Jablogy

Sound, Language, and Human

My First Impression of Juke/Footwork

 ここ数日、Twitterでフォローしている @mirgliPilgrim さんが最近アップした Juke のリズムを解説する記事が結構な注目を集めている。

 シカゴ発の新しいダンスミュージックであるJuke/Footworkには以前から興味はあって、このブログでも「Footwork - 英語版Wikipediaより」の記事ではwikipediaの解説を翻訳してみたりした。

 けれども、肝心の音源を、ジャンルの特徴をつかめるほどには聴いていなかったので、これをいい機会にと、次のまとめで紹介されている音源を聴いてみた。

 以下、その感想を。上のまとめとYoutubeで検索してヒットしたものをいくつか聴いたという段階での印象なので、詳しい方からすると的外れなところもあるかもしれないけれど、初心者なので、ということでお許しいただければ。

Jukeに香るアフリカ系音楽のフレイバー

ポリリズム

 以前Twitterで、デトロイト・テクノにアフリカ音楽的なものを感じてそう言ったことがあった*1のだけど、ざっと聴く限り、より juke/footwork のほうが音的に電子化したアフリカ音楽であるような印象を受ける。エレクトロナイズド・ルンバとでもいうか。

 Juke のリズムはスネアやフレーズから判断するとBPM80が基本のようだ。だけど、そのテンポが明示される度合いが低くて(スネアくらいしか手がかりがないこともしばしばある感じ)、むしろ32分音符の3・3・2フレーズのシンコペーションが表に出てる場合が多い。

 なので、BPM80と4倍テンのBPM320のポリリズム(場合やパートにより160とかも)になってるように聴こえるし、どのBPMが支配的っていうこともないので、それら同時に流れているBPMを総合的に・同時に感じることができる耳が求められるのではないだろうか。

 加えて、基本となるBPMとノリ方は同じでありつつ、曲によってリズム・パターン自体は違ったりするのも、1ジャンル=1リズム・パターンの場合が多いクラブ系音楽に慣れている人には Juke はつかみにくい、という印象になるのかもしれない。

 定型化の度合いについても、ハイハットの刻みがなかったり、キックとスネアのパターンも定型化してなかったりとかするし。キックやスネアの組み合わせがビートやアクセントを刻むのではなく、唄うようなフレーズを形成するのもジャンベ音楽っぽいかもしれない。これは juke に限ったことでもないかな。

 ともあれ、二倍、四倍、半分のBPMを楽曲側も行ったり来たりするし、聴く側もフォーカスをずらしやすいのはとてもアフリカ的なように思われる。ファンクとか Hip Hop とかもそうなんだけどよりあからさまというか。

でも2:3はあまり聴こえない?

 アフリカ音楽といえば2:3のポリリズムなのは周知の通り。で、次のような意見もある。

@cowp: @mirgliPilgrim JBの倍速ダンスからシカゴハウスやゲットーテックに繋がっていく黒人音楽の文脈で160と120を共存させるアフロポリリズムの導入がjukeの技術的要素。君のサンプルのベースのシンコペーションの持続もBPM120の8beatの変拍子にもとれるでしょ
(https://twitter.com/cowp/status/522292795545882626)

@mirgliPilgrim: @cowp ♪. + ♪. + ♪ ≒三連符ということですよね?BPM160の二拍三連=BPM120の八分音符でありジュークは160と80の二重構造ではなくて160-120-80のポリリズムという理解でよいでしょうか?とすれば、32ビートと書いてしまうのは確かに間違いですね。
(https://twitter.com/mirglipilgrim/status/522365116876996608)

 NAVERまとめの紹介でも三連を多用するというように書いてある。しかし、貼られてる動画を見るとそれほどでもないような気もしてくる。確かに DJ Rashad などは三連(つまり2/3, 3/4倍のBPMともいえる)も使っているのだけれど、全然使わない人もいるし、アフリカ音楽ほど常に2:3が聴こえる感じではないような。

「♪. + ♪. + ♪ ≒三連符」*2も、例えばキューバのルンバやブラジルのサンバなんかでは、確かに訛ることで近似値的に三連に近づいたり、相互にスライドして入れ替わったりするのだけど、Juke の場合、訛りがあまりなくシュアな32分音符で鳴っているので、私の感覚では4倍テンの方が強く感じられる。

