Jablogy

Sound, Language, and Human

川田順造・武満徹 1980 『音・ことば・人間』 岩波書店(同時代ライブラリー [1992])

はじめに

このブログのタイトルに書名を流用させていただいた、お気に入りの本をここに紹介したいと思います。

本書は西アフリカのブルキナファソをフィールドとする文化人類学者・川田順造と尺八や琵琶を現代音楽にもちこんだ作品で知られる作曲家・武満徹の往復書簡の形を取っており、互いに非専門家を意識して書いたためか文体が柔らかく読みやすいです。一般向けの教養読み物としてなかなかよいといえるでしょう。

本書が出版されたのは30年も前ですが、国民国家と部族、外来文化の受容と軋轢、再帰的人類学、身体論的な視角など、扱われているトピックの持つ問題は現在でも生きており、ポスト・モダン、ポスト・コロニアル、そしてグローバライゼーションの潮流はこの頃から始まったのだなと感じます。

互いの研究と作品、およびそれを生み出す方法論と美学について報告しあう形での手紙の交換で本書の議論は始まっていきます。川田が報告する西アフリカ、ブルキナファソのモシ族の生活や言語文化、歴史観や時間観の描写は細部までとてもいきいきとしていて、アフリカの乾いた空気や照りつける太陽が感じられるようです。

なかでも「太鼓ことば」に関するものがおもしろいので次に紹介したいと思います。

太鼓ことば

まず言語と太鼓の関係について川田は、

言語の音調やリズムを太鼓の音で模倣した伝達装置として「太鼓ことば」を捉えるよりは、ことばと太鼓の音の両方、いやむしろ、太鼓の音を引き出す手のリズミカルな動きも加えた三者が、ある共通の原体から分かれて現れたと見るべきだろう(p.62)

と述べています。そしてモシ族と接するうちに、太鼓ことばを叩ける人は限られるものの、モシ族のすべての人が、

潜在的に、「ことば」と、太鼓に最も完成された形で代表されるような打音との、未文化の原体を共有しているのではないかと思えてきた。そして、いわゆる『太鼓ことば』はその様式化された一つの表れにすぎない……(p.62)

という見方を提示しています。これを実証することの困難は川田も認めていますが、アフリカ音楽の子孫とも言えるジャズやラテン音楽のプレイにおいてこうした「未分化の原体」が認められるのではないかと感じることがあります。

例えば、多くのジャズマンは演奏する上で「かならずフレーズを声に出して歌え」と口にします。またジャズやラテン音楽を聴いているときには、ジャズやブルースのアドリブにおけるランダムなリズムやフレーズのうねりに同化して身をよじってしまう感覚とともに、グルーブするリズムとハーモ二ーが聞こえてくるとついスキャットやソロフレーズを口ずさみたくなる*1衝動があります。演奏している時も少し先を予想しつつ、フレーズをことばとして思い浮かべ、歌うのです。

こうしたことから、たとえ実証は出来ないとしても、少なくともこういった衝動や習慣をよく言い表してくれる表現であるとはいえそうです。

「未文化の原体」が記憶にも影響していることを示唆している例もあります。

モシ族には太鼓ことばによって語られる王の系譜語りがあり、その「正本」を演奏することが許される職掌は「ベンドレ」とよばれます。彼らは幼い頃から大人たちにまじって太鼓をたたき、肉体的記憶として系譜語りを習得していきます。

通常は太鼓の演奏だけで行われる系譜語りを、実験的に太鼓なしで系譜語りの言葉を口にしてもらうよう川田が頼んだところ、次のようなことが起こったそうです。

ベンドレに王朝の系譜を言葉だけで話してもらおうとすると、大層不如意を感じるらしく、太鼓を持って来ないとだめだという。別段太鼓に書きつけてあるわけでもないのに、太鼓をひきよせ両手でたたきはじめると同時に、発条 [原文ルビ:ぜんまい] がほぐれるように、ことばがでてくるのです。(p.149-150)

