『筑波批評』2011年秋号
今号も寄稿者のやおきさんにご恵投いただきました。ありがとうございます。
今回は「街」がテーマということで、表紙もシムシティみたいな感じで、論考は前半3つが「街」に関係したものになっています。あとは後半で村上裕一の『ゴーストの条件』への言及が目立っていました。
各論のイントロダクションは筑波批評社のサイトに簡潔なものが載っていますのでそちらを参考にしていただくとして、ここではポイントを絞った感想を述べていきたいと思います。
伊藤海彦「メタボリズムのシミュレーション――今井哲也『ぼくらのよあけ』と阿佐ヶ谷住宅」
本論で伊藤は、団地の設計とそれを支えた思想、およびそうした団地のもしかしたら「ありえた姿」を舞台とする今井哲也『ぼくらのよあけ』を論じています。
パーツをどんどんいれかえて新陳代謝していくすなわち「メタボリズム」建築が先行してあり、それが反転したものとして「人が入れ替わっていく」ものとして理解できるのが団地であるとしています。
このあたり、前号のコンビニ論でもそうでしたが、シンプルな主張を実証的なデータに基づいてクリアに立証していく手法は素晴らしいと思います。ただ残念ながら、作品論との繋がりはちょっと良くわかりませんでした。
「空想都市の歩き方――地理人インタビュー」
空想都市へ行こう!において架空の都市「中村市(なごむるし)」の地図を描いている地理人さんへのインタビュー。
なんというか、こういった架空の街の、しかも地図を描きたくなるという欲望自体が、私の想像をはるかに超えたものだったので、初めの方を読んでいるうちは戸惑いを禁じえませんでした。
平均的な人物には想像もつかない欲望を自然に持っている――こういう方を変態というのかもしれません(褒め言葉。もっと変態がいきやすい世の中にな〜れ!)。
地理人さんのなかに実体験の蓄積の中から得られた街のパターンがあり、それが架空地図を書いていくうえでの地図の「ありえそうなかんじ」を支えているというのは面白いです。
実際の風景をコード化・分節化する知性の働きと、地図に抽象化された街のパターンをデコード・総合する働きとは別個なのか、それとも表裏一体なのか。音楽などにも敷衍できそうなロジックかも?
シノハラユウキ「リアリティの諸相、あるいはシミュレーションの美――インタビューに寄せて」
前述のインタビューをうけて、地図、しかも架空の街のそれをフィクション論の文脈から考察しています。
そもそも地図というものが現実から抽象された要素で出来上がっているものです。それにそっくりで「リアル」なものを作り上げている地理人さんとはどういうことなのか。もちろん、写実的な絵画と違って「実物」の対象を持っていないので、実物に似ているという意味のリアルではありません。
結論としては、上に述べた「パターンを掴んでいる」ことによる「もっともらしさ」の獲得=地図的リアリズムがあることと、「実物の地図」そっくりの精巧さをもった「シミュレーション」であること、の二点をシノハラは指摘しています。
リアリティというのは本当に多義的な言葉で、それだけに多くの豊かな表現と深い関わりを持っていることが多いように思います。フィクションとシミュレーションの関係など、今後の議論にも期待したいところです。
対談 言語藝人・白石昇×島袋八起
『Vocalo Critique』vol. 01に掲載されたタイ人ボカロPのニケさんと島袋八起の通訳をしていたタイ在住の作家/ミュージシャンの白石さんへのインタビュー。
次の一文など、歌詞論と「サウンド」や「効果」の美学*1とつながる感じがして面白かったです。
ここ一五年くらい三ヶ国語で歌詞読んだり歌ったりしてたら韻の他にも子音とか母音とかに気持ちよく聴ける要素みたいなものがあるってわかったんすよ(p. 47)
ただなぜ筑波批評に?というか、『Vocalo Critique』vol. 01のニケさんのもこちらも分量的に短いし、当然内容的にも近いので、セットで載せたらよかったのではという気もしますw
あと、文脈に関係なく自分の思い入れを語るのと、用意した質問を次々ぶつける新聞記者方式は、こういうインタビューではちょっとよろしくないかと思いました。
島袋八起「西洋音楽とJ−POPの歌詞――「もってけ!セーラーふく」論 準備編」
やおき流歌詞論、今回は理論的な準備編ということで、しっかりまとめに来ているなという印象。
「もってけ!〜」もそのひとつであると言われるいわゆる電波ソングの歌詞という、一見無意味な単語の列挙のようなものが、実は豊かな意味を生み出すことを示すために、やおきさんは「時間的な近接性」「音の近接性」「形式的な近接性」という三つの分析枠組みを示そうとしています。
「音の近接性」「形式的な近接性」はむしろ類似性とか共通性とかともいえるかもしれないですね。
なお、私も基本的にはこの三つの枠組みが使えるのだろうとは思うのですが、特に「時間的な近接性」と「音の近接性」について、論拠としてあげられているのが直観的な考察になっていて、説得力に問題があります。
できればこの主張を根拠付けるには、言語学や認知科学でのエビデンスが欲しいように思います。なかなか調査が大変だとは思いますが、やおきさんの歌詞論全体の妥当性に大きく関わるところなので、私としてもこだわって指摘したいところです。
あと細かい所ですが、図表や譜例に指示番号(「図1-2」とかw)が振られていなかったので、本文を読んでいてどの譜例を指しているのかわからない所が何箇所かありました。
山本勉「『ゴーストの条件』とゼロアカ道場のこと」
ゼロアカ道場、『ゴーストの条件』、そしてキャラクターを生み出す手法の1つとして「HIRAKI」というものが論じられています。
ゼロアカ道場に関連して、人々が社会を変えうると錯覚するような共同体意識を形成しうる限りにおいて「批評は間違っていても/嘘をついてもよい」という議論がでています。これについては拙ブログの佐々木敦『批評とは何か?』のレビューで言及しました。
任意の画像をプログラムによって鏡対象に加工することで自動的にキャラクターが出来上がるという「HIRAKI」の仕組みは、主体がほとんど関与することなく人物・作品が出来上がってしまうというのが興味深いです。
塚田憲史「僕は思い上がらない」
自生的秩序を如何に創りだすか、もしくはそれは不可能ではないのか、といった議論。
このあたりの議論に予備知識がなかったので難しかったです。あと前号でも同じように感じたのですが、作品を論じたいのか、作品はあくまで事例で自生的秩序論を論じたいのか、判然としませんでした。
『アップルシード』論における次の一文からは漫画版ナウシカのラストを思い出しました。
いかにオリュンポスがそれまでの自生的秩序に逆らった、デザインされたユートピア、思い上がりの産物であったとしても、それが成立してしまった以上、それまで培われてきた自生的な秩序も、デザインされた新たな秩序も一緒くたにしてまた大きな自生的秩序に包み込まれるのだから。(p. 97)
腐海は古代の超文明によって仕掛けられた地球浄化を目的とした人工生態系だったわけですが、ナウシカはそれとともに生きることを選んだわけで、それは腐海をも含んだ「大きな自生的秩序に包み込まれる」ことを肯定したってことなのかも、と。
というか、より大きな自生的秩序のもとで、清浄と汚濁・光と闇・喜びと苦しみが互いに互いを根拠として成り立つ、それが生命である。にもかかわらず、何もかもを管理された秩序に回収しようとするのは生命に対する冒涜なんだ、ということでしょうか。
おわりに
内容の要約をしなかったのでわかりづらかったかもしれませんが、以上、感想でした。