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Sound, Language, and Human

斎藤環 2011 『キャラクター精神分析 ―― マンガ・文学・日本人』 筑摩書房

はじめに

ラカン派精神科医の批評家・斎藤環によるキャラクター論。
筑摩書房のHPから目次を引用させていただくと次の通り。

第1章 「キャラ」化する若者たち
第2章 「キャラ」の精神医学
第3章 「キャラ」の記号論
第4章 漫画におけるキャラクター論
第5章 小説におけるキャラクター論
第6章 アートとキャラの関係性について
第7章 キャラの生成力
第8章 キャラ“萌え”の審級―キャラクターとセクシュアリティ
第9章 虚構としてのキャラクター論
第10章 キャラクターとは何か

1〜9章での各論で示されたテーゼをもとに最後の10章で彼なりのキャラの定義を示しています。

著者の批評家としての「キャラ立ち」のためには当然のことかもしれませんが、主張・立証しようとするさい根拠に挙げているのがほぼすべてラカンの精神分析理論であり、かつその理論が正しいことが前提になっているので、ラカンを受け入れられるかどうかによって本書の価値が決まるといえます*1

初音ミクについてもわずかに触れられていますが、派生キャラが多く出たのが特徴であると指摘しているだけでとくに目新しいことはなかったです。

あと伊藤剛による「キャラ」と「キャラクター」の違いという議論を踏まえているにもかかわらず、本文中での使い分けが徹底しておらず、どっちのことをいっているかわからないのが非常に読みづらかったです。

論拠はともかくとして、見方として面白いと思ったところを上げてみます。

トピックス

多重人格とキャラとその身体

斎藤によると解離性同一性障害(DID)の交代人格とは「キャラそのもの」なのだそうです(p.44)。交代人格は簡単な名前をもち、「年齢や性別、趣味嗜好、性格傾向がきわめてはっきりしてい」て、「記述しやすく輪郭がはっきりしている」(p.45)。これはキャラとその属性の特徴と同じだというのはわかりますね。

興味深いのは、その交代人格ひとつひとつが、それぞれの身体を持っていると報告されていることです。人格が交代するときには、その人格に応じた身体イメージになり(皮膚が赤く腫れたりするらしい)、その人格の姿を「目撃」したり、イラストに書いたりすることもできる(p.54)。

なぜそうなるかの解釈については妥当性を判断しかねますが*2、「一つの身体」に「一つの人格」というのが多重人格においてさえ基本となるというのには、人間が普通に持っている人格観があらわれているのかもしれないと思います。

「一つの身体」に「一つの人格」が基本なら、音の中でももっとも身体な「声」が人格的なものをもつと仮定されるだろうというのも想像できます。Vocaloidと人格というのにこのあたりからもアプローチできるかも。

共感不可能な対象ほどかわいい

「主体が持つ根源的な欠如」がないために共感・コミュニケーションが不可能な、ミッフィーをはじめとした無表情なサンリオのキャラクターがなぜかわいく思えるかということについて、「愛着行動において感情移入が必要とされる度合いこそが『可愛さ』の尺度になるのではないか」と斎藤は述べています(p.77)。「『可愛さ』の感覚とは、実はディスコミュニケーションの手触りなのだから」とも(p.81)。

これまた精神分析理論なので当否が判断できないです。個人的には単に未成熟な感じがするから、という気もします。はちゅねとかののワさんとかのクリーチャーもそんなところがありますけれどどうだろう。ホメさんはコミュニケーション不可能だけどかわいくはないですしねw

顔、まなざし

スコット・マクラウドの『マンガ学』を引いて、「任意の図形をまず描いて、そこに目玉をひとつつけくわえれば、どんな図形でも『顔』になる」ので、「どんな図形でもキャラクター [原文ママ] 化できる」と斎藤は説明しています(p.104)。

なぜ眼があるとキャラになるのかということについては、「まなざしは『対象a』としてイメージの中心に位置づけられ、その背後に何らかの主体性の存在を予期させることで、イメージをリアルなものにする」からだといいます(p.104)。

