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フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』

プリミティヴアート

プリミティヴアート

 米国の文化人類学(さらにいえば言語学も)の方向性に大きな影響を与えたボアズ。彼の思考がぎゅっと詰まった一冊だった。なかなかの厚さの書物で、事例が羅列されているところはちょっと読みづらいが、フォントが大きめだったり、細かい索引がついたり、小見出しをつけたり、さらには原文の対照ページが表記されたりと、読みやすくする編集の工夫が多数なされていて好印象である。

 本書の厚みのうち90ページ分は、訳者による解説が占めている。ボアズのバイオグラフィーと学説の特徴、および本書の要点が丁寧にまとめられており、とても助けになった。

 内容的には、原書が1927年の出版にして、現在(でも)ホットなトピックが先取りされているようで興味深い。たとえば、部分的な要素の重なりあった万華鏡としての文化、プリミティブアートに共通する「分割表現」の原理、身体論的な視角、創造における個人と文化の弁証法などだ。文化人類学を専門にする人だけでなく、美学やマンガ論などの人が読んでも発見があるかもしれない。

 以下、ごく一部だけれど、興味深かったポイントのコメントを残そう

「分割表現」の原理

 私が本書を手にとったきっかけは、前近代的な絵画や彫像にはどこの文化にも共通する特徴があるように思われ、それはなんなのだろうと疑問をいだいたことだった。そういう共通の特徴についてひとつの答えを与えてくれるのがこの「分割表現」の原理だ*1

 プリミティブアート*2では、体は前を向いているのに脚だけ横向きだったり、クジラをあらわす絵で頭の真上にヒレがついていたりと、三次元的な配置と比率が無視されている事が多い。

 ボアズによれば、こうした様式において重要なのは、それぞれの対象(トーテムとか)を象徴する本質的な特徴をあまさず盛り込むことで、三次元的な写実性を求めることではない*3。したがって、それぞれのパーツの位置がずれたり、大きさがデフォルメされたりしてもかまわないわけだ。そうしたかたちの変化は、木工とか織物とかの技術的な習慣に制約された様式上のパターンにしたがってなされるらしい。

 こういうデフォルメが行われる一方で、写実的な表現もやろうと思えばできるものだそう。クワキウトル族による生首の模像(p. 226)など、夢に出てきそうなリアルさだ。したがって、象徴的な表現から写実的・遠近法的な芸術への進化を想定した当時の進化主義は否定されることとなった。

芸術の基底――身体と技術

 ボアズは芸術を制作することのベースにものづくりの高度な技術(わざ・妙技)があると見ている。

 美学的な考察を別にして考えるならば、ある完成された技法が発達している場合には、なみはずれて難しい技に熟達しようとするつくり手の意識が、言い換えれば、名人の本懐が[芸術の]真の悦びの源泉であることがわかる。/ここで、すべての美的な評価の究極の根源について議論をはじめるつもりはない。プリミティヴ・アートのかたちについて帰納的に研究するにあたっては、かたちの均斉と表面のむらのなさが装飾的な効果の本質的な要素であり、これらの要素は、難技の熟達にともなう感情、つまり、自分自身のカで難技に熟達したがゆえに名人が感じる悦びと密接に関連していることを認識すれば十分である。/つくり手が自分の作品の視覚的な効果に気を配っているわけではなく、むしろ、複雑なかたちをつくり出す悦びにつき動かされていることを示す事例が少なくともいくつかあげられる。(p. 33)

 英語の art、ラテン語の ars がもとは職人の技術を表す言葉であったことが思い出されるとともに、「やった、できた!」というつくり上げる喜びに共感をおぼえさえする。

 おそらく、自分の作品が受け手に与える効果よりも、この「できた!」感覚がうれしいとか、作業自体が楽しかったりすることがあるというのは、音楽、とくに演奏でも同様だろうと思われる。難しい技ができるようになると嬉しいのでさらに高度なものへ挑戦していき、しまいには人間離れした域へ到達したヴァーチュオーゾを誰もが知っているはずだ。

 してみると、それぞれ何をよい・美しい・かっこいいと感じるかの好みは違ったとしても、誰かがすぐれて技巧的に熟達した演奏家である・作品であるという事実は、どんな文化・社会の人にも伝わるものなのかもしれない*4

 そして、かご細工・彫刻・織物・金属細工・土器作りなど洗練された職人的技巧によって作られた精巧な工芸品は美的に楽しまれ、評価される。

技術的に完成されたものの美的な価値に鋭い眼識を示すのは文明人だけではない。〔……〕間に合わせの仕事が急いでされねばならない場合以外、先住民の住まいにぞんざいな仕事が見られることはない。根気と入念な仕上げが、彼らのつくる大部分のものの特徴である。先住民に直接に質問したり、彼らが自分たちの仕事に対して下す批評を聞いたりすることによっても、技術的に完成されたものに彼らが鋭い眼識を示していることがわかる。(p. 27)

 様式もまた技術の制約を受ける。作品に表現され、ある安定したの様式を産み出す「かたち」のイメージ*5は、世界のプリミティブな諸民族を観察する限り、「技術的な過程を通してはじめて〔……〕人間の心に刻み込まれるように思われる」(p. 16)。均斉のとれたかたちを産み出すのは訓練され習慣化・身体化された機械的でリズミカルな運動なのである(pp. 27-30)。

 個人の想像力があらたな様式を産み出すきっかけになるのは、様式が定着してへんかしなくなったときでるという:

