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「『浮世絵化するJ-POPとボーカロイド』をアメリカ音楽好きはどう読んだか、あるいは僕がレコードを買い続ける理由」への応答

音楽ライター柴那典さんの記事、「浮世絵化するJ-POPとボーカロイド 〜でんぱ組.inc、じん(自然の敵P)、sasakure.UK、トーマから見る「音楽の手数」論」が注目を集め、その内容に対しアメリカ音楽を専門と任じられる評論家・レコード蒐集家の遊井かなめさんの批判記事、「「浮世絵化するJ-POPとボーカロイド」をアメリカ音楽好きはどう読んだか、あるいは僕がレコードを買い続ける理由」が上がっています。

批判記事の中で、名指しではないものの私と分かる形でご批判を頂いておりますので、できるだけ誠実に反応を返したいと思いこのエントリを書いています。批判記事に先立つツイッターでのやり取りによって、残念ながらブロックされてしまいました*1ので、読んでいただけるかはわかりませんが……。

さて、遊井さんの「浮世絵化するJ-POPとボーカロイド」への主要な批判点は、

何より、カラフルな和声とメロディーに基づいた音楽というのは相変わらず英米に多いし、日本にもシンプルなコードの繰り返しに基づいた方向を向いた音楽は少なくはないわけで。そもそも柴氏が英米の音楽として想定しているものはすごく狭い

という点*2、および

史観というものは彼の周辺にいる人たち、つまりゼロ年代のディープなリスナー、評論家では重要視されていないということ。だから、あのような粗の目立つ文章が生まれた

ということ、そして

僕がボカロ音楽について書く際、僕は「ボカロを特別視しない」というのを前提としていて。ずっと連続している音楽史の中での現在進行形として捉えようと心掛けている

ということにあるようですので、それぞれコメントしてみたいと思います。引用先を明記していないものはすべて遊井さんの記事からの引用です。

日本と米英のポップスの傾向はどうなのか

記事を読んだ当初、私も柴さん「近年の日本のポップミュージックは情報量が多くなり、米英のものはシンプルになっていっている」という見解に、個人的な視聴経験から判断して、大筋のところ賛成していました。

例えばJames BlakeやJamie Cullum、Herbie Hancokの"River: The Joni Letters"、Robert Glasper Trio、Daft Punk、Destiny's Child、Lady Gaga、Esperanza Spaldingなどが念頭にありました。いずれもカラフルにコードを連結してストーリーある曲作りをするというよりはモードだったりゆったりしたコード進行の繰り返しを基本としているのではないかと思います。サンプルに偏りがあるのは確かなのでその批判は甘んじて受けなければなりませんが、とりたてて意識せず出会ったものがおおよそこういう感じだったので、全体はこちらに動いてるのではないかな、と感じていたのでした。

一方、「JPOPサウンドの核心部分が、実は1つのコード進行で出来ていた、という話」でもいわれるように、J-POPでは「IVM7 V7 IIIm VIm7」だったり「I VIm IV V7」などを中心に作られてる曲が大勢を占めるのは確かなのじゃないかな、と。菊地成孔大谷能生による「コーダルな音楽とモーダルな音楽」という対比も思考の背景にあったでしょう。

次の「聴いている量」の話につながりますが、実際のところ網羅的に聴いているわけではないので、「米英のメインストリームの音楽がシンプルなコードの繰り返しに基づいた方向を向いているのに対し、日本のポップスがカラフルな和声とメロディーに基づいた作りを維持してるのも確か」などと主張する*3にはリサーチ不足だったのは確かで、アメリカ音楽を専門と任じられる方に意見するには失礼だし、申し訳なかったと思います*4

ほか、柴さんの記事のツッコミどころとしては、手数が多くなっていることを浮世絵化といっているけれど、むしろ水墨画や「わびさび」のようにシンプルさこそが日本文化の特徴だと位置づける人もいること、などもあります。こちらの記事「J-POPのガラパゴス化?」でも言われているように、地域的な特異性を獲得しているのは日本に限ったことではないですしね。またアメリカ全体、日本全体のことを捉えるならば、当然、多様性(の方)をよく見なければならないでしょう。

