Jablogy

Sound, Language, and Human

卜田隆嗣『声の力:ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学』

声の力―ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学

声の力―ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学

 インドネシアボルネオ島の狩猟採集民プナンが歌うシヌイという「うた」に関するエスノグラフィ。
 カミ/精霊の力(に関係したもの)を取り入れ,体のなかで人の力と結びつけて外に出すという構造をもつという点で,プナン社会においては排泄することとうたうことが同一の地平にあるものとされる。そして,出すたびごとの一回性にもカミの力が働くとされ1,それぞれの細部が批評の対象になる,という一種の民俗美学を描き出している。
 文化的脈絡に音楽を位置づける民族音楽学の研究としてプロトタイプ的なもののひとつといえようか。

 排泄についてもうたについても考え方が全く異なる人びとの実践を,当の文化における捉え方にしたがってここまで整合的に解釈できている――著者も当初は自分が持ち込んだ枠組みを使おうとしてしまっていたと記しているが――のは人類学系の著作として好著と言ってよいと思われた。

 また,著者がそうした感じ方にたどり着けたのは,ある夜に神がかり状態になり,自らの体にカミを感じとって,無意識に歌をうたったという経験を経てのことだそう(p. 202)。その体験や現地の人の言葉によって著者が得た〈目で見たものだけでなく,視覚以外の五感をしっかり使うことが異文化の理解に肝要である〉という示唆は今日でも有益だろう。

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 個人的な事情だが,精華大の谷口先生におすすめ頂いて読むべきリスト上位に入れながら長いこと積んでいた課題だったので,ようやく消化できてよかった。民族誌的な著作としてはコンパクトでとっつきやすいサイズなので(読者としてはありがたいところだ)もう少し早く手にとっていればよかったかもしれない。

 


  1. おならを長くきれいに鳴らすのにも身体感覚による筋肉のコントロールと偶然性とが働いて生じるある種の即興性についての説明がある(p. 140)。即興が自分の力を超えてなぜかすごくうまくいってしまうときのあの感じをプナンの人たちはカミの力と表現している,あるいはそう感じ取っているのではないか,と想像された。

ロビン・ケリー『セロニアス・モンク:独創のジャズ物語』

セロニアス・モンク 独創のジャズ物語

セロニアス・モンク 独創のジャズ物語

 インタビュー資料が少ないために,謎が多かったというモンクの生涯と音楽。アフリカ系アメリカ人歴史学者である著者が,私的な録音や関係者へのインタビューなどの一次資料を11年の長きにわたって蒐集し,それらを分析することにより不明瞭だったモンクの実像に迫ろうと試みている。

 テキストクリティーク,他文献との突き合わせによる考証,背景である米国の歴史とモンクの事績との関連付け,などのクオリティはさすが歴史学者だけあって高い水準を保っている。ディスコグラフィーを文字に起こしてエピソードを羅列しただけのジャズ史本とは一線を画しているといえよう。

 あえて難点をあげるなら,全体のアウトラインを把握しづらいというところがあるだろうか。演奏技法やスタイルによっていくつかの時期に区切って理解することが可能なマイルス・デイヴィスなどの場合と違って,モンクの生涯自体が節目をつけづらいところがあるようなので仕方のないところかもしれないけれど。

 以上のような手法で描き出されたモンク像は,なんとなく一般に持たれている「謎めいた」とか「狂気の」とかのイメージとは異なるものだった。むしろ,自分の価値観に忠実すぎて付き合いづらいところはありつつも音楽や仲間に誠実な人だったんだなという印象である。

 訳者解説にもあるように,そうしたモンクをロレイン・ライオン,妻ネリー,パノニカ夫人といった女性たちが支えていたわけだが,歴史における女性の貢献を見落とさない目配りは現代の社会研究の基本を押さえたものだといえよう。

 社会的背景としては,やはり薬物の危険性――依存症になるだけでなく精神障害のきっかけになったり,症状を悪化させる要因になったり――が印象深い。当時のニューヨークの薬物汚染がなければもっとたくさんの名盤・名演が生まれていただろうにと思うとやるせなさが募る。ジャズ・ミュージシャンたちのお金や家族関係のトラブルといった不幸も少なく済んだのだろうし。1

