Jablogy

Sound, Language, and Human

齋藤俊夫 「想像/創造の共同体としてのニコニコ動画Vocaloidシーン」

 【書誌情報】

柴田南雄音楽評論賞にVocaloidやニコニコを扱ったものがあると知ってチェックしていたのを読んでみました。発表されてから3年の時間が経っているので、著者自身考えのかわったところなどもあるかもしれませんが、当時の状況をクリティカルに捉えたものとして面白く読めました。

齋藤俊夫(@)による本論文は、投稿規定からか比較的短い小論文となっていますが、ニコニコ動画Vocaloidシーンのもつ、通常の社会規範にとらわれ過ぎない「フリーダムさ」をジャック・アタリが抱いた音楽への希望を体現したものと捉え、音楽評論の読者に対してシーンの勘所を説得的に描写しています。

タイアップ先である広告代理店や広告主の意向によって「無難」な表現が優先され画一化した*1というJ-POPに対するVocaloidシーンのよいところはまさにこの点にあるのはVocaloidファンなら納得できるところでしょう。

ニコニコ動画アーキテクチャ上、そこには「歴史」が発生しないという濱野智史の議論に、ニコニコ上の動画や初音ミクwikiなどの具体的な事例から、ニコニコ動画Vocaloidシーンにも通常通り歴史が存在することを指摘している部分はまったく同意できるところです。

そして、引用の連鎖による創作においても作者性が担保されたままであることを指摘しているのも慧眼です。これの事例はVocaloidとカラオケの使用料やMMDモデルの問題、イラストの無断転載問題など枚挙にいとまがないですよね。

この作者たちが位置づけられる場所が、「想像の共同体」*2としてのシーンだというのも、適切。理論の使い方がうまいなと感じました。B・アンダーソンの議論によれば、新聞が広く読まれるようになったことで共時的に同じ情報を共有している者同士のコミュニティ=国民国家が想像されるようになったといいますが、コンテンツ情報であってもその共時的な共有によってなんらかのシーンが形成されるものなのかもですね。

しかし、こうした一種のアジールというか通常の社会規範からのある程度の逸脱を許す、祝祭的なコムニタス*3をインターネット、ニコニコ動画がなぜ・どのようなメカニズムにおいて発生させるのか、については本論文においても言及がありません。

まあ、あまり多くの人の目に触れない所では法からの逸脱は起こるものだ、で済ませてもいいっちゃいいのでしょうけれど。ほかのエントリでも同じようなことを書いてるように、祝祭論・儀礼論的な視点から考えるたくなるのですが、原理的すぎて無理があるような気もします。唐須教光の説明では*4、日常が続くとしたがうべき規範が不鮮明化してくる(慣れる・飽きる)ので儀礼・祝祭が必要であり、産業化・消費社会化した現代ではそれをやる経済的余裕が増大したため一般に・かなりの頻度で祝祭的なものが行われるようになった、というようなことでした。あとは鈴木謙介カーニヴァル化する社会』 (講談社現代新書、2005年)あたりが参考になるかなー。

*1:烏賀陽弘道 2005 『Jポップとは何か ―― 巨大化する音楽産業』 岩波新書

*2:Anderson, Benedict. 1991 [1983] Imagined Communities : Reflections on the Origin and Spread of Nationalism. London ; New York : Verso. (ベネディクト・アンダーソン 1997 『想像の共同体』 白石さや・白石隆訳、NTT出版)

*3:Turner, Victor W. 1969 The Ritual Process : Structure and Anti-Structure. Chicago : Aldine Pub. Co. (ヴィクター・W・ターナー 1996 『儀礼の過程』 冨倉光雄訳、思索社)

*4:唐須教光 1994 「第五章 日常的な記号世界」「第六章 非日常的な記号世界」 池上嘉彦・山中桂一・唐須教光 『文化記号論』 講談社学術文庫、pp. 182-226、pp. 227-265