Jablogy

Sound, Language, and Human

宮脇孝雄『翻訳の基本』

翻訳の基本―原文どおりに日本語に

翻訳の基本―原文どおりに日本語に

小説翻訳を多く手がける著者によるジャパン・タイムズでの連載をまとめたもので、実務上で問題になるさまざまな事柄・有用なTipsがたくさん紹介されている。

なので、手元においておいて、翻訳作業をしていてなにか問題に引っかかった時、こういう場合はどうするのだろう、という感じで参照するのがよい使い方であるように思われる。

反面、全体をつらぬく理論やパースペクティブはあまり強くなく、多少散漫な印象を受けるかもしれない*1

とはいえ各所で主張されていることから、〈訳す対象の言葉がどういう文脈・文化的な位置に置かれているか、あらゆる面から慎重に検討・吟味・調査し、それを対応する日本語の言語的・文化的脈絡に置いたうえで、日本語として自然な文にせねばならない〉ということはよく理解できた。

以下、私からみて面白かった/有益だったポイント

  • 読点は必ずしも原文のカンマに従わなくてもよい。日本語として必要なところにうち忘れないほうが大事。(p. 22)
  • 英語のパーレンカッコは説明の場合とメタからのツッコミ・冗談の場合があるので訳す時はよく見分ける(p. 25-6)
  • 原文の直喩は直喩、隠喩は隠喩のままにする*2(p. 53)
  • パラグラフも原文どおりの区切りに(p. 57)
  • 慣れている単語の意外な使い方に注意(第2章全体)
  • kill / killerは「かっこいい」という意味だが不定冠詞aがつくと「非常に嫌な体験」という意味に(p. 68)
  • 外見についてdarkとだけ言う場合、肌の色ではなく髪の色を指す(p. 74)
  • 助詞「の」を連続させていいのはせいぜい3つまで(p. 132-4)
  • しかつめらしい≠しかめつら(p. 143)

事実関係の確認などで誤訳をしているケースが紹介されているが、出版が2000年、書かれたのはそれより前ということで、いまならググれば済むようなことも昔は大変だったのだなと思わされた。

もっとも、なにかおかしいなと感じてググるに至るまでのセンスが必要なことは変わりないので、できるだけ幅広い教養・興味関心をもつことが大事なのは著者の言うとおり(p. 15-7)だろうなと思う。

*1:この点では対照言語学的な視点から日英語双方の特性を描きだし、それを翻訳の技術へと応用している、安西徹夫『英語の発想』(ちくま学芸文庫、2000年がおすすめ

*2:英語で隠喩として成立しても日本語だと突飛になりすぎるので直喩にしたほうがいいケースが多いように思われるのだがどうだろうか

三森ゆりか『外国語で発想するための日本語レッスン』

外国語で発想するための日本語レッスン

外国語で発想するための日本語レッスン

本書のタイトルである「外国語で発想するための日本語レッスン」とは、「テクストの分析と解釈・批判」(critical reading)を母語である日本語でも身につけておくことによって、外国語で中級の以上のレッスンを受けたり議論したりするときに必要になる基礎力を養おうというもの*1

次の記事は日本と欧米のライティング教育の違いからくる差を教えているが、リーディングにおいてもやはり状況は同じようだ。

本書の第1章で示されているのは、欧米の国語教育において「テクストの分析と解釈・批判」(critical reading)が完全に基本となっており、初等教育の段階から批判的思考とその表現が可能になるよう訓練が行われることである。次いで第2章では絵を、3章では文章を分析的に読むことを実際に行ってみせている。

初等教育の段階から、というのは次のような具合である。

欧米の読書技術教育は、システマティックに技術を積み上げる方式になっています。ドイツを例にとると、おおむね次のようになっています。
 

  1. 幼稚園     読み聞かせと分析的問いかけ
  2. 一年生~四年生 再話 (物語を読み聞かせ、自分の言葉で再構成する作業)
  3. 五年生~八年生 要約 (物語の構造の指導)
  4. 九年生~    テクストの分析と解釈・批判

 
右のように、最終目標である「テクストの分析と解釈・批判」に向けて、幼児の頃から読書に必要な知識と技能を積み上げられるように、読書技術を習得するためのシステムがしっかりと構成されています(p. 15)

これだけ早くから要約や分析を行っていれば、大学以降でもごく自然にクリティカルな文章の読み書きが行えるだろうことは容易に想像できる。こうした作業に非常に苦労してきた(正直に言って今もしている)ものとしては羨ましくも思える。

この批判的読解は、ロラン・バルトなどで知られるテクスト主義に基づき、作者の意図や環境的なコンテクストはいったん切り離して、テクストそのものに書いてあることに徹底的に基づきながら、自分の解釈を組み立てるというものであるとのこと。

例えば絵画では次のような感じ。

誰でも一枚の絵を目の前にすれば、「いったい何が描かれているのだろうか」と考えることでしょう。「絵の分析」は、この考えを掘り下げることが目的です。ただし、絵画に関する専門的な知識は必要ありません。専門知識があれば、むろんさらに深く絵を分析することができるでしょう。しかし、そうなると今度は、一枚の絵を分析する前に必ず専門知識が必要ということになってしまい、絵を分析するのが億劫になってしまうのではないでしょうか。ここで必要なのは、自分自身で絵を読む方法を身につけることです。専門知識は、絵を読む際の助けにはなりますが、それがなくとも自分なりに絵を読むことはできます。目の前にある絵を、画家の経歴や人生、所属する時代、分類される主義などから切り離し、その絵そのものだけを分析し、その意味するところを読んでみましょう。「絵の分析」が幼児や小学生にもできるのは、絵から画家という背景を切り離し、絵そのものを読むからです。ところが、そのようにして絵を分析しているうちに、逆に次第に画家の背景に興味が湧き、背景までも含めて絵を分析できるようになります。(p. 58)