メインストリームの流れが本当のところどうなのかは、ビルボードチャートなりグラミー賞なり比較する対象としての「主流」を一定の基準を設けて抽出し、楽曲分析して比較してみればはっきりするといえるでしょうか。「情報量」の概念も明確にしないといけないですね。

そして柴さんの記事にあるリバース・クオモやマーティ・フリードマンが体感的に捉えているJ-POPの複雑さとは何でありどう考えたらよいのか*5。機会があれば今後の課題としたいと思います。

歴史の認識と聴いている量

さて、次のトピック「歴史観ゼロ年代のディープなリスナー・評論家では重要視されていないのであのような粗の目立つ文章が生まれた」です。他の方がどう考えているかはしかとは存じませんが*6、私に関してまず誤解を解いておきたいのが次のポイントです。

音楽評論の話になって。、僕が「聴いてきた枚数、歴史観がまずは必要とされるのではないか」と言ったところ、彼は「枚数に依ってはならないと思う」と反論したことがあった

実際その時にしたやり取りは次の通りです。

私がここで申し上げたのは、「量を聴いているだけではダメではないか」という意味であって「理論さえあれば聴かなくてもよい」ということではありません。後半部を含めて言い換えると、「なにか主張したい仮説があるならば、それを立証するために十分な量を聴いた上で、分析のための枠組みの勉強もまたしなければならない」のではないか、ということになります*7

このテーゼは、遊井さんのいう「歴史的認識というのはやはり必要である。そうでないと、こういった面白くはあっても、認識の誤った記事しか書けなくなってしまう」という主張とまったく矛盾しませんし、むしろ積極的に賛成いたします。

ただ、歴史的な流れについて主張を行ったり、歴史観を涵養する場合にも単に量を聴けばそれでいいというものではないように思われます。次に上げる文献にはいずれも、進化主義・人種主義・ロマン主義ナショナリズムなど、それぞれの時代における思考の習慣・枠組みに音楽観・音楽史観も大きく左右されていることが示されています。

聴取を積み重ねることに加え、こうした条件に左右される*8のは私たちも変わらないということをまずは知り、さらに現代を捉えるための枠組みを批判的に学び、自分たちなりに考えて行かなければならないのではないでしょうか。

そして、現代のことを歴史的に位置づけるとなれば*9、その主張はどうしても暫定的な仮説にならざるをえず、新しい現象で定まった見方がない以上、どうしても誤りは含まれてきてしまうものではないかと。だからといって根拠の提示やリサーチが適当でよいというのではもちろんないですが。

よりよい認識に至るためには、批判的検討を互いに繰り返すことで議論をブラッシュアップしていくのが王道でしょう。その点で、今回このようにエントリがでてきているのはよいことだと思います。

ボカロを特別視しないということについて

さて、三つの目となるこのトピックですが、

僕がボカロ音楽について書く際、僕は「ボカロを特別視しない」というのを前提としていて。ずっと連続している音楽史の中での現在進行形として捉えようと心掛けている

という遊井さんの言葉にはなんの異存もございません。時折いわれる「J-POPみたいな低レベルな音楽聞いてないで洋楽聴けよ」というセリフのように、ボカロだから称揚するとかバカにするとかいうようなおかしなスノビズムは過去のものとしたいですよね。

そのうえで、現在のボカロシーンを歴史的にも捉えていきたいわけですが、歴史的な記述において「ボカロを特別視しない」ことと「ボカロ(シーン)の特性を記述しない」ことを混同すべきではないと思われます。

柴さんが記事の元ネタとして参考にしてくださった私の考察というのは「2012年のボカロ再生数上位曲について」と「2012年ボカロ曲10選を視聴したまとめ」だと思います。これらの考察の中で、リストの中の楽曲を聞いた限りでは、次のような目立った要素があるように感じられました。

自分のリストを作りながらも思いましたし、先日の上位曲を聴いても思いましたが、今年の10選聴いてると、やはり展開をすごく工夫して複雑にする流行り来てるような気がしますね。Aメロが三拍子でサビから四拍子に行ったりとか。

