Jablogy

Sound, Language, and Human

山田陽一『響きあう身体』

響きあう身体: 音楽・グルーヴ・憑依

響きあう身体: 音楽・グルーヴ・憑依

同著者の編による『音楽する身体』から引き続き,西洋の文化・学問においては周縁におかれてきた身体をフィーチャーする音楽論。音楽・グルーブ・ダンス,果ては憑依を,身体において生きられる経験の過程として動態的に捉える現象学の理論的枠組みを採用している。

とりわけ,ミリセカンドレベルのタイミングのずれから生じるグルーヴを,演奏者の視点から記述・分析する研究群を扱った第2章が分量も多く重要度も高かった。
著者自身の考察・見解は少なめであるものの,先行研究が網羅的にレヴューされており,今後のグルーヴ論はここを出発点にすることができるだろう。

/* 余談だが,ジャズ・ピアニストのヴジェイ・アイヤーは大学院出身だそうで,本書では彼の博士論文などが先行研究として普通に引用されており,いささか驚いた */

紹介されているものの中では,チャールズ・カイルの「参与的なずれ participatory discrepancies」の概念が――多くの批判も寄せられており,なかでも創出・中立レベルの区別に関するものはクリティカルに思われたが――グルーヴ現象の説明の橋頭堡としてまず押さえておくべきだと思われた。

「参与」とは,人々がみずから音楽に参加したり,また音楽に引き込まれるようにして,それに参与することをさしており,「ずれ」とは,一人の演奏者のなか,あるいは複数の演奏者のあいだで生じる,ごくわすかな音楽的差異もしくは不一致を意味している。つまり参与的なずれとは,人びとが演奏に参加することによって不可避的に音楽的なずれが生じ,そのずれによって生み出されたグルーヴが人びとをさらに音楽のなかに引き込む,というループ的プロセスとして理解することができる(p. 93)

演奏時に感じられる一体感や微妙なタイミングのコントロールを記述するには現象学を使うとよいのかもしれないと個人的に感じていたこともあり*1,本章の論考は我が意を得たものであった。

他には,精霊の憑依現象を「フロー」ないし「ゾーン」的な音楽体験・心理状態と関連付けて論じた第6章が儀礼と音楽の関係からも意義深い。
変性意識の話だと脱魂時に気を失うエクスタシーの印象が強いが,著者が調査したワヘイの人びとの竹笛合奏においては意識は保ったままであり,私達もしばしば経験する自身が音楽そのものになったような合奏時のあの感覚と近いらしい。興味深い指摘である。

 ***

以上,リズムや合奏やライヴなどといった音楽における重要な(集合的)体験を個人の内面・主観的視点から深く考察してみたいという向きにおすすめしたい。

*1:Twitter の #じゃぶドラムメモ というハッシュタグ現象学を意識した記述をいくつか試みていたり

クリス・デヴィート編『ジョン・コルトレーン インタヴューズ』

ジョン・コルトレーン・インタヴューズ

ジョン・コルトレーン・インタヴューズ

  • 原著:DeVito, Chris. (Ed.) 2010 Coltrane on Coltrane: The John Coltrane Interviews. Chicago: Chicago Review Press.

コルトレーンの発言集成。具体的な音楽理論や技法についてはさほどわかることは多くないが,コルトレーンの人柄については本書全体のトーンを通じて感じ取ることができる。

コルトレーンは発言の一貫性が高く,過去にした言明もよく覚えているところから実直さが伺え,また他人を誹謗したりないことから誠実な人柄であることが感じられた。
宗教についても,なにか特定の宗派に忠実というよりは,自分で宗教や人間性についての省察を深め健全な霊性を獲得しているようであった1

コルトレーンに関してはよくその演奏・即興のスタイルが進歩・進化したことが取り沙汰されるが,例えばシェーンベルクのような過去の書法や様式を乗り越えねばならないという進歩主義をとっているのではないような感じがした。
むしろ,試してみたい様々なアイディアが次々湧いてきて,それを追求しているうちに結果としてどんどん新しいスタイルを打ち立てることになった,というような印象が強い。アドリブが長尺になるのも,その曲での可能性をすべて試したいからであったとか(p. 221,235)

エルヴィンがコルトレーンに薫陶を受けたとする説をしばしば耳にした覚えがあるが,

「最初の頃はエルヴィンのプレイにとても戸惑った」(p. 207,1961/11/18)。
「リズムに関してもっと柔軟でありたい。リズムのことをもっと勉強しないといけない。テンポについてはまだまだ実験不足だ。今まではハーモニーの実験に明け暮れていて,テンポとリズムを蔑ろにしていた」(p. 226,1960)。

これらの発言(および1957のトミー・フラナガントリオ《Overseas》ですでにスタイルを確立していたこと)からすると,とりわけリズムについてはむしろエルヴィンがコルトレーンバンドのカラーを決定づけていたのではないかと思われる。

進歩的なミュージシャンの常として批評家に酷評を受けたこともよく知られているが,そうした無理解に対して,わからないことがあれば相談に来たらよい,共に語り合おうとエリック・ドルフィーとともに呼びかけている姿勢は興味深い(p. 247: 1962, p. 438: 1966)。

ヨーロッパよりもアメリカの批評家の方が保守的で新しいサウンドに拒否反応を示しがちであり,その理由はヨーロッパではジャズはシリアスな芸術だがアメリカでは「ナイトクラブ事業の一部だと思われている」(p. 445 )ゆえだというフランク・コフスキーの見解は納得感があった。

 ***

以上のように興味深いトピックの多数ある書物だった。
ひとつだけリクエストするならば,資料性が高く様々な観点から読むことのできるせっかくの著作なのだから,版を改める際にはぜひとも索引をつけてほしいと思う。


  1. 彼がスピリチュアルな人物であることはまちがいないが,有名な「聖者」発言については,どうも噛み合わないインタビューがつづいたところに「10年,20年後どのような人物になりたいか」という答えづらい質問が来たので,冗談めかしてそう言った,というようなニュアンスに読めた(p. 404)。

塚田健一『アフリカ音楽の正体』

アフリカ音楽の正体

アフリカ音楽の正体

ガーナやザンビアをフィールドとする民族音楽学1によるアフリカ音楽論。アカデミックな音楽研究が文化や社会への注目を強める中,肝心の音楽それ自体という本丸に取り組むケースが減っていることを憂い,正面からアフリカ音楽がもつ音の特徴を描写しようと試みている。

こうした出版企画が立てられたのは,坂本龍一の音楽番組『スコラ』に出演したとき,Twitter上で視聴者から意識の高い反応が寄せられたことに意を強くしてのことだそう(私もツイートした甲斐があった・笑)。あの番組を楽しめるコアな音楽ファンには一読を勧めたい。

類書と比べてよいところだと感じたのは,現地に滞在して自分でも演奏法を習得している学者による研究だけあって,演奏者が演奏時に音をどのように捉え・聴き・感じているかという主観視点からの記述がある点である。