絵の分析であれば、子どもであっても、そこに描かれているものにもとづいて、なんらかの意味を引き出し、言葉にして述べることができる。そして時には専門の批評家と同じような見解にまで達することがあるという例も示されている(pp. 66-7、102-3)。

もちろん背景知識があるに越したことはない。しかし人生の時間は有限である以上、言葉を発するのは常に準備不足な状況下においてである(だからといって勉強不足が免罪されるわけではないが)。それでもなお何かを言うためには、対象となるテキストと手持ちの知識から確実に言えることを言う、ということが必要なのだろう。

さて、バルトというとその影響は60年代以降のもののように思えるが、ググって発見した文献*2をみるかぎりでは、ほとんど近代になったはじめから論理的な表現力を重視した教育は行われていたようだ。

翻って、本書でも繰り返し批判され、最近ネット上でもよく揶揄されるところの作文と「作者の気持ち」重視の日本の国語教育だが、さきに言及した渡辺雅子のインタビューによれば大正期に導入された「綴り方」教育が淵源であるらしい。

日本でも公立学校が設立された明治期には、むしろアメリカ以上に「型」から学ぶ形式模倣主義の作文教育が主流でした。ところが、大正期に子ども中心主義の新教育運動が世界的に広がると、明治の形式模倣主義への反省から、型を壊して子どもらしい文章表現を重視する「綴り方」が在野の文学者から提唱されました。綴り方は単に「書く技術」ではありません。子どもが体験や考えをありのままに書くことを通じて「人格修養」することを主な目的としていました。このアプローチが現場の教師に圧倒的な支持を得て、「生活綴り方」から戦時中の「国民学校の綴り方」へ、そして戦後も「学校作文」としてその精神は脈々と受け継がれ、現在に至っています。 http://berd.benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2006_06/fea_watanabe_04.html

この「体験や考えをありのままに書く」のがおそらくロマン主義の影響で、その音楽観とともに現代の音楽を語る言葉にまで影を落としている(「音楽を音楽として楽しめよ」であったり、音楽でも美術でも「ありのままをみて感じたものを素直に言葉にすればよい」といったりする)のではないかと思われてならない。

ちなみにドイツの学校では、音楽の分析はこんな感じで行うらしい。

分析し、解釈し、批判的に考察する授業は芸術にも応用されます。西ドイツの学校に入って驚いたのは、音楽の授業でした。音楽では、楽譜を渡され、楽譜を見ながら、テーマが繰り返される意味、フォルテやピアノの意味、音階の意味、作曲者が分類される音楽史上の時期とそれが作曲者に与えた影響などを分析していくのです。音楽といえば、楽しく歌をうたって、楽譜の読み方を暗記し、楽器を上手に演奏すれば「5」をもらえた日本の音楽とは全く異なり、驚くほど専門的な内容でした。楽譜に記載された記号の意味や楽器の名前、音楽家の名前や音楽史上の彼らの位置づけを暗記していても、そのような知識はほとんど役に立ちませんでした。重要なのはここでも、音楽を自分なりに分析し、解釈し、自分の意見を言えることだったのでした。(p. 50)))。

気になる論文メモ ロマン主義と子どもの関係 - フランスと児童文学とによればこのあたりまだそこまで深められていないそうである。専門的な調査をする力はないが、機会があれば「綴り方」教育の論文など読んでみたい。 あとは次のようなものだろうか。

子ども観の近代―『赤い鳥』と「童心」の理想 (中公新書)

子ども観の近代―『赤い鳥』と「童心」の理想 (中公新書)

それにしても、現代日本ではマンガやアニメは隆盛しているわけなので、享受するという面では主観的・情緒的・道徳的な読み方もそれほど悪くないのかもしれない。ウェブが一般化するまではそれほど他人に感想や批評を書いて見せる機会も普通の人にはあまりなかっただろうし。

逆にいえば、ウェブによって作品について他人に意見を表明する機会が増えている分、クリティカル・リーディングへの潜在的な需要も増えているのかもしれない(グローバル標準な論理を学んで国際的なビジネスに使うだけでなく)。

*1:これができていないとただでさえ不自由な外国語で一から読み方や議論の仕方を学ばなければならず非常に効率が悪いとのこと(p. 42)

*2:中西一弘 1968 「フランス国語教育の成立(第一報)」 『大阪大学紀要』第17巻、第V部門、pp. 15-37、http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/10865/1/KJ5_1700_015.pdf

デイヴ・トンプキンズ 『エレクトロ・ヴォイス』

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

エレクトロ・ヴォイス 変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史 (P-Vine Books)

本書が描くのは電子的・電気的な変声機器の歴史である。特にテクノ・ポップやヒップホップで使われたヴォコーダーが実は軍事機密を連絡する目的で使われていたということを紹介した点で高く評価されているらしい。

歴史といっても逸話の羅列で構成されていて、クリティカルな論点は明示的には書かれていない。日本版制作担当のあとがきでもなぜロボ声を求めるのかについての説明は避けられているようだと評されている(p. 301)。