かたちが定着して変わらなくなる時、不完全な技術のもとで想像力を通してかたちが発達しはじめるが、この場合にはじめて、美的効果を生み出そうとする意志が、芸術家を志す者の能力を超える。同様の考察は歌やダンスで使われる筋肉の動きの美的な価値にもあてはまる。(p. 16)

その他

  • ボアズは普遍的な心性をもった人類がそれぞれの歴史環境において違った発達を遂げたという歴史的相対主義。いま通俗化しているような文化相対主義はボアズの教え子であるミード『サモアの思春期』やベネディクト『文化の型』がベストセラーになったことに端を発する(訳者解説、p. 517)
  • 狩猟民は、獲物が現れるのを待ったり、罠にかかるのを待ったりするので、音楽や詩を産み出すために費やす暇な時間が意外に多くある(p. 388)
  • 「言語芸術の二つの根本的な形式である歌と物語は普遍的に見られ、言語芸術活動の主要な形式と考えられるべきである。音楽なしの詩、すなわち、一定のリズミカルな形式での言語芸術表現の形式は、ことによると、呪文に見られるかもしれないが、それを除けば文明化した社会集団にしか見られない。より単純な文化形態では言語のみによる音楽は芸術的な表現と感じられていないように思われるが、歌われる固定的なリズムはいたるところにあらわれている」(p. 360)。言葉そのものが芸術の素材になるには文字が必要なのか
  • 非西欧の音楽は「必ずしも倍音の原理によって行われるのではなく、むしろ等音調で刻まれる」。オクターブの音程は普遍的に見られる(p. 426-7)

 ***

 訳書のなかったボアズが日本語で読めるのはありがたい*6。19年越しの仕事を完成させてくれた訳者の尽力に感謝がつきないところである。

*1:訳者解説における大村の用語法(pp. 501-2)。ボアズ自身は本書のなかで「分割表現の原理」という言葉は用いていないようだ。第六章のもとになったというボアズの論文 "The Decorative Art of Indians of The North Pasific Coast" で使われているのかもしれない

*2:「プリミティブ」という言葉は現在では offensive なものとして避けられているが、時代的には普通な用語であったということと、ボアズに差別的な意図はないということから、訳者は本書でもそのままプリミティブとしている。私も本記事ではそれに倣って使うことにする

*3:本質的な特徴というのは、例えばビーバーだったら目と大きな前歯と巣を作る枝、そして前足、などである。ネイティヴアメリカンの場合、それらの動物がある人物の地位を象徴する紋章のように扱われたりするので、それぞれの描き分けが重要なのだそうだ(p. 333)。246ページにはパターンの微妙な違いで各動物を描き分ける図が載っていて、マンガのキャラの書き分けのようで興味深い。また、トーテムが差をあらわすものだという見方はレヴィ=ストロースの『今日のトーテミスム』へ通じるものだろう

*4:端的に、エラ・フィッツジェラルドバディ・リッチを下手くそだ、未熟者だ、と思う人はいないんじゃないか、という

*5:美学の人なら形相とかディセーニョとかいうかもしれない

*6:2005年出版の『メイキング文化人類学』(太田好信浜本満編、世界思想社、p. 39)でも皆無だといってたから、おそらく本書が初の訳書だろう

野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室――哲学者と学ぶ認知言語学』

 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』の訳者である野矢茂樹と、野矢の熱心な読者でもある認知言語学者・西村義樹との対談本。

 西村から野矢へのレクチャーという形式をとっているが、単なる一方通行の教授ではない討論的な対話になっている。この対話を通じて、認知言語学がなにを問題とし、どのような説明を与えているかが浮き彫りにされていく。

 認知言語学がアンチ・テーゼをむける先である生成文法についても随所で言及され、その守備範囲をうかがい知ることができる。

生成文法認知言語学

 基本的に、認知言語学は、

  • 客観的な事実への指示だけでなく、話者がその事実をどう捉えているかという心理的な過程に注目して、意味や文法を考えていく。
  • 文法と意味の間にはっきりとした境界は建てられない/不可分である*1
  • 文法自体にも意味的なスキーマがある(例えば能動/受動文で「AがBを殺した」と「BがAに殺された」では事態は同一だが意味は異なる)

 生成文法の方は、

  • 心的なプロセスはブラックボックスとして刺激に対する反応だけを扱う行動主義に対して、メンタルな過程を扱うべきとしたチョムスキー生成文法認知科学のひとつではある。
  • 生成文法では文法は意味から独立したものとし、規則に基づいた統語的な変換を主に扱う。
  • 意味論は客観主義・解釈主義

 生成文法認知言語学ヴィトゲンシュタインの前期/後期、的な図式が見えるような気がした、というといい過ぎだろうか

西村 そうですね。じゃあ、まず生成文法が「意味」をどう捉えているかから、押さえていきましょうか。しぼしば使われる言い方に従って、「客観主義の意味論」と呼ぶことにします。それはひとことで言ってしまえば、「言語表現の意味はその言語表現が指し示す対象である」というものです。ここで言語表現というのは語でも文でもいいんですが、文の場合だと、文が指し示している対象とは事態ということになります(p. 44)

 ここでいうように、名辞が指し示すものが意味で、その組み合わせでできる文が事態を指す、というのはほぼ『論理哲学論考』と同じターミノロジーといえる。野矢本の熱心な読者だという西村が、『論考』の訳者である野矢に説明する上で、こういう言い方を選んだのかもしれないが、生成文法と『論考』的なものの捉え方との類似性が垣間見える。