 精神医学がまだあまり発達していなかったのも厳しかったポイントだなと。モンクがかかっていた医師など「ビタミン注射」に覚せい剤を混ぜていたという……。

 モンク個人の事情としては,クラブで演奏して働くための許可証であるキャバレーカードを停止されてしまったことが経済的な打撃として大きかったようだ。停止のきっかけも警官に因縁をつけられたことだったりするわけで,人種差別の音楽への影響は理念的なものにとどまらず社会制度的レベルからあるのだなと改めて認識した。

 キャバレーカード停止のためにツアーやレコーディングが収入の頼りだったそうなのだが,コンサートが酷評されたためにツアーをキャンセルされて困ったことになったりするなど,批評が実際的な力を結構もっていたらしいことも印象的な事実であった。

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 知識のシェアと書籍への導きとして,以下に興味を引かれた点を列挙しておこう。気になるところがあれば本書を手にとってみてほしい。

育ち・音楽的背景

クラシック音楽に興味も知識もないという往時の世評に反して,レッスンも受けてたし,知識もあった(p. 27, pp. 56-7)

モンクの両親はプロのミュージシャンではなかったが,母はピアノ・賛美歌・ゴスペル,父はピアノ,ジューズ・ハープ(口琴),ブルース・ハープなどを演奏できた(p. 43)

アート・テイタム的なスタイルの速弾きもやろうと思えばできた(p. 114,原注第5章(4))

幼いころ住んだハーレムのブロック(サンファンヒル)にはカリブ系の人も結構いた。したがってラテンの影響も受けいている。
例えば〈ベムシャ・スウィング〉はバルバドス島出身のドラマーデンジル・ベストとの共作で,ベムシャ(もとは Bimsha)とはバルバドス島の愛称である(p. 53)

幼いころ録音を聞くといえばピアノロールのことだった(p. 55)

モンクがティーンエイジの頃は喧嘩の強いモテ男だった(pp. 63-5)

ペンテコステ派の伝道師にくっついて中西部・南西部をツアーして回ったこともある(4章)

モンクにとっての一番のアイドルはデューク・エリントン(p. 286,)

ビバップのオリジン

ケニー・クラークのスタイルの背景:

デューク・エリントン・バンドのジミー・ブラントンによる革新の後になると,ベース奏者こそが〝テンポ設定器〟になっていた。ドラマーはもっと自由に,当たり前ではない場所にアクセントを置くようになっていたのである(p. 102)

ミントンズで下手くそを排除するために楽曲を複雑化させていったというのは誇張(pp. 107-8)
デューク・グロナーいわく「『ミントンズ』は,結局のところビバップが演奏される場所にはならなかったが,その理由はやってくる連中の中にはビバッパーじゃない人たちもいたからだ」(p. 111)

バド・パウエルは最初ハーモニーがよくわかっていなかったのでモンクが教えてやった。(p. 127)
駆け出しのバド・パウエルが演奏しようとして聴衆に嫌がられたとき,それなら自分も弾かないぞといって受け入れさせた(p. 128)。// めちゃいい先輩である。

バードやディジーがやっていることのアイディアの多くは自分が元だが,彼らほど自分は評価されていない,と不満を表すモンク(pp. 157-8)
モンクいわく,アイディアはみんなで出したがピアノはハーモニーとリズムを担うのでモンクのスタイルがビバップのそれということになった。
「ディジーとかチャーリーとか,残りの連中は,最初の頃はほんのときたま〔ミントンズに〕やって来ただけだよ」(p. 183,〔〕内は引用者)

精神障害

モンクの精神障害はいまでいう「双極性障害」(p. 30)。 薬の副作用などで表面上はさらにややこしくなっていた

1959年から治療にあたったロバート・フレイマンは「ビタミン注射」にアンフェタミン覚せい剤〕を混ぜて打ったり,ベンゼドリン〔アンフェタミンの商品名〕の錠剤をニカに処方したりしていた。そこからきたあだ名が Dr. Feelgood だそう(p. 401)2

親しい人――コールマン・ホーキンスバド・パウエルのエピソードが特に印象深い――の死がモンクをたびたび強いうつ状態に陥らせた。

父は死というものに上手に対処できない人だった。自分の母親が死んだときに頭がおかしくなった。そしてロニー〔妻方の甥〕が死んだときも頭がおかしくなったんだよ(モンクジュニアのインタビュー,p. 510,24章注(18))

