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Sound, Language, and Human

シノハラユウキ『物語の外の虚構へ』

【書誌情報】
シノハラユウキ 2021 『物語の外の虚構へ』 logical cypher books 02,個人出版

概観

分析美学/哲学,特に描写の哲学とフィクション論をオタク系ポップカルチャーの批評へ応用する試みを続けている著者が,10年以上にわたり各所に書き続けた論考をまとめた個人出版1

文章の量も議論の濃さもなかなかのものなので,読むにも感想を書くにも時間がかかってしまったが,ようやくここにアップロードすることができた。

本書の議論の特色は,一貫して著者自身がこれはよい,すごい,不思議だと感じた表現・現象を説明するために理論を用いる点にある(もっといえば本書に限らず著者はそうした姿勢を貫いている)。単に難しいことをいうためではない真剣でまっとうな理論の使い方だと評することができるだろう。

トピック/議論の対象としては,普通に物語として提示されるフィクションからははみ出るような周縁的な現象・事象を取り上げている。

そうした事象としては,たとえば,アニメOPやマンガにおいて描かれる独特の虚構性をもったオブジェクトや装飾,アニメの物語世界内で実際に起っているとは考えられないが画面に描かれ私達が目にする印象的かつ象徴的なシーン,声優ライブにおいてキャストが演じるキャラクター本人に見える現象,などが挙げられる。

このような領域にこそむしろメディア横断が常態となった現代のIP・コンテンツ表現において重要な想像力使用の構造があるのだといえよう。

理論的な貢献

本書でも軽く触れられているように分析美学の批評への応用自体があまり盛んではないわけだが,本書は単に批評理論として応用するだけでなく,理論を批判的に継承・更新しようという姿勢も備えている。目についたところで,

  • 「声のキメラ」概念の更新と「ダンスの遊具」への拡張
  • 「マンガのおばけ」概念を洗練
  • 「想像的オブジェクト」により想像のヴィヴィッドさが増大することを論じる
  • 2.5次元とはいかなるメイクビリーヴか」においてウォルトンのメイクビリーヴ論を拡張。想像の種類を区分2し,コンテンツツーリズムにおける想像形式などを精緻に説明する

などがあげられようか。

独自の理論としては,「テンポラリーな対象・空間」「分離された虚構世界」概念を立てることにより,マンガ・アニメでよく見られるが言語化しようとするといわく言い難い(ともすればメタ的とか自己言及的と言いたくなるような)虚構表現を明快に説明づけている。

身近なポップカルチャーに不思議な現象を見い出し、それを理論的に説明づける楽しみはよい研究や批評の醍醐味であろうし,個人的には2000年代に東浩紀増田聡を初めて読んだ時の感興を思い出すような心持ちであった。

読者としても,分離された虚構世界のアイディアは,虚実の境が分かりにくい作品でどこからどこまでが作品内世界の出来事か記述する際などに参考にできそうだし,「2.5次元とはいかなるメイクビリーヴか」の想像の分類・見取り図は,著者自身あとがきで述べているように(p. 528),作品から現実側へ拡大されたフィクションを論じる上でツールとして利用しやすいだろうと思われる。

構成のよさ

収録作が書かれ始めた少し後くらいから批評仲間のひとりとしてお世話になり,著作も追っていたので,本書収録の論文には既読のものも少なくなかった。

氏と交流し論議を深める中で曲がりなりに分析系の議論をかじってきたおかげで,いまではより深く理解できるようになっていたということもあるが,それだけでなく,昔読んだ論もいまこうしてまとめられた一つの文脈で読むと,その位置付け,やっていること,意義などがわかりやすくなるように感じられた。

おおむね時系列に則りつつの配列だが一部そうではないものもあり,あとから書かれた論文で乗り越えられたり修正されたりもしているので,初めて触れる方はそのつもりで慌てずひっかかりすぎず読むのがよいだろう。

音楽とフィクション論を結ぶことの可能性

書かれたのは収録作の中では初期のものでありながら最後の部に置かれた音楽論は、ただの付け足しではなく、当初から通底・継続する関心・動機の提示と、それゆえの今後の議論や応用の可能性を示している