 認知言語学のプロトタイプ意味論の源流の一つが、ほかでもないウィトゲンシュタインの「家族的類似」の概念である*2。あいまいさをあいまいさのまま理解し、あるカテゴリーにあるメンバーが入るのかはいらないのかや、そのメンバーの「らしさ」を判断できる了解に意味の基本的なあり方をみる認知言語学は、語の意味をその使用・実践にもとめる『哲学的探求』とこの点においても近いように思われる。野矢自身も次のように言っている:  

先ほど家族的類似性ということでウィトゲンシュタインの名前が出ましたが、彼は前期から後期への移行で言語観を大きく変えていて、それが実は古典的なカテゴリー観からプロトタイプ意味論に近い考え方への移行だったと言えるんですね。あるいは、トマス=クーン(Thomas Kuhn)が『科学革命の構造』(The structure of Scientific Revolution, 1962(邦訳、中山茂訳))で「パラダイム」という概念を出して、それがひじょうに大きな影響力をもったわけですが、これも、ウィトゲンシュタインの影響を受けていました。「科学とは何か、どうあるぺきか」という問いに対して、科学の必要十分条件や本質を示すことはできない。やれることは研究の見本を提示することだけだ。これがクーンのパラダイムという考えなんですね。よく世界観みたいな意味で「パラダイム」と言われますが、私は「見本」と考えるのが一番近いと考えています。(p. 78)

人類学/構造主義生成文法認知言語学

 ウィトゲンシュタインとの比較に続き、大きな知的潮流での位置づけについていうと、節題にあげた学問領域との関係が、本書を読んでいて少し見えてきたところがある。関係を図示してみたので、適宜、以下の記述と見比べてほしい。

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 ソシュール生成文法について野矢はこのようにいう:

生成文法において、通時的な分析が必要となるメタファーが無視されることに触れて〕チョムスキーはけっきょくのところ、ソシュールの精神にきわめて忠実だった、というか、完全にその枠内で生成文法を作ったといえるんじゃないですか? つまり、言語の通時態(言語が通時的に変化するあり方)より共時態(われわれが共時的に共有している一つの言語体系)を研究するという

 これについてウェブ検索して見た限りでは、原誠が、生成文法というとアメリカ構造主義言語学への批判として出発したことからそれとは全く違うものかのように理解されていることがあるが、言語の構造を重視する点において生成文法もまた構造主義的であることを論じている*3

 体系の中の項目同士が作る差異に注目し、それらの変換のパターンを作り出す深層の構造に注目するという点で、同様にソシュールプラハ学派構造主義言語学に影響を受けたレヴィ=ストロース構造主義人類学と生成文法はかなり似て見える。

 チョムスキーが批判の矛先を向けたアメリカ構造主義言語学は、アメリカ文化人類学の礎を築いたフランツ・ボアズが収集したネイティヴ・アメリカンの言語資料の分析から出発したという*4

 無意識の領域における、人類普遍の基底的な構造操作のコンピテンスを仮定する点でも両者はよく似ている。実は、この基底的な人類普遍の心的能力を仮定するパースペクティブもボアズにすでに見られるものである*5

 チョムスキーレヴィ=ストロースに直接交流があったという話は聞いたことがないが、学問の遺伝子が別々にくらす双子をよく似たものにしたのだろうか。あるいはボアズとソシュールという二つの巨大な波紋が交わる異なる二つの交点が彼らだったとでも言おうか。たとえがあまり良くないが、そんな印象である。

カテゴリー意味論

「カテゴリー意味論」は認知言語学の要点のひとつである。

西村 古典的カテゴリー観のもとでは、ペンギンよりスズメやツバメの方が鳥らしいとわれわれが感じることは「鳥」の意味理解とは無関係だと考えますが、認知言語学は、何が鳥らしくて何が鳥らしくないのかという了解こそが「鳥」の意味理解の中心を成すと考えます。カテゴリーの中心的な成員、つまりプロトタイプですが、人間が用いるカテゴリーというのは、これを中心として、類似性などによってプロトタイプと結びつけられた周辺的なメンバーによって構成されている。これが、認知言語学が提示する新たなカテゴリー観なんですね。(p. 73)

 古典的カテゴリー観とは「一つのカテゴリーの成員には、そのすべてが共通に持ち、その成員だけがもっている特性があるはずだ」とする、言い換えると「カテゴリーというのは必要十分条件――その成員を過不足なく特徴づける条件――によって規定できると考える」カテゴリー観である(p. 66)。

 これはアリストテレスから現代まで受け継がれたものといえそう。ときに「あれかこれか」の二者択一で、議論を進退窮まらせてしまうこともあるだろう。そうした場合、家族的類似にヒントを得た認知言語学のカテゴリー意味論が助けになる機会もあるのではないだろうか。

 特徴を箇条書きであげる:

  • カテゴリーの境界(何がそのカテのメンバーであるか)はあいまいでありうる
  • カテゴリーのメンバー間にもその「らしさ」について差がある(雀の方がペンギンよりも、より鳥らしい)
  • あるカテゴリーの実例をどれが「らしい」か判断した時の結果と、本人がこうだと考えるカテゴリーの規定とがずれることがある(「嘘をつく」の例:騙す意図や本人が信じていないことを行った時、嘘と判断されやすいが、嘘の規定を求めると「事実でないことを言うこと」となる)
  • ある語・カテゴリーの外延がおおよそ決まっていたとしても、時代・地域・所属する集団、さらには個人によって、プロトタイプは異なりうる(今昔の「典型的な女性像」など)

