野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室――哲学者と学ぶ認知言語学』
- 作者: 西村義樹,野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/09/12
- メディア: Kindle版
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の訳者である野矢茂樹と、野矢の熱心な読者でもある認知言語学者・西村義樹との対談本。
西村から野矢へのレクチャーという形式をとっているが、単なる一方通行の教授ではない討論的な対話になっている。この対話を通じて、認知言語学がなにを問題とし、どのような説明を与えているかが浮き彫りにされていく。
認知言語学がアンチ・テーゼをむける先である生成文法についても随所で言及され、その守備範囲をうかがい知ることができる。
生成文法/認知言語学
基本的に、認知言語学は、
- 客観的な事実への指示だけでなく、話者がその事実をどう捉えているかという心理的な過程に注目して、意味や文法を考えていく。
- 文法と意味の間にはっきりとした境界は建てられない/不可分である*1。
- 文法自体にも意味的なスキーマがある(例えば能動/受動文で「AがBを殺した」と「BがAに殺された」では事態は同一だが意味は異なる)
生成文法の方は、
- 心的なプロセスはブラックボックスとして刺激に対する反応だけを扱う行動主義に対して、メンタルな過程を扱うべきとしたチョムスキーの生成文法も認知科学のひとつではある。
- 生成文法では文法は意味から独立したものとし、規則に基づいた統語的な変換を主に扱う。
- 意味論は客観主義・解釈主義
生成文法/認知言語学≒ヴィトゲンシュタインの前期/後期、的な図式が見えるような気がした、というといい過ぎだろうか
西村 そうですね。じゃあ、まず生成文法が「意味」をどう捉えているかから、押さえていきましょうか。しぼしば使われる言い方に従って、「客観主義の意味論」と呼ぶことにします。それはひとことで言ってしまえば、「言語表現の意味はその言語表現が指し示す対象である」というものです。ここで言語表現というのは語でも文でもいいんですが、文の場合だと、文が指し示している対象とは事態ということになります(p. 44)
ここでいうように、名辞が指し示すものが意味で、その組み合わせでできる文が事態を指す、というのはほぼ『論理哲学論考』と同じターミノロジーといえる。野矢本の熱心な読者だという西村が、『論考』の訳者である野矢に説明する上で、こういう言い方を選んだのかもしれないが、生成文法と『論考』的なものの捉え方との類似性が垣間見える。
認知言語学のプロトタイプ意味論の源流の一つが、ほかでもないウィトゲンシュタインの「家族的類似」の概念である*2。あいまいさをあいまいさのまま理解し、あるカテゴリーにあるメンバーが入るのかはいらないのかや、そのメンバーの「らしさ」を判断できる了解に意味の基本的なあり方をみる認知言語学は、語の意味をその使用・実践にもとめる『哲学的探求』とこの点においても近いように思われる。野矢自身も次のように言っている:
先ほど家族的類似性ということでウィトゲンシュタインの名前が出ましたが、彼は前期から後期への移行で言語観を大きく変えていて、それが実は古典的なカテゴリー観からプロトタイプ意味論に近い考え方への移行だったと言えるんですね。あるいは、トマス=クーン(Thomas Kuhn)が『科学革命の構造』(The structure of Scientific Revolution, 1962(邦訳、中山茂訳))で「パラダイム」という概念を出して、それがひじょうに大きな影響力をもったわけですが、これも、ウィトゲンシュタインの影響を受けていました。「科学とは何か、どうあるぺきか」という問いに対して、科学の必要十分条件や本質を示すことはできない。やれることは研究の見本を提示することだけだ。これがクーンのパラダイムという考えなんですね。よく世界観みたいな意味で「パラダイム」と言われますが、私は「見本」と考えるのが一番近いと考えています。(p. 78)
人類学/構造主義と生成文法/認知言語学
ウィトゲンシュタインとの比較に続き、大きな知的潮流での位置づけについていうと、節題にあげた学問領域との関係が、本書を読んでいて少し見えてきたところがある。関係を図示してみたので、適宜、以下の記述と見比べてほしい。
〔生成文法において、通時的な分析が必要となるメタファーが無視されることに触れて〕チョムスキーはけっきょくのところ、ソシュールの精神にきわめて忠実だった、というか、完全にその枠内で生成文法を作ったといえるんじゃないですか? つまり、言語の通時態(言語が通時的に変化するあり方)より共時態(われわれが共時的に共有している一つの言語体系)を研究するという
これについてウェブ検索して見た限りでは、原誠が、生成文法というとアメリカ構造主義言語学への批判として出発したことからそれとは全く違うものかのように理解されていることがあるが、言語の構造を重視する点において生成文法もまた構造主義的であることを論じている*3