例えば「アフリカ音楽のアンサンブルにおいては太鼓の各パートの開始点がずれている」と言われるが,主観的にはそのズレをどう捉えているのか,個人的にずっと気になっていたので,各人が本当にズレたところを開始点(アタマ)と捉えているという見解が聞けてよかった:

第二奏者は,〔……〕まず自分の三拍子のパターンの一拍目だけをしかるべき場所〔……〕に入れていき,それを何回かくり返して,自分のパターンの開始点を確定するのである。ここで「開始点を確定する」とは,自分の打っているビートが三拍子の三拍目ではなく,第一奏者の拍子とは独立した自分の三拍子の一拍目であるという感覚を獲得することである。(p. 211)

他にも,先行研究史を踏まえたアフリカンリズム論(アフリカ音楽は変拍子ではない:pp. 84-6),バントゥー系民族の移動の歴史と重なる「標準リズム型」ベルパターンの分布(pp. 66-71),モードチェンジのような「中心音の転移」という技法/現象(p. 149),トーキング・ドラムがどの程度言葉の意味を伝えることができるか(pp. 163-9),口唱歌における音象徴が結びついているはずのピッチのイメージと実際の音の高さとの逆転(pp. 180-3),などなど興味深いトピックが目白押しだった。

なかでも,アフリカのハーモニーについての解説は説明力が高く魅力的である。アフリカ的ハーモニーの生成原理は「飛越唱法」というペンタトニックやエオリアンなどのスケール上をメロディに対して一個飛ばしで歌うことにあるという(p. 110)。アフリカには平行三度でハモるグループと平行四度でハモる人々がいるが,それぞれ七音音階か五音音階のどちらをもとに「飛越唱法」を行っているかによって違いが生まれているそうだ(p. 112)。

なお,本書で言及されている音源は音楽之友社の特設サイトで聞くことができる2。読みながら音源を参照するのに大変便利なので是非利用されたい:

 


  1. なんとアラン・メリアム,ジョン・ブラッキング,ゲルハルト・クービックという大家三人に直接教えを受けているらしい。

  2. 楽譜2-6A ルヴァレ人の記憶法「カニケ・ムンデホ・スンガモ」(p.64)は,音源を聞く限り「カニ・ケム・デレ・スンガモ」と言っているように聞こえる。その説明も「リズム型が唱え言葉の最初の音節『カ』ではなく,次の『ニ』から始まっている」となっているが(ibid.),普通にアタマから「カ」で始まっているように聞こえる。私のほうがなにか間違って聞いているか捉えているかしているのかもしれないけれど一応報告まで。

トマス・トゥリノ『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ ―― 歌い踊ることをめぐる政治』

ミュージック・アズ・ソーシャルライフ―歌い踊ることをめぐる政治

ミュージック・アズ・ソーシャルライフ―歌い踊ることをめぐる政治

【書誌情報】

  • Turino, Thomas. 2008 Music as Social Life: The Politics of Participation. Chicago: University of Chicago Press.(トゥリノ,トマス 2015 『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ ―― 歌い踊ることをめぐる政治』 野澤豊一・西島千尋訳,水声社

感想

訳者らによると,米国ではすでに基礎文献となっている民族音楽学の教科書だそう。著者はライヴ・パフォーマンスとレコード音楽という音楽の大区分をさらに参与型/上演型,ハイファイ型/スタジオアート型という四つの下位カテゴリーに区分し,特に参与型における合奏の歓び,集合的な沸騰の興奮,音楽によるアイデンティティ形成を,主にパースの記号論を援用しつつ,経験と実感を伴った説得的な筆致で描き出している。「音楽の力」を学問的に論じることに関心のある向きには必読の文献といえよう。

なかなか私の筆力ではうまく著者の描写がもつ魅力を表現できないが,以下のノートにブロッククォートで引用した内容を見てもらえればどのように素晴らしいか感じていただけることと思う。

訳者はクリストファー・スモール『ミュージッキング』の翻訳でも知られる野澤豊一・西島千尋のコンビである。前訳書とおなじく,豊富な訳注と自然な訳文のおかげで随分と読みやすく感じた。

以下,ノートというかレジュメ。
亀甲括弧や//以下の文には補足や個人的な述懐を記した。

ノート

大きく二部構成。前半が音楽美学的・社会学的な理論の考察で,後半が著者のフィールドである現代ジンバブエにおける伝統音楽,アメリカのオールドタイム・ミュージック,そしてドイツ第三帝国とアメリカの公民権運動の音楽実践を取り上げた事例研究となっている。
第1章が序論,第8章は conclusion。

【訳者あとがき】 から

通常の音楽概念から来る分類:
オリエンタリズム的な他者観が紛れ込む)

  • 音楽
    • クラシック
      • 古典派
      • ロマン派
    • ポピュラー
      • ジャズ
      • ロック
    • ワールド
      • アジア
      • アフリカ
      • インド

トゥリノの提示する区分

  • その場で演奏される音楽
    • 参与型(participatory)
    • 上演型(presentational)
  • 録音物として制作される音楽
    • ハイファイ(high fidelity music)型
    • スタジオアート(studio audio art)型

「参与型→上演型→(自律的な)レコード音楽」(p. 438)という図式
(「進化論」ではなく単にそういう順序で発展してきたのではないかというストーリーを考察するためのツール)

参与型と上演型の本質的な差異,実演音楽とレコード音楽の差異とそこから浮かび上がる両者の(特に上演型からレコード音楽へと続く)連続性などを浮かび上がらせている点は,本書の功績だろう。(pp. 437-8)

前半

第1章 序論――音楽の何が問題なのか

芸術で大切なのは言語・理性で達成できる合理性だけじゃない。無意識的な領域も大事。

彼〔ベイトソン〕は,芸術的な経験を通じて発達する統合された全体性――〝理性〟・感性・感覚とバランスよく結びあった内なる生――が他者や環境との深い結びつきを経験するために不可欠であること,だからこそ,それが社会的・生態学的な生存に不可欠なのだと結論づけている。(p. 21)

ベイトソンの論を発展させるために,音楽がいかに記号を介して感情や意味を生み出すのかについて考察する方向もある。
→ パースの記号の三分類を検討

  • イコン
    • ある楽曲が他の楽曲に似ていることからおなじジャンルの他のトークンであると認識する
    • 楽曲のあるパートが他のパートに似ていることで繰り返し,ひいては形式を認識する
    • ティンパニの音が地下鉄の音に似ていたらそう聞こえる〔個人的には雷がわかりやすいと思う。太鼓を背負った雷神の図などを思えば〕。高ぶったピッチ,大音量のメロディは「興奮した時の声の調子のように聞こえるから」「感情や興奮のより直接的なイコンかもしれない」(p. 27)。

何に似ているか特定できない音だけが恐怖を感じさせうる(電子音楽とか)(p. 26)

  • インデックス

    • 習慣的,換喩的。煙は火事の,稲妻や雷鳴は嵐の,サイレンはパトカーや救急車のインデックス。
    • 結婚行進曲は結婚式の場面で繰り返し使われているので結婚式のインデックスになってる。CMソングとかもそう。〔するとライトモチーフはすべてインデックスとなるか〕
    • 大音量はそれに必要なエネルギーのインデックスになっている。この二者は因果的・必然的に結びついて起こるものであり,そういう記号をパースは「命題的記号 dicent indices」という〔indices は index の複数形。ということは命題的インデックスと訳してもいいのかも。実際 p. 241 には命題的インデックスと書かれている〕。(p. 30)
  • シンボル

