続・積ん読くずし。もっと先に読むべき本があるけど、なかなか大変。
早いものでレヴィ=ストロースがなくなってからもう2年が経とうとしており、構造主義が隆盛を誇ったのも昔になりつつありますが、著者のレヴィ=ストロースへの共感が深く、いまでも彼の思想の重要性は失われていないと思わされる熱い一冊となっています。
内容としては、構造主義とはなにか、インセスト・タブーと婚姻、『野生の思考』『今日のトーテミズム』とブリコラージュ、一連の神話研究、レヴィ=ストロースの「歴史」観といったレヴィ=ストロースの論点をわかりやすく概説しつつ、よく誤解されている点や批判を寄せられているトピックに対してレヴィ=ストロース擁護の立場からの反論を加えていて、いずれも興味深いです。
デリダへの反批判
『悲しき熱帯』にレヴィ=ストロースの音声中心主義がみられるという有名なデリダの批判に対しては、むしろデリダこそが「無垢で善良な共同体」を暗黙に前提してしまっているとしています。(pp.10-24)
デリダが暴力を隠すものだと批判している、閉じられた無垢で善良な共同体のイメージは、十九世紀の聖王が、自分たちを暴力的で流動的だが「開かれた社会」だと規定するために、それとは正反対のイメージを過去や未開や田舎の小規模な共同体に投影することで創りだした観念である。ところが、デリダは、自分が批判しようとするその観念にこだわるあまりに、あらゆる小規模な共同体についての記述のなかに、無垢で善良な共同体というイメージを読み取ってしまう(p.22)。
結果として、デリダは『悲しき熱帯』にある記述を、無垢で善良な共同体のイメージに当てはまるものと、あてはまらない記述に振り分け、後者を「驚くべき根源的な暴力の露呈」として読んでみせる恣意的読解をしていると小田は指摘しています(p.24)。
「真正さの水準」
小田によると、レヴィ=ストロースが見出した西洋と南米先住民社会との違いは「真正さの水準」という、社会の二つの存在様式の違いとしてとらえられるといいます。
その区別とは、〈顔〉の見える関係からなる小規模な真正な(本物の)社会の様式と、近代社会になって出現した、印刷物や放送メディアに寄る大規模な「非真正な(まがいものの)」社会の様式との区別である(p.26)。
一見、近代社会と「無垢で善良な共同体」の区別と同じように見えますがそうではなく、
ここでいわれている真正さの水準とは、方や貨幣やメディアに媒介された間接的で一元的なコミュニケーションと、身体的な相互性を含む〈顔〉の視える関係における多元的なコミュニケーションの質の違いを指しているに過ぎない(pp.27-8)
のだそうです。これは社会の規模や構造の違いというよりもむしろ、B・アンダーソンが『想像の共同体』で描いた、新聞によって可能になった国民という単位で「われわれ」をとらえる想像力と、「人と人との具体的なつながりを延ばしていって、境界のぼんやりした社会の全体を想像する」という想像力の違いだと小田はいいます(p.28)。
なので近代社会においても都市の近隣関係とか仕事場など、いろいろなコミュニティにおいて真正な想像力は生きていて、私達の身近にもそれはあるのです。Twitterやニコニコ動画を通じて行なわれる様々なコラボもこうした想像力に基づいているといえるかもしれませんね。
そしてこの「真正さの水準」の区別が小田は本書の鍵概念であるとして、レヴィ=ストロースの「構造」をみいだしていく一連の研究をこの観点からまとめていて、本書全体に通低している、といえます。
ブリコラージュと技師の思考
環境にある自然物(の差異の体系)を使って記号とし、論理的な象徴の体系を創りだす「野生の思考」は、おなじようにありあわせの日用品を使って当座の道具を創りだすブリコラージュになぞらえられるのはよく知られています。
そうした断片をつかって作品をつくりだすのはポストモダンな芸術などと大変似通っていますが、ポストモダニズムはあらゆる体系化を拒否し、断片そのものに価値を見出そうとする所がブリコラージュとは違うといいます(pp.148)。
モダンとポスト・モダン、そしてブリコラージュ的な思考の違いは次のパラグラフにまとまっているといえるでしょう。