ここでは言葉が手の動きに誘発されている側面があり、いわば記憶の換気装置として働いていることが伺えます。

太鼓ことばに関してはほかにも、権力者の公報装置としての太鼓など、興味深いエピソードと考察が記されています。


輸入された文化を実践すること

手紙の往復のくり返しを通じて浮かび上がってくる主題のひとつは、輸入された文化を実践することの問題と彼らのその問題との苦闘であるといえるでしょう。

ルドルフ・ゼルキンの演奏するブラームスを聴いて感動を説明しようとするにあたり、武満が西欧文化の輸入という問題に触れています。

まず「ブラームスは(ほんとうには)日本人には理解出来ない」というような考え方に対し、武満は「人間が生み出すものは、地域社会の、そして時代の特殊性を離れて存在するものではない」けれども、「そうした特殊性、つまり制約[原文傍点]を否定する力が働いて歴史を形作り、それを進めてきた」といいます。そして「時代の、また地域社会の特殊性が生んだ文化において真に普遍性を勝ちえているもの(……)にはそれ自体の裡にそうした制約を超える何ものかが秘められて」いて「凡ゆる解釈に耐えるもの」であると述べています(p.30)。

そうした性質を「古典性」と武満は表現しています。「古典たるべき芸術作品は、明確な時代様式を具えている。而もそこに固有の魂の刻印を見ないわけにはいかない。つまり(……)そこではひとつの(時代の)終わりとひとつの(時代の)始まりが美しくも危うい均衡を保っている」のであると(p.31)。

古典といわれる音楽、例えばバッハやビートルズのスタイル、マイルス・デイヴィスの「Kind of Blue」などを思い出してみるとこの表現はかなり的確であろうと思われます。

また日本人が人類学をすることの意義を問うという武満と共通した問題のなかで、川田も「幻影としての『伝統』で己を装い、呪縛することによってではなく、一切の幻影を棄てて、混乱した現実の中で限りなく個性的に生きることによって」のみ、ローカルな、また時代的な特殊性と、人類大の普遍性を獲得することができるのではないかと述べています(p.187)。これらの言葉は、国やエスニシティにとらわれない創作のあり方のヒントにもなるのではないでしょうか。

武満の音楽とノイズ

武満の音楽とノイズとの関係におもしろい特性があることがわかるエピソードが書かれています。

サバンナで音楽を聞こうとしてクラシックやロックをかけると鳥たちのかしましい鳴き声が邪魔だったが、「しかし [ノヴェンバー・ステップスなどの] 武満作品を聴くのには、不思議と邪魔にならなかった」と川田はいうのです(p.48)。

武満さんの音は、ワルターの、徹底的に飼いならされ、加工され、材料が原型をとどめない滑らかな舌ざわりのものになるまで入念に煮こまれた、それ自体一つの洗練の極致ではある、完結した音とは対照的に、大気の中に一つ一つ放たれてゆくような音で、それでいてあたりの鳥のさえずりや茂みをわたる風の音に溶けあってしまうというものでもない。鳥や風の声に対しては異を立てるものでありながら、鳥や風に向かって指を口にあて眉をひそめてみせなくても、そのまま差し支えなく聴いていられるようなものだった(p.48)

菊地成孔大谷能生らによって西洋芸術音楽はノイズを排除する方向に発達したことが指摘されています*2。機能和声は大部分がそうしたノイズをコントロールした楽音によって奏でる必要があるわけですが、武満のとった十二音技法はモード・ジャズやロックの母体となったブルースと同様、和声による前進という原理を必要としていないため、和楽器の「さわり」や鳥たちの鳴き声と同居することが可能なのでしょう。楽音の拡張ないし楽音からの開放という点において、ジャズとロックと現代音楽においてとられた道が同じであったというのは興味深いことです。

おわりに

専門家と聴衆に分離した音楽の制度*3を批判する武満のことばなど、他にも面白いトピックが沢山ありますが、残念ながらすべてを紹介する余裕はありません。武満の美意識やアフリカ・日本・西欧の時間観、都市観などの文化論に関心のある方は一度本書を手にとってみてください。武満徹著作集〔4〕*4にも収録されており、今ならそちらのほうが入手しやすいかもしれません。


音・ことば・人間 (同時代ライブラリー)

音・ことば・人間 (同時代ライブラリー)

*1:ラッパーならフリースタイルをしたくなるのかも

*2:菊地成孔大谷能生 2005 『東京大学アルバート・アイラー ―― 東大ジャズ講義録・歴史編』 メディア総合研究所

*3:渡辺裕 2004 『聴衆の誕生 ―― ポスト・モダン時代の音楽文化』 春秋社、 ジョン・ブラッキング 1978 『人間の音楽性』 徳丸吉彦訳、岩波現代選書<21>

*4:2000 『武満徹著作集〔4〕 音・ことば・人間 ほか』 新潮社