特に「~Go-qualia 試論」は,初読の時点ではその趣旨を十分に理解できていなかったが,本書を通読した最後に読むことで,ある種の崇高を感じさせる音楽体験をフィクション論の視点から論じようとしたものであることがありありと理解できた。

異世界の音を聴いている」という体験を引き起こしたライブ中の轟音を「描写対象なき聴覚的な描写」(p. 495),「テンポラリーな対象の描写による異世界の音の知覚という体験では」(p. 497)と位置づけるアイディアは,当ブログでも何度か引き合いに出しているエクスタティックな宗教儀礼――それこそ異世界とのコミュニケーションとされる――における音楽の役割・効果をフィクション論から考えることもできる可能性を示唆しており,個人的に興味深く感じている。

音楽がデモーニッシュな性質をもつゆえんは,聴覚が原始的な領域と結びついていることからくる感情を揺さぶる効果が大きなところを占めるだろうとは思われるが,音量の大きさ・強さであったり,倍音などの構造が整然とした自然法則に則っていたりすることなどが,言表不可能な「崇高ななにか」「形而上的ななにか」を描写しているように知覚されるという側面もあるのでは,などと想像がかき立てられる。

標題音楽絶対音楽の対比に代表されるように,歌詞のない器楽もなんらかの描写になり得ること,そのときどういう描写であるのか,あるいはなんの描写にもならないのはどんな条件によるのか,などは音楽美学としても重要なテーマであるはずだ。

本論ではあまりの重低音で「時空歪んでる」と言っていたツイートが紹介されているが(p. 501),個人的にはチャンギートのような強烈なポリリズムを聴くと時空間が捻れているかのように感じるし,エルヴィン・ジョーンズのソロを生で聴いたときはやはり異世界の法則が現前したかのような崇高さを感じたものだった。こうしたなんとも言葉にしがたい経験に対する理論的な説明の可能性がまた新たに一つ与えられたというだけでも大いに価値のあることだろう。

シノハラはいまのところ「テンポラリーな対象」のアイディアはフィクション論としては誤りであるかもしれない(pp. 497-8)と留保しているが,上のような可能性もあるということで,今後の議論の深まり・広がりに期待を寄せたいところである。


  1. 個人出版物に求めるのは贅沢かもしれないが,ひとつだけないものねだりをしておくと,索引が欲しかった感はある。繰り返し出てくる概念やトピックが多いだけに、索引があれば参照資料としての利用価値は大きく高まっただろうに,というのが少しだけ惜しまれるのである。Kindle版が安くなっているので,合わせて買えばテキスト検索がその穴を埋めてくれるかもしれない。
  2. この分類の中で「プロップ」が「反射的」であるかどうかが基準の一つとして用いられている(p. 381)。「反射的」は reflexive の訳に違いないが,社会学や人類学に慣れている人には「再帰的」と言ったほうが自分自身に効果を及ぼすという意味が伝わりやすいだろう。A・ギデンズの「再帰性」や「再帰的人類学 Reflexive Anthropology」などが知られているので。ほかに,語学に詳しい人なら「再帰動詞 reflexive verb」や「再帰代名詞 reflexive pronoun」が頭に浮かぶだろう。

Christopher Butler, Modernism: A Very Short Introduction.

【書誌情報】
Butler, Christopher. Modernism: A Very Short Introduction. Oxford: Oxford University Press, 2010.

