Jablogy

Sound, Language, and Human

山田敏弘『あの歌詞は、なぜ心に残るのか』

読了。感想はこちら:

以下、興味深かったポイントのメモ。

旧来の学校文法からの変化

90年前後、日本語学習者増加、実用的な文法研究が進んだ(p. 5)

これ・それ・あれ

「こ」は話者の領域
「そ」は聞き手の領域
「あ」はそのいずれでもない、両者から遠い領域、をあらわす

鼻濁音

昔の歌謡曲は基本ガ行は鼻濁音だったが、いまではあまりもちいられない。 近年のJ-POPとしては珍しく、いきものがかりは初期以外(「ブルーバード」以降が顕著)鼻濁音を使っている。(pp. 56-8)

ら抜き言葉

歌詞という何度も推敲され繰り返し口にされるものがもつ保守性、規範へのバイアスの例としてサザンオールスターズに言及している。

昭和49年~50年(1974-5)の調査で東京の若者の65%ほどがすでにら抜き言葉を使っていたが、同世代のサザンオールスターズは(特に初期は)ら抜き言葉を使っていないとのこと。(pp. 64-6)

「~ていた」

補助動詞「~ている」は状態の継続をあらわす(雪が積もっている)。

その過去バージョン「~ていた」「~てた」が「結果状態を表わすとき、それは、動作や変化の過程に気づかなかったことをも同時に表わす」(p. 99)。

人は変化の途中で気づくよりも、後でその結果を知ったほうが、驚愕し、呆然とする。気づかなかったという事実は、それが好ましからざる場合には、悲嘆やとまどいへとつながってゆく。「変わって」では言い尽くせない気持ちが、「変わっていて」にはある(pp. 99-100)

〔確かにこういう後悔とかノスタルジーの表現はJ-POPによく見られるもののように思う〕

接続助詞「と」

「おなかが減ると力が出ない」などの「と」は恒常的な条件・性質をあらわす(おなかが減る → 必ず力が出なくなる)。

「~たら」「~ば」だと、偶発的に起きた一回限りのことも表せる。ので「いつもそのようになる」という意味をもたせる場合はやはり「と」を選ぶ人が多いのではないだろうか」と著者は推定している(p. 111)。

例えば、尾崎豊「BOW!!」の「夢を語って過ごした夜が明ける/逃げ出せない渦が日の出とともにやってくる」という一節について:

ここでも、用いられる接続助詞は、「と」でなければならない。そうでないと、後に描かれる「希望の夜」と「希望のない昼」が、繰り返しやってくる日々がぼやけてしまうからである。ここでの「と」も必然的選択なのである。(p. 112)

小田和正の透明感

日本語では主語は必要ない場面も多い。にもかかわらず、小田和正は「僕」や「君」といった人称代名詞をかなり頻繁に用いる。

「僕が君の心の扉を叩いている」(オフコース「愛を止めないで」)のようにあえて人称代名詞を使うことで、そのシーンが客観的に描写できる。

客観は、主観よりも静かである。感情のどろどろした部分はそぎ落とされる。それによって、楽曲が透き通っていく。オフコースの歌には「透明感」があると評するファンが多いのは、小田和正の澄んだ声に加えて、この客観的描写も一因となっているのではないか。(p. 207)