批評

レナード・フェザーはモンクに対して評価が辛かった。
インサイドビバップ』でバップの祖をディジーとし,バードは補助にすぎないとする。モンクは寸評で片付ける(pp. 222-3)
停滞を指摘(p. 559)
一度は「モンクのことを見誤ってきた」と謝罪する(p. 580)もその後も酷評を出したりしている(pp. 633-4)

1957年「タウンホール」でのコンサートの後,ガンサー・シュラー他による酷評が出ると,リバーサイドの経営者はそれを受けてモンクのツアーを中止にした(p. 397)。なお Thelonious Monk Orchestra At Town Hall は後に名盤になっている。

アヴァンギャルドが中心になったことで奇抜さば目立たなくなり,むしろ保守側に位置するようになる。またオーネット・コールマンドン・チェリーセシル・テイラーらはモンクをリスペクトしていた。 モンクもコールマンもジャズと黒人音楽(ブルースや教会の音楽など)の伝統に根ざしていた。(pp. 420-2)

日本での評価は好意的(pp. 499-502)

モンクを支えた人々

ジャズマンのパトロンで有名なパノニカ・ド・コーニグスウォーター男爵夫人は「ロスチャイルド家の一員」だった(p. 257)

白人の高校教師ハリー・コロンビーにマネージャーになってくれるよう依頼(p. 295)。コロンビーは後に著作権の整理などもおこなう(pp. 473-4)

妻のネリーはインタビューを介助したり,経理を処理したりなど,公私に渡りモンクを支えた(pp. 451-4 ほか)

その他

黒人教会といえど,20世紀の北部のバプテスト派なんかだと,ブルージーなスケールやシンコペーションは「事実上存在していなかった」(p. 76)

〈スターダスト〉は音楽的に出来が悪い曲だとのモンク評(p. 116)

ナチと戦いながら黒人を差別する合衆国のダブルスタンダード(p. 131)

サイドマンは耳で音楽を覚えるべき(エリントンやミンガスと同じ考え)(p. 190)

マイルスとは反りが合わなかったようで,しばしば喧嘩をしていた(pp. 244-5 など。ほかはメモし忘れた)。
一応,有名な「ケンカセッション」でマイルスが自分のバックではピアノを弾くなといったのは事実らしい。しかし,その理由は純粋に音楽的なものであって(バラードでもホットに弾いてほしいがモンクはそうでない,モンクのヴォイシングがマイルスにとって快適でない),特に悪意があったわけではなく,そのときには喧嘩もしていない,というように当人たちは述べている(pp. 269-70)。

演奏中に踊りだす癖について
共演しているメンバーにとっては,モンクが踊るかどうかは,その場の演奏がスウィングしているとモンクが感じていることの指標だった(p. 347)

モンクからすると踊る理由ははっきりしていて、疑問の余地はなかった。「ピアノに向かって座っていると飽きるんだよ! 踊るとリズムをもっと楽しめるからね」。教会で育ち、伝道師との旅の途上で信者の忘我の表現を目撃した経験が、モンクにとって音楽に合わせて踊ることを自然な反応にしたのだ。(ibid.)

ビート・ジェネレーションの人々はジャズをマスキュリニティの復権,ないしオルタナティブなマスキュリニティとして高く評価した(p. 348)

「メロディがよくわかっていれば,ソロはもっと良いものになるんだ」(p. 379)。コード進行だけで発想すると画一的になってしまう。

 


  1. 薬物はそれ自体の問題よりも社会環境とそれとのコンビネーションの方に着目すべきという議論が強まりつつあるとのこと[春日匠「コカイン中毒は本当に社会問題の本質なのか? ―― 視点の多様性のために、カール・ハート博士の議論から考える」『天使もトラバるを恐れるところ』 http://blog.talktank.net/2019/03/blog-post_16.html,2019年,2019/03/16取得]。確かにジャズミュージシャンたちも差別や金,プレッシャーなどの問題がなければそこまで破滅的にならずに済んだ場合もあるのかもしれない。