定評ある入門書シリーズの一冊。文学・絵画・音楽など1909-39時期の芸術一般に見られた潮流としてモダニズムを位置づける。

この意味での用法は知恵蔵の解説1が簡潔にして要を得ていると思われるが,そうした斯概念の輪郭がわかるようになったのも本書を読んだおかげである。

まず『文化の窮状』2で論じられていた「民族誌シュールレアリスム」的な思潮はシュールレアリスムにかぎらずモダニズム全体にあった傾向なのだと改めて認識した。ジャズがあらゆる民族音楽を吸収していくのはそういう文脈でもあるのかもしれない。

進歩を示すには過去との差異が見える必要があり,モダニスト作品はアルージョン(引喩)やパロディによってそれを形成しているという(p. 9,15)。

もしやジャズのアドリブで引用が好まれるのも,一部はモダニズムからの影響があったりするのだろうか。エラ・フィッツジェラルドが,ブレヒトの『三文芝居』からの楽曲〈Mack the Knife〉をベルリンライブで歌ったときに,ルイ・アームストロングのものまねで観客を湧かせた例など,まんまその文脈に見えてしまう。

テクノロジーや形式論理への傾きについても有益な情報を得られた。

ヘーゲルマルクス的な歴史の進歩を至上とし,社会解放へ向かう意識の本質が哲学・理論・技術的な言語によって明らかにされ始めていると考えるユートピアンな伝統に立つ芸術家たち(デ・ステイルバウハウスシェーンベルクなど)は,通常の言語を浄化してより論理的・科学的にしようとする哲学者を好んだ(p. 91)とのこと。

『フィルカル』編集長の長田怜氏によれば,バウハウスにはカルナップが講演に行ったこともあるらしい3

そうした記号・形式論理重視の傾向と相同なものをビバップにおけるコードシンボル使用,和音の細分化などに見出し,ジャズを「一番最後に来た『モダニズム』」と捉えたのが菊地・大谷の東大講義4なのだった。

そもそも私がこの Modernism: A Very Short Introduction. を手に取ったのも彼らの立論に興味があったからだが,読み終わった今振り返ると,本当にモダニズムというものがテーマな講義・著作だったのだと実感される。

菊地・大谷は主に和声の面からジャズのモダニズム性を論じたわけだが,個人的には,拍を数学的にグルーピングしたり,セットのパーツ間を機械的に移動したりする,マックス・ローチ幾何学的なドラミングスタイルこそ,そうした論理性・テクノロジーと通底するものがあるように思えている。いつか詳しく論じてみたい(という気持ちだけはある)。


  1. 井上健モダニズム(もだにずむ)とは?」2007年,コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0-142437
  2. Clifford, James. The Predicament of Culture: Twentieth-century Ethnography, Literature, and Art. Cambridge: Harvard University Press, 1988. (ジェイムス・クリフォード 『文化の窮状――二十世紀の民族誌,文学,芸術』太田好信ほか訳,人文書院,2003年)
  3. 分析哲学」の使命は”論理の明晰化”にあり – 『フィルカル』編集長・長田怜氏 | academist Journal https://academist-cf.com/journal/?p=10930 。ほか,ウィトゲンシュタインが設計した建築がいかにもモダニズム建築といった様式であるそうな。
  4. 菊地成孔大谷能生東京大学アルバート・アイラー――東大ジャズ講義録・歴史編』メディア総合研究所,2005年,p. 58。

長﨑励朗『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学――愉しい音楽の語り方』

【書誌情報】
長﨑励朗 2021『偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学――愉しい音楽の語り方』叢書パルマコン・ミクロス01,創元社 


マスメディア史・大衆文化史系の社会学者によるポピュラー音楽論。

タイトルの「偏愛」は取り上げる対象に著者の選好による偏りがあること1,「知識社会学」は諸音楽に「多くの人が気づいていない、さまざまな『思い込み』が隠されている。その起源やメカニズムを明らかにする」こと2,を意味している。

トピックや音楽ジャンル――すなわち明らかにされるべき「思い込み」――の選択がツボをついており,当該ジャンルがもつ歴史的文脈の整理プラス社会学的な理論化のバランスがよいと感じた。


第1章では「『ロックは大きな社会変革と結びつくものだ』という『思い込み』」(p. 16)がヒッピーカルチャーに由来し, それと対極にあるのがモッズであることが示されている。

次いで著者は,それら音楽と結びつくカウンターカルチャーサブカルチャーの位置づけを「マジョリティ/マイノリティ」+「対抗の意図がある/ない」の2軸・4象限で整理する。