    • 言語による定義,社会的な合意などに基づく規約的な記号
    • 言語はおよそすべてシンボル〔ラカニアンなら象徴界とかいいそう〕
    • 〔国歌とか校歌とかは集団をシンボライズする歌かも〕

社会生活をするうえで,経験を解釈可能にする枠組み=フレーム(これまたベイトソン)。
音楽を含む全ての芸術においては,「私たちを非シンボル的な解釈と経験に向かわせるようなフレームが準備されている」(p. 38)

チクセントミハイの「フロー」概念と合奏における一体感,そしてコムニタス(pp. 21-3, pp. 41-8)

音楽の演奏を通して私が探し求めているもののひとつは、共に演奏する人との深いつながりという、特別な感情である。この感覚は、パートナーと私がまったく同じようにリズムを感じられたとき、完全にシンクロしたとき、各々の生み出す音を継ぎ目なしにかみ合わせられたときに生じる。音楽的なサウンドは、私たちがどやれくらいうまく演っているかを、直接的かつ瞬時に、そして絶え間なくフイードバックしている――演奏がうまくいっているときには、一緒に演奏している仲間たちとの深い一体感が得られる。思うに、そうしたさなか、直接的な相互行為が繰り広げられている瞬間には、自他の差異が忘れ去られ、時間の感覚、音楽的な感性、音楽的な慣習や知識、思考と行為のパターン、精神スピリット、共通のゴールのなかで、同一性 sameness への没頭が起こっているのではないだろうか。音楽パフォーマンスという凝集したフレームではこの同一性こそがすべてである。パフォーマンスがひとつとなってシンクロする瞬間に、ディープな帰属意識が全体として感じられるのだ。この経験は、人類学者のヴィクター・ターナーがコミュニタス communitas (Turner, 1969)と呼んだ状態――階級や地位、年齢、性別、その他すべての個人的差異が取り去られて、一時的に、誰もが一個の人間として存在することを可能にする儀礼を通じて達成される、集合的な状態に似ている。(pp. 43-4)

この 〔ダンスのパートナーが次々と変わるなどするために〕何がどうなっているかを常に把握するための特別な注意が要求される状況でこそ、フロー生成の可能性が高められる。互いに対する注意こそが、他者との直接的な交感の回路を大いに増幅させるのだ――パフォーマンスがうまくいくと、人びとの注意は継ぎ目なく合わさった音と運動に集中するため、参与者間の差異が融解してしまう。そうした瞬間、同時に動いて一緒に音を出す参加者集団は、共にあるという感覚、深い一体感、仲間同士のアイデンティティの高まりをおぼえるのだ。(pp. 82-3)

第2章 参与型パフォーマンスと上演型パフォーマンス

参与型パフォーマンス

定義:

はじめに簡単な定畿を与えておこう。――参与型パフォーマンスとは、アーティストと聴衆という区別がなく、参与者と潜在的な参与者がそれぞれ別の役割を果たすというタイプのアーティスティックな実践であり、そのもっとも重要な目的は、できるだけ多くの人ぴとを何らかのかたちでパフォームする側に巻き込むことだ。反対に、上演型パフォーマンスとは、一部の人びと(=「アーティスト」)が、音楽づくりやダンスに加わらないもう一方の人びと(=「聴衆」)に音楽を提供するという状況を指す。ハイファイ型音楽とは、生演奏のインデックスあるいはイコンになることを意図したレコード音楽のことだ。ハイファイ・レコードは多くの意味で、「ライヴ演奏イデオロギー」と関連しているが、ライヴ感をサウンド上で実現するには、録音係や録音係やプロデューサー、エンジニアといった、演奏とは別のアーティスティックな実践やレコーディング技術が必要になる。スタジオアート型音楽とは、スタジオやコンピューター上でサウンドを創造・操作して、録音物としての芸術作品 recorded art object(あるいは「音の彫刻 sound sculpture」)を創る実践とその領域を指すが、ここまでくると、サウンドはリアルタイムのパフォーマンス(およびその再現)とは何の関連ももたない。ハイファイ・レコーディングでは、スタジオ技術は秘匿されたり軽んじられたりする傾向があるが、スタジオアートにおける電子サウンドの生成・操作のプロセスは、しばしば大っぴらにほめたたえられ、最終的な作品にも堂々とクレジットされる。(pp. 56-7)

ひとつのアーティストが上記の活動領域の複数にまたがることもある
ex. エリントンはダンスバンドでもあり,上演型のコンサートもやる

参与(to participate)とは

ステージで生み出されるサウンドにコンサート席でじっと聴き入ることも、iPodから流れてくる音楽をサントラに森のなかや街中を歩くのも、ある意味では音楽への参加だ。だが私は、「参与」という言葉をもっと狭い意味で使っている――参与とは、踊ったり、歌ったり、手拍子をしたり、楽器を演奏したりすることで、その場の音楽的な出来事にサウンドや身体運動によって能動的に貢献すること、それらの活動がパフォーマンスの不可欠な構成要素となるようなかかわり方およびその行為のことだ。真に参与的な場面に、「アーティスト」とか「聴衆」とかの区別は存在しない――あるのは参与者と潜在的な参与者という区別だけだ。そこでは人びとの注意は、参与者同士の聴覚的ないし動作的な相互作用に向けられる。参与型パフォーマンスの場面は、様式化されたサウンドと身体運動の社会的なやりとりが起こる特別な活動の場として概念的に把握されるべきである。参与型の音楽づくりでは、参与者の注意は活動――まさにその場で行っていること――と他の参加者に向けられているのであって、活動が生み出す最終的な成果エンドプロダクトにあるのではない。
 サウンドと身体運動の質も参与型パフォーマンスの成功にこの上なく重要だが、その理由は、それらの行為がその場にいる人びとをさらなる参与に導くからであり、パフォーマンスの良し悪しも参与の達成度合いによって最終的に判断される。パフォーマンスの最中の参与者の感情によってもパフォーマンスの質は測られうるが、音楽やダンス自体の出来――すなわち、全体としての参与者の活動から切り離されたものとしてのサウンドや身体運動の良し悪し――のことは、ほとんど考慮されない。つまり、参与型パフォーマンスにおける関心ごとは、当事者たちによるごく内輪のものなのだ。これは、実際の演奏とは無関係な聴衆の反応を重視する、上演型パフォーマンスやレコード音楽の領域におけるアーテイストの関心とは対照的である。結果として参与型の音楽づくりは、人間同士の、サウンドと身体運動による相互行為および行為自体という、特別な集中状態へと参与者を導く。参与的な音楽=ダンス行為が社会的な絆を生みだすための強力なツールになりうるのは、この際に生じる他者への強い注意にこそある。音楽的行為への参与は自意識を減少させることがあるが、それは、すべての参加者が同程度の真剣さでその場の活動に関与するという理想状態で起こる。(pp. 60-1)