資本主義におけるモノが本らあった場所から切り離されて断片化=商品化されるとき、モダンにおいては全体的な計画から用途が固定されるし、ポストモダンにおいては、その固有の歴史性や多義的な固有性も剥ぎ取られてしまっている。それに対して、特定の時代に限定されない普遍的な思考としてのブリコラージュは、ちぐはぐではあっても特定の役に立つような総体を作り出す。このようなブリコラージュは、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会」においてのみ働くものである。断片個々の潜在的な多義性としての固有性を総体のなかで保つには、その営みが、歴史性や固有性のみえる真正な社会のレヴェルにおけるものでなくてはならないのである。真正な社会としての生活世界を離れて非真正のレヴェルにおいて広がる消費資本主義社会のポストモダンの知は、野生の思考と似て非なるものである。(p.148)
同じ断片を集積させるといっても、体系化を拒否し断片そのものに価値を見出すポストモダニズムとも、特定の観点からなる体系の中に断片を組み込んで一義的な意味を与える近代的な思考=技師の思考*1とも、ブリコラージュの思考は違うのだということがわかりますね。ポイントはここでも真正さの水準であり、そして技師の思考がつかう「概念」と野生の思考がもちいる「記号」を区別するということです。
近代的な歴史観と「純粋歴史」
「構造主義は歴史を拒否する」という誤解もこの点から理解することができます。レヴィ=ストロースがサルトルとの論争の中で批判したのは、「歴史に客観的な発展法則があるとしたり、歴史に『自由な意識の進歩』といった究極の目標があるとするような西欧近代に生まれた歴史意識」だと説明されています(p.216)。
年代という単一のコードによって異質な出来事からなる不連続な歴史をまとめ上げ、それによって「主体」を意味付けるあり方は「栽培化された思考」に属するものであり、いわば〈顔〉のごとき独自性や一回性をもつ出来事が〈いまここ〉にあらわれる「純粋歴史」から目を背けるものだとレヴィ=ストロースは批判しているのだそうです*2。
レヴィ=ストロースが純粋歴史に人が触れる例として、オーストラリア先住民の聖具・チュリンガをあげていて、それがもつ「出来事の独自性」を小田は「ベンヤミンが『アウラ』と呼んだもの」であるといっていますが(p.221)、「独自性や一回性をもつ出来事が〈いまここ〉にあらわれる」というのもまた『歴史哲学テーゼ』における“Jetztzeit”とほぼ同じ事を言っているように思えます。
セファルディ系とアシュケナージ系の違いはあれ、同じユダヤ系で西欧近代的な思考のあり方を相対化した二人の思想家が同じような歴史観を持っているのは興味深いですね。*3
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交差イトコ婚とインセスト・タブーや神話における要素が互いに変換・反転したものになっていることなど、肝心の〈構造〉分析による文化理解について触れられませんでしたが、それらの説明も類書に比べてわかりやすかったように思います。構造主義、そして文化人類学をワン・ステップ詳しく知りたい方におすすめです。
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*1:15世紀、民衆の信仰と学者の書物から断片を集積するように「魔女集会」の神話がつくられたが、エリートによる「悪魔との契約の印」としての一義的な意味づけだった(p.148, 154)
*2:ソシュールからヤコブソンが導入し、レヴィ=ストロースが引き継いだのは「無意識のレベルにある差異のみからなる体系」という考え方であり、変換に対して不変な項同士の関係=〈構造〉もまた無意識の領域のものです。そもそもレヴィ=ストロースの構造主義がそうした〈構造〉から文化を捉えることは自体、「主体」を重視してきた西欧近代への批判になっているといえるでしょう。
*3:どちらかが他方を参照したのかもしれませんが、管見の限りでは聞いたことがありません。影響関係などがあればそれ自体面白いのですが。例えばレヴィ=ストロースからラカンへの影響があったことが pp.70-1 で触れられています