この議論は,ある種のクリシェ――音楽といえばブルースだろうがジャスだろうがなんでもカウンターカルチャーだと思い込むもの言い――を相対化する上で価値があると思われた。


4畳半フォークが 「果たされなかった革命を悼むレトロスペクティブ(過去をかえりみる)なフォーク」であり「過ぎ去る見込みのある貧しさ」を描いた中産階級的な音楽であったこと,初期のテクノが電子音のまがいもの性をあえて用いたキッチュであることの指摘も興味深かった。

団塊世代あたりの貧しさ観はひきこもりや労働の問題からも大事なテーマだろうし,テクノと同じ文脈にあるだろうサイバーパンク,ひいてはニンジャスレイヤーもキッチュとして捉えられるのだろうな,と。


  1. それによって不都合が生じるような問いの立て方はしていないので問題はないように思われた。また選好といえば,対抗的な文化を評価するにあたり,ロスジェネらしいリベラル嫌いがうっすら滲んでいるような気がしないでもない。
  2. 書籍詳細 - 偏愛的ポピュラー音楽の知識社会学 - 創元社 https://www.sogensha.co.jp/productlist/detail?id=4327

スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール――音楽と言語から見るヒトの進化』

【書誌情報】 ミズン,スティーヴン 2006 『歌うネアンデルタール ―― 音楽と言語から見るヒトの進化』 熊谷淳子訳,早川書房 (原書: Mithen, Steven. 2005 The Singing Neanderthals: The Origins of Music, Language, Mind, and Body. London: Weidenfeld & Nicolson.)

 

認知考古学の第一人者が音楽と言語の起源にせまる書。前半は現代人の音楽・言語へ脳科学・心理学からアプローチした研究を参照,後半は人類進化の歴史をたどり,音楽と言語は Hmmmm 1 という身振りと音声とが一体となった言語の先駆形態から分かれたという仮説を提唱する。

先史時代の音が対象なのでどうしても推測に頼らざるをえない部分も少なくないようだが,論証の段取りが周到なので説得力は高く感じられた。

とりわけ,音楽の能力と言語の能力はオーバーラップする部分がありつつ,それぞれ独立しているということが丁寧に示されている。両者に深い関係があることは演奏者として実感と確信を持ってはいたものの,なにがどうなっているか説明したクリアな議論はあまり見かけたことがないので,とても刺激的だった。川田順造が太鼓ことばの分析から直感的に洞察した「ある共通の原体」2はひょっとすると Hmmmm[m] のことなのかもしれない。

普遍的な「人間の音楽性」がテーマであるため,民族音楽学者ジョン・ブラッキングやブルーノ・ネトルの言葉が繰り返し参照されている。加えて,著者自身が音楽を愛しつつも西洋音楽の基準では低評価を受けてしまうタイプだそうで,それゆえ西洋音楽に限定されない本源的な言語能力・音楽能力は誰にも備わっているのだと示したい3というモチベーションもあるのかもしれない。

そうした民族音楽学の文脈,そしてチョムスキー以降の言語学の状況をだいたいでも知っておいた方が,本書をより楽しめるだろう4

あまり指摘されていなそうなところで,民族音楽学的に興味深かったのは,音楽と霊性との関係について言及している第14章「共同で音楽を作る――協力と社会のきずなの重要性」である。

この章でミズンは『世界史』で有名なあのW・H・マクニールによる議論を紹介している5。その論によれば,リズムにあわせて人々が互いの動きを同期させることで「境界の消失」が起こるのだとか(p. 299)。

そのような現象が起こるのは脳内でエンドルフィンが分泌されるからだとして、なぜ仲間と一緒にやった方がそうなるように我々は進化したのかが問題として残る,とミズンは指摘する。踊りによって協調性を高めたものの方が繁殖成功度が高く、よりサバイブできたのではというのがマクニールの説だが、ミズンは音楽がなぜ繁殖成功度を高めるか不明であるとし、さらに協調行動についての考察を深めている(ibid.)。