参与型パフォーマンスには誰でもが参加できるし,参加するよう期待される
だからといって誰でも出来るような簡単な音楽=ダンスかというとそうとも限らない(「フロー」は適度な難易度のとき起こるから)
当然,うまいやつもいればヘタなのもいる。
学習曲線上のすべての範囲が用意されていて,どのレベルの人もそれなりに達成可能な目標を持てるようになっている。

ヘタなやつにイライラしないわけではないが,それよりも「エチケットや社交の質」の方が大事。

参与型の音楽=ダンスとは、社会関係から抽象化された芸術を創り出す営みというよりも、パフォーマンスを通じて実現される社会関係にかんする何ものかなのだ。(pp. 70)

楽曲形式はストーリーのある閉じた形式じゃなく,延々と繰り返すことのできるオープンな形式(open form)をとる

リハに参加してない参加者でも覚えやすい定型がある

参与型音楽では,稠密な音のテクスチュア(各パートの音が重なり合ったり混ざり合ったりして,はっきりと区別できない)が好まれる傾向
ex. すこしズラしたチューニング,サワリを付加するギミック,(p. 85-6)

ソロを順番にとっていく形の参与(順番取り的 sequential な参与)もあり,上演型の要素も入り込んでいる(pp. 91-2)
カラオケはその典型(p. 92-5)
// Rebecca Hale という人が修論でアメリカのカラオケのフィールドワークをやったらしい

上演型音楽

クラシックのコンサートが典型

上演型であることのフレームは,ステージ・マイク・照明などの仕掛けによって示される(p. 97)

要求されるサウンドへの集中の度合いはジャンルのフレームによって異なる。クラシックは細やかに,ロックならもう少し大雑把に。(p. 98)

人々を参与させる責任がない分,アーティスティックな自由度が高い(p. 104)

聴衆は受け身にかつ音だけを聴いているので,興味を持続させるために様々なコントラストが組み込まれる(リズム・メロティ・ハーモニー・ダイナミクス・楽器交代による音色の変化など)。
こういう変化を民族音楽学者コーネリア・フェールズ Cornelia Fales はインデクシカルな現在 indexical nows と呼ぶ 1

オールドタイムストリングバンドからブルーグラスへの変化は参与型から上演型への移行の例。〔「スウィングからビバップへ」がジャズファンには馴染み深い〕
世界中で,参加型音楽が上演型へ移行する際に,表1にあるようなスタイル上の変化が起こっている

上演型パフォーマンスを見に行くのも社交の要素が強い。
〔クラシックの演奏会で,クラブで,ロックフェスで〕
そしてアウラ・カリスマのある有名人にあえるという喜び(p. 113,117)
知ってる曲を聴ける喜び,それが新鮮なアレンジをされる喜び

第3章 レコード音楽――ハイファイ型とスタジオアート型

ハイファイ型音楽

ハイファイによるレコードは「それがライヴ・パフォーマンスの命題的な表象レプレゼンテーションだというイデオロギーが,程度の差はあれ付随している」(p. 123)

生をそのままそのまま録音するイメージがあるかもしれないが,そこにはイコライジングや編集による取捨選択がある。(ので,演奏者以外の製作者も大事)

ライヴ感のあるレコード,といってもマルチトラックで別録りされてたりという演出がある場合も(p. 128-32)

スタジオアート型音楽

電子音楽とか。

スタジオアート型はハイファイ型と違って,「電子音や電子的プロセスによる音の操作を隠そうとしない」(p. 143)

作品の出来を100%製作者がコントロールできる(指揮者や演奏家の解釈が挟まらない)ので,E・ヴァレーズなんかは喜んだ(p. 144)

テクノロジーやそれによって生み出されたサウンドが未来や西欧近代への夢・希望の象徴になったりもする(p. 155)

2~3章まとめ

これらは「音楽スタイルをくまなく分類するための厳格な規則ではな」く,むしろ「異なるタイプの音楽の目標,価値観,役割,過程,実践,そしてスタイルが何に起因するのかを浮かび上がらせるためのもの」である(p. 160)

以上の4領域は推移体であり,ひとつの実践でも機会が違えば別の領域になったするし,ひとつの実践の中に複数が同居していたりもする(ex. カラオケ)。

異なる地域の社会ではそれぞれの歴史的脈絡によりどの領域を重視するかが違っている(アフリカはもちろん参与型だし,日本の古典芸能は上演型が多いかもしれない)。どれが優れているとかではなく,ひとしく尊重されるべき。(p. 163)

第4章 自己・アイデンティティ・文化を基礎づける習慣

タイトル通り,習慣(habits)にもとづいて自己やアイデンティティ,文化――ミュージック・アズ・ソーシャルライフ研究の基盤――を捉える枠組みを考察する。
方法論的(個人|集団)主義やエージェント/エージェンシー問題などの文脈でもあるし,民族音楽学では才能論,「生まれか育ちか」の問題(pp. 170-6)にもつながる。

定義

自己
個別の身体+その身体に属する習慣――いずれも、個人と物理的・社会的環境とのあいだの絶え聞ないやりとりを通して発達する――の全体によって構成される(p. 168)
アイデンティティ
自己や他者に向けて表象された、個人の習慣や特徴の一部分のことだ。このとき、自己を表象するのは他者であってもかまわないし、すべての習慣や特徴のうちどれを強調するかは状況に応じて選択される。(pp. 168-9)
文化
個人のあいだで共有された思考および実践の習慣のこと(p. 169)

文化的仲間集団(cultural cohorts)
自己を構成する一部分(たとえばジェンダーや階級、世代、関心、興味など)にもとづく共通の習慣によってできあがる社会集団のこと(p. 169)。自己を構成する諸部分の類似にもとづいて形成される社会集団(p. 196)
文化的な組織体(cultural formation)
それよりもずっと広範囲に、国家やグローバルなレベルにまで広がる共通の習慣のパターンによって生み出される集団(p. 169)

習慣
習慣とは、特定の状況や刺激に対する過去の経験を踏まえて、似たような状況や刺激に対して特定の行動や思考、反応を繰り返す傾向のこと(C・S・パースの用法にならって)。

習慣によって捉える利点:

  • 「習慣は比較的安定しつつもダイナミックで変化可能なもの」(p. 169)ゆえに,「個人的生が社会的生ソーシャルライフと融合する際のダイナミズム,すなわち社会化の過程を理解することも可能になる」(ibid.)。
  • 生まれつきこうだからという頑迷な自己観と,ポストモダン的などのようにでも好きにセルフイメージ・アイデンティティを変更できるとする極端な自己認識との中庸をいくことができる(p. 178, 211)

自己とアイデンティティ

アイデンティティを標す習慣は提示したり変形し選択したり自然ににじみ出てしまったりするもの

国家とか人種とかのアイデンティティだけである人や事象を本質化して捉えることはできない 2

戦略的本質主義とかもある

文化とは何か?

