またトラバで人の議論にコメントをします。
なかば公開往復書簡のような感じがしないでもない。
コメントといってもやおきさんが
「作者の意図」や「押韻」といったことばを、僕はおそらく一般的な用法ではないやりかたでこっそりと定義し、意図的にそれを隠して用いているところがあります
(http://d.hatena.ne.jp/yaoki_dokidoki/20110911/1315758070)
といっているので、
今後の発言なり歌詞論の実践なりで明らかにされる意味によっては以下の議論は的はずれなことになるのかもしれませんが、
とりあえずいま思ったことを書いてみます。
まず「方法論の有効性を実践的に示す」ということを優先しているとのことですが、私やシノハラさんがあれこれ言っているのも、方法論の有効性としてそれじゃまずくね?ということだと思います。
やおきさんが以前、国語学的な「作者の意図をテキストから丁寧に読みだしていく」方法を大事にしたいといっておられた一方、実際にとっている歌詞分析の方法は、ある意味構造主義的な音韻のパターンを取り出していくことであって、やりたい方向ととっている方法とのあいだにコンフリクトが発生しているように思います。
やおきさんの方法が有効であるとしめすならば、「聴覚の本性が〜〜と仮定すると音韻の連鎖からは〜の効果がうまれる。したがってこの歌詞の構造からはこれこれのことが言える」といった作者の意図をひとまず置いた説明だろうと思います。
おそらくシノハラさんが「やおきさんは作者の意図にこだわりすぎではないか」と指摘されているのはこういう文脈であり、私が「作者の意図と作品から読み取れる構造とを分けるべきだ」といっているのも結果的には同じことで、上のような説明と作者がどう理論立てるかとか、フレーズを蓄えるかとか、作者が詩を作っていく上での方法とはわけて考えるべきだろう、と思っているのです。
シノハラさんがおっしゃっているバルトの読解についての議論は「テキスト論」*1とよばれていると思います。それは構造主義や記号学といった理論に基づくもので、作品内の象徴がつくる体系に内在する構造を人がどのように読み解いているか(あるいは無意識的にどう読んでしまうものか)を重視するものと私は理解しています*2。
何度か話に出て、私が上のように主張する参考にしている、ジャン=ジャック・ナティエによる創出/中立/感受のレベルを分けて考えるというのも、バルトなどの記号論・テクスト論を踏まえたもののはずです。彼らの議論を把握するには増田聡の『聴衆をつくる ―― 音楽批評の解体文法』(2006年、青土社)の第2章、「聴衆の生産 ――「聴くことの文化研究」」やこちらが参考になります。同じ連載で増田が書いているもの*3も参考になるでしょう。
以上簡単ですが補足までに。