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Jablogy

Sound, Language, and Human

Reply to やおきさん’s 「ぴちぴちピッチの劇中歌」(第1回、第2回)

critique

トラックバックなるものをしてみんとす。
言及先の記事は「ぴちぴちピッチの劇中歌」第1回第2回

やおきさん(id:yaoki_dokidoki)の歌詞論は以前から拝読させていただき、いろいろ意見も述べてきました。
今回および前回のエントリにだいぶその私の意見を取り入れてくださっているのが見え*1、嬉しく思うとともに、「うるさくしてすみません」な恐縮もあったりw

恐縮ついでに今回もまた意見を述べてみんとす。第一回の<作曲法と「くりかえし」と反復と変形と歌詞の解釈>の項で次のような命題をやおきさんは出しています。

西洋の作曲法はくりかえしに注目する。西洋の作曲法が身に付いているひとたちが作詞をするときもまた、くりかえしに注目しそれを反復し変形するという思考をするのではないか。あるいは、作詞のときに意識的にそれはしなくても、ひとの歌詞を聴き取るときにそのように聞くリテラシーが耳にそなわるのではないか。

これはやおきさんの方法論の中核なわけですが、疑問文の形の命題ということもあり、証明すべき仮説であり、また分析のための前提にもなっていますよね。

第2回の方ですこし論じられていますが、「意図した繰り返しと偶然の区別」をどうつけるのかとか、あるいは偶然であっても繰り返しの効果は生じるのか、生じるならその条件はなにか(たとえば「何回以上音素を繰り返す」とか)、などを深めるとより説得力ある議論になるかも、などとおもいました。

つぎに第2回冒頭のパラグラフのところである言葉遣いが気になったのですが……

作者の「ことばどおりに情景やメッセージを伝えたい」という意図や、聞き手の「字義どおりに解釈したい」という意志にかかわらず、踏まれて(しまって)いる韻の独特のネットワークによって、歌詞の意味がなかば自律性をもって成立しようとしてしまう。そのような可能性があるということだ。

以前@magelixirさんは、やおきさんがこのようないい方で歌詞の「意味」と表現しているのは、歌詞によって伝わるある種の効果・強度・インパクト...といったものだろうとおっしゃっていましたが、後半を読んでいくと、むしろ普通の意味での「意味」が押韻の反復によって生じるのではないか、ということが見えてきますね。

意味に注目すると「楽園」「嵐」すなわち平安と動揺という対立する状態をあらわすことばが対比されている(この直前には鳥たちの飛んでいく「空」や「宝島」という希望や前途を象徴することばが用いられていたから、「ラ」の音は比較的「ラブ」に寄せられるような理想的な状態を表象していた)

ここで起きているのは、歌詞内で先行する言葉やアニメ本編中でのセリフのもっていた音の「意味」が、押韻によって別な単語へも感染していくといった事態なのかもしれません。意図的に組織されたのかどうかはわかりませんが、このような構造が見いだせるということだけでもワクワクしますね。

次の段落でも「通時的な音韻の連鎖が意味の効果を産む」ようなことが指摘されています。

「あらし」をきっかけに押韻は「ア」の音へとシフトする。すなわち「アらしのよるの」「アとには」「アいをつたえるため」という押韻へとだ。三回の頭韻は、くりかえしの強調としてはつよいものだ。ここに語られている概念的なストーリーは、「平安と動揺」→「動揺の終焉」→「愛」→「命の成立」であり、押韻の受け渡しとしては「ラくえん」→「アラしのよるの」→「アとには」→「アイをつたえるため」→「イのちがまたうまれる」という経路が成立している(ア→イ→ウまれるという音の順次進行にもにた力強さにも注目してほしい)。「いのチ」もまた生命力をあらわす「とりたチ」や「ぴチぴチ」と関係があるのかもしれない。

「ア→イ→ウ」つまり50音順という日常的にすりこまれた順序に引きづられる形で物語の進行感が強まるんですね。音韻の展開という統語論的なものが意味論的(あるいは範列的)なものへと影響しているなどというように、記号論的にもとらえられるような感じがして面白いです。

*1:私の意見というのは例えば「作者の意図と作品から読み取れる構造とを区別したほうがいいのではないか」というものでした。