一つの社会は一つの文化をもつというベネディクト的な文化観はもう流行らない。

文化現象
ある社会集団に属する*個人のあいだで共有されている思考や行動の習慣(p. 192)

文化現象を、人びとのあいだで共有された習慣によって構成されたものと把握することによって、私たちは、どんな社会もひとつの文化によって均質に満たされてなどない、という認識に到達できる。
(金持ちの習慣を貧乏人は持ってない,男性と女性,白人と黒人でもってる習慣は違う,etc…)

文化的仲間集団と文化的組織体

文化的仲間集団(cultural cohorts)
自己を構成する一部分(たとえばジェンダーや階級、世代、関心、興味など)にもとづく共通の習慣によってできあがる社会集団のこと(p. 169)。自己を構成する諸部分の類似にもとづいて形成される社会集団(p. 196)

このように、「統合された全体としての文化」という概念を見直すことで、ある社会に属する個人が、特定の状況下でいかに自己の諸部分にもとづいて特定の社会集団との同一化をはかったり差異化を試みたりするか、ということが理解できる。(p. 197)

文化的な組織体(cultural formation)
「社会の圧倒的多数に浸透している習慣を共有している人間集団」(p. 197)

文化的仲間集団と文化的組織体との違いは、個人的な思考や慣習、意思決定に影響を及ぼす習慣の普及の程度および時間的な深さにある(p. 198)

米国民が属する文化的組織体の常識的慣習:
英語を話すこと、資本主義的な倫理観、自動車で右側通行すること、中指を立てることの意味を知っていること、など。

組織体と仲間集団の諸関係

  • でかい組織体の下部にサブグループとして個々の諸仲間集団があるイメージ。組織体のパワーは仲間集団を超えて作用し,組織体がなければ仲間集団も存在し得ない。
  • 組織体レベルの事象に対して仲間集団ごとに価値観が違ったり(マクドナルドへのイメージ:健康に悪いジャンクフード/資本主義的な画一化/楽しい)
  • 組織体ゆらいの習慣を変えようとしたり(資本主義じゃなくてオーガニックな田舎暮らしがしたいとか)
  • 仲間集団の活動が組織体を変容させたり(ナチス
  • ある仲間集団が外の世界から自らを引き離すとき組織体になったといいうる(ex. アーミッシュ

// 全体社会/主流文化とサブカルチャーという区別とはどう違っているだろうか

広範な影響力をもつ文化的組織体といってもひとつの社会に複数あり,入れ子状になっている(p. 203)。家族や地域など。
家族を通じて価値観が世代間で継承されることで仲間集団が組織体になっていく。つまり,家族は組織体の橋渡し的存在(第6章 p. 315)。
// こういう要素ごとに広がり方が違うという捉え方はボアズ的ともいえそう

国境を超えた文化的組織体:
移民コミュニティ,ディアスポラコスモポリタンの組織体

移民コミュニティは自社会とホスト社会を関連させる。移民としての新しい習慣を形成する。
ディアスポラは「故郷とホスト社会との習慣を組み合わせるだけでなく,ほかの場所に住むディアスポラの文化的モデルにも影響を受ける」(p. 206)
コスモポリタンはグローバルに活躍するビジネスマンやNGOとかの人をイメージすればよいか

これらは「単に分析的な概念であって、存在論的なカテゴリーとして受け取るべきではない」(p. 209)

「個人に内化された性向ディスポジションと習慣(ブルデューの用語でいうところのハビトゥス)」は実践を媒介に構造化する構造〔とはトゥリノは言ってないけど〕として「外部世界に影響を与える」。(p. 209)

後半

第5章 ジンバブエにおける参与型・上演型・ハイファイ型音楽

伝統的には参与型の音楽が中心。
19世紀以降,植民地化とともに上演型が知られるように。

40~50年代にかけてアフリカ人中産階級の音楽が抬頭。
文化ナショナリズムを先導し上演型パフォーマンスを実演した。

60~70年代には都市の若いジンバブエ人が土地の音楽とエレキ楽器を組み合わせた新しいポップ音楽を創出した。

大きく分けると土着的・部族的な文化組織体とアフリカ人中産階級によるコスモポリタンな文化組織体がある。
コスモポリタンな人も近代医療がうまくいかないときは呪医にかかったりする(p. 235)といった重層性がある。

ショナの参与型音楽

ショナ人の参与型パフォーマンスにおける初心者とか下手な人は太鼓奏者などの〝本物〟に対する二次的なものというわけではない。

〔インフォーマントの一人が語るところによると〕中核となる専門家集団は二次的な参与者(ないし聴衆)から際立ったスター的存在なのではなく、より十全で楽しい参与を可能にするための、リズム的グルーヴやメロディー=ハーモニーといった基盤を維持する責任をもつ人びとだ、というのである。本物の音楽は、音響的・動作学的・社会的に全員が結びついたときにしか生まれない。(p. 228)

参与型音楽において一定のパターンを繰り返すことの重要性

ドゥミサ二・マライレ〔ジンバブエを代表するムビラ奏者〕はかつて私に、ショナの音楽パフォーマンスでは同じパターンや変奏を長く繰り返すことが大切なのだと、もし早くやめてしまったら変奏が生みだすはずのことが何も起こらないのだと語ってくれた。別の言い方をすると、演奏パートや動作のパターンが次々と変わってしまったら、人びとが互いに注意を向けあったり、かれらがつながりあったりする機会が失われてしまう、ということだろう。誰かが合わせてきたとたんにパターンを変えてしまうことは、会話の最中で相手に背中を向けてしまうことに似ている。良好な社会関係と同じで、こうした複雑な音楽的な関係性は、持続による安心という基盤の上にのみ成り立つのである。(p. 232)

ジンバブエにおけるコスモポリタニズムとコンサート音楽

1930年代にはコーラスグループとジャズ伴奏を組み合わせたスタイルでミルズ・ブラザーズやインク・スポッツの曲を演じたりしていた。
これらにはコスモポリタン好みの洗練があった。
他者の文化を真似ていたというよりコスモポリタンの文化組織体に属するものだった(キューバ音楽やブラジルのカルメンミランダなども同じように好まれた)。

これらのコンサートは典型的な上演型音楽だった。

コスモポリタンな文化組織体としては共通でありつつ,ジンバブエのものともすぐにわかる。

この音楽上・社交上のスタイルは、当時、世界中のそこかしこで行われていた中産階級的なポピュラー音楽や音楽イヴェントに非常に似通っていた――どれも、資本主義的コスモポリタン組織体に属する実践だった。しかし、コミカルな話の筋、歌詞のテーマ、英語とともに使用された土着言語の歌詞、リズムやソロ演奏の一部分、歌う時のアクセント、振り付けなどは、明らかにジンバブエ的でもあった。ジンバブエの「コンサート」音楽は、”アフリカン・ジャズ”と同じで、他の資本主義的コスモポリタン組織体からやってきた音楽から簡単に区別することができた。これこそが、コスモポリタニズムの本質である。各々の組織体は別の地域の組織体と多くを共有していて、だからこそひとつの組織体とみなせるわけだが、同時に地域の特性によって色合いが異なっているのである。(p. 240)

ナショナリズム

59年から63年の文化ナショナリズム運動において,都市に出稼ぎに来てた地方民の土着音楽がステージ・パフォーマンスに取り入れられる(p. 242)。

いろんな地方から来た出稼ぎ者は別々の部族出身でもあり,部族に伝わっていた音楽がその地方出身であることをレペゼンしてもいた(p. 234)。

が,50年代のナショナリストたちにはジンバブエ国民というネイションが必要だった。その創出に音楽を用いた。
感情をもりあげるため,太鼓などを用いて「所属感」を演出したがどこに所属するのかというところはあいまいにされた。
伝統的音楽だけでなくコンサートバンドやギターバンドも集会に呼ぶことで,伝統と近代を結びつけようとした。
これらにより伝統的な音楽=ダンスがインデックスとして指示するものが各部族からネイションに転換した〔「意味論的ゆきだるま」の例〕。
集会の終わりは会衆全体の合唱やシュプレヒコールといった参与型のパフォーマンスで締めくくられた(p. 249).