それによると、石器時代のホミニドたちの集団でも狩りの協力などを巡って囚人のジレンマ的状態が生じた(pp. 304-5)が、「境界の消失」が起こることによって、全員が自集団=自分的な感覚になり、裏切りやフリーライディングが起こりにくくなる(pp. 307-8)し、素早く協力しなければならないときなど「ただ相手を信じる方が効果的な場合もあったはず」なので、「自己同一性を抑え、かわりに、感情のこもった、つまり音楽的に豊かな『Hmmmmm』の発声と動きを共有することで集団同一性を作りだせる個体が成功したと考えられる」という(pp. 310-1)。そして北緯度地域への進出、更新世の気候変動を乗り切るのに、協力の必要性がさらに増したこともあって、「共同での『Hmmmmm』 の音楽作りが初期人類の社会じゅうに広がった」のだと(p. 311)。

繰り返しになるが、当否はさておくとしても、演奏者として実感される「境界の消失」感について、人類進化や神経科学の側面からしっかりと学問的に論じられているというだけでもありがたく感じられる。

なお葬送の誕生にも Hmmmmm の感情喚起や境界の消失が一定の役割を果たしたのではないかと述べており(pp. 311-4),デュルケームの集合的沸騰の概念6を思い起こさせる議論である。

さらに最後の17章では音楽を使った霊的存在や他界とのコミュニケーションの普遍性が論じられている。いわく,音楽はかつて Hmmmmm だったのでそれを使ってコミュニケーションしたいという衝動が残った。ヒト相手なら言語でコミュニケーションすればよい。言語ではコミュニケーションが難しい存在=超自然的存在へと「音楽でコミュニケーションする性向」が向かったのだ,と(p. 385)。

この点で Hmmmmm 仮説は,ロドニー・ニーダムが1967年に提起した問い――「なぜ叩いたり振ったりすることで生み出される噪音が他界との交信にこれほど広く用いられるのか」7――へのひとつの回答でもあるといえよう。

 ***

それにしても,音楽と言語と人間といえば当ブログのタイトルそのもので,まさに私が関心のある領域と合致した著作だった。大事な本ほど時間をかけてしっかり読まねばと意気込むせいで,つい後回しにしてしまう法則があるように思われるが,本書ももっと早くに読んでおけばよかったと反省しきりである(とはいえ,にわかに改善できるかどうかは定かでない)。


  1. 全体的 Holistic、多様式的 multi-modal、操作的 manipulative、音楽的 musical の頭文字を取ったアクロニム。後にホミニドが動物の姿や動きなどを模倣的 mimetic に表象するようになると m が一つ増えて Hmmmmm となる。不思議な綴りの術語だがなんと発音するかは明示されていない。仮に,考え中であることを示す間投詞 hmm と同じ /hm/ 「フーム」と同じだとすれば,言葉にならない音とジェスチャーによって全体的かつ操作的な意味(「よくわからない」「ちょっと待ってくれ」)を示すというこのコミュニケーション様式のあり方を,この術語自体が例示しているのかもしれない。
  2. 川田順造武満徹『音・ことば・人間』同時代ライブラリー,岩波書店,1992年[原著 1980年],p. 63. 当ブログに紹介記事あり: https://ja-bra-af-cu.hatenablog.com/entry/20110603/1307134657
  3. ちょうどトマス・トゥリノが 『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ――歌い踊ることをめぐる政治』(野澤豊一・西島千尋訳,水声社,2015年)でそうしたように。
  4. というかそれらがない場合,ともすれば本書の何が高く評価されているのかピンとこなかったりするかもしれない。本ブログを追ってくれている読者――そんな奇特な方がいるとしてだが――ならなんの心配もないだろうけれど)
  5. McNeill, William Hardy. Keeping Together in Time : Dance and Drill in Human History. Cambridge: Harvard University Press, 1995. 私自身は未読。
  6. エミール・デュルケーム『宗教生活の原初形態』上下巻,古野清人訳,岩波文庫,1975 [1912]年
  7. Needham, Rodney. “Percussion and Transition.” Man. newseries vol.2, Royal Anthropologycal Institute of Great Britain and Ireland, p. 606.