 「らしさ」の差ということでいえば、「ど・ジャズ」「コテコテのファンク」なんていう表現は、「らしさ」の認識を直接に言いあらわした言葉のように思える。プロトタイプの時代・地域などでの違いといえば、1920年代と50年代では「ジャズ」のプロトタイプは大きく異なるだろう。このジャズのように、呼ばれている対象の方がどんどん変化していくような場合、百科事典的知識を考慮する認知言語学は意味を捉えやすそうだ。

メトニミー/メタファー

長くなるので、これらについてもポイントだけ箇条書きで。

  • 認知言語学におけるメトニミー: フレーム(百科事典的知識)の中の一部に焦点をあてること。メトニミー的多義:共有するフレーム内のどこに焦点をあてるかの違い
  • 認知言語学における概念=カテゴリー化の原理。概念メタファー: ある概念をものごとになぞらえて捉える。(「議論は戦争だ」、「成績が上がる」→点数の多さを上昇として捉える」(pp. 191-5)
  • メタファーは二つの経験領域(フレームといっていい?)を偶然的・創造的に結びつける。したがって規則的には生成することができない
  • 多義語とメタファーを泰然と区別することは出来ない;ラネカー「イディオムの多くは凍ったメタファー(frozen metaphor)だ」

 このメタファーの議論の締めくくりに、認知言語学の科学性と絡めて言われた野矢の言葉が認知言語学の勘所を示しているように思われる:

野矢〔……〕認知言語学の理論は、言語現象に対する新たなカテゴリー化を提示して、それによって言語現象に対する新たな見方をわれわれに与えてくれる。そこに、哲学に通じる認知言語学の魅力を感じるんです(p. 198)

概念メタファー、メトニミーのフレームと焦点化の二つは「われわれの言語現象をカテゴリー化する理論装置」ではないかとも。

 ***

 きっと言語事実を説明するために仮設されたこれらのモデルは、心理学などで裏付け・検証されていくのだろう。門外漢なりに関心を持ち続けたい。

その他

  • 言語学における狭義の文法=形態論+統語論(p. 37)
  • 使役文(英語で "causation"。因果を表す文)は、人を主語にして意図的に行うこと(「太郎が風船を割った」など)のほうが、物主構文(「塩酸が鉄を溶かす」)より早く学ばれるし、どの言語にも見られる普遍的なもの。つまり前者のほうが典型的。→ 野矢「われわれは人間の行為の場面で典型的に因果関係を認知しているということです。まず人間の行為の場面で因果というカテゴリーを取り出して、それからそのカテゴリーを人間の行為以外、とりわけ自然現象に適用している」(pp. 131-2)

*1:このことは「文法化」にはっきりあらわれる

*2:もうひとつはファジー集合論だそう

*3:原誠「言語の体系性と非体系性について (上)」『東京外国語大学論集』vol. 34, pp. 29-49、1984年、p. 30

*4:言語相対主義文化人類学でも有名なサピア=ウォーフもアメリカ構造主義言語学の人だ

*5:フランツ・ボアズ『プリミティヴアート』大村敬一訳、言叢社、2011年、特に「緒言」

「コードは押えられるんだけど……」という人のための理論書

上の音楽理論書をまとめて紹介した記事が結構ブクマを集めていた。

とてもよいレコメンドだろうと思うけれど、鍵盤奏者向けな傾向はあるかもしれない。 クラシックピアノ経験者で、指は動くし譜面も読めるという人はあれでバッチリなはず。

しかし、自分の経験を振り返って見るに、多分、一番入門的な理論書が必要なのは、

  • ロックバンドをやってきて、楽譜は読めないものの、ひととおりコードを押さえたりタブ譜を見ながらコピーしたりは出来る

とか、

  • ブルースや一発モノでペンタトニックのソロならとれる

とか、そういうレベルのギタリスト・ベーシストがジャズのアドリブやポップスの作曲に挑戦するときなのじゃないかと。*1

 というわけで、そういうときによいと感じた本を2つ貼ってみる。

「ギターで覚える」の名の通り、理論の理屈だけでなく、それをどうやってギターで弾くか、指板上でどう覚えるかという視点に立って書かれた本。

 五線譜も使っているけど、コードのダイアグラムなどを使って説明してくれるので、ギタリスト・ベーシストもかなり読みやすいと思う。

 内容のレベル的には、ダイアトニックコード、代理コード、転調、オルタード・スケールなどを使ったコーダルなジャズの初歩まではこの本で理解できるはず。

 みなさまご存知、菊地・大谷の音楽理論講義。
 いつもの軽妙な語り口で、バップ、モード、ポリリズムなどを解説している。

 音楽にはそこまで詳しくない映画美学校の学生に実技的な理論をある程度習得させることを目標にしているので、わかりやすさは申し分ない。

 加えて、後続の『東京大学アルバート・アイラー 歴史編』とともに、それぞれの理論がもっている背景をメタ的な位置から俯瞰して、その要点と価値を一般に向けて説明してみせたという先駆的な試みは高く評価してよいと思われる*2

 何より、ただ細かい規則を覚えるよりも、背景を知ったほうが、音の組織され方も捉えやすく・覚えやすくなるしね。

***

 私自身は未読だけれど、他にもギターで学ぼうという類書が結構出ているようで、譜面苦手なギタリストにとって "便利な世の中になったものじゃ" と思う。

 あと、本以外では、教則ビデオを見ると、全部は理解できなくてもいろいろアイディアを得られてよいかな。私が見たことあるのでいえばジョー・パスハーブ・エリス、エミリー・レムラー、スコット・ヘンダーソンあたり。