このため、要約して批判的に検討することができないので、いくつか興味を惹かれるエピソードを拾ってみることにする。

声と人格

まず、やはり人格の変化にかかわるものとして電子変声を捉えている人・ケースがそれなりに多いということが見て取れた。

トンプキンズ自身は次のようにまとめている。

自分以外の何かになりたいと思うことほど人間的なものはない。子供が退屈しのぎに扇風機に向かって声を発して、あるいは風船のヘリウムガスを興味本位に吸い込んで、あるいはゲップで母親にありがとうと伝えようと思い立って以来、声の変異は興奮の底なし沼だった(p. 12)

マイアミでは複数アイデンティティを持つことがよしとされ、「エイモス・ラーキンは少なくとも10の変名で、クリシュナ教団が営むウェストパームのモーテル・スタジオで、ビージーズが使わなかったヴォコーダーを駆使してレコーディングを繰り返した」(p. 91)。

スミソニアン・フォークウェイズのLP『Speech After the Removal of the Larynx(咽頭切除後の音声)」では「患者はバズ声と引き換えに「人格を失う」のが不安だった」(p. 117)。

ピーター・フランプトンはトークボックスを使い、「その人の声を自分のものに」した。

マイク・スプリッタでPAから出したその人の声をアンプに通して、トーク・ボックスを介して私のロで鳴らす。その人の歌声を好きにいじれる、声に声を足せるんだ。(p. 124)

ゼンハイザー社のコンサルタント、カイ・クラウスは「誰でもすぐロボットになれる」と称してヴォコーダーを売り込んだ。

ヴォコーダーがあれば、(訳注:人気子供番組のホスト)ミスター・ロジャースもスティーヴィー・ワンダーになれます』信じられないくらいのしゃがれ声だって出せますよ」。(p. 233)

ニール・ヤングはアルバム『トランス』において、脳性麻痺のため息子と会話できないことの苦悩をリスナーにも感じてもらうために、言語が不明瞭になり何を言っているかわからなくなるヴォコーダーをあえて使用した。が、その意図はファンにも所属レーベルのゲフィン・レコードにも理解されず、「彼自身でなかった、という理由で」ゲフィンから訴えられてしまった(p. 237-8)。

ローリー・アンダーソンはトンプキンズのインタビューに答えて次のように語った。

ヴォコーダーを使うと、少しだけ自分じゃなくなれるから、そこがいい。フランスの道化芝居みたいな。住み込みの家庭教師にも、イカレた叔母さんにもなれる。いつも自分でいなくてもいい。(いつも自分でいるのは)すごく疲れるでしょ」(p. 250)

これだけの例が見られることからして、欧米でも特定の声に特定の人格を対応させ、声が変化すれば同時に人格も変化したと解釈する思考パターンが存在すると言えそうである。

アニメ・ゲームとの関わり

本書を読んでいるのはボカロを始めとした合成音声音楽への関心からであり、それらはアニメ・ゲームとも関わりの深いものであるが、ヴォコーダーの時代からすでに機械音声音楽はアニメ・ゲームへ視線を向けていた。

そもそもベル研究所の物理学者でヴォコーダーの発明者、ホーマー・ダドリーからして「マンハッタンで開かれたアメリカ音響学会の席上」で「ヴォコーダーがアニメの音声に使えると訴え」ている(p. 39、情報の出典不明)。

また、80年代にマイアミ発でヒットしたマイケル・ジョンズンの「パック・ジャム(ルック・アウト・フォー・ザ・OVC)」はナムコのゲームパックマンをモチーフにしたものであるとのことだ。(p. 90, 103-5)

特徴ある声がキャラクターを形成すること(合成音声以前もドナルドダックはヘリウムを吸って声を変えることで演じられている)、機械音声というのが未来の機械文明を想像させるのでコンピュータ・ゲームと相性がいい、というあたりがこうしたアニメ・ゲームとの関係の理由だろうか。

非人間の声

人工知能、動物、神的な存在など人ならざるものの声を機械音声があらわすというケースもやはり早くから見られる。

2001年宇宙の旅』のHALの声に使われたのはエルトロ(Eltro)というエフェクト機材である。脚本のアーサー・C・クラークは1962年にベル研究所でIBM7094が「デイジー・ベル」を歌うのを聴いている(p. 151)。

ドイツ、ボン大学音声学科主任メイヤー・エブラーは1949年に行った講義で動物の鳴き声をエレクトロ・ラリンクスに通してドイツ語を喋らせ、「『ホムンクルスまたはロボットのような』音声」であると形容している(p. 186)。

H.P.ラヴクラフトの1931年の小説『闇に囁くもの』にも機械音声と非人間の声が登場する。

〔登場人物のヘンリー・〕エイクリーは「機械的発声機」を用いて、言葉を発しないコウモリ+イカ的生物と言葉を交わし、人間の脳の移送を手助けする。「新鮮{フレッシュ}な容器」に入れられた脳は、移動の間も知覚可能な状態を保たれ、素敵な夢を見る。脳は異世界の脳と会話をする。ラヴクラフトいわく、金属的で、無生命、無抑揚・無表情で、甲高く非人間的に正確な、一度聞いたら二度と忘れられない声で。(p. 253)

1975年に発表されたクラフトワークの『放射能』では当時の核支持を揶揄するテーマを表現するため、音声合成装置「ヴォトラックス・オーディオ・レスポンス・システム」が採用された。トンプキンズは核戦争後の荒廃をそのサウンドに聞き取っており、フローリアン・シュナイダーによれば「『あの感じを出したかった』〔……〕『非人間性を』」とのことである。(pp. 176-7)