 音の面についてはこれくらい。次はダンスについて少しだけ触れてみよう。

アフリカ系ダンスの連続性

 初めて Juke/Footwork の紹介動画*3を見た時に思ったのは、ああ、このダンスもアフリカ音楽の伝統をすごく感じる、ということだった。

 論より証拠ということで、アフリカのダンス、そしてアフリカから新大陸へ伝わりその知で発達したダンスの動画をリスト・アップしてみる。一動画につき何十秒かつまむ程度でいいので、リストを追って最後までご覧あれ。

  • アフリカのジャンベ音楽とダンス:Dununba #1 "HD" Djembe drum and dance party in Conakry, Guinea

  • キューバのルンバ:Mario Quintin y Dayami Couret - Rumba Cubana al Kebira Salsa Summer

  • 1930年代のスウィング・ジャズで踊られたリンディホップ:Whitey's Lindy Hoppers from the 1941 film Helzapoppin

  • ジェイムス・ブラウンのダンス:James Brown performs and dances to "Night Train" to a live audience on TAMI Show.

  • マイケル・ジャクソンMichael Jackson Dance Collection

  • ブレイクダンス:** Breakdance Dope Bout & Crazy Moves **

  • イギリスの映画でのストリートダンス:StreetDance 3D Club Battle Breakin Point Vs The Surge

  • ヒップホップのダンスバトル:1st Round Battles; HipHop Summer Dance Forever 2013 -

  • そして Juke/footwork:Juke / Footwork Mini Documentary feat Da Mind Of Traxman JP

 基本的な体の使い方なんかが共通してる用に見えるのではないだろうか。七類誠一郎のいうインターロック*4を基本にしたしなやかな四肢の動きというか。

 そして、ダンスしてる場面の様子も、コミュニティの皆で囲んで見ながらそれぞれ技を競っていく形式になっている。(もちろん、ルンバとリンディホップはヨーロッパのカップルダンスの影響で男女ペアになってたり、JBやマイケルはショウだったりといった違いはあるけれど。)

 推測するに、ダンス・ミュージックといってもクラブでみんなで揺れるためのものと、アフリカ的なコミュニティ・ダンス系というか、スキルの優劣を競う/披露するダンス文化のものとがあって、Juke/Footworkは後者なのだろう。

 ***

以上がほぼファーストインプレッションの記録だ。

こういうアフリカンな要素のある音楽は大抵、リズムコンシャスな私の好みに合うので、もっと聴いて掘り下げでいけたらよいのだけれど。

*1:http://twitter.com/ja_bra_af_cu/status/415897844881436672

*2:付点八分なので基準をBPM320で取ったときの表記。160で取るなら付点16分、80なら付点32分になる

*3:リストの最後に上げたもの

*4:『黒人リズム感の秘密』郁朋社、1999年

野矢茂樹『入門! 論理学』

商品紹介やアマゾンのカスタマーレビューが適切なのでイントロダクションとしてそれほど付け加えることはないが、思考の誘導が上手いのですごく読みやすい本だと感じた。読んでいて「ああ、こういうことか。そうするとこういうことがいえそうだよな」と思い浮かぶと次のパラグラフにそれが書いてある、ということが度々起こるというか。

本書では公理をひとつひとつ取り上げて導入していき、述語論理の公理系ができるまでを実際にたどっていく。そこまで導かれる(また一緒に頭を動かす)過程によって、いままで表面的に理解していたことがらがより深いレベルまで理解できたように思える(自家薬籠中の物とまではいかないけど)。例えば次のような点など:

  • 論証、導出、推論の違い
    • 論証
      • ある前提から何らかの結論を導く全体(前提も正しいことが求められる
    • 導出
      • 前提から結論を導く過程
    • 推論=演繹
      • 前提を認めたら必ず結論も認めなければならないような導出(のあり方)
  • 排中律の採用=実在論的立場の採用
  • 命題論理におけるド・モルガンの法則と述語論理でのそれが実質的に同じことを言っていること
    • 全称命題=連言、存在命題=選言
    • 連言の否定は否定の選言、選言の否定は否定の連言、全称の否定は否定の存在、存在の否定は否定の全称
  • 肯定式(A、A⇒B、ゆえにB)
  • 否定式(A⇒B、Bでない、ゆえにAでない)