対象aといえば、乳房・糞便・まなざし、そして声があげられますが、主体性や人格と関係が深いのですね。ボカロの声とキャラと図像の結びつきはやはり必然なのかと思わされます。また別の箇所ですが「象徴界想像界の結び目的な位置に『キャラ』があると考えている。これだとちょうど『対象a』の位置ということで、理論的一貫性が維持できる」とも述べています(p.233)。

オタク/萌 : マニア/フェティシズム

斎藤は「萌え」を「虚構のキャラクターによって喚起される擬似恋愛的感情」である(p.187)と定義し、虚構性が重要だとしています。対象が生身だったり無生物であったりする場合は一度虚構化・キャラ化の手続きを踏むとも。

切手収集や鉄道、オーディオなどのマニアは実体志向のフェティシズムであり、「オリジナル」や「現物」を重視するといいます(p.191)。

なので「メガネ萌え」には現物のメガネは必要なく、(それをつけたキャラの)画像を愛好し、「靴マニア」は現物を欲しがるものの、対象の向こうに人格を想像する必要がない(p.190)。

この説明はなかなか説得力があるように思います。マニアとオタクを個人の本質的な属性と考えるより、このような欲望の形式の違いであるとしておけば、同じ人に両方が共存したり、他方の対象にもう一方の形式の欲望をあらわすことがある(たとえばアニメのセル画にフェティッシュな欲望をもつ、とか)のもうまく説明できそうです。

キャラの定義

最後に、最終章で示される斎藤のキャラクターの定義を引いておきましょう。

キャラクターの定義。それは「同一性を伝達するもの」である。逆の言い方も成り立つ。同一性を伝達する存在は、すべてキャラクターである、とも。(p.234)

そして伊藤剛によってしめされた「キャラは物語を横断する」という点について、次のようにいいます。

時空を越えて認識された同一性は、すべて「キャラ」になる。/これまでのキャラ理解は、「キャラは物語空間を易々と乗り越える」という表現にとどまっていた。しかし、それでは記述が逆になってしまう。正確には「物語空間を超越した“強い同一性”がキャラなのである。

どうして同一性を見出すことがすなわちキャラと結びつくのかということについては、斎藤の説明はトートロジー的でよくわかりません。

最大限好意的に解釈すると、同一性が意味を持つのはつねに人間との関わりにおいてであるので(p.238)、同一性を創りだすとそこに人格的なものをみてしまう、ということのように読めなくはないでしょうか*3
/(◕‿‿◕)\ まったく、わけがわからないよ。

ロジックはともかく、同一性があるところにつねにキャラ的なものが生じうるというのは、直感的にはありそうな話にも思えます。むしろ同一性があることがキャラをつくる必要条件である、という感じかも。『テヅカ・イズ・デッド』などを参考に考えていきたいですね。

[appendix] 構造主義的にキャラを考えてみる

物語においても教室の役割でも多重人格でも、キャラは「被りがないようにする」のが基本となっているというのが構造主義的なポイントのような気がする。

多くの人がいて、人格的に異なっている以上、身体も異なるはず。逆に身体が異なる以上、人格も異なっているはず。また、名前が異なるのであれば当然人格や身体や属性もことなる。という「差異の相同性」にもとづく一種の野生の思考的な論理が働いているのではないか。

身体や名前の差という換喩的・統語論的なものが人格や性格といった隠喩的・意味論的なものの差にスライドしていく。これは氏族同士がグループとして異なっていることを動物や植物などの自然種の差に基づいて表現し、その動植物の性質を氏族が共有しているとするレヴィ=ストロースのいうトーテミズムと同様なものに思える。

さらにいうと、キャラと同じ「名前+属性(アトリビュート)の組み合わせ」でできているのは、神話の登場人物やキリスト教の聖人、仏教の神仏なども同じですよね*4。単純にすべて同じ性質を持つとはいえないでしょうが、基本になるところに共通のもの(野生の思考?)をもっていそうです。

*1:というか私はほとんど説得されなかった

*2:斎藤は安永浩の理論を引いている

*3:説明に組み込まれているアイディアのひとつの「キャラを換喩的な記号としてかんがえる」というのがそもそもおかしいと思う。別にキャラやキャラクターは記号や表象=「なにか別のものを表すためのもの」じゃないと思うので。

*4:nix in desertisのDG-Lawさんが中世の宗教画についていっていたことが念頭にあります