トンプキンズも人工喉頭の開発にヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』の影響があったのかもしれにないと推測しているが(p. 115-6)、やはり『機械仕掛けの歌姫』*1で論じられているようなロマン主義文学がこれらの想像力の直接の先祖ということになるだろうか。

超自然的なものの声という意味では、特にキリスト教世界ではもともとあった神の呼び声*2が声を人間外のものと結びつける想像力の土台になっているのかもしれないという気もする。

この辺りを論じている書物は思いつかないが……方向は違うだろうけれどデリダの『グラマトロジー』や『声と現象』はとりあえず読まなければならないところだろうか。あとはオング『声の文化と文字の文化』とか。

*1:Miller Frank, Felicia. 1995 The Mechanical Song : Women, Voice, and the Artificial in Nineteenth-Century French Narrative. Stanford, Calif. : Stanford University Press. (ミラー・フランク、フェリシア 2010 『機械仕掛けの歌姫 ―― 19世紀フランスにおける女性・声・人造性』 大串尚代訳、東洋書林

*2:召命 - http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%AC%E5%91%BD

『DAIM append』感想

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ウェブ上の無料音楽をレヴューするサイトDAIMの同人誌版第二弾*1

全96ページ、参加人数は編集後記にあがっている人だけでも27人と「薄い本」にしては量的にマッシブですが、内容の方も負けず劣らず濃いものになっています。

特集

特集では、散逸しているレヴューを糾合することで利便性を向上させ、楽曲投稿者へのいい反応を返してエンカレッジしようという理念が語られています。

わりと最近まで、『Vocalo Critique』でも作品論が少ないと言われていたり*2、一般的にも日本にはピッチフォークみたいなのがないと言われたりしていた*3なか、DAIMが登場してくれたのは一ユーザーとしてもありがたかったです。

レビュアーによる偏りを指摘する声もあるようですが、その辺はキュレーションや言論の多様性ってそういうものなので、ということですかね*4。おすすめをするひとが増えれば中には自分に合う人もでてくるでしょうし。

リアルタイム・レビュー

それから、サイトと同人誌だけでなく、ボーマス会場での「リアルタイム・レビュー」という企画があったそうです。書く→読むという通常ならかなりタイムラグがあるプロセスに即時性を持ちこもうというのは実にウェブ時代的で面白いですね。

//どの作品をレビューするかをどうやって決めたのか、ちょっと気になります。

広がりのある言説

Pilotから引き続いてのアルバム・レビュー、仮想コンピレーションでは、しっかりコンテクストやコンセプトに話題が及んでいて読み応えがありました。サイトのほうではこのあたりが少し弱い感じがしていましたが、400文字という制限の中では仕方ないところもあったのかも。

後半のコラムや座談会では、どうやって聴くかというリスナーの視点に加え、音楽の楽しみどころについての批評的な着眼点にも興味を惹かれるものがありました。そしてなにより語りに熱がある。

この熱量を言い表す言葉は本書のDIAMレビューのなかにあります。

ウェブ・サイトのDAIMを開くと〕そこには、言葉が溢れていた。
とてつもなく身勝手で、だからこそ熱量を持った言葉が。

新鮮な感動を瞬間冷凍した率直な言葉が。
チラシの裏に書く恥ずかしい言葉が。
詩作のように美しく流れる言葉が。
誰かが胸にしまいこんでいた小さな言葉が、
溢れている
〔……〕
そして自分も語ってみたくなる。
〔……〕
そうだ、これだ。
だからムズムズする…のだ。 (p. 20)

このように読み手を触発するDAIM。今後、Tumblrから移行してのサイト・リニューアルも視野に入っているそうです。いち読者として、また音楽をよりよく捉える言葉をもとめる人として、楽しみにしています。

*1:Pilotから本体がないままいきなりAppendがでてるのが面白いですが、次くらいから本シリーズになったりするのかな?

*2:例えば、わらいもとこ 2012 「天使はかくも語りがたき」 中村屋与太郎編 『Vocalo Critique』 vol. 07、白色手帖、pp. 44-55.

*3:https://twitter.com/shinimai/status/112935436351045632

*4:当ブログエントリ佐々木俊尚『キュレーションの時代 ―― 「つながり」の情報革命が始まる』参照。私はわりと佐々木さんの見方に賛成派です

賢くなるための本を読む――『ネット・バカ』『実践・論理思考トレーニング』『外国語学習の科学』

速くも一月がもう終わろうとしていますが、一月はなんだかんだで一年最初の月、これから残り11ヵ月をより充実して過ごすための基礎知識を増進しようと、3冊ばかり読んでみました。

まずはこれ。

『ネット・バカ』

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

  • Carr, Nicholas G. 2010 The Shallows : What the Internet Is Doing to Our Brains. New York : W.W. Norton. (ニコラス・G・カー 2010 『ネット・バカ ―― インターネットがわたしたちの脳にしていること』 篠儀直子訳、青土社

大量の科学文献を渉猟して得た近年の脳科学の知見をもとに、ハイパーテクストを読む現代人の脳に起きている変化を知的テクノロジーの歴史の中に位置づけ描こうと著者は試みています。

煽りっぽいタイトルには似つかわしくないくらい、ひとつひとつちゃんと文献で論拠が挙げられてて好印象。

本書の基本的なロジックをざっくり要約すると次のような感じです。

  1. 大人になっても脳の神経可塑性は保たれている。ゆえに、
  2. 人間は使っているメディア(知的テクノロジー)に神経構造・精神活動が最適化される
  3. 本を読んでいる時は精神を集中した「深い読み」が行われる。しかし、
  4. ウェブのハイパーテクストは集中力を減らして注意を散らし、強力にアディクションを起こす