これらに加えてもちろん命題論理の公理――否定、連言、選言、条件法のそれぞれ除去則、導入則――もわかる。そのうちのいくつかを使うと、ちょっとまえにTwitterでちょっとバズってた次の難題が解けてしまったりする。

証明
  前提:「外では雨が降っており。かつ雨は降ってない」
  (1) 前提と連言除去則から:「外は雨が降っている」
  (2) 1と選言導入則から:「外は雨が降っている」または「源義経の母親はナポレオンである」
  (3) 前提と連言除去則から:「外は雨が降っていない」
  (4) 2、3と選言除去則から:「源義経の母親はナポレオンである」

これであってるはず。問題文では「外では雨が降っているをA、源義経の母親はナポレオンであるをB」とするように指示されてるからこの試験ではそれを使って記号式で書く必要があるだろうけど。

さて、これで自力でも「矛盾から何でも導きだせる」ようになったわけなので、いつかどこかで使おう(笑)

大友良英『MUSICS』

MUSICS

MUSICS

聴取やフリージャズ、即興などをテーマに大友良英の音楽観をかたった講演や記事をまとめた本。人として、ミュージシャンとして良心的な大友の人となりを伺わせ、リベラルな雰囲気がよい読後感を与えてくれた。

先日、↓の記事中で本書中に収録されてる「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか」という章が気になったので読んでみたいという話をしたので実際読んでみた。

「ミュージシャンはステージで何を聴いているのか」

意外に、自分の音については(ピッチやリズムが他の人と合っているかとかちゃんと音が出ているかとかはもちろん確認するが)そこまで頓着せず、その場の雰囲気や響き、音楽全体を捉えるようにしているという人が多い印象だった。

よく楽器の指導でベースはキックを聴きましょうとか、ソロを取る人はハイハットを聴きましょうとか、特定のパートにアテンションを向けさせようとする言葉を目にするけれど、上達のための一手段・方便としてはよいかもしれないが、演奏者の聴取を精確にとらえたものとはいえないのかもしれない。

さらに、場合によっては意識的に自分の音は聴かないようにするという人も。

また、現代音楽のドラマー植村昌弘が「昔、邦楽の勉強をしていた頃、間口の広い舞台の両端に演奏者が置かれて演奏することが多く、タイムラグがちょっとあるので、『音を聞いて演奏していたらタイミングが遅い!』とよく怒られていました」(p. 90)といい、大友も次のように言っているとおり、音をあてにせず演奏する場合もある。

実は、音楽家間の距離というのが音楽をすごく規定していると思うんです。音のスピードって意外に遅いから、距離があるほどテンポがとれなくなる。ステージの対岸にいたら、音だけ聴いて反応してもテンポが合わないんです。そのくらい音は視覚より遅い。遠い距離にいるミュージシャンがテンポを合わせるには動きを見るしかないってことがあるんですよ。だからオーケストラには指揮者が必要になってくる。指揮者は中心にいて、視覚的にテンポの情報を送る役目ですから。弦楽四重奏に指揮者がいらないのは演奏者どうしの距離が近いからですよね。ドラマーとベーシストが近いのも、同じ理由。離れていたら、ちょっと早いテンポでやっただけで合わなくなってしまいますからね。(p. 170)

義太夫三味線の田中悠美子は古典曲は暗譜したものを思い出すのに、現代曲では譜面をしっかり再生するので余裕がない状態になり、陶酔したり観客の声が聴こえたりはしないらしい。一方で作品世界の声や神の声を聴くこともあるとのこと(p. 92)。

大友自身の聴き方は次のようだと語っている:

