ゼロアカ道場優秀者の単著デビュー作。道場主の東浩紀がとりあげてきた美少女ゲームに加えて、ニコニコ動画でのUGC・二次創作を大きく取り上げているのが特徴ですね。
ゴーストの定義
いずみのさんもいうように*1本書を通して「ゴースト」という用語*2は直接的・内包的に定義されていないのですが、まえがきに列挙されている特徴をあげると次の通りです(p.11)*3。
複数化した集合的無意識
クラウド化した二次創作(空間)の表象
自立したキャラクター
中間共同体
神でもなく、人でもなく、単なるキャラクターでもないもの
創作をエンパワーする神秘的なツール
新しい現実感の象徴
また村上は「このネットワークとキャラクターが結びついた結果生まれたのが、自立的で複数的な集合無意識としてのゴーストである。ネットワークにおいてキャラクターはまさしく実在しており、しかも人間以上のカリスマとして人々を惹きつけ編成する」(p.13)ともいっています。
「やる夫」「ボカロ」「ニコマス」あるいは、「〇〇クラスタ」「〇〇界隈」といったキャラクターやそれと密接に結びついた名があらわす、キャラクターでありかつ共同体であるような、ネット時代の二次創作のあり方を描写することばとしては秀逸だと思います。
キャラクターの成立条件
所与の役割に対する抵抗
「第一部 固有名の哲学」ではキャラクターがどのようにして成立するかという点について哲学や文芸評論における「固有名」を軸に考察がなされています。
村上はキャラクターの基礎条件としての振る舞いを「所与の役割に対する抵抗」に見出しています。その例としてあげられているのが蓮實重彦『陥没地帯』における「群生植物」のあり方と『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるSOS団メンバーの振る舞いです。
『陥没地帯』では「群生植物」*4に喩えられる「モブ」キャラ的な名のない登場人物たちが、物語の中核となる事件について証言・ナレーションを次々と交代して語っていき、その特権的な立場を奪い合うということが起こります。こうした与えられた役割を逸脱しようとするものにこそ私たちは固有名を付けたくなると村上はいっています。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における宇宙人・未来人・超能力者といった属性は、ハルヒ/作者によって求められた物語上の役割です。しかし「小説の中に固有名が投げ出されるや否や、それはハルヒの無意識を超えた働きを見せ始める。それが役割との交換不能性、固有名の分割不能性である」(pp.49-50)、「固有名とはこのような [プロップやグレマスの論がいうような] 機能・行為項に還元されないのである」(p.51)、と村上は述べています。
キャラクターがもつ情報の集積・「履歴」
「ゴースト」でも重要になるキャラクターがもつ情報の集積については、東浩紀の小説『キャラクターズ』を例に検討しています。
『動物化するポストモダン』における東のキャラクター論では、キャラクターとは「データベースに織り込まれた『潜在的な行動様式の束』」といえるものでした。現代のキャラクター(ゴースト)では、それは「履歴」、すなわちネット上に集積したキャラクターについてかわされた情報となっている。
『キャラクターズ』は実在の人物の名を登場人物に使うことで実際にウェブ上にある「履歴」をキャラクターのデータベースとして利用し、作中人物と実在人物を混同させる「詐術」が使われていると村上はいっています。
「この小説は事実の履歴に基づいた、オルタナティブなレール、別の可能性に他ならない。そしてこの表現こそがまさに『固有名の魔法』の産物なのである」(p.55)。
固有名=確定記述の訂正可能性
第一部のまとめとして村上は、柄谷行人、B・ラッセル、S・クリプキ、ジジェク、J・デリダ、東浩紀による固有名の議論をたどりながら、「固有名」の分節不能性を確定記述の「訂正可能性」に見出しています。
そして第二部の二次創作論に次のように言ってつなげています*5。
キャラクターを支える固有名は、その訂正可能性に基づいて無限の二次創作を祝福し、そのことによってさらなる「キャラクターの独立」へと向かう。
第一部のツッコミどころ
読んでいておかしいなと感じた点を箇条書きにしておきます。
- アイドルが時代を象徴しなくなったことと、象徴それ自体の機能とは別
- 村上は伊藤の用語での「キャラクター」が「虚構の登場人物」に、「キャラ」が「キャラクター」に対応すると言っているが、どうもそれはただしくないようだ。キャラクター成立(の初期条件)に関する村上の基準はモブとメインキャラをわけるような「所与の役割に対する抵抗」にあるようで、伊藤のいう「プロト・キャラクター」としての「キャラ」、斎藤の人間の隠喩としての「キャラクター」・換喩的な「キャラ」、といった議論とはすれ違っている。
- 固有名は訂正可能な確定記述の束=「履歴」をもつとされるが*6、それはシニフィアン一般の性質ではないのか(引用されている東の文にもそうとれる表現がある)。
- モー娘。が当時の時代の象徴となったのはそういうプロデュースだったからで、「ダイナミズムとメタボリズム」と固有名の機能とは関係がないはず*7。仮にモー娘。において関係があったとしてもキャラクターなどに直接広げるのは不当な一般化だと思う。
- 伊藤剛の意味での「キャラ」が「テキストからの遊離性」をもつが「キャラクター」はそうではない*8という問題はどうなってしまうのか。固有名をもつのは通常の小説の登場人物だって同じではないか。