これだけだと新しいテクノロジーに警戒を抱くオールド・タイプのような印象かもしれないけれど、次のような著者自身の体験はみなさんも心あたりがあるのではないでしょうか。というか私には自分のことのように思えたんだけど。

この数年のあいだわたしは、誰かが、または何かがわたしの脳をいじり、神経回路を組み替え、記憶をプログラミングし直しているかのような、不快な感覚を覚えていた〔……〕わたしはいま、以前とは違う方法で思考している。そのことを最も感じるのは文章を読んでいるときだ。書物なり、長い文章なりに、かつては簡単に没頭できた。物語のひねりや議論の転換にはっとしたり、長い文を何時閲もかけて楽しんだりしたものだ。いまではそんなことはめったにない。一、二ぺージも読めばもう集中力が散漫になってくる。そわそわし、話の筋がわからなくなり、別のことをしようとしはじめる。ともすればさまよい出て行こうとする脳を、絶えずテクストへ引き戻しているような感じだ。かつては当たり前にできていた深い続みが、いまでは苦労をともなうものになっている(pp. 16-7)

詳しくは本書にゆずりますが、こういう変化がハイパーテクストとウェブサービスRSS、メール、SNS)がそなえてる注意を寸断する性質に由来することが丁寧に論証されてるというわけです。

実は本書は、柴那典さんに教えてもらったものなのでした。こういう「気を散らす」性質によって、日本のネット上で主に聴かれる音楽の密度が高く、展開が多くなっていることの一因なのじゃないか、ということで。

海外の新聞なども、ウェブ版は文章を短くするなどの変化があるという事例も紹介されていて、なるほどそういうこともあるかも知れないと思わされます。

さて、音楽を論じていくためには「深い読み」で読書して内容をまとめ、記憶し、新たな文章の創造につなげていかないといけません*1

ついダラダラ見ちゃうし、ソーシャルな繋がりも必須のものではありますが、ウェブ的な読み方だけに特化するわけにはいかないのです。

ここ何日か試してみたところでは、本を読む時は意識的にモードを切り替えて(ウェブでも長文を読む時はリンクやSNSのことは気にしないで*2)やるといいような感じがします。

気が散ってしまったら「ああ、ウェブ脳になってる、いかんいかん」くらいに思っておくと逆にもう一度意識を向けやすくなるかも。そして何よりブラウザとTwitterクライアントを落とすことですねw

さてさて、先ほど述べた「新たな文章の創造」をより向上させたいということで読んでみたのが次の本。

『実践・論理思考トレーニング』

実践・論理思考トレーニング

実践・論理思考トレーニング

よくある論理思考の本と同様に、帰納・演繹・MECE・ロジックツリーなどを紹介しつつ、設定した目標を達成することへむけて行動とロジックを組み立て*3、それを文章に表現できるよう平易にまとめた社会人向けの実用書。

中心的なトピックで独自の用語が未定義で使われていたりしてわかりにくいところもありましたが、発想転換の方法としての弁証法とか、答えがいくつあるかわからない状況でのMECEは現実的には困難であるとか、いろいろTipsは得られました。

本書で興味深かったのは、後半で2章もかけて、文章のアナライズと論評を行っているところ。

ちょうど私が参加しているフミカレコーズも『フミカ 1.5』で自分たちのレビューをアナライズしていまして、文章上達の一方法としてそれなりにアリなものだったんだなという思いを強くしました。

2章もかけてということで、それは多種多様な文例を紹介しているのですが、その分野の幅広さからきっと著者が普段あちこちで読んだものから意識してメモしたものなのだろうなと思われます。

実はさきの『ネット・バカ』の中でも、ルネサンス期にエラスムスが提唱して定着した、読書したときメモや抜き書きを書き留めておくノート、「コモンプレイス・ブック」が紹介されていました(p. 247)。

こうして記憶した言葉たちが脳の中で長期記憶として処理され続ける*4ことで熟成し独自の新しい情報の結びつきを得るのだそうです(pp. 250-6)。

次に紹介する『外国語学習の科学』でも記憶の効用が強調されています。

単語などは暗記するものだというのはみんな知っていると思いますが、大人になってから例外的にネイティブに近いまでに上達した人は暗記に頼るところが大きく、特に自然な表現を身につけるには例文暗記がとても有効だということです。

文法と単語の組み合わせだけだと自然な表現にはならないというだけでなく、上で見たように、長期記憶にインプットされることで、文法的な感覚なども養われていくのだろうということが想像されますね。

『外国語学習の科学』

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か (岩波新書)

英語の勉強の効率を上げようという下心で読んだ本書でしたが、それ以外にも示唆するところ大でした。というか、やっぱり音楽と言語の習得過程、音楽理論と文法ってかなり似てるよなという。

まず、言語学習に関しては二つの両極的モデルがあるのだそうです。

  • インプット仮説:「習得」はメッセージを理解することによってのみおこり、意識的に「学習」された知識は発話の正しさをチェックするのに使えるだけである。
  • 自動化モデル:スキルは、最初は意識的に学習され、何度も行動を繰り返すうちに自動化し、注意を払わなくても無意識的にできるようになる。(p. 113)

これらはどちらも極端であり、現在の多くの研究者は中間的立場であるといいます。

実際、ゆっくり話していたのがだんだん流暢になるということはあるし、意識的に学習したことによって自然に聞いているだけでは理解できない言語項目(冠詞のa / anの違いとか)へ注意が行くため聴き取りができるようになり、それがまた自然な言語習得を促進するという面もある(p. 114)。