国立舞踏団(ナショナル・ダンス・カンパニー,NDC)
衰退していく地方文化を保存しようという「消滅の語り」的なコンセプトで設立される。
参与型の伝統を上演型へ変形。

すべての地域の踊りを近代的なものと組み合わせて演じる。
→ 旧いスタイルから乖離する,あるいは他部族の踊りをミスアプロープリエーションする事態も生じた(p. 256-9)

第6章 オールドタイムの音楽=ダンス――文化的仲間集団と文化的組織体

フォーク・リヴァイヴァル

もっとも広範囲の影響はアメリカ中に参与型の音楽づくりができたことかもしれない(p. 264)

リヴァイヴァルというのは奇妙。なぜなら都市や郊外に住む中産階級のアメリカ人が南部の農民や労働者階級の様式やイメージを取り入れたものに過ぎないから。(p. 264)
「フォーク」概念は「近代」に対立する限りで意味を持つ。

ピート・シーガーボブ・ディランの音楽は自分でもやれそうな音楽に聴こえた。
「根本的に,〝フォーク・リヴァイヴァル〟はスターに引け目を感じることなく音楽をつくりたいという主流派社会の人びとの欲求の結果として生まれたものだった」(p. 267)

ニューヨーク州北部やミズーリ州南部などはオールドタイム・ストリングバンド音楽がコミュニティ生活の一部になっている。
テキサス,イリノイオハイオなどの郊外ではフォーク・リヴァイヴァルに影響を受けて始まっており,音楽が生活の中にあるわけではない。(pp. 269-70)
前者は文化的組織体(音楽以外でも文化的な背景が共通),後者は文化的仲間集団(趣味以外のつながりが必ずしもあるわけではない)。

フォーク趣味はイデオロギーに由来し,それにしたがえば参加者自体が非真正なものということになってしまう。
またそれだけにホンモノに妙にこだわるやつも出てくる(バンジョーにピックアップはダメとか。マイクはいいのかという話になる)。(p. 273)
→ こういうのを著者は 「価値観,実践,様式,参加者の点で独自の進化を遂げた伝統だと考えることにしている」(ibid.)。どちらもそれとして真正。

第1章で述べたように、アイデンティティの記号として機能する実践は、実際にそれらの記号を生み出す人の習慣の一部であるかぎり〔言い換えれば「命題的記号」であるかぎり〕、真正なものと理解されうる。この理路にもとづけば、リヴァイヴァリストの言説とは裏腹に、一九二〇年代南部のバンジョーのスタイルとレパートリーの物真似に徹しているという場合にのみ、私の演奏は非真正だということになる。その時代の南部を生きていたのでない限り、その演奏は私自身の経験と習慣から出てきたものではないからだ――つまり、私自身を正しく表象していないという意味で非真正なのだ。往年のバンジョーの名手のレコードから学ぶこともたしかに私の経験および習慣の基本をなすが、私は南インドのヴィーナやペルーのチャランゴ、ショナのンビラ、ケイジャンアコーディオンも学んだし、ロックや〝フォーク・リヴァイヴァル〟世代の人間でもある。つまり私はコスモポリタンなのだ。こうした多様な音楽的経験を背景にしたバンジョー演奏の方が真に私らしいのであって、ドック・ボッグスの単なる物まねよりも、コスモポリタンのオールドタイム愛好家としての私を正確に表象しているはずだ。(p. 274)

趣味としてオールドタイム好きになった人の子供はオールドタイムが生活にある中で育つ
→その子にとってオールドタイムは家族という文化的組織体の一部(p. 275)。

バンジョーが広まったのはミンストレル・ショー以後。
したがって〝フォーク〟の起源は農村の非商業音楽とはいえない(p. 278)。

オールドタイム=資本主義社会への違和感,田舎へのあこがれ
参加者の態度はリベラルでオープンだけどほとんど黒人の参加者はいない。白人的なイメージ(p. 290)。
H・フォードはジャズとか移民とかがアメリカの危機と考えて,カントリーを後援した(p. 291)

オールドタイム音楽演奏の詳細

〔…略…〕
熟練した演奏者・ダンサーが柔軟に曲の難易度などを決めていくのがポイントらしい。
// おそらくジャズのジャム・セッションのホストバンドみたいな感じだろう

まとめ

新しい文化的組織体の実践や様式が豊かで深みのある意味を獲得するには、世代間の伝承、すなわち時間が不可欠なわけだが、参与型文化のパワーに到達するにも時間は別の意味で鍵となる。コントラのダンス・ウィークエンドを真に特別な経験にするのに二晩続けて徹夜で踊り明かすことは、ビラで一晩中演奏したり踊ったりするのと同じくらいに重要だ。アイマラのフェスティヴァルは数日間も続くが、その疲労感と、そのあいだに繰り広げられる多様なタイプの相互作用は、特別な喜びを生み出す。これらの出来事は、一定程度の時間、集中的な参与があってはじめて、人びとをひとつにまとめる。そこで私たちは、物理的=聴覚的に互いを感じあう――そうすることで、日常の社交的なやりとりを超えたアイデンティティや一体感がもたらされるのだ。これらの出来事はまた、日常を超越した特別な充実感や意味を私たちに与えてくれる。というのも、私たちはそうすることで「社会」や「集団」を体感したり祝ったりするからである。私たち人間の多くは、他者と深く結びつきたいという欲求をもつ。参与型の音楽=ダンスという出来事は、この経験を現実のものにするために古来から受け継がれた人類普遍の方法なのであり、すべての人間に開かれている。オールドタイム音楽=ダンスのシーン、さらにいえば〝フォーク・リヴァイヴァル〟というより大きな風潮は、そうした機会が身近にない文化的組織体のなかでも、必ずそれを探し求めたり創り出したりする人が出てくるという、証明なのかもしれない。(pp. 316-7)

第7章 音楽と政治運動

ナチス・ドイツにおける音楽

大衆動員に音楽を利用

クラシック音楽(バッハ,ベートーヴェンブラームスの3B,ワグナーなど)はドイツの民族的な誇りとされる。
メンデルスゾーンなどユダヤ系の作曲家は批判された。
ヨハン・シュトラウスははじめは賞賛されたのにユダヤの血が1/4混じっているとわかった途端,禁止になった(p. 339)。