正直なところ、ケースバイケースで、やってる音楽によって全然違う。やっぱり作曲されている音楽と、即興演奏とはすごく違ってて、作曲されてて自分がやるパートが決まってるものでは、そのパートへのキーになる音を聴きますね。リズムを外しちゃいけない場合は、ベースなりリズムの要になるような音をどうしても聴く感じになる。と同時に、自分の音を聴いて、その差異を修正してるんだろうなと思う。でも、これが即興になるとずいぶん違ってきて、起こってる状況全体をなるべく聴こう、と思ってはいる。ただし注意がいく場所があって、さっきの話の中心的聴取みたいなものとか、あるいは握手のゴールみたいなものが、そのときそのときでできて何を聴くかがどんどん変化していく。特に即興のときは、その焦点が常時ものすごく動きまくる感じですね。っていうのがオレの聴き方なのかなと思う。(pp. 213-4)

大友の言う「焦点が常時ものすごく動きまくる感じ」はなんとなくわかる。私もジャズのセッションでドラムを演奏する時などはソリストを中心にしつつ全体を聴き(タイミングはベースを一番気にしてる)、他のパートにもアテンションを随時払うよう心がけているので。(他の人がやってることを聴き逃がすこともしばしばだが・・・w)

その他面白かった点

以下、抜き書きを。

日本のポップミュージックのオリジナリティ

日本のジャズが米のジャズの単なるコピーから脱し、その独自性を主張しだしたのは、一九六〇年代末にはじまるフリージャズからではなかったか(p. 8)

たとえば坂本九の「明日があるさ」といったジャズ風のアレンジがほどこされた作品や、クレージーキャッツのヒットした諸作品を思い起こしてほしい。それらの多くはビッグバンドジャズのアレンジを流用したものにすぎないが、しかし、日本語しか乗りようのないおよそジャズとはかけ離れた東洋風メロディと、そのメロディにつじつまを合わせるようにジャズから流用したやや無理のあるコード進行、日本語のメロディをスイング風のビートに強引に乗せる手法……。これらの折衷案のようなアレンジがあいまって、実に不思議な音楽ができあがってしまっている……ということに、ずいぶん後になって気づきだしたのだ。なにしろ子供のころ、あまりにも当たり前に聴いてきたこの音楽が、不可思議なものだなんて気づきもしなかった。血肉になってしまっただけに、ごく普通の音楽だとすら思っていた。でも、よくよく冷静に、少し距離を置いて聴いてみると、日本のあの時代以外にはどこにも存在しない、非常に個性的な、たぶんあの時代の日本人以外にとってはとても風変わりに聞こえる音楽なのだ。(pp. 9-10)

クレージーキャッツ山下毅雄などのジャズマンたちによる歌謡曲やTVの仕事について:

自分はジャズマンだと思っている人たちが、ジャズではない、彼ら自身が「シャリコマ」と呼んで見下していた可能性すらある歌謡曲やテレビ、映画の劇伴といった音楽をやるときにこそ、結果的には本当にオリジナルなものを生むことになった……オレにはそう思えてならないのだ(p. 11)

このあたり、あまちゃんの音楽を担当されるにいたる必然性が伺える。

ぼんやりと音を聞くこと

高橋悠治のワークショップでの経験 「これはカラスだ」とか「車の音だ」とか区別しているのを停止させてぼーっと聴くようにする。

初めはうまく出来ないが徐々に「音と音の境目」があいまいであること聴こえ出し、「すべての音が印象派的な感じで溶け出す」のだという。こうすると集中して音を聴くよりも「逆にかえっていろいろな音が聞こえてくるようになる」と (p. 36)。そして:

むろんステージで聴こえてくる音も、それまでとはまったく変わってきて、たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら、照明のノイズが、良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり、バイブラフォンのペダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聞こえたりするようになった。(p. 37)

周辺視野のような聴取

あるバンドのある曲で、わたしはそのバンドの語法とはまったく無関係な高周波のサイン波を毎回流し続けたことがある。半年くらいしたころ、メンバーのひとり(かりにAとしよう)が「なんかピーッて鳴ってるけど、これなに?」といい出したのだ。彼にはその音がずっと聞こえていなかったのだ。なんて耳が悪い……なんていってはいけない。それでも彼は明らかに、この音の出ているときと出ていないときでは違う演奏をしているのだ。彼はただ音楽言語のレベルでその音を認識できなかった、つまり意識の上では聞こえなかったのだ。だから、逆に彼がこの音をはっきりと認識してしまって以降は、サイン波のあるなしで演奏が変わることが前ほどはなくなってしまい、むしろ意識的にその音を処理する方向に変化した。(pp. 38-9)