*1:端的にいうと○m7-5 の意味がわからない人、という感じ

*2:記述の正確さや見解の当否については意見がわかれるかもしれないけれど

Pitchforkのミク記事翻訳

 Pitchforkに許可を得て日本語翻訳記事を掲載しているサイト「Lomophy」さんに、私が訳した初音ミクに関する記事を載せていただきました。

 今年5月にアップされた記事で、いままでは物珍しい・日本の・オタク的なものとみなされて来たミクが、いろんなアーティストに使ってみられるようになっていること、およびその背景について簡単に触れたものになっています。

 タイトルを訳してみると、
「日本のデジタルポップスター・初音ミクは西洋で 境界を超える クロスオーヴァーする ことができるか」

とでもなるでしょう。

 海外においてボカロがどう見られてきたか、を海外の音楽サイトのライターはどう見たか、ということをわれわれはどう見るのか。そういったことを記すひとつのドキュメントとして興味深いものだと思います。よかったらご一読ください。

佐々木健一『論文ゼミナール』

論文ゼミナール

論文ゼミナール

 『美学辞典』『美学への招待』などで広く知られる美学者、佐々木健一による、〔古典的〕テクストを読み込んで書く人文系の論文を念頭に置いた指導書。
 
 本書で佐々木は、美学の一テーマである創作論のひとつとして論文の制作を位置づけ、自分で実際に作ってみることによる理解の大切さを説く。論文とは、テーマとはなにか、などメタな問いへも実践的でクリアな捉え方が提示されている。

 論文を書くことによる学び・喜びにくわえ、それにともなう苦しみ・挫折にも言及し、その上で課題をクリアし切り抜ける方向を示している。着手することの苦しみ(pp. 89-91)、自分の未熟さや期限との戦い(pp. 204-6)、文章の文量を確保する/あるいは短くまとめることの大変さ(pp. 229-31)、などの点は身につまされる*1

 以下、興味深かったポイントのノートを。全章の要約ではないので、全体を知りたい方は出版社サイトの目次などを参考にして欲しい。

論文の特質

音読による能動的な理解

あなたはいま、この本を開き、このページのこの箇所を黙読しています。声は発していません。しかし、振り返って観察してごらんになれば、心のなかの声が発音している、という事実に気付くはずです。難解な箇所になったとき、その箇所を繰り返して読み、さらにつぶやいてみる、という事実が、理解するうえでの発音の重要性を物語っています。(p. 6)

発音するとは、そこにつづられている思考を、自分で作り出すことにほかなりません。このことに関連して、外国語の学習における発音の重要性を、考えあわせることが出来ます。発音の重要性というのは、ネイティブスピーカーをうならせるようなきれいな発音、ということではありません。どれほどなまっていても構いません。ただ一定の規則性を以て文に対応するように発音することができる、ということが重要です。これができなければ、黙読することも困難ですから、その外国語を習得することは、ほとんど不可能ではないかと思います。(id.)

くくり上げ

 ものの理解というのは基本的に、単純化・抽象化である(pp. 7-10)。

 本・論文などの思想をわかっているといえるのは、能動的に自分の言葉で要約・ダウンサイジング・再話することがことができる、ということである(pp. 48-50)

くくり上げられて出来たことばは、栢互に結びつき、それらの間でより高次のくくり上げを.可能にします。論文は知的な制作物です。論文だけではありません。発明や発見、考案、さらには生活のなかでのさまざまな工夫や思いつきにいたるまで、どれもが、経験をくくり上げ、それを相互に結び付けて生まれた知的制作物です。論文にはその性格が最も明らかに見られます。ですから、その基礎となるくくり上げのできていないひと、つまり、それぞれの学問領域の基礎知識を学んでいないひとに、読み手を感心させるような論文を書くことは不可能です。自分の思いを吐露するなら、それこそが立派な論文になる、と考えていませんか。それこそがわたしの個性だ、と思っていませんか。個性と言うならば、たしかに、不思議な考え方や感じ方をするひとがいます。しかし、その感じ方考え方が・そのまま論文になるわけではありません。制作されていないからです。制作するということは、論文の対象となっているテクストや問題に触発されて、新しいくくり上げをすることです。書き手自身がなにかを発見することです。書き手であるあなたが、自分で驚くようなものになれば、最高です。(p. 9)

 このように論文の制作においてくくり上げは重要な基底をなすため、本書では随所で言及される。本エントリでは「対象・主題・テーマ」「レミニッセンス」「ダブルノート法」「ディドロの執筆法」の節が関係する。

批評文の特徴、論文との違い

①一人称的な文章であること
②価値評価を下そうとしていること (p. 32)

 文章自体は三人称で書かれるが、「『わたしは~と思う』と言わずに、その思いや評価を対象の性質として語るのが批評文」である。「『わたし』はその文章の柱であるにも拘らず、隠されています。批評の一人称性は、屈折しています」(p. 32)。(一人称で書けばエッセイとなる。)

 価値評価は単なるよし悪しの問題ではなく、その作品・作家を当のものたらしめている特質のひとつという意味での価値である(p. 33)。それゆえ「正確さ」が読者を納得させる上で重要。

 論文はこれとは逆に、

(1) 一人称的な要素を排除する
(2) 価値評価を差し控える
(3) 情感的な発言をしない(p. 34)