- 東浩紀が「でじこ」を例にしていたような、属性や潜在的な行動様式の束としてのキャラクターと、確定記述の「訂正可能性」にもとづくキャラクターはどう違うのだろうか?前者では「分節不能性」を表せないだろうというのはわかるのだけれど。
やる夫スレ、ニコニコ的二次創作
「第二部 クラウド化した二次創作」ではやる夫、ニコマス、ボカロ、MMDといった現代のウェブを介した二次創作が扱われていきます。
やる夫はモナー(マスコット。キャラクターではない)などと違い表情豊かであることで物語を作りやすかったため、やる夫スレ的な二次創作が爆発的に行なわれました。スレでの二次創作・情報が蓄積され「履歴」となり、キャラクターへフィードバックされるということも起こります。
ニコマスではダンスPVからMAD・紙芝居をへてノベ・架空戦記という流れで二次作品がつくられ、、ボカロはキャラソンがつくられ互いに交流するボカロファミリーができました。こうして人格的なもの(他キャラとのコミュニケーション)を獲得し、「履歴」が蓄積し、キャラクターとしての強度が増していくことになったといいます。
現状の把握としては、日常的にこれらに触れている私からしてもなるほどといえるものです。しかし、「なぜこうなっているのか」については固有名の訂正可能性(と「ダイナミズムとメタボリズム」のメタゲーム)だけでは説明できていない感じがします。
やる夫にしてもミクにしても、初めはたんなる図像とわずかな設定しかないものだった。にも関わらず、なぜあれだけの人が次々と創作に加わることになったのか。こうした点についてはアーキテクチャなり社会学的な分析なりが必要なはずです。
例えば、集団行動や社会現象としては「祭り」がキャラクター成立の初動において大きく働いているように思います。
それから、MMDやUTAU、紙芝居クリエイターといったソフトウェアの特性(とくに素材を共有し流用することで簡単に作品が作れるという点は重要なはずです)にも一言も触れられていないし、誰にインタビューもしていません。このように、作品を読み解いてそこから欲望を読み取るだけでは無理があるのではないでしょうか。
論法の癖?
ちょっと批判的な言い方になってしまいますが、全体的に取り上げられているトピックやそこから読み取っている倫理などには共感できるものの、ロジックの運びが強引なので議論の妥当性を損なっているように感じました。
どうも「AとはBである。BとはCともよばれる。したがってAはCである。」と言った形式で、同じ名詞や表現で呼ばれている論理的なレベルが別のものを直結するいい方が本書全体に散見されます。
例えば、現実における具体的な「人形」・「人形愛」の議論が、『Kanon』や『ローゼンメイデン』に登場する「人形」と接続したりしています。またsakstyleさんがいっている「固有名」と「ブランディング力」の混同も似たようなロジックだと思います*9。私たち自身の生が被造物的=人形的であり、不条理に投げ込まれているというのはわかるのですが、ちょっと飛躍があるように思います*10。
ゴーストの裏面=水子というのも同じ事で、第二部で議論した社会的な事象と物語における価値観の問題がゴーストということばでつながってしまっていて、ちょっと戸惑います。ありえたはずだけど実現しなかった生のかたちに想像力を及ばせるために固有名の議論は別になくても良いはずだし、ゴーストが訂正可能性がをもつこととそうした想像力をもった作品があることとはあまり関係がないと思われます*11。
いいすぎかもしれませんが、本書全体の構成も、第二部では社会学的な現象を第一部で論じた哲学のことばで、第三部では物語における価値観の問題を第二部で論じた社会的なことばでというように、レベルの違うことばで他方を説明しようとしてしまっている、そんな印象を受けました。
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以上、批判を多く書きましたが、誤解しているところもあるかもしれませんので、お気づきの方はご指摘いただければ幸いです。
- 作者: 村上裕一,村崎久都
- 出版社/メーカー: 講談社
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*1:http://d.hatena.ne.jp/izumino/20111003/p2
*2:というか術語化しているもの全体がそうなんだけど
*3:こういうのをデュルケムは「集合表象」と呼んだのではなかったか
*4:名前がわたしたちの関心事の埒内にあるものにこそ付けられるというのは、当ブログで取り上げた川田順造の『聲』でも指摘されていました。ある人類学者がフィールドで「この草はなんという名前ですか?」と尋ねたら笑われたように。
*5:「ダイナミズムとメタボリズム」が固有名に備わったとモー娘。やAKBを例にいっているけれど、論理が飛躍しているとおもうので割愛
*6:詳しくないのでよくわからないのですが、柄谷行人的な確定記述の束に還元し得ない固有名の「単独性・分節不能性」がもついわくいいがたさを東-村上的には確定記述の「訂正可能性」に求めているようです
*7:ダイナミズムとメタボリズムがある種のブランディングにとって重要、というのはいい着眼点だと思う
*8:「桃太郎」は鬼退治の話を離れては存在し得ない
*9:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20110916/p1
*10:あと人形の話をするなら『からくりサーカス』を取り上げて欲しかったりw
*11:ありえたはずの生や生の一回性を肯定し人間として生きることに倫理を見いだすのはまったく共感するところなんですが