カクテルパーティー効果で知られる選択的注意。ノイズの中から関しのあるものをピックアップする能力が人間の知覚にはあるが、「例えば右を聞いているときにも左への注意はゼロにはならなくて、性別とかぼんやりしたことを聞いてる」「で、いざというとき、なにかとんでもない動きがあると、そちらにシフトする」(細馬宏通の言、p. 203)

視覚においても中心視のエリアと周辺視のエリアがあり、「周辺視は静止しているものに対しては鈍い」が、「逆に動いているものには敏感」であり「何かがすっと通り過ぎると、周辺視が働いて『ん? なに?』って視線が移動する」(id.)

大友「それって音とそっくりですねえ。ただでさえ、動いてる音の方が動きのない音よりはるかに聞こえる。ましてや背景の動いていない音となると認識されにくい」(id.)

ジャンルとナショナリズムの類似

フリーインプロヴィゼーションやノイズ・ミュージックにさえ「正統」かどうかをうんぬんする言説が出ていることに触れて (p. 74)

†いきなり「民族主義」を持ち出すのは、ものすごい飛躍に見えるかもしれないが、わたし自身は、民族主義というものの根っこにある発想と、音楽のジャンルの根っこにある発想は、非常によく似てる、ほとんど同じもののように直感的に感じている。それは音楽のジャンルがもともとは民族の棲み分けと共通していたことに根拠を求めるという以上に、民族の枠を超えた二〇世紀以降の、たとえばジャズとかロックのファンが持つメンタリティの中にも民族主義的な排他性を見出すことができることが根拠になっている。自分と似た人間とそうでない人間を嗅覚のようなもので峻別し、ときに排他的になり、ときに団結を組み……というあり方と、使う言語や出自、肌の色や顔つきの違いによって排他的になったり、団結を組んだりする心のありかたは、ほとんど同じような気がするのだけど、間違っているかな? どうなんだろう。いずれにしろ、次の節にでてくる、デレク・ベイリーとミルフォード・グレイブスの音楽の中で、この問題を考えていきたい。(pp. 74-5)

ジャズと歌

僕が感じるジャズの面白さというのは、この〔人の声によって極めて大きな存在感と支配力をもった〕「うた」との独特の距離のとり方なんです。二〇世紀の、特に西洋起源の新しい音楽の多くが「うた」的なるものから限りなく遠ざかることで、新しさを見出そうとしたのに対して、ジャズは、フリージャズであろうが何であろうが、「うた」的な部分と、メカニカルな器楽的な部分が常に拮抗し合いながら存在していたんですね。少なくとも七〇年代の頭くらいまでは。(p. 131)

音響派と空間

PAというのは実は空間デザインの装置なんです」(p. 168)cf. ナチス

副島輝人「『今、音響っていわれてるけど、大友くんたちがやろうとしていることっていうのは、要するに空間の獲得ですよね』」(p. 168)

All the same, all men are created equal.

学問のすゝめ (講談社文庫)

学問のすゝめ (講談社文庫)

学問のすすめの冒頭、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」には続きがあって、実際には格差はあり、勉強すれば上昇できるから勉強せよというのが「学問のすすめ」だ、というような解釈がバズっていたので、実際どうなのかと原典を読んでみた*1

結論としてはその手の解釈は半分正しいが半分は間違っているようだ(近代日本思想史にそこまで詳しいわけではないので自分の解釈にそこまで確たる自信はないけれども)。

慶應義塾のHPでもいっているように、「天は人の上に人を造らず~」はおそらく独立宣言の "all men are created equal" に由来するものであるらしい。

すなわち、この部分は基本的人権を誰もが持っているということを言っているのであって、「天は~」を引用する従来の解釈も、基本的人権の普遍性を表した格言として引いているのであれば間違いではないのだ。(この点は「二編」を読むとよく分かる。)