ハワード・S・ベッカー『完訳アウトサイダーズ――ラベリング理論再考』

【書誌情報】
ベッカー,ハワード S. 2011『完訳アウトサイダーズ ―― ラベリング理論再考』 村上直之訳,現代人文社
(原著:Becker, Howard Saul. Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance. New York; Free Press, 1963 [New Chapter: New York: The Free Press, 1966.])

 

長らく課題本リストにあった本書をようやく読了。

社会学における逸脱論・ラベリング理論の古典としてよく知られた本だが,訳者はそれらを越えていくポテンシャルを本書に見出しているし,著者本人も「ラベリング論というこれまでのラベル」(p. 176)を返上しようとしているとわかる。

ともあれ,逸脱者に本質的な性質や原因を見出さず,社会的な相互作用によってそうしたカテゴリーが形成されていくと捉える本書の姿勢は,障害や病気における個人要因から社会要因へと注目が推移していった,その先駆けともいえるのかもしれない。

さて,本書で逸脱者として主に研究の対象になっているのがマリファナ使用者たちとジャズミュージシャンたちである。

第6章はシカゴ麻薬調査会のスタッフの一員として行った調査に基づくものであり(p. iii),「この調査は,国立精神衛生研究所の資金援助の下に,シカゴ地域調査計画の一環として組まれた」とのこと(ibid.)。 麻薬が広く根を張っていたビバップ全盛期の時代性を感じさせる背景事情だといえよう。

20代の学部生でありながらプロのミュージシャンとしてジャズシーンに身を置き,本書の元となる参与観察を行った(この点で民族音楽学的ポピュラー音楽研究の走りともいえそう)という著者の才能にも驚きと羨望を禁じ得ない。

そうした著者のフィールドワークにより,プロとして稼ぐミュージシャンにはヒエラルキーがあること,徒党(ルビ:クリーク,pp. 106-16)というミュージシャンに仕事を斡旋し,その腕を保証するインフォーマルな人的ネットワークがあること,仕事を得るにはそこでのコネが重要で,ヒエラルキーを上昇するにもいいバンドにツテが必要であること,などが報告されている。

多くのミュージシャンがインタビューで語っている内容を通じて,そんな風なのだろうなと想像していたことが,きちんと調査で確かめられていると知れてよかった。1

ほか,マジョリティ側からラベルを貼るだけでなく,逸脱者の側も,業界用語を使ったり,一般人を「スクエア」であると規定したりすることで,自分達は一味違う者なのだとポジションづけする様がよく描かれている。なるほど,インタラクショニストな社会学の嚆矢とする訳者の評にも頷けるところである。2


  1. というか60年代にもう明らかだったのだなと。その割に本書で言及されていたという話はあまり見聞きしたことがないように思うけれど,単に私が不勉強だからか,社会学の読者と音楽ファンの関心の隙間に落ち込んでいるなどしたからだろうか
  2. その訳者が「あとがきにかえて」の中でジャズのリズムを説明しているのだが,専門用語を駆使しつつもジャズ演奏者の標準的な理解からは大きく逸脱した説明になっており,ご愛嬌であった。

ケニー・ワーナー『エフォートレス・マスタリー――あなたの内なる音楽を解放する』

【書誌情報】 - ワーナー,ケニー 2019『エフォートレス・マスタリー――あなたの内なる音楽を解放する』藤村奈緒美訳,ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス(原書:Werner, Kenny. Effortless Mastery: Liberating the Master Musician within. New Albany, In: Jamey Aebersold Jazz, 1996.)