/* 確かにここでいうような特徴を持ったものが批評文、論文の典型であろうと思われるが、境界はそれほどはっきり区切れるものでもないだろう。対象の特質を正確に捉えようとするのはどちらも同じだし、「解釈」が重要な理解のあり方として浮上しているし。佐々木自身、『美学辞典』(1995年、p. 223)では、美学と批評に実質的な違いがない場合も多いとしている。(20年の間に考えが変わられたのかもしれないけれど) */

である/ですます

 ですます体は「一人称的であると同時に二人称的」であり、読者に話しかける体勢をとっている。

 一方、である体は「読者の意識をも」たない。「二人称的な性格をもたないため、語るという行為の一人称的な性格は後退し、断定内容の三人称的、言い換えれば客観的な性格が表に出てくるわけです」(p 158.)。

 したがって論文はである体で書かれる(べき)。

対象・主題・テーマ

 「論文の骨格は《○○において、AはBである》という形に集約されます。○○が対象、Aは主題、Bがテーマです」(p. 71)

 カントをやりたい、シェイクスピアをやります、は対象を選んでいるだけ。
 カントにおける美と善の関係は~、シェイクスピアの宇宙観は~までいくと主題。

「この主題に対して何を問題(疑問)として、それに対してどのような解答を与えるか、という論文の核心部分」がテーマである。(p. 73)

 主題に対する論点や自分の疑問をみつけふくらませるには、その「主題について書かれた論文を、数点読むほかは」ない。(id.)

間違えても、先行論文の解釈についてのあなたの感想のようなものを書いて、それを「自分の考え」だなどと思わないことです。あなた自身の感じた疑問だけが、あなたの問題意識になります。それを自分で解明したとき、はじめて「自分の考え」と言えるものが生まれます。しかし、考えてみてください。疑問をまったく覚えないひともいます。疑問を覚えたとしても、その疑問はすぐに解決してしまうようなものであることが多いでしょう。簡単に答えの見つからないようなものこそが、真の疑問です。答えを見つけても、完全に満足することができず、心に残って、そのあと問い続けるような問題です。「自分の考え」をもつのは容易なことではありません。(p. 73)

/* よくテーマのしぼりこみが大事だとは言われるが、ここまで明快に定義を与えてくれているのは初めて読んだように思う */

レミニッセンス

文章をそっくり借用しながら引用の手続きを取らなかった、という場合には、剰窃と見なされます。しかし、どこかの本のなかで読んだような気もするが、自分が考えたことのようにも思える、というケースがたしかにあります。「レミニッセンス」(もとはフランス語 reminiscence)と呼ばれる現象で、これは避けられません。わたしたちの精神は、個別の経験の個別性を忘れて一般的な知識に組み入れていきます。基礎的なくくり上げです。特別な経験だけが、その特殊性のまま記憶に残されています。誰もがりんごの形も香りも味も知っていますが、いつどこで最初にりんごを食べたか覚えているひとはまれでしょう。ところが、初めてフランスに行って、コンビニの店頭にあった萎びて小さなりんごのことは忘れない、という具合です。思想の場合、経験をよく説明してくれるものとして共感した思想は、経験に溶け込んでしまい、自分で見つけたか他人から学んだかが、不明になりがちです。このようなレミニッセンスが剽窃とされることはありません。(p. 119)

/* 論文のモラルを説いた章での言及。コピペと引用の違い、注の付け方、剽窃などについてもきちんと解説されているので初学者はぜひしっかり目を通して欲しい */

参考文献としての翻訳書の扱い

 主題となるテクスト(カントとかシェイクスピアとか)ではなく、それについて書かれた参考論文にひととおり目を通しておく場合など、厳密さを要求しない重要性の低いものであれば翻訳も役立つ。

 また翻訳は解釈――「翻訳者の個性的な理解が表現」されたもの――であるので、「テクストの研究において批判的に検討すべき価値を持つことが少なく」ない(p. 134)

 翻訳には誤訳があったり、や一対一対応する語がなく微妙なニュアンスを表現しづらいこともあったりするが、それ以上に、原テクストには、単語一つを理解するにも論文数本分を要するような、奥行きがある*2ものなので、専門家レベルで論じるにはやはり原文を読むことが必要である。(pp. 139-52)

文章法・研究のメソッド

ノート

T・E・ヒュームの雑記法

 ノートを三冊用意。
 一冊のノートにアイディアから読書ノートからぜんぶつけていく。
 二冊目に整理・清書、三冊目は論文の原稿(p. 56)

→ 後者はどうでもよいが、なんでも一冊につけていくのは有効と佐々木はいう
 ながく続けていくと読み返した時いろいろ発見がある(続けないと効果は薄い)

ダブルノート法

 論文を書くためにある程度まとまった量の文献を消化していく時のノート方

  1. 議論をそのままたどって要約したノート
  2. キーワードを適当なスペースを空けて記入したノートに、文献を読んでいってそのキーワードに関係する場所に出くわしたら、該当する文献名とページ数を記していく。(p. 58)

 2は一種のインデックス・索引だが、自分の理解と関心に引きつけて文献を読み再構成すること――すなわち自分で制作することによるくくり上げ――の端緒として重要。意味にしたがってつけていくので(検索語とちがって)キーワードそれ自体が出てこなくてもピックアップすることが出来るのも強み。

/* コンピュータでやるならテキストファイルなりワードなりを用意して、見出し語としてキーワードを書いておけば、あとはどんどん該当箇所のメモを拾っていくだけでいいはず */

ディドロの執筆法

 何か著作をものするときには、大きな紙に「符牒となる単語」を思いつくままに書き出し、それを時間をおいてくりかえす。一段落したところで符牒となる単語をピックアップしその順序を考える。(pp. 78-9)

