とキャラクター設定、および中の人の為人とのギャップが作品にあらわれることで突飛でピーキーな表現ができたり、聞き手の予想を裏切ったりする効果がかなりあるという点でしょうかね。

言語をもった人の(歌)声と単なる物音との境界の問題もおもしろいです。
極端に人から離れた無生物音源の音(笛、物差し、踏切の音)によるHANASUは、ボカロを使ったトークロイドの不自然さよりも「逆にこれだけ通常の言語から離れていると、キャラクターボイスとしてむしろ自然に受け入れることができる気がする」(p. 52)。
いわばピカチュウが「ピカ!」しか言えないのにコミュニケーションが十分成り立つのと同じようなことと言えるかもしれません。

「歌声を崩していったときその音はどこまで歌声として保たれるのか、単なる物音をどの程度加工すれば歌声として聞こえ出すのか。無生物音源はまさにこのような問いの狭間にいる」(p. 53)という指摘も面白いです。

これについては言語の文節的特徴が入れば入るほど声として受け取られる度合いが高くなるように思います。
「Vocalizer」の例もでてきましたが、私の耳で聞いた限り、普通の楽音にフォルマントの情報が加わるとかなり人の声に近づいたように聞こえます。
技術的なことはわかりませんが、これに人から切り出したりあるいは合成したりした子音をくわえるとほぼ人に聞こえるのではないだろうか、という気がしますね。
人の声による子音+ネコの声による母音という音源もありますし。

物音に音階をつけて鳴らすだけならば通常のサンプラーと代わりはないのですが、UTAUはもともとが歌声を合成するためのソフトウェアであるためか、ただの楽音であってもUTAUを通すとなんとなく母音のフォルマントが付加されて聞こえます*4
そのため、UTAUを通すとどんな物音でもある程度「声」としての特徴をもってくるということができそうです。

いかなる物体であっても物音さえすればキャラ化することが出来る。いかなる物体であっても、録音した音の固有性があるので、各キャラを固有なものとする「声」になりうる。そんな風に言えるかも知れません。

うたわれる物語の主体 / tieckP

まげ=えりくささんのもそうですが、『Vocalo Critique Pilot』での拙論に反応を返してもらえたような感じがして、書いた甲斐があるように思いました。

論全体の流れとしては、歌詞の主体、作曲のモードがキャラクター×プロデューサー型から楽器×アーティスト型へと変化したことを描写しています。プロデューサーがファンと水平的な関係を築き、共に偶像を支える存在となっている、と捉えているのがポイントでしょう。
メディアはどうあれ「物語」なのはプロデューサー型もアーティスト型も同じでありつつ、ツールや素材の違いがもたらす差を考えるアプローチは適切だと思います。

カロムーブメントの初期において、人格を持った存在のために詩を書くことが引いては「アイドルが輝けるよう裏方として働く存在」すなわちプロデューサーへとつながっていったとtieckPは述べています。

そしてアイマスのPとミク初期のPたちとを比較しているのですが、両者にどのくらい共通点と差異があったかは気になりますね。
視聴者の一人としてはどちらもキャラクターを盛り上げようとしていると見えたし、ボカロにおける調教という少々過激な表現も、キャラクターとの密な関わりを想像すれば納得の行くものでした。90年代のプロデューサーブームを経験した小室世代が作り手にまわったことなども関係あるかもしれませんね。 例えばペンプロさんとか。

時を経て、プロデューサーとファンが同じ偶像のもと水平的な関係を築くあり方からPの作風ごとのファンへという動きが起きたのはある程度ボカロに関心を持っている人ならご存知でしょう。

そのボカロPのアーティスト化を可能にした条件として、「人格を持ちながらあくまで楽器として振る舞える」というボカロの性質にtieckPは言及しています。これにより歌詞の主体を作曲者にすることもでき、それがヒットにつながってるという指摘は、じん氏がIAをあたかも物語のナレーターのような位置づけにしている*5ことを思うと慧眼といえるでしょう(p. 61-2)。

さほど人気が集中していないキャラクターを用いた創作を行なっている界隈、すなわちUTAUやMMDにかつてのニコ動やボカロシーンの雰囲気を感じるのは、あくまで表現がキャラクターを中心としたものであるからかもしれない。