 

アメリカのベテランジャズ・ピアニストが達人の演奏とはどのようなマインドセットにおいてなされるものか,1冊を通じて語り尽くす(D・サドナウ『鍵盤を駆ける手』で読みたかったのはこういう話だったかもしれない)。1月初旬に読んで早くも個人的今年ベスト10入りが決定しそう1

その主張の核は〈エゴを捨てて,音楽のよさそのものに集中すること〉にある――これも一種の自己超越だろう。フランクルの思想は演奏にも関係があったというわけだ。私が追ってきたよき音楽のための読書とよき生のためのそれが,本書において合流をみせたといえる。

エゴへの囚われから脱却することに関して,『弓と禅』という西洋に禅を広く知らしめたという著作が繰り返し引用される。「相手に勝とう」とか「こういうふうに射ろう」とか考えたために的を外す様子は成田美名子の漫画『Natural』や最近見たアニメ『ツルネ』で繰り返し描かれていたので,演奏でも同様であることがイメージがしやすかった。

また,誰かに比べて自分をよく見せようとする動機だと,やるべきことの多さに圧倒されて逆に取り組めなくなり,先延ばし地獄に陥るというのは,本当に我がこととして理解できる。

精神論だけでなく,実際の演奏において,達人たちが何をやっているか,どう考えているかについてもしっかりした言及がある。例えば,フレーズやリックが完全に自分のものになっていて演奏するのに全く無理がないこと,そうしてマスターした同じフレーズを繰り返し使うこと,それでいていつでも新鮮に響くその人の声となっていることなど,薄々みんなわかっていながら上手く言えなかった現象を巧みに掬いだしているといえる。これらが事実――すくなくとも一つの真実であることは,世界的な演奏家の(生)演奏を観たことがある人ならわかるはず。

世界的な達人とは,スティーブ・ガッドエルヴィン・ジョーンズ,あるいはマイルス・デイヴィスがそうであるように,必ずしも凄まじい速弾き等ができるヴァーチュオーゾであるとは限らない。本当にその人の声となっていてなんら無理なく弾けるフレーズ,サウンドは自ずと人を感動させるものであり,それができるのが達人であると。その視点からあまり派手な演奏をするのでないプレイヤーを聴き直すと,あらたな評価の可能性を見出しうるかもしれない。

そうした達人のひそみに倣ってか,本書の記述も同じ(ような)ことを繰り返し言っていたりもする。冗長だと感じるかもしれないが,それだけ何度繰り返してもかまわないくらい重要なことを言っているのだということだろう。

エフォートレスな演奏はサマーディなマインド状態でやるもの,そしてチクセントミハイによればフローはサマーディとかなり似ている,ということらしい2。だとすれば,エフォートレスな演奏は概ねフロー状態で行われると言ってよさそうだ。

フローにおいて,全く簡単にできてしまう動作・行為だけをやっていると,退屈になってそこから醒めてしまう傾向もあるという。そう考えると,エフォートレスであることとは矛盾してしまうような気もするが,エフォートレスにやるために集中して演奏すること自体がチャレンジングだから大丈夫,という可能性もあるだろうか。

ツアーで同じ曲をやり続ける際に,飽きてしまわないようテンポをだんだん速くするのだと誰かが言っていたインタビューを読んだ記憶もあるのだけれど3,フローに入ってよいパフォーマンスをするための難易度調整という面がもしかしたらあるのかもしれない。


  1. よかった本の記事を盛り下げて終わりたくないので,トリヴィアルだけど気になってしまった言葉遣いだけ先に書いておこう: (1) スピリチュアリティを「精神性」と訳してるのにちょっぴり違和感があった。本書の文脈だと「霊性」の意味が強いと思うのだけど,宗教に限定されないことを考慮した訳語選びなのかも。(2) 著者が使ってる「機能障害」は,調べてみたところ包括的な用語すぎて具体的にどういう病状だったのかはわからない感じだった。
  2. ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験――喜びの現象学』今村浩明訳,世界思想社,pp. 130-4.
  3. ソースがあやふや。マイルスはなんども同じ曲をレコーディングしているとテンポが速くなっていったと自叙伝で言っていたけれど,意図的にそうしていたのかは不明(cf. マイルス・デイビス & クインシー・トループ『Miles――マイルス・デイビス自叙伝』中山康樹訳,JICC出版局,1991年,pp. 435-6)。

井上裕章『ジャズの「ノリ」を科学する』

ジャズの「ノリ」を科学する

ジャズの「ノリ」を科学する

  • 作者:井上裕章
  • 発売日: 2019/11/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
• 井上裕章『ジャズの「ノリ」を科学する』アルテスパブリッシング,2019年