このあたり、音楽のリスニングでも同じことが言えそうな感じがします。たくさん聴いていれば理論が自然に理解できるところもあるし、理論を学んだからこそ聴き取れるようになるという部分もあるので。

音楽の場合、理論的に分節して聴かない人でも楽しめる部分が非常に大きいというのが言語と違うところですが。

前節の最後に述べた、自然な表現を達成するための例文暗記についても、理論に頼って適当にフレーズを作ってもなかなかジャズっぽくならず、フレーズをコピーしてみることが必須であるのとかなり似ていると思われます。

また「フォーカス・オン・フォーム」といって、漫然と意味だけを捉えるのではなく、文法を意識しながらリスニングをしていく、という方法が紹介されています(p. 145)。『英語上達完全マップ』でいう「網掛け聞き」ですね。

「フォーカス・オン・フォーム」はリスニングと自分の発話について言われていることのようですが、おそらく『実践・論理思考トレーニング』や『フミカ』で行われているようなしっかりとアナリゼして読むことの重要性と通じるのではないかと思います。

文法でも文体でも、しっかりと語・句・節が作っている構造を把握すること、それを意識しながら読んだり暗唱したり(あるいは書写したり)することによって、先人の表現を自分のものにしていくことができるのでしょう。

楽器でもただ漫然とコピーしたり演奏したりするよりも理論や奏法論に位置づけながら行ったほうが身につく度合いは高いのではないでしょうか。

・・・というかこのエントリ自体が、(日本の)評論文でよく使うわれている「共通点をピボットにした話題の転換」という技法の実験であるというオチなのでした。ちゃんちゃん。

*1:余談ですが、自分の行動パターンを振り返るに、ウェブをダラ見するよりもソシャゲにハマってる時のほうがかなり注意散漫になり、本が読めなくなる感じがします。いまこうして読めてるのもソシャゲやめたからで、完全にトレードオフになっているというw ソシャゲは時間をゲーム内資源に変換するからつい何度も注意を向けちゃうし、イベントやら相場やらをあちこち見て回ったりしてしまいますから、ここでいうウェブ的、ハイパーテクスト的な注意散漫化の特徴をソシャゲもよく備えているのでしょう

*2:本書に従えば、はてなキーワードって長文を読ませるには実はぜんぜん向いてないんですよねw

*3:目標達成、問題解決のための(しかも上司など誰かを説得するための)ロジックというのは、ある社会現象がなぜそうなっているかの説明するためのロジック(論文とか)とは発想の順序が逆になるんですね。ロジックを立てて行動し結果を得るのと、行動した結果を分析してロジックを立てるのと。

*4:機械と違って一度頭に入れたらそのままではなく、思い起こすたびに新たに処理がされるらしい

Footwork - 英語版Wikipediaより

最近身近な人たちの間で、Juke / Footworkというダンス・ミュージックがしばしば話題になっています。

まだあまり知られていないジャンルですが、日本語での紹介は次のようなものがあります。

しかしながら、日本語版Wikipediaにはまだその項目がないようなので、ごく短いもの(スタブというんでかね)ですが英語版の記事を訳してみました。希望があれば関連項目も訳してみようと思います。ウィキペディアンの方いらっしゃいましたら勝手に日本語版にコピペしてくださっても構いません。

以下翻訳

Footwork_(Chicago)

フットワークとは互いに関連する音楽とダンスの一スタイルであり、シカゴがその発祥の地である*1。通常「バトル」の一部として行われるそのダンスでは、ひねりやターンを伴う高速な脚さばきが見られる*2。この音楽のスタイルは、R・P・ブー(R.P. Boo.)によって変革・開拓されたジュークという先行する音楽様式から発展したものである*3。この音楽様式は、デュード・ン・ネム(Dude 'n Nem)が2007年に出したシングル「ウォッチ・マイ・フィート(Watch My Feet)」のPVに収録されたことにより、シカゴ外でも有名になった*4

ハウスの進化で起こった一番最近の展開は「フットワーク」と呼ばれるサウンドだ。金曜の夜にはアンダーグラウンド・トラック・ファクトリーというところで、ティーン・エイジャーがフットワークのダンスを即興的に踊ってバトルする。彼らの脚は狂ったスピードで飛ぶように動き回るんだけど、それはハウスのダンスとタップダンスとブレイクダンスが混じったようなもので、まるで別次元から来たダンスみたいに見える。彼らが踊る音楽はジュークに関係したものだけれど、それよりずっとスペースがあって、もっとリズムが複雑なんだ。DJラシャド*5の「リバーブ(riverb)」っていう曲なんかはまさしく実験的な脈打つノイズの壁っていうようなもので、もしジョン・ケージが聴いたらきっと誇りに思うだろうね。ハウス・ミュージックはシカゴを離れてしまったなんてよく言われるけれど、そんなことは決してないっていう真実をこれらすべてのスタイルは語っているんだ。その伝説はいまもシカゴ中に響き続け、変化し続けている。シカゴの繁華街にある、唸るような騒音をLトレインがたてるガード下で、フットワークの創始者R・P・ブーと話した時、彼はこう言っていた。「多くの人はハウス・ミュージックアンダーグラウンドなものになってしまったというけれどそうじゃない。ハウス・ミュージックここにあり、さ! 私こそがハウス・ミュージックに起きたことそのものなんだ」*6

【関連項目】

*1:Sheffield, Hazel (2010-05-27). "Footwork takes competitive dancing to the Chicago streets". The Guardian. Retrieved 2011-01-26.

