最近、友人たちの間で話題のてらまっと氏によるけいおん!論読みました。『セカンドアフター』という震災をうけて如何に喪失を引き受け喪の仕事をおこなうかといったテーマを扱った同人誌における、キャラクターによる救済を論じた(英語の意味での)エッセイといえるでしょう。
以下、大雑把に要約してみます。
要約
データベース消費において私たちはキャラクターを擬人化しあたかも恋人のように扱おうとします(「コピーにアウラを宿らせる」)。キャラクターたちが「終りなき日常」をすごす空気系アニメはそうした消費の形態にそったものです。
しかし、けいおん!はじつはそうではなく、「終わり」をしっかり表現したものといえます。そしてその終わりは永遠へと反転し、人間のようにとらえられていたあずにゃんはいまや遍在する存在として捉えられ、彼女は天使として私達を救済することになります。
こうした遍在する概念としてのキャラクターを表現する方法として「アレゴリー」的な手法があります。梅ラボ氏やthreeのキャラクターをバラバラに切り刻んで再構成したり溶かして固めたりする手法は、「シミュラークルに宿るアウラを暴力的に剥奪」し人間のように愛することの不可能性を私達に突きつけます。
こうして「アレゴリーと化した無数の断片を通じて、遍在する天使のまなざしを直観する」(p.42)が可能になるのです。
感想
およそ骨子はこんなところかと思います。全体として議論の接続がアクロバティックで、脳裏に「?」が浮かびながらも大変楽しく読めました。
特にあずにゃんが「天使」であるというのが比喩でも何でもなく、文字通り天使的な存在であると読んでいくところはかなり笑いつつも頷きもありました。
ただ前提条件になっている「終りなき日常」や「空気系」という問題設定が私には腑に落ちないところがあるので、議論の全てに納得がいったという感じではありません。
終りなき日常?
まずもともと宮台真司がいっていた概念としての「終りなき日常」と今言われている意味が食い違っていることがあります。
「終わりなき日常を生きろ」っていうのは、輝かしい未来、究極のゴールはやってこないことを認めよう、終末を求めてサリンをまくのではなく、日常にとどまれってメッセージだったのだけどね。
空気系は終わりを表現しない?
それから、「空気系」と呼ばれる作品が恋愛や戦い、葛藤や自意識といったものを描いていないのは同意として、時間的な「終わり」を表現していないとは限らないように思います。
空気系の代表のように言われる『らき☆すた』でも季節の表現は重視されていましたし*1、登場人物たちはきちんと学年があがり、ラストは卒業間際のダンスの練習シーンでしたよね。あまり他の作品は知らないのですが、『ひだまりスケッチ』でも季節表現や学年の進行はあったはずです(違ったらすみません)。
作品内において時間が経過しないのは日本の漫画アニメにおいては伝統的なもので*2、とりたてて空気系がそうだというわけではなく、むしろ空気系のほうが時間経過の表現をきちんと行うことで、生や時間の一回性を表現し、今という時間のかけがえのなさを描いているのではないか、とも思えます。
メシア的時間
あと論理的なつながりとして、「終わり」があることと、それがどう永遠へと反転し遍在する天使を呼び起こすのかというところが、レトリック過剰でよくわかりませんでした。
もしかすると、ベンヤミンの「歴史の概念について」における「メシア的時間」という概念が背景にあるのかな、という感じは受けましたがどうでしょう。他にも「アウラ」や「アレゴリー」、「神的暴力」といったベンヤミン用語を用いているところからするとありそうな感じもします。
メシア的な時間では、過去と未来が即時的現在において共存し、いつ起こったかではなく物事や人物の関係・属性がどのようであったかが問題になります。
その意味で、ゆいたちが入学直後に取った集合写真にあずにゃんの写真を貼り付けたものが、「あずにゃんが『けいおん!』の第一話から、つねにすでに唯たちと共にあった」ことをあらわしているという著者の解釈はうなずけるものがあります。
人間として・天使として
本稿で最もクリティカルだと感じたのは、シミュラークルにアウラを宿らせ人間のように愛するやり方と、もっと神秘的な存在として、概念としての遍在するキャラクターを経験する――天使に触れる――やり方は異なるのだという点です。
私は必ずしも前者が否定されるべきものだとは考えませんし、「アウラを暴力的に剥奪する」行いが簡単に許されるべきものかどうかも一考すべき問題だと思います。物理的に存在しないといっても現実における片思いの場合など情報的にはほぼ同一のレベルにあるともいえるような気がしますし。
けれどこの二つ(もしかしたらもっといろいろあるかもですが)の水準を分けて考えることは、キャラクターと人の付き合い方の文化を考える上で有用だろうと感じます。
イマジナリーで遍在する存在としての「天使」といえばミクさんも同様ですよね。彼女たちに限らず、表象的な人格というのは概念的である以上遍在性をもち、それゆえ宗教的・スピリチュアルなものと通じるところがあるのでしょうか。
社会的に生み出され共有される概念的な人格で個人に外在しその行動を左右する、というと社会学・人類学を学んだものとしては集合表象という言葉を使いたくなります。詳しく読んでいないのでどうかわかりませんが、デュルケムの論になにかヒントがあったりするかな〜。
あとそういえば、遍在する概念という神的な存在になったといえば、まどか☆マギカの鹿目まどかなわけで、ベンヤミンを応用した読解もあったように記憶していますが、あえて『けいおん!』なのはどうしてだったんだろうとも思いました。単に好みの問題かもしれませんが。
以上、簡単ですが紹介と感想でした。
【書誌情報】
てらまっと 2011 「ツインテールの天使 ―― キャラクター・救済・アレゴリー」志津A編『セカンドアフター』〔同人誌〕、pp. 8-56
*1:アニメではひぐらしが死んでポトリと落ちるシーンがアイキャッチ的に挿入されていて時間経過を強く印象づけていました
*2:ドラえもんでもサザエさんでもそうですよね。というかそういう無時間性への批判として『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』があったんじゃなかったっけ?