/* アウトラインの構成とほぼ同じだろう */

 このキーワードはダブルノート法でいうところのものに相当する(p. 85)が、「説明しようとすれば何ページにもわたるような思想のかたまりに付けられたタグ」というようなさらなる含みがある。これはすなわち「くくり上げられた観念」である(p. 86)。

「述べる」の貧しさ

 論文を書くときは文献を何度も参照するわけだが、その時、「誰それはしかじかと述べている」という表現ばかり使ってしまう問題がある

 英語には say, mention, refer to, claim, assert など類似した表現が多数あるのに対して、日本語にはそうした単語が少ないという事情はある。しかし、

〔参照先の〕発言の趣旨や、語調、姿勢などを特定するなら、対象としているテクストや参照している論考の読み方に奥行きが出てくるはずです。動詞のレパートリーが貧しいのは、読み方の平板さを反映しているようにも思われます。(p. 198、〔〕内は引用者)

 ***

 以上である。類書の多い論文指南書の中でも、unique な一冊ではないかと感じた。できれば学生の時に読んでおきたかった。本書を読んでから、そして折に触れ読み返しながら取り組むことができるこれからの学生は幸せだと思う。

*1:ちなみに長くかけないというのは他人にわかってもらおう、しっかり説明しようという意識が希薄なためであるとのこと

*2:ハムレットにおける incestuous sheets〔インセストの寝床〕や、カントを読む際の reason と Vernunft の違いを例に出している

My First Impression of Juke/Footwork

 ここ数日、Twitterでフォローしている @mirgliPilgrim さんが最近アップした Juke のリズムを解説する記事が結構な注目を集めている。

 シカゴ発の新しいダンスミュージックであるJuke/Footworkには以前から興味はあって、このブログでも「Footwork - 英語版Wikipediaより」の記事ではwikipediaの解説を翻訳してみたりした。

 けれども、肝心の音源を、ジャンルの特徴をつかめるほどには聴いていなかったので、これをいい機会にと、次のまとめで紹介されている音源を聴いてみた。

 以下、その感想を。上のまとめとYoutubeで検索してヒットしたものをいくつか聴いたという段階での印象なので、詳しい方からすると的外れなところもあるかもしれないけれど、初心者なので、ということでお許しいただければ。

Jukeに香るアフリカ系音楽のフレイバー

ポリリズム

 以前Twitterで、デトロイト・テクノにアフリカ音楽的なものを感じてそう言ったことがあった*1のだけど、ざっと聴く限り、より juke/footwork のほうが音的に電子化したアフリカ音楽であるような印象を受ける。エレクトロナイズド・ルンバとでもいうか。

 Juke のリズムはスネアやフレーズから判断するとBPM80が基本のようだ。だけど、そのテンポが明示される度合いが低くて(スネアくらいしか手がかりがないこともしばしばある感じ)、むしろ32分音符の3・3・2フレーズのシンコペーションが表に出てる場合が多い。

 なので、BPM80と4倍テンのBPM320のポリリズム(場合やパートにより160とかも)になってるように聴こえるし、どのBPMが支配的っていうこともないので、それら同時に流れているBPMを総合的に・同時に感じることができる耳が求められるのではないだろうか。

 加えて、基本となるBPMとノリ方は同じでありつつ、曲によってリズム・パターン自体は違ったりするのも、1ジャンル=1リズム・パターンの場合が多いクラブ系音楽に慣れている人には Juke はつかみにくい、という印象になるのかもしれない。

 定型化の度合いについても、ハイハットの刻みがなかったり、キックとスネアのパターンも定型化してなかったりとかするし。キックやスネアの組み合わせがビートやアクセントを刻むのではなく、唄うようなフレーズを形成するのもジャンベ音楽っぽいかもしれない。これは juke に限ったことでもないかな。

 ともあれ、二倍、四倍、半分のBPMを楽曲側も行ったり来たりするし、聴く側もフォーカスをずらしやすいのはとてもアフリカ的なように思われる。ファンクとか Hip Hop とかもそうなんだけどよりあからさまというか。

でも2:3はあまり聴こえない?

 アフリカ音楽といえば2:3のポリリズムなのは周知の通り。で、次のような意見もある。

@cowp: @mirgliPilgrim JBの倍速ダンスからシカゴハウスやゲットーテックに繋がっていく黒人音楽の文脈で160と120を共存させるアフロポリリズムの導入がjukeの技術的要素。君のサンプルのベースのシンコペーションの持続もBPM120の8beatの変拍子にもとれるでしょ
(https://twitter.com/cowp/status/522292795545882626)

@mirgliPilgrim: @cowp ♪. + ♪. + ♪ ≒三連符ということですよね?BPM160の二拍三連=BPM120の八分音符でありジュークは160と80の二重構造ではなくて160-120-80のポリリズムという理解でよいでしょうか?とすれば、32ビートと書いてしまうのは確かに間違いですね。
(https://twitter.com/mirglipilgrim/status/522365116876996608)

 NAVERまとめの紹介でも三連を多用するというように書いてある。しかし、貼られてる動画を見るとそれほどでもないような気もしてくる。確かに DJ Rashad などは三連(つまり2/3, 3/4倍のBPMともいえる)も使っているのだけれど、全然使わない人もいるし、アフリカ音楽ほど常に2:3が聴こえる感じではないような。