医師にしてアマチュア・ジャズピアニストの著者が,40~60年代のモダンジャズにおける名プレイヤーたちの演奏を波形的に分析。発音タイミングの微細なズレを描き出し,各プレイヤーがもつ癖や個人ごとの差異,さらには系譜的な影響関係までをも,統計学の手法をつかって明らかにしている。プレイヤーとしてもっとも気になる事象で,分析する手段は存在しながら,なかなか正面から扱われることのなかった分野にようやく優れた著作があらわれたといえよう。

コールマン・ホーキンスらスウィングの人たちは頭ジャスト裏3連符ちょうどくらいのリジッドなタイミングでプレイ,レスター・ヤングチャーリー・クリスチャンらのビバップへの過渡期の奏者からバップのチャーリー・パーカー,クール時代のマイルスへとどんどんレイドバックが深くなる,といった具合に,様式ごとにタイミングのとり方が違うという事実が数字ではっきりと示されているのは大きな功績だと思われる。

レスター・ヤングの影響を受けたチャーリー・クリスチャン,それを真似た後続のジャズギタリストたちがほぼ同じズレを持っているというのも非常に興味深い(p. 96)。

レイ・ブラウンのベースがオントップでグイグイ引っ張るようにプレイするのは耳で聴いてわかっていたけれど,これも改めて数字ではっきり可視化されると,やはりなという感慨が深い(pp. 154-6)。(ポール・チェンバースがライドに対してちょうどか少し遅いくらい,スコット・ラファロは大きくビハインドで弾く,などは言われてみて初めて理解できた。)

ドラマーのライドパターンも個人的な経験上うすうす感じていたとおり,2・4拍目が前に出て,結果拍の長さが1・3拍よりも長くなるようだ。これはおそらく,ライドパターンにおけるスティックのモーションが,2・4拍目からドロップして1・3拍目でキャッチする3連打の動きになることと関係するのではないかと思われるがどうだろうか。

均等派とされるシェリー・マンは4拍全てで腕をダウンさせスキップ・ビートのみ手首のスナップを効かせる奏法を用いているようで,ピーター・アースキンもおそらくそれに該当する奏法を紹介している1。アースキンの解説でも四分音符の均等さが言われているし,動き上も必然的にそうなりやすいといえるだろう。

ただ,クインシー・デイビスによればこの奏法はケニー・クラークに由来するものだそう2。とすると本書ではケニー・クラークは2・4拍が長くなったことの元祖ではとされているが,実はどちらかというと均等よりなのかもしれない(実際ばらつき方はアート・ブレイキーのそれなどとは少し異なるようにも見える)。動きは均等寄りで歌い方は2・4拍が長いとかもありえるし,要検証だけれど。

ともあれ,一番難しいのはどこが基準になって前なのか後ろなのかということであろう。フロントについてはベースを基準にすることでそこからのズレは明確化できている。しかし,著者自身苦心しているように(pp. 145-9),ドラマー自身がライド,フット・ハイハット,あるいは内面のカウントのどこを基準にしているかわからないし,ベーシストも同様。そして各プレイヤーが周囲のなにを聴いて,それを基準となるパルスないしジャストのタイミングであると感じているかもまた別問題である。さらには聴衆側がそうして行われた演奏の全体を聴いてどこが基準となるパルスないしジャストのタイミングと感じるのかも。

ここまでくると心理学を超えて現象学まで踏み込んでくる感じになると思われ,研究方法をデザインするのも容易ではなさそうであるが,これもプレイヤーとしては一番気になるトピックなので,今後の研究の進展に期待したいところである。

(著者の研究自体がフリーソフトAudacity を使って行われているようなので,自分でも真似してやればいい話ではあるが。)


  1. Peter Erskine - Ride Cymbal Technique Part 1 - YouTube - https://www.youtube.com/watch?v=fYSFMeT4LxU

  2. Jazz Drummer Q-Tip of the Week: Ride Cymbal Feel! - YouTube - https://www.youtube.com/watch?v=fZLVtlt5s_A