NPRでの日本におけるジャズの歴史解説
上の記事が面白かったのでメモを箇条書きで残してみる。 戦前から戦後すぐくらいまでを扱った書籍は結構あるけど、現在までを通史的に扱う視点にはあまり触れてこなかったので新鮮だった。
以下メモ。
1910年ごろ、太平洋を行き交う定期船上のオーケストラがあった。その寄港地サンフランシスコ・シアトルで買われたシートミュージックが最初に日本人が接触したジャズ(フォックストロットとか)
アメリカの植民地だったフィリピン人のミュージシャンが神戸・大阪、上海などで演奏。日本人がアドリブを最初に聴いたのはフィリピン人からだった
1929年に「ジャズ」の語が使われた曲のレコードがでた
この音楽はダンスホールに結びついたもので「モボ」や「モガ」は日本の"flappers " や "dandies" にあたる
女性の「タクシーダンサー」と踊るためのチケットが一曲あたり一枚だったため、ミュージシャンたちは曲を短く(ソロなし)してギャラを稼ごうとした
1923年の関東大震災で多くのミュージシャンたちが神戸・大阪へ逃れた
この頃のジャズは余裕ある都会の中上流の人がエンターテイメントとして享受したもので、世界的な新流行という意識だった。
地位もクラシックほどには高くなかった。地方民や右翼からは非難もあったようだ
30年代からのジャズへの非難はまず排外主義者よりもクラシック界から起こった
戦後、進駐軍をエンターテインするためのジャズバンドが必要だったが、軍だけではミュージシャンが足りず、日本人ミュージシャンを雇った。戦後の窮乏の中、ミュージシャン達はこの仕事で潤った。軍は手持ちのアレンジを現地ミュージシャンに与えて学ばせた
秋吉敏子はビバップを演奏することにこだわった。軍ではビバップはあまり好まれなかったが、ダンスよりバップが人気の黒人将校のクラブがあった。そこには当時ハンプトン・ホーズやエド・シグペンがおり、ナベサダも彼女のバンドにいた。
真正性が40年代後半から50年代・60年代にかけて問題として浮上してきた。ミュージシャンの自然な成長の段階で必要なことだというのもあったが、ずっと「日本の○○」というようにコピーをするのは続いていた。60年代になって初めてコピーから離れるべきと言われだした。批評家はカテゴライズをするばかりで真正性の問題には役立たなかったw
独自性やエキゾチシズムを求めて日本音楽へ向かったミュージシャンもいた。61年には白木秀雄が琴奏者とバンドを組んでベルリンへ遠征し高評価を得た。67年のニューポートでシャープス・アンド・フラッツは日本の民謡を演奏した(「いつもはベイシーやウディ・ハーマンをやってるけど、アメリカにはまだ本物がいるんだから意味ないよね」)。
いまの日本では、ジャズは決してメインストリームではないが、熱心で真剣なファンがいて、その気になれば詳しい情報も得られる。
"jazz represents freedom for everyone" なんてことはない。それはアメリカが現実に持っている権力によるものであり、みんなが根っこではアメリカ的なものを求めてるということもない
いまのところジャパニーズ・ジャズと呼べるようなものはない。興味深いことに、日本の楽器を使いたがるのはむしろ非日本人である
海外で活躍する日本人ジャズミュージシャンも出てきており、日本がそういうミュージシャンを生み出せるということに驚くこともなくなっていると思われる。かつてあったスティグマはもはやないのである。