  2. ビートルズの〈Doctor Robert〉もこの人がモデルだと聞く

松永伸司『ビデオゲームの美学』

ビデオゲームの美学

ビデオゲームの美学

美学研究者による分析美学的なビデオゲーム研究。博士論文をもとにした本格的な理論的研究の著作ゆえに読者への要求水準も低くはない1が,個人的にも親しみのある文化が精緻かつ明晰な理論によってエレガントに説明されていく様子は,ゲーム研究の門外漢にとっても読んでいてある種の知的な興奮を覚えるものであった。

全体的な流れとしては,ビデオゲームの記号システムを一つの統語論(画面と音声からなる「ディスプレイ」に示される要素)と二つの意味論(虚構世界/ゲームメカニクスを表す)という水準にわけることによって,それらの区別がない先行議論の混乱をすっきり整理していくという構図になっている。

この議論の運び方は,創出/中立/感受のレベルをわけることでその区別がない先行議論を批判するジャン=ジャック・ナティエ『音楽記号学2増田聡『聴衆をつくる』3の作法と似ているかもしれない,という印象を受けた。

また,定義にはどういう種類があってこの場合にはどれを使うか,芸術をどういう観点から定義するか,インタラクティブとはどういうことか,ゲームとはなにか,リアリティとはなにか,など本筋以外にもいろいろ広がりがありそうなトピックが散見された。ビデオゲームにはそれほど関心のない人にも読めば収穫がありそうである。

特に,出発点として対象を確定するための定義と議論全体を通じてなされる特徴づけ(≒定義?)を区別していること,また全体を通じてなされるビデオゲームの定義を名目的本質明らかにするものとすることで人工物に実在的な本質を求めるのを回避する点(pp. 316-7, n.2)などには蒙を啓かれた感がある。

終章では美的行為をもたらすべくデザインされた人工物としてのゲーム,ひいては遊びの哲学への展望が語られている。「美的行為」の概念は第7章でゲームメカニクスを説明するために導入されたものだが,これをを他の事象にも適用することで,いままで見過ごされてきた様々な人間の行為が研究の対象として浮かび上がってきそうな気がする。

私が思いついたところでは,ただ歩くだけの散歩とは何が楽しいのか(美的行為としての散歩)とか,自動車を運転することと「乗り味」のデザイン,楽器を演奏することの楽しみ,ジャズにおける「当意即妙」の重視といった音楽外のことがらのように思える価値,などが挙げられようか。

これらには明らかに美的な判断や趣味・好みが関わっていながら,作品を鑑賞するという通常の芸術の枠組みではあまり注目されないもののように思われる。美的行為の概念や遊びの哲学という領域でこれらが論じられるとしたら,それは私達のいろいろな経験やその理解をより豊かにしてくれるのではないだろうか。

著者による今後の掘り下げに期待したい。

 


  1. マリオやテトリスぷよぷよは注釈なしで言及されるし,ある程度のゲーマーでも事例にあげられる作品のすべてをプレイしている人は多くないかもしれない。プレイ動画などを見て補う必要があろう。逆にゲームは詳しい人でも,分析美学や記号論,論理学(特に一階述語論理)を全然知らないと理解が難しい箇所があると思われる。「統語論」「意味論」の用語法に限っては,N・グッドマンやJ・カルヴィッキに従ったものなので,一般的な言語学記号論の用法を知っているとかえって混乱するかもしれないが。加えて,ゲームスタディーズの研究者なら当然知っているであろうということから,あるいは不要な論争を避けるために,明示していないトピック・文脈もいくらかあるようだ。

  2. Nattiez, Jean-Jacques. Musicologie Générale et Sémiologie. Paris: C. Bourgois. 1987. (ジャン=ジャック・ナティエ『音楽記号学』足立美比古訳,春秋社,1996年)

  3. 増田聡『聴衆をつくる ―― 音楽批評の解体文法』青土社,2006年

辻田真佐憲『ふしぎな君が代』

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

ふしぎな君が代 (幻冬舎新書)

たびたび論争が起こる君が代。どのような立場から考えるのであっても,まずは実態をよく知るべし,ということでものされた新書であり。歌詞の由来,作曲,国家としての認識・普及,戦後の生き残りと論争までを一通り描く。