では問題の「されども~」以下の部分は何を意味するか。

されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

ここで言っているのは、実際の世の中に「かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もあ」るのはなぜかというと、それは(明治以前の世でそう思われていたように)生まれながらそういう違いがあるのではなく、後天的な「学問」の差によるのだ、ということだろう。百姓は百姓、武士は武士、商人は商人で生れつき違っているものだというのが常識だったであろう世界において、福沢のこの言葉は鮮烈に響いたに違いない。

一方、現在の感覚に引きつけていえば、これは中卒・高卒・大卒など学歴によって収入が異なってくることの説明だといえるだろう。つまり、なんらかの知識を身につけ複雑な・難しい仕事をする人の方が高い報酬を得るということである:

また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役りきえきはやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。

諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

学べば金持ちになれる=階層の上昇とか、生まれついた階層の差・社会資本の差によって学問できるかどうかに差が出てくるとかいう点については特に言及されていないようだ。

そして福沢は誰もが学問すべしということで次のように言っている。

〔……〕このごろは四民同等の基本も立ちしことなれば、いずれも安心いたし、ただ天理に従いて存分に事をなすべしとは申しながら、 およそ人たる者はそれぞれの身分あれば、またその身分に従い相応の才徳なかるべからず。身に才徳を備えんとするには物事の理を知らざるべからず。物事の理を知らんとするには字を学ばざるべからず。これすなわち学問の急務なるわけなり。

「身分」の語の意味を確定しかねるが、四民平等にはなったけれど江戸時代からの差はそのままになっているので、それぞれの境遇に応じた「才徳」が必要であり、それを身につけるための「物事の理」を知るためには学問が要るということだろうか。

ともあれそのようにして、皆が学問を修めて、政府との距離をとって自立し(四編・七編)、学問をパブリックなものにし(十二編)、批判的思考を身につけ(十五編)、立派な国を作っていこう、というような(啓蒙思想的といっていいだろうか)ところがこの一連の著作の趣旨であるようだ。

/* 余談:学問といいつつ「役に立つ」学を志向していること、反エリート主義的なところ、自己責任論的な見方ともとれる箇所があること、他者の権利を侵害することと他人に迷惑をかけることの区別が明瞭でないことなどについては、今日の問題の淵源は近代化の最初からあり続けてるのだろうかな、という印象をもった。あと道徳的に身を律しつつ世俗の活動に精を出すのを推奨する意識の高い雰囲気はベンジャミン・フランクリン的/ピューリタン的なものの影響が伺える、のかも */

2015-08-30追記
理解の助けになりそうな論文を見つけたので紹介したい:

*1:読んだのは上の講談社文庫版。引用は青空文庫のものからコピペさせていただいた

感じることなき「わざ」

Twitterを見ていたら美学的な興味深い話題が流れてきたのでつられてつぶやいたのをまとめてみる。

感覚できない芸術家/職人

演奏者の聴いているもの

こういうトピックを「ほとんど見たことがない」といっても、私が知らないだけで美学なんかの領域ではガンガン論じられていたりするのかもしれない。大友のほかにもD・サドナウ『鍵盤を駆ける手』(新曜社、1993)とかにはなんか書いてありそうな気もする。

ヤマノススメOP「夏色プレゼント」アナライズ

かわいいキャラデザ、実力ある声優さんたちの好演、美しい背景美術で登山の楽しみを描く「ヤマノススメ」、とても楽しく拝見しています。

OP曲もすごくいいのでご紹介&アナライズしてみます。 クレジットはこちら:

ヤマノススメセカンドシーズンOP主題歌 「夏色プレゼント」
 
歌:あおい(CV:井口裕香)ひなた(CV:阿澄佳奈)かえで(CV:日笠陽子)ここな(CV:小倉唯
 
作詞:稲葉エミ 作曲・編曲:Tom-H@ck

歌詞がいいなと思ってたら稲葉エミさんって放課後ティータイムの作詞してた方だそうで*1。どうりでけいおん!好きな私が気に入るわけです。

その歌詞は次のようになっています*2

[サビ / イントロ]
♪夏色プレゼント
一緒に駆け抜けた時
最高のプレゼント
この胸の一番の
宝物だよ、わぉ
 
[Aメロ]
ねぇ
お互いの指と指、四角を作ったら
目の前の景色全部
切り取って、持ってけるかな?
 