プログレッシブロックに限らず普通のポップスでもそうなってる傾向があるのが面白いところです。明確な変化をつける、曲の情報量を増やすというところで使いやすい手法だったりするのかなー。

http://d.hatena.ne.jp/ja_bra_af_cu/20130118/1358516840

〔2012年ボカロ曲再生数上位リストの〕全体を聴いてみておおよそ掴んだ傾向を列挙してみると次のような感じでしょうか。

  1. 高速ボカロックまだまだ好調
  2. 音圧・音数の詰め込み感パない
  3. リズム・曲展開が自由
  4. 動画として楽しめる=コメントのしどころがわかりやすい傾向
http://d.hatena.ne.jp/ja_bra_af_cu/20121216/1355670137

ヒット曲に限ってはこうした性質のものがそれなりに多くあるのは確からしいとして、それらの曲がなぜ支持されているかを説明しようとするときには、ボカロ(シーン)固有の特徴というよりはむしろ、J-POPあるいはポップミュージック一般に見られる現象や条件に由来すると分析できるかもしれないし、はたまたニコニコ動画やWEBという視聴環境に由来するといえるかもしれない、と思います。もちろんこれも暫定的な仮説ですので、最終的な結論は今後の議論や研究の進展次第ですね。

というわけで、本節の議論をまとめると、「ジャンル差別をしないこと」「特徴を記述すること」「特徴の説明をどこにもとめるか」の三つのレベルは区別されるべきだろう、ということですね。

 * * *
 
以上、コメントでした。ロジックを丁寧に書いていたらずいぶん長くなってしまいました。最後まで読んでいただいた方はありがとうございました。

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

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*1:遊井さんの批判を取り入れつつ柴さんの立場よりの意見を述べたところ、そのやり方が卑怯なものに映ったとのことです。実際のやり取りを見たい方は二人のTwilogで5月31日〜6月2日あたりを御覧ください

*2:ブロックされる原因となってしまったツイートを私がした時点ではこちらが根幹的な主張であることがクリアに読み取れなかったために、結果としてツイートの内容からオミットしてしまい、意図的な編集をしたと取られてしまったようです。クリアに読み取れなかった理由は、(1) ガラパゴス化が以前から起こっていたことについてのツイート数が多かったのでそちらに重点を置いているように見えた、(2) 私がフォローしていない人へのリプライで言われていたので見落としていた、(3) 論拠がその時点では不明確だったので強い主張に見えなかった、というところでした

*3:事前のツイッター上でのやりとり(http://twitter.com/ja_bra_af_cu/status/340842086674874368)。Twitter上でしたので、思いついたこと・一時的な仮説のメモ位のつもりで書いたもので、あまり強く主張するつもりもなかったのではありますが。明示でもしない限り、読む側にはその脈絡は見えないので、誤解を招きやすいことはしっかり認識しておかなければと反省しました

*4:ただ、純粋に論理の面では「米英および日本の音楽の傾向はしかじかである」という主張に対する反論としては、反例をあげたり、「カラフルな和声とメロディーに基づいた音楽というのは相変わらず英米に多いし、日本にもシンプルなコードの繰り返しに基づいた方向を向いた音楽は少なくはない」と言ったりするのではなく、〈シンプルなコードの繰り返しに基づいた方向を向いた音楽は英米の主流を占めるというほどの数はない、かつ/または日本でもカラフルな和声とメロディーに基づいた情報量の多い音楽は主流といえるほどの数はない〉といわなければならないでしょう。文面はともかく網羅的に聴いていて知識をお持ちの遊井さんとしてはそういう意味のおつもりなのかもしれませんけれども

*5:実際の音的な特徴にとどまらず、彼らのポジション確立や美学を反映した「語り」として、とか

*6:とはいえ重視しなくていいとは思っている人は私の知る限りいないと思いますが

*7:このように言うのは、個人的な好みとして、枚数を聴いていることを誇りいろんなエピソードを並べるけれども肝心の音楽の説明がもうひとつ、という評論があまり好きでないということもあります。すべての評論が私の言うようなものでなければならないとまでは考えません

*8:私や柴さんが勇み足したのもその例の一つといえるでしょう

*9:というかあらゆる主張が本来はそうですが