ところで「自己表現」系アーティストとしているような作曲者も、歌詞の主体をボカロやシーンのディスクール (厨二、あるあるネタ、などのコノテーションの強い言葉に訴える) へアウトソーシングしていて、作曲者自身の内面を表現しているような楽曲は少ないような気がしますがどうでしょうか。聴き手の側でも、かつてのロックやシンガーソングライターほど、直接歌い手のパーソナリティに物語の主体が結び付けられる傾向は薄いような。私の観測範囲の偏りのせいかな。

閑話休題。tieckPの議論はUTAUとキャラクターの関係に移りますが、その扱いも適切で、かつてのボカロ界隈と似た性質を維持するUTAU界隈の特色として、(1) 音源選択自体がインスピレーションになりその音源のための曲になること、(2) キャラクターの「持ち歌」枠に余裕がまだあること、(3) 中の人がキャラクターのプロデューサーとして作曲者と水平的な関係にあること、をあげています。

また、音源が「作曲者が対価を払った商品ではないことも、道具としてのみ用いることを躊躇させ、中の人が喜ぶ曲を作ることをうながす」「声の主と同一視を避けつつもその分身をお借りするという立場、これが初音ミクのような楽器化を緩やかに抑制している」とも述べています(p. 63)。

これはカントの定言命法「汝の人格においてであれ,あらゆる他人の人格においてであれ,その人間性をつねに同時に目的として扱い,けっして単に手段としてのみ取り扱うことのないように行為せよ」ですよね。中の人が精魂込めて作った音源は単なる道具ではなく、それ人格性の一部をになったものである。ゆえにそれは道具としてではなくそれ自体を大切にしなければならない、的な。

こういうあり方が望ましいのはMMDのモデル(に限らず他者の作ったものを利用して作品にするならなんでもそうでしょうけど)とも同様ですね。MMDモデルの無断再配布問題などのように、声素材をぞんざいに扱ってトラブルになったという話はまだ聞かないのは幸いなことです。

60年後のボーカロイドを夢みて / 朝永ミルチ

前半はvol.03での自身の論考へのコメントになっていて、コミュニティとしてのボカロが論じられています。

近年のオタク系同人活動すべてに言えることですが、コンテンツへの感心に基づいて作品を発表することが量的に集中している現象をさして、便宜上とはいえ単にコミュニティと呼んでしまうのは問題含みでしょう。ミルチさんもコメントしているように、「場」への考察、祭りとしての性質などを、人的ネットワークのあり方と共に考えなければならないと思います。「シーン」という概念を提示している Straw, Will. 1991 “Systems of Articulation, Logics of Change : Communities and Scenes in Popular Music.” in Cultural Studies. 5(3), pp.368-88、や 井手口彰典 2012 『同人音楽とその周辺 ―― 新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念』 青弓社 、を参考に今後考えたい課題です。

「聖典(軸となる原作)」の不在と作品量が多すぎることによって古参・新参の区別が起きにくいというのは確かに。古参・新参というよりは知識の多寡にかかわらず誰もが平等に「全部を知っていることはできない」というか。

ミルチさんもわずかながらプロデュースという動機を語っています。キャラやシーンを盛り上げたい。この感情はどこからくるのでしょうか。わたし気になります。

後半はボカロを特集した情報処理学会の機関誌『情報処理』vol. 53, No5のレビュー。
この号はアマゾンで買えたのですが、あまりの人気に品切れになったとか。すごい。完売御礼として4月中限定で別刷が無料公開されているみたいです。ニコニコ生で学会発表を放送したりと、本当にハジケた学会ですよね。

『情報処理』の内容は、剣持さんが楽器ととしての歴史的な流れにボカロを位置付けたり、伊藤さんがPCLについて紹介したり。戀塚さんと濱野さんによるニコ動のアーキテクチャについての論考の方が批評・考察的には参考になりそうな印象を受けました。

ボカロCD市場を推計する / 中村屋与太郎

ボカロの市場規模・経済的なインパクトについては気になっていたところでした(やはり売れるともてはやされるのがこの国の文化言説なので)。

読んでいて、予想していたよりも多くのデータが非公開になっているのは意外でしたし、調査の苦労が偲ばれました。その意味でもたいへんな労作です。

本論によれば、2011年に最も売れたEXIT TUNESのアルバムが8万枚でオリコン75位だそうです。ボカロ関係CDの総売り上げからみても、ボカロ全体でメジャーのアーティストとならぶ程度の存在感というところなのかな、と感じます。