[Bメロ]
待ってたって二度と、来ない今日の日
空の青、感動の輪を
顔見合わせて笑顔
 
[サビ]
そう、お揃いのプレゼント
泣いて笑った、precious days
10年後、100年後
色あせない思い出
半分持ってて、わぉ
 
夏色プレゼント♪
 
(参考:ヤマノススメ。1話感想、主題歌耳コピ歌詞付(OP2話以降verに修正、ED修正)。|Do you feel loved?。アナタに届けたい想い

いまこの時間を一緒に過ごすことが最高のプレゼントで、その大切な思い出をわかちあうっていう、労りと思いやりと一回性を捉える奇跡がつめこまれた日常系の精髄って感じのいい歌だと思います。こういうの弱いんです、私w

マーチ的な曲調もぐんぐんと力強く歩んでいく感じが登山というテーマとあっていていいですね。

押韻

言葉の意味的なところの他に気がついたのは、すごく効果的に韻が踏まれているという点。特に全体的に脚韻が目立ちます。

やおきさんのメソッド*3に基いてひらがな・カタカナに還元しながらみてみましょう。

ますはじめの[サビ / イントロ]。

なついろプレゼント
いっしょにかけぬけたとき
さいこうのプレゼント
このむねのいちばんの
たからものだよ、わぉ

「なついプレゼン」「さいこうプレゼン」で「お」が脚韻になっています。

かつ、この「お」の音がすべて三拍目のオンビートに載っており、プレゼンの「ト」で「ソシ」と主音に解決するのですごく安定感と力強さを感じさせてて、とても気持ちがいい(実際に自分で口を動かしてみるとよくわかると思われ)。

逆に、「このむねのいちばんの」「たからものだよ、わぉ」でも「お」の音は多用されていますがオフ・ビートに載っているのであまりインパクトは強くない感じ(二回目サビの「いろあせないおもいで」も同様でオフ・ビート、かつ配字シンコペーション*4になってる)。この対比がいいですよね。

そして二重母音化した「わぉ(ao)」で次のセクションにつながるかけ声がかかっていますが、これと似たかたちがサビ前のBメロでも使われているのがワザマエに思えます。

[Bメロ]
まってたってにどと、こないきょうのひ
そらのあお、かんどうのわを
かおみあわせてえがお
そう、[サビに続く]

「そらのあお」は「わぉ」と同じく、配字シンコペーションによって二重母音化した「あお(ao)」が一拍の中で軽やかに発音されています。

「かんどうのわお」では「わお(wao)」の「お」がベース・ドラムとユニゾンシンコペーションしている。

次の「かお」まで「あお(ao)」の音が裏拍と配字シンコペーションで軽く使われていて、最後の「えがお」でサビと同型の落ちついた譜割りになる。

Aメロではあまり「お」の脚韻は使わず(使われているけどそれも4拍目のアップビートに載ってる)、Bメロでこのような形で「あお」の音を多用すること*5で、Aメロとの対比とサビへの予感が作り出されている。私はそのように感じます。

この予感についで「そう(so)」の音で勢いをつけてサビへ入ると本当に気持ちがよいです。自分も山に登りたくなってきますね。登らないけどw

実際の役割分担がどうなのかは、いまのところ想像するしかないのですが、脚韻を考えたのは稲葉エミさんでメロディへの配置を考えたのはTom-H@ckさんだったりするのでしょうか。いずれにせよ、まったくプロのワザと言うべき、すばらしい仕事だと思います。

みなさんも聴いてみて。

*1:http://www.kasi-time.com/subcat-sakushi-5034-1.html

*2:放送・配信用バージョン。なお、上に張った動画は第一話ですが、以下の歌詞は第二話以降のバージョンのもの。映像もすばらしいものに差し替わっているのでぜひ最新回などで確認してみてください