国歌として楽曲の強度と完成度が高くなかなか他に変えるのは難しそうという著者の見解はある程度同意できる一方,戦後すぐいくつも作曲されたという国民歌・愛国歌などのほうが,スポーツの応援などで ”素朴な愛国心” を表明するには適切だろうなと感じた。君が代を廃止するのでなくても,国歌・準国歌としてそうした曲を追加するというのはありかもしれない*1

君が代のみならず,各国の国歌も,時代が変わるに連れてその意味や解釈,社会における位置づけが変化してきたことを知った。山口修がいうところの「脈絡変換」の一例といえよう*2

君が代についても,戦前戦中の天皇賛美の歌から,天野貞祐や政府見解がいうような象徴天皇制の戦後日本を象徴する歌へと変化したと位置づけたいのならば,内外問わずそれと認めてもらえるように,過去の戦争犯罪や植民地支配を正視し,斉唱の強制もやめるべきであろう。

現状の日本社会,政府の動きはそれとまったく逆行するものであり,結果として君が代は,象徴天皇制ではなく,大日本帝国へ回帰せんとする志向を象徴するものと受け止めざるを得なくなっているのではないだろうか。

*1:国歌というのは一曲でなければならないというわけでもなさそうなのも本書で初めて知った

*2:『応用音楽学放送大学出版,2000年

ファンキー末吉『平壌6月9日高等中学校・軽音楽部:北朝鮮ロック・プロジェクト』

2006年から足かけ5年間,ロックがほとんど知られていなかった北朝鮮の高校生たちにそれを伝えに行くファンキー末吉氏(ex.爆風スランプ)。90年代に中国へ渡り現地のロック事情を熱い筆致でドラムマガジンにレポートしていたのをよく覚えているが,北朝鮮でも活動されていたとは。

中国でも北朝鮮でも,社会システムのしがらみを超え,音楽の力で人の自由なあり方を引き出す姿は感動的であり,これぞロックと呼びたくなる。

氏が経験した生徒たち一人ひとりとの顔が見える距離でのつきあいは,レヴィ=ストロースなら「真正な関係」とでも呼ぶのではないだろうか。けいおん!やユーフォや君嘘や坂道のアポロンと同じように,北朝鮮の高校生にも友との諍いやリーダーの苦悩があり,新鮮な音楽への憧れがあり,弾けないつらさがあり,達成の喜びがあるのだ。

こうした姿を本書を通じて知ることは,東アジアの情勢が急速な変化を見せる今,北朝鮮を一面的な理解からデモナイズしがちな私達にとって大きな意味があると思われる。音楽ファンのみらず幅広い読者に一読を薦めたい。

余談だが,氏のドラム演奏だけにとどまらないソルフェージュやプロデュースの能力も改めてすごいなと。確固たる相対音感をもって楽器なしでアレンジを譜面に起こし(p. 40),全楽器の指導をしつつレコーディング作業までこなすドラマーというのはプロでもそうたくさんはいないのでは。

また,まったく異なる常識をもった相手であっても,自分の常識を押し付けるのではなく,相手の社会の文脈において気持ちや考えを理解しようと努め,自らの社会や文化について考え直す一助としている姿勢は,ナチュラルに文化人類学的だなと感じた。

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日本が経済制裁を強調する一方,中国ほかの外国の投資によって平壌はどんどん豊かになっていったことが現地の目からは明らかだったようであるというのも,今年に入っての急激な雪解けを思い起こせば大変納得感がある。日朝の関係悪化によってその後の再会は果たせていなかったらしいけれど,このまま関係改善が薦めばまたチャンスもあるのかもしれない。皆にとっていい結果を星に願おう。

大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史』

文学研究者による近現代日本の〈物語文化〉論。

文芸評論・文学研究においてもサブカルチャー評論においても言説のエアポケットになってきた少女/少年小説にスポットライトをあて,幕末~昭和のエンターテインメント文芸とまんが・アニメ・ライトノベルとの推移・接続を描き出している。オタクカルチャーを歴史的に理解する上ですこぶる有用な一冊であるといえよう。

本書が優れているのは,メディア横断的に物語やキャラクターのモチーフ・様式が受け継がれていることを明らかにしている点であると思われる。

特に60年代までの少年小説・ジュニア(少女)小説が,それらの読者であるアニメ製作者を通じるなどして,まんが・アニメの先駆となっている(そして小説メディアとしては一旦流れが切れているのでラノベが全く新しいジャンルとして誕生したように見えた)という説明には驚きとともに深い納得感を得た。