同人CDの規模の推計はさらに困難な様子です(入場者数や頒布額が公表されないのは「大人の事情」があるのでしょうけれど)。

即売会での平均消費金額については、中村屋さんのTLからすると社会人が多いだろうから少し高めに出ている可能性があるように思われます(高校生の一般参加が多いという評判からしても)。アンケートの調査方法についてもう少し詳しい記述が必要ではあるが、個人でできる調査としてはこのあたりが限界かもしれません。

それにしても大まかな推計とはいえ、同人CDの規模も億の単位は下回らないであろうことは伺えます。なかなかの経済規模ですよね。

あとは中村屋さんもいうように、カラオケやフィギュアなどのグッズ、ゲームなどのマルチメディア展開などもボカロ経済の重要なファクターでしょうから、物販なども含めた他のJ-POPアーティストとの比較しつつボカロ経済の全体を描く、なんていうものもいつか見てみたいですね。……とはいえ統計がとりにくいので難しいかなー。井手口先生はやらないだろうか(チラッ

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ながくなりましたが、以上、感想でした。
vol.6〜8、およびVocalo Critique全体のまとめについても近いうちになにか書けたらいいな。

*1:特に女性リスナーかも。バンド雑誌の投稿イラストとボカロPVのイラストはそっくりだと思う

*2:例えば音ゲーの一つを「プレイしていて感じたのは、まさに音楽を奏でる楽しみだったのだ」(p. 25)

*3:増田聡 2008 「電子楽器の身体性:テクノ・ミュージックと身体の布置」 山田陽一編『音楽する身体 ――〈わたし〉へと広がる響き』 昭和堂

*4:設定によってはそうした効果をカットできるようですが

*5:[http://netokaru.com/?p=17151:title=じん(自然の敵P)1万4千字ロングインタビュー・音楽を使って物語を伝えたい]

Alexader Stewart “‘Funky Drummer’”

【書誌情報】
Stewart, Alexader. (2000). “‘Funky Drummer’: New Orleans, James Brown, and the Rhythmic Transformation of American Popular Music.” Popular Music vol.19, No.3, pp. 293-318.

大和田俊之『アメリカ音楽史』で言及されていたのをきっかけに知ったこの論文。一度読み終わったとき、twitterで次のように感想を述べました。

こうしたよい文献は広く読まれるべきと思うので、公開されている冒頭部 *1 を翻訳してみました。

原文は1パラグラフで書かれていますが、ディスプレイ上での読みやすさを考慮して適宜改行し、行間にスペースを空けています。

ある特異なスタイルのリズム・アンド・ブルース(R&B)が第二次大戦後ニューオーリンズからあらわれ、ファンクが発展する上で重要な役割を果たした。

それと関連して、アメリカのポピュラー音楽の基底的なリズムは三連符ないしシャッフル・フィール(12/8拍子)からストレートな8分音符(8/8拍子)へと移行した。

この変化は基本的なものだが、一般的には知られていない。多くのジャズ史家はジャズミュージシャンがスウィングを学んでいったプロセス(例えばフレッチャー・ヘンダーソン楽団は1924年にニューヨークに到着したルイ・アームストロングを通じて学んだ)には関心を示してきたが、反対にどのように「ストレートなリズムにもどったか」についてはほとんど分析されていないのである。

最も初期のロックンロール――この呼び名を与えられた最初の例であるR&Bの楽曲たちや、そのすぐあとに続いてあらわれたロカビリーのようなスタイル――はその大部分がシャッフルリズムのままであった。1960年代には 新しいスタイルのロックにおいて拍を均等に分割することが一般的になり、反対に12/8拍子が現れるのは比較的まれになっていた。

三連符から均等な八分音符への移行は拍子の単純化であるとみなされる場合もあるだろう。しかし同様に、この三連符から均等な八分音符への変化は、[ロックンロール的な8/8拍子から] ニューオーリンズのR&Bやファンクにおいて発達した16分音符を基調としたリズム [sixteenth-note rhythms] へと、拍がさらに細分化されるのを後押ししたのである。

http://journals.cambridge.org/action/displayAbstract?fromPage=online&aid=61760

本論文中ではこれに続いて全体の概観が次の通り述べられています。

まず、アメリカ音楽の歴史において「ストレート・リズム」がどのように現れたかを簡単に論じた後、三つの主要な論点を考察する。

すなわち(1)混ざった拍子 [mixed meter] *2 あるいは「オープンシャッフル」、(2)「セカンドライン」あるいはストリートを行進するマーチングドラムのパターン、(3)カリブからの影響、である。