*2:SAMI YENIGUN and WILLS GLASSPIEGEL (2010-12-06). "Chicago's Footwork Music And Dance Get A Transatlantic Lift". National Public Radio. Retrieved 2011-01-26.

*3:ibid.

*4:Raymer, Miles (2010-04-01). "Music for Feet:The Chicago dance style footwork already has MTV's attention. But footwork music may be too weird for mainstream ears.". Chicago Reader. Retrieved 2011-01-26.

*5:〔訳者注:ele-kingに日本語のインタビュー記事がある interview with DJ Rashad - ジューク! 勢い止まらず | DJラシャド、インタヴュー | ele-king

*6:"Midwest Electric: The Story of Chicago House and Detroit Techno". [Afropop Worldwide]. 2011-06-16. Event occurs at 7:30. Public Radio International. Retrieved 2011-06-17.〔訳者注:現在はこちらで聴ける模様。引用箇所は7:20あたりから

ジェイムズ・クリフォード、ジョージ・E・マーカス編『文化を書く』

文化を書く (文化人類学叢書)

文化を書く (文化人類学叢書)

【書誌情報】

  • Clifford, James. and Marcus, George E. (eds.) 1986 Writing Culture : The Poetics and Politics of Ethnography. Berkeley, Calif. : University of California Press.(ジェイムズ・クリフォード、ジョージ・E・マーカス編 1996 『文化を書く』 紀伊國屋書店

文化人類学の古典をひとつ読了。

デリダ哲学、文学理論、歴史学などを交錯させながら、それまで自明とされてきた民族誌の方法論、そして人類学のあり方を根底から問い直す。人類学に新たな展開をもたらすとともに、社会科学、文学、文化研究などのさまざまな分野において評判を呼び、多大な影響をあたえてきた重要な著作である。

『文化を書く』 - 紀伊國屋書店ウェブストア

という感じで、ポストモダニズム・ポスト構造主義な文学理論を文化人類学に応用して、「民族誌を書く」という過程にはたらく制度的慣性・イデオロギー・権力関係・レトリックなどを執拗なまでに批判的に検討した本であり、マリノフスキー、C・ギアツ、E・プリチャード、E・ゲルナー、P・ウィリスなど大御所たちがフルボッコにされてる様は壮絶でした。

さりとて、いまではこうした再帰的な視点にたった文化人類学自身への批判は文化人類学を学ぶ上では常識的なものになっていますし、私もある程度はどういう問題があるかは認識していました。

ですので、本書以前にどういった問題が人類学にあったのかということよりも、本書に収録された論文の著者らがどういう民族誌のあり方を求めていたのか、また異文化を解釈して描くことにおける解釈の妥当性はいかに保たれるのか(この点は人類学だけでなく批評にもかかわってくる)、という点に私の関心は向いていました。

J・クリフォードの解釈についての見解

本書編集者の一人にしてポストモダン人類学の最重要人物、ジェイムズ・クリフォードは、全体性・客観性・単一性などを達成しようとする近代科学的なそれまでの人類学の野心から離れ、部分的な真実を明らかにしていくことはできるというように(ある種オプティミスティックに?)第一章で述べていました。

「部分的な」という表現でいいあらわしているものを完全には掴みかねますが、クリフォードの指摘する「練り上げられた・作られた」という語源的意味を含む「フィクション」としての民族誌は、私達に身近なものでいえば編集されたインタビュー原稿やドキュメンタリー番組があきらかにする他者のリアリティと比較できるのかもしれません。

また、クリフォードは文化やその把握を基本的にダイナミックなものとして捉えようとしていて、ディルタイポール・リクールハイデガーを引きつつ「様々なスタイルの解釈哲学者たちは、最も単純な文化の説明でさえ意図的な創造であり、解釈者は自分が研究する他者を通じて絶え間なく自分自身を形成して行くのである、ということを私たちに強く忠告する」と述べています(p. 18)。

自伝と民族誌

解釈の妥当性や民族誌のあるべき姿などの観点からは後半の論文の方に面白いものが多くありました。

マイケル・M・J・フィッシャーによる「第9章 民族性とポストモダンの記憶術」では、当時次々と刊行されていたエスニックマイノリティの自伝をとりあげてそのレトリックを分析し、そこから「文化批評の様式としての民族誌の実践を再形成できるかどうかを」問おうとしてます(p. 362)。ということで、インタビュー記事や自伝を情報源とせざるを得ないジャズ、ポピュラー音楽研究には示唆に富んでいる論文なのではないかと思います。

とくにエスニックマイノリティによる自伝はアイデンティティ形成が問題としてがあたるために、人類学と同じく「他者を見るのに自己を背景とし、自己を見るのに他者を背景とする」「焦点の二重性」*1を持つと述べられていて(p. 368-9)、この点は黒人、アフリカといった(あるいは日本や東洋でも)エスニックな要素と向き合わざるをえないジャズ、ポピュラーのミュージシャンの伝記を読むのに参考になる姿勢なのではないかと。

事実、本論文中でもチャールズ・ミンガスの自伝『負け犬の下で』におけるレトリック的な仕掛けとアイデンティティ表現の関係が検討されています。『敗け犬の下で』では「語り手として三分裂した自己を用いて精神分析医に語るという語りの構造」が取られていて(p. 393)、この三つの自己がジャズのセッションにおけるチェイスのごとく交替で語ることによって次の「四つの下位装置」と戯れることができるようになっているとフィッシャーはいいます。