 

私達が日頃親しんでいるキャラクターの典型的なパターンには明治や大正の少年・少女小説に端を発するものが多くあると知るのも楽しい読書体験だった。

マリア様がみてる』によく似た設定の女学生ものが大正時代に書かれているとか,ドロンジョ様のような悪の女幹部の喋り方が『女海賊』(1903) にすでにあるとか。

類似点があるからと一足飛びに平安文学などをオタクの源流とするような言説とは異なり,モチーフの連続性を具体的に挙げることで地に足の着いた論考になっている印象も受ける。

 

キャラクターの定義・特徴付けについても,従来説に手短ながら核心にせまる批判を付し,役割語ないし「キャラ語」を用いた台詞の様式化を要点とする自説を展開している。

中でもキャラクターを確立するのに様式化された口調という日本語の特性が寄与しているという説明は興味深い。

なお,様式のセットを重視する点は著者が批判する「データベース理論」と変わりがないような気もするが,参照先が実は明治・大正まで広がりを持つと指摘し理論を拡張したことにはなっているはずである。

また柄谷行人などが唱え大塚=東=伊藤などが依拠する「自然主義文学」観や少女小説・ジュニア小説をアカデミックな場で語りにくいものにしていた「児童文学」観などを,近年の文学研究の成果をもとに相対化し修正してくれている点も大いに参考になった。さすが文学研究プロパーな著者だけはある。

山田陽一『響きあう身体』

響きあう身体: 音楽・グルーヴ・憑依

響きあう身体: 音楽・グルーヴ・憑依

同著者の編による『音楽する身体』から引き続き,西洋の文化・学問においては周縁におかれてきた身体をフィーチャーする音楽論。音楽・グルーブ・ダンス,果ては憑依を,身体において生きられる経験の過程として動態的に捉える現象学の理論的枠組みを採用している。

とりわけ,ミリセカンドレベルのタイミングのずれから生じるグルーヴを,演奏者の視点から記述・分析する研究群を扱った第2章が分量も多く重要度も高かった。
著者自身の考察・見解は少なめであるものの,先行研究が網羅的にレヴューされており,今後のグルーヴ論はここを出発点にすることができるだろう。

/* 余談だが,ジャズ・ピアニストのヴジェイ・アイヤーは大学院出身だそうで,本書では彼の博士論文などが先行研究として普通に引用されており,いささか驚いた */

紹介されているものの中では,チャールズ・カイルの「参与的なずれ participatory discrepancies」の概念が――多くの批判も寄せられており,なかでも創出・中立レベルの区別に関するものはクリティカルに思われたが――グルーヴ現象の説明の橋頭堡としてまず押さえておくべきだと思われた。

「参与」とは,人々がみずから音楽に参加したり,また音楽に引き込まれるようにして,それに参与することをさしており,「ずれ」とは,一人の演奏者のなか,あるいは複数の演奏者のあいだで生じる,ごくわすかな音楽的差異もしくは不一致を意味している。つまり参与的なずれとは,人びとが演奏に参加することによって不可避的に音楽的なずれが生じ,そのずれによって生み出されたグルーヴが人びとをさらに音楽のなかに引き込む,というループ的プロセスとして理解することができる(p. 93)

演奏時に感じられる一体感や微妙なタイミングのコントロールを記述するには現象学を使うとよいのかもしれないと個人的に感じていたこともあり*1,本章の論考は我が意を得たものであった。

他には,精霊の憑依現象を「フロー」ないし「ゾーン」的な音楽体験・心理状態と関連付けて論じた第6章が儀礼と音楽の関係からも意義深い。
変性意識の話だと脱魂時に気を失うエクスタシーの印象が強いが,著者が調査したワヘイの人びとの竹笛合奏においては意識は保ったままであり,私達もしばしば経験する自身が音楽そのものになったような合奏時のあの感覚と近いらしい。興味深い指摘である。

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以上,リズムや合奏やライヴなどといった音楽における重要な(集合的)体験を個人の内面・主観的視点から深く考察してみたいという向きにおすすめしたい。

*1:Twitter の #じゃぶドラムメモ というハッシュタグ現象学を意識した記述をいくつか試みていたり