次の章ではジェイムス・ブラウンと「ザ・ワン」の美学、およびそれらとニューオーリンズのリズムの関係を論じる。

最後に70年代のファンクの様々なスタイルとそれらがそれぞれ異なったジャンルとして受容されたことを論じる。

[Stewart, 2000: 293-4]

アフリカンポリリズムとの連続性やラテン音楽との関わりの上で興味深いトピックが頻出なので、もう少し読みを深めて紹介あるいは具体的な議論をして行けたらと思います。

*1:abstract とリンク先では書かれていますが、論文の冒頭部からの抜き出しであり、議論全体を要約したものではありません

*2:混合拍子と訳す場合が多い用語ですがここで指しているのはそれとは異なります

井手口彰典『同人音楽とその周辺』

同人音楽に関するほぼはじめての学術書であり、ボカロも扱われているということで注目していた本書をようやく一通り読み終えました。

同人音楽とその周辺: 新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念

同人音楽とその周辺: 新世紀の振源をめぐる技術・制度・概念

ネット上でもすでに多くの言及がされているので概観は以下を参照していただき、本エントリでは内容へのコメントに集中しようと思います。

加えて、同人音楽に関心のある人向けに、著者自身による関連重要文献レビューが作られています。卒論などで同人音楽を扱ってみたいという人は必見の充実度です。

さて、関連URLをまとめたところで、以下に本書への自分なりのコメントをしてみます。

引っかかった点

アマチュア概念の広まり方

アマチュア論についての第7章。この章において著者は、アマチュアの概念がそのラテン語源の意味に近い「純愛者」のイメージで日本社会に広まっていると、指揮者の芥川也寸志や福永陽一郎の発言を引きながら位置づけています(pp. 224-5)。

しかし、私の感覚で恐縮ですが、アマチュア概念は一般にはそれほど広まっていないのではないでしょうか。むしろ福永の発言にある玄人には及びもつかない技量しか持たない素人、および(それゆえ)その芸では生計を立てられない人という意味のほうが一般的ではないかと。だからこそ指揮者や音楽研究者といったインテリがアマチュアとはラテン語のアマートルが語源であって……という説明をし、それが発見的に受け取られるわけで。

このようにいうのは言葉の広まりかたについてであって、その内実である「純愛」の抑圧、すなわちものごとに取り組むには純粋にその物事を愛し打ち込むべきである、という考え方自体は確かに広まっています。時としてそうしたイデオロギーが不純な動機をもつ参加者を排除しようとする力となって、場の自由を損ない、雰囲気を息苦しいものにしてしまう可能性があるというのもよくわかります*1

ただ、そうしたイデオロギーはどうも「アマチュア」という概念・言葉を通じて広められているというよりは、芸術やスポーツそれ自体をなにか純粋なものとみなそうとする考え方にもとづいているように思われるのです。

参考になったポイント

同人音楽の歴史

なんといっても同人音楽という領域が成立するにいたる歴史的な経緯の整理はとてもわかりやすいものでした。アニメ・マンガの同人誌即売会の文脈からまず音系同人という音を使った(二次)創作的な分野があらわれ次第に同人音楽へと広がったことが、資料とインタビューの両面からしっかり示されているといえるでしょう。

作者の機能をも担いうるボカロ

第5章 現代的想像力と「声のキャラ」では、初音ミクを代表にVocaloidの特質が論じられ、伊藤剛らのキャラ論を下敷きに、Vocaloidは図像のみならずその声もまたキャラとして自律しているとされています。

声の次元におけるミクのキャラ化が技術的なブレイクスルーに直接もとづくのではなく、ニコニコ動画という舞台における連携が作用したことにもよるとの指摘は重要です。

また著者は増田聡による作者概念がもつ機能の分析を応用して、キャラと作者(P)との関係を考察しています。ボカロは仮想のキャラクターでありながら一種の独立したアクターとして生身の歌手と同様の役割を果たしつつ、特にその歌声を使用することが作品にとって本質的であるとみなされるような場合、「作品の産出に際し本質的な貢献をしたものを名指す契機である『帰属としての作者』」(pp. 184)の機能を担いうるという考察は得心がいきます。

妨げられないこと

本書の随所で言及され、特に終章にまとめられているように、著者は同人音楽の特徴を自由な創作が「妨げられない」という点に見出しています。この点はそうした文化の端っことはいえ参入し見聞している私としても納得・共感できるところでした。次のナガタさんのコメントがこのポイントを明確に捉えています。