体系の中の項目同士が作る差異に注目し、それらの変換のパターンを作り出す深層の構造に注目するという点で、同様にソシュールやプラハ学派構造主義言語学に影響を受けたレヴィ=ストロースの構造主義人類学と生成文法はかなり似て見える。
チョムスキーが批判の矛先を向けたアメリカ構造主義言語学は、アメリカ文化人類学の礎を築いたフランツ・ボアズが収集したネイティヴ・アメリカンの言語資料の分析から出発したという*4。
無意識の領域における、人類普遍の基底的な構造操作のコンピテンスを仮定する点でも両者はよく似ている。実は、この基底的な人類普遍の心的能力を仮定するパースペクティブもボアズにすでに見られるものである*5。
チョムスキーとレヴィ=ストロースに直接交流があったという話は聞いたことがないが、学問の遺伝子が別々にくらす双子をよく似たものにしたのだろうか。あるいはボアズとソシュールという二つの巨大な波紋が交わる異なる二つの交点が彼らだったとでも言おうか。たとえがあまり良くないが、そんな印象である。
カテゴリー意味論
「カテゴリー意味論」は認知言語学の要点のひとつである。
西村 古典的カテゴリー観のもとでは、ペンギンよりスズメやツバメの方が鳥らしいとわれわれが感じることは「鳥」の意味理解とは無関係だと考えますが、認知言語学は、何が鳥らしくて何が鳥らしくないのかという了解こそが「鳥」の意味理解の中心を成すと考えます。カテゴリーの中心的な成員、つまりプロトタイプですが、人間が用いるカテゴリーというのは、これを中心として、類似性などによってプロトタイプと結びつけられた周辺的なメンバーによって構成されている。これが、認知言語学が提示する新たなカテゴリー観なんですね。(p. 73)
古典的カテゴリー観とは「一つのカテゴリーの成員には、そのすべてが共通に持ち、その成員だけがもっている特性があるはずだ」とする、言い換えると「カテゴリーというのは必要十分条件――その成員を過不足なく特徴づける条件――によって規定できると考える」カテゴリー観である(p. 66)。
これはアリストテレスから現代まで受け継がれたものといえそう。ときに「あれかこれか」の二者択一で、議論を進退窮まらせてしまうこともあるだろう。そうした場合、家族的類似にヒントを得た認知言語学のカテゴリー意味論が助けになる機会もあるのではないだろうか。
特徴を箇条書きであげる:
- カテゴリーの境界(何がそのカテのメンバーであるか)はあいまいでありうる
- カテゴリーのメンバー間にもその「らしさ」について差がある(雀の方がペンギンよりも、より鳥らしい)
- あるカテゴリーの実例をどれが「らしい」か判断した時の結果と、本人がこうだと考えるカテゴリーの規定とがずれることがある(「嘘をつく」の例:騙す意図や本人が信じていないことを行った時、嘘と判断されやすいが、嘘の規定を求めると「事実でないことを言うこと」となる)
- ある語・カテゴリーの外延がおおよそ決まっていたとしても、時代・地域・所属する集団、さらには個人によって、プロトタイプは異なりうる(今昔の「典型的な女性像」など)
「らしさ」の差ということでいえば、「ど・ジャズ」「コテコテのファンク」なんていう表現は、「らしさ」の認識を直接に言いあらわした言葉のように思える。プロトタイプの時代・地域などでの違いといえば、1920年代と50年代では「ジャズ」のプロトタイプは大きく異なるだろう。このジャズのように、呼ばれている対象の方がどんどん変化していくような場合、百科事典的知識を考慮する認知言語学は意味を捉えやすそうだ。
メトニミー/メタファー
長くなるので、これらについてもポイントだけ箇条書きで。
- 認知言語学におけるメトニミー: フレーム(百科事典的知識)の中の一部に焦点をあてること。メトニミー的多義:共有するフレーム内のどこに焦点をあてるかの違い
- 認知言語学における概念=カテゴリー化の原理。概念メタファー: ある概念をものごとになぞらえて捉える。(「議論は戦争だ」、「成績が上がる」→点数の多さを上昇として捉える」(pp. 191-5)
- メタファーは二つの経験領域(フレームといっていい?)を偶然的・創造的に結びつける。したがって規則的には生成することができない
- 多義語とメタファーを泰然と区別することは出来ない;ラネカー「イディオムの多くは凍ったメタファー(frozen metaphor)だ」
このメタファーの議論の締めくくりに、認知言語学の科学性と絡めて言われた野矢の言葉が認知言語学の勘所を示しているように思われる:
野矢〔……〕認知言語学の理論は、言語現象に対する新たなカテゴリー化を提示して、それによって言語現象に対する新たな見方をわれわれに与えてくれる。そこに、哲学に通じる認知言語学の魅力を感じるんです(p. 198)
概念メタファー、メトニミーのフレームと焦点化の二つは「われわれの言語現象をカテゴリー化する理論装置」ではないかとも。
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きっと言語事実を説明するために仮設されたこれらのモデルは、心理学などで裏付け・検証されていくのだろう。門外漢なりに関心を持ち続けたい。