  1. 主語を転換する、泣き叫ぶなどの心理学的虚構の装置
  2. 音楽だけでは食えず他人や女を犠牲にしなければならない黒人ミュージシャンを象徴する女衒(ぽんびき)というメタファー
  3. 第二の自我という役割を担うファッツ・ナヴァロの夢の反復
  4. 父親のイメージの使用(子供時代のトラウマと関連、真の父親を求める気持ち)

このほかにもミンガスの混血性への戸惑いやメキシコ人でもあることによる周囲との関わりの機微など、真に迫る解釈が興味深いところでした。

このように、アイデンティティ形成にかかわることを文字化する、文字化することによってアイデンティティを考え形成していく、という点においてと人類学と文学はかなり問題が近くなるのだなということが見て取れます。(自伝)文学では自己や登場人物の語りとして文字化し、人類学では土地の人の語り・ナラティブをストーリー的に把握する場合もある。こうなってくると文学理論の方が一日以上の長があるのだろうし、文化人類学のプレゼンスの低下というのもこの意味では自然なことではあるのかもしれないなと思わされました。

社会的文脈における真理と解釈

解釈と真理の問題をもっとも中心的に扱っていたのは、ポール・ラビノーによる第10章「社会的事実としての表現 ―― 人類学におけるモダニティーとポスト・モダニティー」でした。

ごく手短に要約すると、R・ローティの哲学・科学史における認識論の歴史的役割の概略とフーコーの真理/権力論を紹介して、真理が社会的な構成物であることを示し、ジェイムズ・クリフォードのテクストやポストモダニズム言説の問題点とモダニズムがもつ批判的効能を論じた後、社会過程・権力関係を上手く扱った学問的言説のあり方を求めて、ブルデューや特にフェミニズム人類学を論じる、というような構成になっています。

で、ローティ、イアン・ハッキングフーコー、スタンレー・フィッシュなど*2が引かれているわけですが、それぞれの論の違いはもちろんあるけれど、いずれの論者も何が正しいかを決める基準が社会的な力学によって左右されるということを示唆していて、このあたりが当時のポストモダン論者の真理観の落とし所だったのかなという印象を受けます(いまもそう変わらなかったり? それとももっとシャープな議論があるかな)。

こうした見方に関して、スタンレー・フィッシュを引用したものがわかりやすかったので、「引用を翻訳したものを引用」という多重な孫引きになってしまいますが(学生さんはレポートや卒論ではやらないようにw)、引用して紹介しようと思います。

スタンレー・フィッシュは論文「解釈を受け入れ可能にさせるのは何か」(Fish 1980)の中で、これと同様なことを指摘している(ただしまったく違う論題を展開させるのだが)。彼が論じるのは、あらゆる言表は解釈であり、テクストを求めるすべてのもの、または諸事実はそれ自体解釈に基礎を置いているという点である。こうした解釈は主観的(個人的)な関心事ではなく、共同体の関心事となる。つまり意味は文化や社会をつうじ獲得可能になるのであって、ただひとりの解釈者が無から創造するのではない。最後にあらゆる解釈、特に解釈の地位をみずから拒否する解釈とは、ただ別な解釈を基礎にしてはじめて可能となる。つまりその別な解釈をきっぱり否定しながら、その解釈の規則を肯定するのである

フィッシュによれば、解釈の不一致は決して事実やテクストに訴えることでは解決されない。なぜなら「事実とは、何らかの視点を背景にしてはじめてあらわれるからである。したがって別な視点をとる者の間には、不一致があらわれなければいけない。不一致で問題となるのは、事実がいかなるものだと言えるかを明らかにする権利である。不一致は事実によって解かれるのでなく、事実をさだめる手段によって解かれるのだから」(p. 338)。 (p. 477)

[Fish, Stanley. 1980. “What Makes an Interpretation Acceptable?” In Is There a Text in This Class? Cambridge, Mass.: Harvard University Press. pp. 338-55(1992 『このクラスにテクストはありますか』 小林昌夫訳、みすず書房)]

なおジェイムズ・クリフォードも第五章でポール・ド・マンを引いて同様の指摘をしています。

ド・マン(1979)の批評によれば、テクストを書くにあたって修辞、象徴、語りの主要なモードを選択することは、常に一つの読み方またはある範囲での複数の読み方を、無制限の解釈、すなわち限度なく拡大される「意味」の置き換えに対して課そうとする試みであるが、それは常に不完全なものにならざるを得ないということになる。自由な読み取りは理論的には無制限ではあるが、歴史上のいかなる時点でも、十分知識を持った読者(特定な社会では読者の解釈のほうが本文よりも真実だと認められることもあるだろう)であるなら、不意に思いついた解釈でも、実は一定の決められた規範的アレゴリーの領域内でしかなかったということがある。これらの意味の構造は歴史的に決定され、一貫性を持っており、事実上「自由なよみ(フリープレイ)」は存在しないのである(pp. 204-5)

[De Man, Paul. 1979. Allegories of Reading. New Haven, Conn. : Yale University Press.]

*1:文化人類学の基本的な姿勢で、異文化に身をおくことで自己の文化との差を認識し、異文化をかなり内面化した後帰郷すると今度は自文化にカルチャー・ギャップを感じ、自分かを相対化できるといいます

*2:直接引用はされてないけどローティがよって立つハイデガーウィトゲンシュタイン、デューイも含まれるのかも