マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
書誌情報: Weber, Max. 1920 “Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus,” Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd. 1, SS. 17-206. (ウェーバー、マックス 1989 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 大塚久雄訳、岩波文庫)
- 作者: マックスヴェーバー,大塚久雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1989/01/17
- メディア: 文庫
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本書は現代的な社会学の祖の一人、マックス・ヴェーバーによる名著です。
ルター派において成立した儀礼の否定(呪術からの解放)と天職(Beruf)観念とが、カルヴァン派における救済予定説と結びついて世俗的な労働そのものが宗教的な救いを確信するための道徳となり、ひいては資本主義の精神を生み出す大きな要因となった。今更私が繰り返すまでもないかもしれませんが(ググってもらった方が詳しい解説に当たるでしょう)、ストーリーのアウトラインはだいたいこのような感じでしょうか。
本書についての呼んだことのあった説明ではよくわからなかったが、本書に当たることでわかったところを少し記述しておきます。
一つは、資本主義に代表される西欧世界の「合理化」はさまざまな領域で別個に進んだとヴェーバー自身が述べていること。
93ページでは「歴史上合理主義の進展は個々の生活領域において平行して行われてきてはいない」と述べ、私法の合理化がローマ法を受け継いだ南欧カトリック諸国の方が進んでいてむしろプロテスタント国では遅れていることなどを示しています。
プロテスタンティズムと資本主義の関係はわかるとして、それ以外の――法律や科学や哲学や芸術といった――領域における思想史との関わりはどうなるのか、概説からはわからなかったのですが、それについては本書だけでなく、彼の後の研究をさらに読み進めるなり後続の研究者によるものを読むなりしないといけないようです(本書の最後に今後の課題的に言及されていますし)。
もう一つは、救済予定説について。よく言われる「あらかじめ救われる人が決まっている」ことと、それがゆえに救いの確証をもとめることの関係がよくわかっていなかったのです。
まず「あらかじめ救われる」というのは一種の選民思想(ユダヤ教以来の伝統といってもいいかも?)であるようです。例としてP.287の注で、バークリーの説やクエーカー派の説法において「選民」であることに力点を置いていたことを引いています。
救いの確証とは宗教上の感情的な満足に関わることのようです。予定説によって救われるかどうかあらかじめ決まっていて自分がそうであるかわからない不安が生まれる。なので、神の与えたもう摂理――天職や財の投資――にしたがって世俗の職業労働にしっかり打ち込むことで救われる存在であることの自己確証の感覚を得る。
これはいわば禁欲的な生活態度によって敬虔な気持ちを手に入れる修道僧的な心性をもった存在に一般の人がなっていったということであると理解できます。「宗教改革は合理的なキリスト教的禁欲と組織的な生活態度を修道院から牽き出して世俗の職業生活の中に持ち込んだ」のです(p. 203)。
ところで、直接的な影響関係があるかはわからないけれど、こういう労働を道徳的な義務ととらえる感覚は現代の日本にもみられるような気がしますよね。メディアに出てくる企業の社長とかどこかの知事のような政治家とか、そういう感覚にもとづいた発言が聞こえきます。ネットでおバカなことをしてるネタに対するつっこみが「仕事しろ」だったり。
芸術や音楽という「無駄なこと」やソーシャルゲームやお祭りにおける奢侈を嫌う心性の一般論、あるいは禁欲というもの一般とあわせて考えていくべきトピックかもしれないなと感じます。