「♪. + ♪. + ♪ ≒三連符」*2も、例えばキューバのルンバやブラジルのサンバなんかでは、確かに訛ることで近似値的に三連に近づいたり、相互にスライドして入れ替わったりするのだけど、Juke の場合、訛りがあまりなくシュアな32分音符で鳴っているので、私の感覚では4倍テンの方が強く感じられる。

 音の面についてはこれくらい。次はダンスについて少しだけ触れてみよう。

アフリカ系ダンスの連続性

 初めて Juke/Footwork の紹介動画*3を見た時に思ったのは、ああ、このダンスもアフリカ音楽の伝統をすごく感じる、ということだった。

 論より証拠ということで、アフリカのダンス、そしてアフリカから新大陸へ伝わりその知で発達したダンスの動画をリスト・アップしてみる。一動画につき何十秒かつまむ程度でいいので、リストを追って最後までご覧あれ。

  • アフリカのジャンベ音楽とダンス:Dununba #1 "HD" Djembe drum and dance party in Conakry, Guinea

  • キューバのルンバ:Mario Quintin y Dayami Couret - Rumba Cubana al Kebira Salsa Summer

  • 1930年代のスウィング・ジャズで踊られたリンディホップ:Whitey's Lindy Hoppers from the 1941 film Helzapoppin

  • ジェイムス・ブラウンのダンス:James Brown performs and dances to "Night Train" to a live audience on TAMI Show.

  • マイケル・ジャクソンMichael Jackson Dance Collection

  • ブレイクダンス:** Breakdance Dope Bout & Crazy Moves **

  • イギリスの映画でのストリートダンス:StreetDance 3D Club Battle Breakin Point Vs The Surge

  • ヒップホップのダンスバトル:1st Round Battles; HipHop Summer Dance Forever 2013 -

  • そして Juke/footwork:Juke / Footwork Mini Documentary feat Da Mind Of Traxman JP

 基本的な体の使い方なんかが共通してる用に見えるのではないだろうか。七類誠一郎のいうインターロック*4を基本にしたしなやかな四肢の動きというか。

 そして、ダンスしてる場面の様子も、コミュニティの皆で囲んで見ながらそれぞれ技を競っていく形式になっている。(もちろん、ルンバとリンディホップはヨーロッパのカップルダンスの影響で男女ペアになってたり、JBやマイケルはショウだったりといった違いはあるけれど。)

 推測するに、ダンス・ミュージックといってもクラブでみんなで揺れるためのものと、アフリカ的なコミュニティ・ダンス系というか、スキルの優劣を競う/披露するダンス文化のものとがあって、Juke/Footworkは後者なのだろう。

 ***

以上がほぼファーストインプレッションの記録だ。

こういうアフリカンな要素のある音楽は大抵、リズムコンシャスな私の好みに合うので、もっと聴いて掘り下げでいけたらよいのだけれど。

*1:http://twitter.com/ja_bra_af_cu/status/415897844881436672

*2:付点八分なので基準をBPM320で取ったときの表記。160で取るなら付点16分、80なら付点32分になる

*3:リストの最後に上げたもの

*4:『黒人リズム感の秘密』郁朋社、1999年

野矢茂樹『入門! 論理学』

商品紹介やアマゾンのカスタマーレビューが適切なのでイントロダクションとしてそれほど付け加えることはないが、思考の誘導が上手いのですごく読みやすい本だと感じた。読んでいて「ああ、こういうことか。そうするとこういうことがいえそうだよな」と思い浮かぶと次のパラグラフにそれが書いてある、ということが度々起こるというか。

本書では公理をひとつひとつ取り上げて導入していき、述語論理の公理系ができるまでを実際にたどっていく。そこまで導かれる(また一緒に頭を動かす)過程によって、いままで表面的に理解していたことがらがより深いレベルまで理解できたように思える(自家薬籠中の物とまではいかないけど)。例えば次のような点など:

  • 論証、導出、推論の違い
    • 論証
      • ある前提から何らかの結論を導く全体(前提も正しいことが求められる
    • 導出
      • 前提から結論を導く過程
    • 推論=演繹
      • 前提を認めたら必ず結論も認めなければならないような導出(のあり方)
  • 排中律の採用=実在論的立場の採用
  • 命題論理におけるド・モルガンの法則と述語論理でのそれが実質的に同じことを言っていること
    • 全称命題=連言、存在命題=選言
    • 連言の否定は否定の選言、選言の否定は否定の連言、全称の否定は否定の存在、存在の否定は否定の全称
  • 肯定式(A、A⇒B、ゆえにB)
  • 否定式(A⇒B、Bでない、ゆえにAでない)

これらに加えてもちろん命題論理の公理――否定、連言、選言、条件法のそれぞれ除去則、導入則――もわかる。そのうちのいくつかを使うと、ちょっとまえにTwitterでちょっとバズってた次の難題が解けてしまったりする。

証明
  前提:「外では雨が降っており。かつ雨は降ってない」
  (1) 前提と連言除去則から:「外は雨が降っている」
  (2) 1と選言導入則から:「外は雨が降っている」または「源義経の母親はナポレオンである」
  (3) 前提と連言除去則から:「外は雨が降っていない」
  (4) 2、3と選言除去則から:「源義経の母親はナポレオンである」

これであってるはず。問題文では「外では雨が降っているをA、源義経の母親はナポレオンであるをB」とするように指示されてるからこの試験ではそれを使って記号式で書く必要があるだろうけど。

さて、これで自力でも「矛盾から何でも導きだせる」ようになったわけなので、いつかどこかで使おう(笑)