ジャズもアーヴィング・バーリンガーシュウィンなどのユダヤ系とのつながりが忌まれて禁止された。
といってもゲッベルスはその大衆的な人気を気にかけていたし(p. 341),なにがジャズかをきっぱり選別するのも不可能ということでおめこぼししてくれるゲシュタポの人もいた(p. 342)。ジャズをかけるBBCも人気があった(ibid.)。
// 映画『ヒトラー最後の12日間』でもヤケを起こした政権中枢メンバーたちの退廃的・現実逃避的ダンスパーティーでジャズのレコードがかけられていた。

参与型の音楽活動としては,ドイツ青年運動の一環であるアマチュア・コーラスがあった(p. 344)
エリートの音楽美学に対抗して「『共同体全体を結びつけることのできる』参与型の音楽づくりを追求し,ドイツ民謡,一七〇〇年以前のポリフォニー,そして青年運動用に書かれた労働歌を重視した」(p. 345)

プロパガンダ映画『意志の勝利』で見られる大合唱(p. 352)

音楽の強力な記号論的ポテンシャルが大衆運動に用いられれば,危険な結末をも生み出しかねない(p. 353

公民権運動

公民権運動のはじめは黒人教会が中心だったので賛美歌,ゴスペル,黒人霊歌が重要だった(p. 360)
ほかにはピート・シーガーらの左翼的労働者歌。

メッセージの内容はまったく異なっているが、こういう歌を大勢で歌うことの基本的な機能と効果は、ナチスのナショナリスティックな集会の場合と同じだ。多くの声が一緒に鳴り響くことで、直接的かつ具体的に一体感を得られるのだ。参与型音楽におけるあらゆる相互連結的な実践と同じで、ゴスペル・ソングで使用されるコール&レスポンスという構造自体が、社会的な協同と一体化の表現であり、その結果である。いくつかの単純な観念を絶えず繰り返すことで、その観念は人びとの心のなかで真実となる。だからこそ、抑圧された状況であっても、その真実に裏打ちされた行動に出ることができたのだ。(p. 363)

急進派が増えるに連れ,平和的なフリーダムソングは「欲求不満と幻滅」のインデックスになっていった(p. 372-3)
一方で,ソウルミュージックの分野でプロテスト・ソングを出す人も出てきた(オーティス・レディング〈チェンジ・イズ・ゴナ・カム〉,JB〈セイ・イット・ラウド! アイム・ブラック・アンド・プラウド〉など)

歌うことはもはや無意味だというジュリアス・レスターの見解にもかかわらず、公民権運動とブラックパワーに注意を払っていた人びとは、可能世界を想像したり実現したりするための有効なツールとして、音楽を使い続けた。人間はいつの世でも、自らのもっとも奥底にある感情を力強くかつ簡潔な形式で表現するために、理想的・模範的な物事のイコンを創るために、他の手段では伝え難い何かを言うために、歌を用いてきたのだ。(p. 375)

まとめ

二年ほど前、授業で古いフォークウェイズ版の「ウィー・シャル・オーヴァーカム」のレコードを学生に聞かせたことがあった。そのとき、自分でも驚いたことに、そして決まりの悪かったことに、私の目から涙があふれてきた。それは直接的で強力な感情的反応の一種だったのだが、本書で主張してきたように、これは複雑なインデクシカルな記号に対する反応としてしばしば起こるものだ。私自身のこの反応を分析するならば、一九六〇年代初期に録音されたその声が、公民権運動当時の希望と勇気と理想主義を感じさせた、ということになるだろう。だが幾重にも重なったこれらの意味は、さらにそれ以外の要素とも関連している――とりわけ、人種差別に対する私の感情と、かれらがこの美しい歌声に込めた多くの希望がいまだ叶わぬままだという事実に対する、私の感情がある。だが、ほかにも理由があった。私はちょうど公民権運動にかんする文献を集中的に読んでいて、同じアメリカ人の男女に対して誇りを感じたり、憤慨したり、また歯痒い思いをしたりしていた。「ウィー・シャル・オーヴァーカム」のサウンド、メロディ、歌声はそれらのすべてを凝縮していた。だがもちろん、私は自分の反応について自覚的ではありえなかった。そうしたいと思っていたわけでも、それを期待していたわけでもないまま、ただただ感動させられていたのだ。これこそが音楽の力である。(p. 376-7)

第8章 愛のため? それともお金のため?

グローバライズされた資本主義の世界でオルタナティブな生き方を考えていくための民族音楽学

強大なシムテムの前に個人は無力に思えるかもしれないが,草の根の活動は無意味ではないというメッセージ

 


  1. Fales, Cornelia. “Short-Circuiting Perceptual Systems: Timbre in Ambient and Techno Music.” in Wired for Sound: Engineering and Technolegies in Sonic Cultures, Paul D. Green and Thomas Porcello (eds), pp. 156-80. Middletown, CT: Wesleyan University Press, 2005. // おそらく現代J-POP論で「音楽の情報量」と呼び習わしている事象を考えていくのにこの論文は参考になるのではないか
  2. Gelman, Susan A. The Essential Child: Origins of Essentialism in Everyday Thought. (Oxford University Press, 2003.) で子供が生得的に本質主義者であることが論じられている(p. 182の注より)

冨田恵一『ナイトフライ ―― 録音芸術の作法と鑑賞法』

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法

ドナルド・フェイゲンの名盤《The Nightfly》を70年代~80年代のトレンドの中に位置づけつつ,全楽曲のすみずみにいたるまで分析し尽くした労作。音楽作品を論じた著作としては,菊池=大谷のもの以来はじめて,これぞというマスターピースに出会えた。譜面や理論を使わずともここまで粒度の高い言語化が可能なのだということを例証してくれているようで,読んでいてエンカレッジされる思いがする。

「録音芸術の作法と鑑賞法」という副題から伺えるように,レコード・楽曲がいかにして制作されるか(詩学),楽曲がどのような構造を持っているか,それがどのような印象をあたえるか,を描き出している。すなわち,その音の記述において,ナティエのいう「創出/中立/感受のレベル」がきちんと区別されているように感じた。著者がナティエをお読みでないとしたら,ちゃんとセンスのある人ならばそれらレベルを混同せずに済むものだ,ということになろうか。

著者が解き明かしてくれる音楽のマジックのひとつが「無意識」の作用だ。すなわち,音として鳴ってはいても意識にのぼってこないバックの音や,数ミリセカンドの微細な調整の積み重ねが,楽曲全体のもつ雰囲気やフィールを左右するというのである。ジャズドラムにおいて,バスドラムのフェザリングやブラシのスウィープなどのように,聞こえない音をあえて出す理由が納得できた。

さらなる方法論上の課題を考えてみるならば,スラングやフォークタームを記述・分析に使用することの是非であろうか。本書では例えば「サビ」「16ビート」などといった,俗に使われている用語を用いて分析が行われている。俗語だけに,内包は厳密に定められておらず外延もどこまでと線を引きづらい。また欧米の人々との用語や意味のズレも出てくるはずである。スラングの使用は便宜的ものと割り切る,分析対象の側がもっている概念にそって考える,などの反省的視点があるとなおよいのではないだろうか。