本書で著者がもっとも強調しているのは、こう抜き出してしまうと呆気ないのだけれど、「妨げられない」ことの重要性です。「すごいもの」を求めるあまり、音楽の楽しみ方が硬直してしまうことに対比して、著者は同人音楽の環境における「妨げられない」ことの追求に注意を促しています。肩の力を抜いて、楽しむこと。…僕にはそれはそれでものわかりのいい大人の言い分のような気がして心情的に同意できかねるものはあるのですが、それでも理不尽な否定やルール決めから解放された所で自由に奏でられ、自由に味わうことができる音楽の素晴らしさというものを否定するのは難しい。本書は、同人音楽とその周辺で、何が自由になってきたのかを解説しているのです。

混乱の中で自由に音楽を語るために。『同人音楽とその周辺』― 本が好き!Book ニュース

これもひとつの事実でありつつ、二次創作の成果物に対する著作権やキャラ愛の名に基づくコミュニティ・ガバナンスなどの面において摩擦が生じている場面も目にするようになっていますし、あるいはニコニコ動画での創作が素人の楽しみではなく玄人の勝負の場になりつつあるといわれるのを耳にした人もいるでしょう。

「そうした見解の妥当性については今後も引き続き当該文化の観察を通じ検証が続けられるべき」*2と著者本人もコメントしているように、シーンの変化も含めた観察と考察が必要だと考えます。闊達で活発な創作(の連鎖)への希望をつなぐためにも。

*1:スポーツや音楽ではないですが、キャラを純粋に愛しているかどうかが、二次創作を発表する・二次創作コミュニティに参加する資格であるかのようにいわれるのととても良く似ています

*2:[http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Akinori.Ideguchi/review.html:title=「同人音楽」関連重要文献レビュー]

英語史入門の本を読んでみた

英語圏の音楽言説をもっと知りたいので、最近英語の学習に力を入れています。

英語学習、とくに語彙を増やす上で、語源を調べ、その語の歴史的な変遷を知ると記憶の助けになることが私の体験上わかっているのですが、そうした学習をしようと語源辞典などを調べてみるとき、どうにも説明のための言葉がよくわからないことがしばしばあります(Old Norseってなんだろう、とか)。

そんなふうに思っていたところフォロワーさんなどを通じて英語史という分野があることを知ったので、ここはひとつ基礎的な知識を仕入れようと二冊ほど入門書にあたってみました。

英語史入門

英語史入門

新しい英語史―シェイクスピアからの眺め

新しい英語史―シェイクスピアからの眺め

橋本の方はいかにも大学で使う教科書といった雰囲気で、英語を取り巻く政治経済史的な環境と、英語内部の歴史的な発展の両方を年代ごとにおさえてあります。

島村のものは逆にシェイクスピアなどの近代からはじまって年代を遡って論じていくというユニークなスタイルをとっています。内容も概説よりは興味深いトピックを論じていく形。トールキンなんかもさらっとでてきたり。

アングロ・サクソン人によるケルト人の押しのけ、ヴァイキングとアルフレッド大王の抗争、ノルマン・コンクエスト百年戦争、バラ戦争とチューダー朝、これら中世から近世のブリテン島史が大きく英語のあり方を左右しているというのは面白いですね。

かつ中世における人や社会のあり方が近代人たる私にはいまひとつ肌で感じることが出来ないというのもより自覚できたように思います。

現代英語の文法事項でどういう理屈でそのような用法になっているのかわからない項目というのがよくありますが、そうした事象も英語史を追ってみると意外に合理的な発展をしていることがわかるのだということも学べました。

例えば、go home, all day, these days などの名詞なのに副詞として使われる後は古英語の格変化に由来してそれが可能になっているとか(橋本 2005: 106)、接続詞のthatはちゃんと指示代名詞のthatから発展したものだとか(橋本 2005: 122)、完了形はhaveの have+目的語+過去分詞の用法の「達成」の意味合い(I had the purse stolen. / 財布を [うまく] 盗んだ状態にした)から発展したのではないかと思われること(橋本 2005: 158)であるとか。

人によってはそんなことは気にしないでまるごと覚えればいいんだよ、というタイプもいるかもしれませんが、私のように理屈で納得がいくと覚えやすくなるタイプは気になったら英語史による説明を調べて見るようにすると、英文法も立体的に理解し記憶できてよいかもしれません。