*3:島袋八起「西洋音楽とJ-POP論 ―― 『もってけ!セーラーふく』論 準備編」(『筑波批評』2011年秋号、筑波批評社、pp. 48-75.)など

*4:村尾忠廣・疇地希美 「90年代おじさんの歌えない若者の歌〜その2 ―― 弱化モーラによる配字シンコペーションとおじさんの音楽情報処理」『情報処理学会研究報告 [音楽情報科学]』 vol. 98(74), pp. 31-8、1998年

*5:意味的には他の言葉でもよさそうなところをあえて「あお」の音を持った語を入れてる感じがするのですがどうでしょう

NPRでの日本におけるジャズの歴史解説

上の記事が面白かったのでメモを箇条書きで残してみる。 戦前から戦後すぐくらいまでを扱った書籍は結構あるけど、現在までを通史的に扱う視点にはあまり触れてこなかったので新鮮だった。

以下メモ。

  • 1910年ごろ、太平洋を行き交う定期船上のオーケストラがあった。その寄港地サンフランシスコ・シアトルで買われたシートミュージックが最初に日本人が接触したジャズ(フォックストロットとか)

  • アメリカの植民地だったフィリピン人のミュージシャンが神戸・大阪、上海などで演奏。日本人がアドリブを最初に聴いたのはフィリピン人からだった

  • 1929年に「ジャズ」の語が使われた曲のレコードがでた

  • この音楽はダンスホールに結びついたもので「モボ」や「モガ」は日本の"flappers " や "dandies" にあたる

  • 女性の「タクシーダンサー」と踊るためのチケットが一曲あたり一枚だったため、ミュージシャンたちは曲を短く(ソロなし)してギャラを稼ごうとした

  • 1923年の関東大震災で多くのミュージシャンたちが神戸・大阪へ逃れた

  • この頃のジャズは余裕ある都会の中上流の人がエンターテイメントとして享受したもので、世界的な新流行という意識だった。

  • 地位もクラシックほどには高くなかった。地方民や右翼からは非難もあったようだ

  • 30年代からのジャズへの非難はまず排外主義者よりもクラシック界から起こった

  • 戦後、進駐軍をエンターテインするためのジャズバンドが必要だったが、軍だけではミュージシャンが足りず、日本人ミュージシャンを雇った。戦後の窮乏の中、ミュージシャン達はこの仕事で潤った。軍は手持ちのアレンジを現地ミュージシャンに与えて学ばせた

  • 秋吉敏子ビバップを演奏することにこだわった。軍ではビバップはあまり好まれなかったが、ダンスよりバップが人気の黒人将校のクラブがあった。そこには当時ハンプトン・ホーズエド・シグペンがおり、ナベサダも彼女のバンドにいた。

  • 真正性が40年代後半から50年代・60年代にかけて問題として浮上してきた。ミュージシャンの自然な成長の段階で必要なことだというのもあったが、ずっと「日本の○○」というようにコピーをするのは続いていた。60年代になって初めてコピーから離れるべきと言われだした。批評家はカテゴライズをするばかりで真正性の問題には役立たなかったw

  • 独自性やエキゾチシズムを求めて日本音楽へ向かったミュージシャンもいた。61年には白木秀雄が琴奏者とバンドを組んでベルリンへ遠征し高評価を得た。67年のニューポートでシャープス・アンド・フラッツは日本の民謡を演奏した(「いつもはベイシーやウディ・ハーマンをやってるけど、アメリカにはまだ本物がいるんだから意味ないよね」)。

  • いまの日本では、ジャズは決してメインストリームではないが、熱心で真剣なファンがいて、その気になれば詳しい情報も得られる。

  • "jazz represents freedom for everyone" なんてことはない。それはアメリカが現実に持っている権力によるものであり、みんなが根っこではアメリカ的なものを求めてるということもない

  • いまのところジャパニーズ・ジャズと呼べるようなものはない。興味深いことに、日本の楽器を使いたがるのはむしろ非日本人である

  • 海外で活躍する日本人ジャズミュージシャンも出てきており、日本がそういうミュージシャンを生み出せるということに驚くこともなくなっていると思われる。かつてあったスティグマはもはやないのである。