また,専門用語が多いため若干敷居が高いのは致し方ないところか(想定する読者層にあわせて前提とする知識の水準をコントロールすべきなのはどのジャンルの書物でも同様であろうけれど)。とはいえ,音楽好きを自認できる人なら,多少わからないところはありつつも読みこなせるレベルのはずである*1。音楽をいかに言語化するかという課題に関心のある向きにはぜひ一読を勧めたい。

*1:2017/05/24追記:円堂都司昭が『ソーシャル化する音楽』(青土社,2013年)で菊池=大谷流のポップアナリーゼが普及することの困難さを論じていたが,本書のような方向が解決へのひとつの道であるかもしれない。

読書メーター一周年まとめ

9/30日で読書メーターで記録をつけ始めてから一年が経過したので,
読書の結果と一年使用しての雑感をまとめておきたい。

結果

読んだ本の数:70 (1日平均0.19)|読んだページ数:18770 (1日平均51)

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読めている時とまったくストップしてしまっている時がある。ひとつなにかやっていると他のことができないタイプなので,読書以外に英語学習などをしているとグラフが平らになってしまうのだった(単にやる気がなかったりもしたけど)。平行して取り組める器用さも欲しいところ。

読めている時期では,平均すると一日130ページほどは読めた。平易な新書や小説などなら,頑張れば(時間が取れれば)一日一冊(200ページ程度)は読める。専門書だと,やさしくても2~3日,難しいものなら1週間は必要だった。

読みの深さについては,いずれも,わからないところはありつつも一応カバートゥカバーで通読するくらいのレベル。どの分野でもまず数をこなして知識を身に付ける必要を感じたので,速度優先で読むことにしていたため。

雑感

このように結果が可視化されることで,自分のペースが知れたのはひとつの収穫だった。期日があるならそれまでにどれくらい読めるかわかるし,優先順位や取捨選択もしやすくなる。

可視化しているというのはやる気を引き出す(正しい意味でモチベーションを形成する)うえでもよかった。「読み終えた本」に追加してやるとグラフが右肩上がりになるのは見ていて気持ちがいいし,読んでなくてグラフが平らになってると「ああやばい」と気持ちが急き立てられる。

このおかげで70冊(同人誌とかも入ってるけど)を読むことができた。一年間の冊数としては自己記録かな。

たくさん読めたのは,以前このブログでやってたように細かくノートに取るのではなく,250字(+α)の簡易な感想にしたのもある*1。やはりしっかりノートを取らなきゃという気持ちまで込みで本に向かうと,読みだすまでの心理的なハードルが高くなってしまう。

この読書メーターでやったように,内容が思い出せる程度に要約・感想を書き,残りはキーワードや簡単なコメントなどをページ数といっしょにメモしておく程度でも個人のノートとしては及第点かなと(図書館の本だと資料として使いたい時にまた借りてくる必要が出てくるけど)。『論文ゼミナール』でいっていた「個人用の索引」をつくるような感じに近いかも。

記録が読書メーターにうつったことで,読書ネタが多かったこのブログの更新が止まってしまったのは難点だった。感想は250字にとどめて,余談的なことをこちらで書いたりとかしてもよいけれど,読む側からすると二度手間かもしれない。何冊か読んだところでそれらの文脈をまとめるなどするのはよいだろう。

というわけで,手始めに今年読んだ70冊のなかからおすすめのものを文脈をつけてまとめてみる。

おすすめピックアップ

 ***

今年読んだものは基礎的な力をつけるためのものが多かったので,今後はもう少し実践的な問題意識にかかわる文献も読んでいけるといいなと思う。まあもうすこし,年内くらいは基礎練継続か

*1:権利者から怒られたことはないけれど,あまり詳細なノートを公開するのは著作権的に問題なしではないというのもそうして理由のひとつだったり

山田敏弘『あの歌詞は、なぜ心に残るのか』

読了。感想はこちら:

以下、興味深かったポイントのメモ。

旧来の学校文法からの変化

90年前後、日本語学習者増加、実用的な文法研究が進んだ(p. 5)

これ・それ・あれ

「こ」は話者の領域
「そ」は聞き手の領域
「あ」はそのいずれでもない、両者から遠い領域、をあらわす

鼻濁音

昔の歌謡曲は基本ガ行は鼻濁音だったが、いまではあまりもちいられない。 近年のJ-POPとしては珍しく、いきものがかりは初期以外(「ブルーバード」以降が顕著)鼻濁音を使っている。(p. 56-8)

ら抜き言葉

歌詞という何度も推敲され繰り返し口にされるものがもつ保守性、規範へのバイアスの例としてサザンオールスターズに言及している。

昭和49年~50年(1974-5)の調査で東京の若者の65%ほどがすでにら抜き言葉を使っていたが、同世代のサザンオールスターズは(特に初期は)ら抜き言葉を使っていないとのこと。(p. 64-6)

「~ていた」

補助動詞「~ている」は状態の継続をあらわす(雪が積もっている)。

その過去バージョン「~ていた」「~てた」が「結果状態を表わすとき、それは、動作や変化の過程に気づかなかったことをも同時に表わす」(p. 99)。

人は変化の途中で気づくよりも、後でその結果を知ったほうが、驚愕し、呆然とする。気づかなかったという事実は、それが好ましからざる場合には、悲嘆やとまどいへとつながってゆく。「変わって」では言い尽くせない気持ちが、「変わっていて」にはある(p. 99-100)

〔確かにこういう後悔とかノスタルジーの表現はJ-POPによく見られるもののように思う〕

接続助詞「と」

「おなかが減ると力が出ない」などの「と」は恒常的な条件・性質をあらわす(おなかが減る → 必ず力が出なくなる)。

「~たら」「~ば」だと、偶発的に起きた一回限りのことも表せる。ので「いつもそのようになる」という意味をもたせる場合はやはり「と」を選ぶ人が多いのではないだろうか」と著者は推定している(p. 111)。

例えば、尾崎豊「BOW!!」の「夢を語って過ごした夜が明ける/逃げ出せない渦が日の出とともにやってくる」という一節について:

ここでも、用いられる接続助詞は、「と」でなければならない。そうでないと、後に描かれる「希望の夜」と「希望のない昼」が、繰り返しやってくる日々がぼやけてしまうからである。ここでの「と」も必然的選択なのである。(p. 112)

小田和正の透明感

日本語では主語は必要ない場面も多い。にもかかわらず、小田和正は「僕」や「君」といった人称代名詞をかなり頻繁に用いる。

「僕が君の心の扉を叩いている」(オフコース「愛を止めないで」)のようにあえて人称代名詞を使うことで、そのシーンが客観的に描写できる。

客観は、主観よりも静かである。感情のどろどろした部分はそぎ落とされる。それによって、楽曲が透き通っていく。オフコースの歌には「透明感」があると評するファンが多いのは、小田和正の澄んだ声に加えて、この客観的描写も一因となっているのではないか。(p. 207)